ミニレポ第246回  東由利 蔵の洞門 机上調査編

所在地 秋田県由利本荘市
探索日 2017.10.05
公開日 2019.10.30

古写真に見つけた不思議な形の隧道



『目で見る本荘・由利の100年』より

洞門トンネルの開通
(東由利町・明治時代)

道の両側に並ぶ人びとの服装は和服あり、洋服あり、笠をかぶったり帽子をかぶったりと和洋折衷。明治中期から末期ごろの撮影と思われる。

『目で見る本荘・由利の100年』より

私の推測をもとにした現地調査で、写真の場所がどこであったかは判明した。
由利本荘市の東由利蔵にある旧国道の深い切り通し(↓写真)が、この隧道の跡地である。
そこがかつて隧道であったことは、切り通しが見える位置にある“由利百貨店”【店主の証言】自分が物心がついたときには、既に切り通しだった。トンネルだった姿を見たことはない。 切り通しが昔はトンネルだったことは知っている。亡くなった祖父の時代(明治時代)に掘ったもので、開通時に記念撮影した写真が残っていた。 トンネルが建設された理由や、切り通しになった理由を聞いたことはない。 トンネルに名前があったかは分からない。(単に「トンネル」と呼んでいた?) 店主の証言から確認が取れたので、間違いないだろう。


現地調査の終了時点で残された謎は、次のようなものがある。

  1. 隧道の名前(「洞門トンネル」ではないだろう)
  2. 隧道が建設された経緯と、完成年(「明治中期から末頃の撮影と思われる」?)
  3. 隧道が廃止(撤去)された経緯と時期(60年以上古い話だと思われる)

どれも、隧道を語るうえでは重要な情報で、どれも明かされていない現状は、本当にただ、「ここに古写真の隧道があった」という以上のものではない。
一つでも解き明かせないだろうか。私というオブローダーを支える二欲は、「探索したい」と「調査したい」である。調査欲が、疼きまくった。





(1) 旧地形図と航空写真比較

まずはいつもの歴代地形図チェックだが、これは探索前に済んでいたといえる。
もし地形図に描かれていたなら、ここに隧道があったことを知らなかったという迂闊は、発生しなかっただろう。

右図は、当地を描いた地形図では最も古い大正3(1914)年版と、最新の道路地図の比較だが、大正初期の地形図にも既に隧道は見当たらない。
戦前に廃止されただろうという古老の証言があったが、この表記が正確であるならば、廃止は明治時代にまで遡る可能性が高くなる。

もし、明治生まれの明治死亡だとしたら、隧道のレアさは爆上がりだし、ますます衝撃的な存在になる。
ただ、隧道の規模が小さいために表記されなかった可能性や、単純に時代が古くて正確性を欠いた可能性も残るので、これだけで大正3年以前に撤去されていたとは断定できない。やはり他の資料も必要だ。撤去年でさえこうだから、完成年についても当然、これら地図から知るべくもない。



こちらも定番、古い航空写真との比較もしてみた。

当地を撮影した最も古いものが昭和23(1948)年版だが、切り通しの存在がくっきりしている昭和40(1965)年版と比較すると、鮮明ではない。
その最大の原因は解像度不足であり、この画像をもって、隧道だったか、既に切り通しになっていたかの判断は難しいと感じる。

地形図や航空写真の調査は手軽であり、ファクトチェックの役には立つが、ストーリーを知るには、さすがに言葉が足りなすぎる。
特に今回のように明治の話となると、このくらいが限界であろう。





(2) 近世の本荘街道と蔵集落

開通当初は隧道だったと見られる蔵の切り通しは、国道107号の旧道である。
そして、この国道の本荘から横手までの区間には、大抵の道路地図に表示されている、「本荘街道」という通称がある。
街道という名前が付いていることのご多分に漏れず、この道は藩政時代から重視されていた。

隧道の顛末は本荘街道の中にあり! と読んだ私は、この街道を調べるべく、秋田県教育委員会が昭和62(1987)年にまとめた、『歴史の道調査報告 本荘街道』にあたってみた。

同書によると、旧藩時代の本荘街道は、現在の本荘街道のように横手と本荘を結ぶ道ではなく、湯沢と本荘を結でいた。だが今回の舞台となった「蔵」を通ることは変わっていなかった。
また、本荘街道という統一された名称もなく、各地によって、また行き先によって、仙北街道や湯沢街道などとめいめいに呼ばれていた。

日本海岸と内陸部を直結するこの道は、本荘藩(約2万石)が江戸参勤の際に通行する参勤交代の道だった。湯沢から羽州街道(現在の国道13号)に出て江戸を目指したのである。
沿道には多くの村々があったが、出羽丘陵を境に本荘藩領と秋田藩領とに分かれており、当時の社会制度上、峠を越えた交流は後の時代ほど盛んではなかったようだ。羽州街道のように宿場や一里塚も完備されてはいなかったが、それでも中間地に蔵や老方といった典型的な街村集落を成長させるだけの力はあった。

また、蔵は川大内街道の起点でもあった。
『歴史の道調査報告 川大内街道』によると、これは本荘街道と亀田や松ヶ崎を結んでいた脇道で、亀田藩(約2万石)の参勤交代路だったという。
現在でも国道1本と県道2本が集まる蔵は、古くから交通の要衝だったのである。


ここで気になるのが、近世の本荘街道が、蔵をどのように通過していたかだ。
ほかの『歴史の道調査報告』で、「明治○○年にトンネルの新道が開通し」みたいな記述を見たことがあるし、案外期待できるのではないかと思った。
次に掲載するのが、同書の蔵集落に関する記述だ。
記述は私と同じく、蔵から西へ向かって進む。

街道はやがて蔵に入るが、ここは中世では下村郷の中里村と呼ばれ、由利十二頭の下村彦次郎が支配したところである。岩舘地区に下村氏の居館“元館”があり、その中に諏訪神社があって、境内には大きな銀杏がある。また近世に入ると、亀田の岩城氏が参勤交代で通る道筋にもなっており、(中略)巡検使の通路でもあった。
蔵の入口には南側に神明社があり、さらに進むと岩舘に向かう曲り角の南側に蔵立寺がある。そこから北上して岩舘に入ると左手、西側に諏訪神社へ入る小径がある。(中略)街道をもとに戻って、高瀬川を渡る地点に行く。ここは農道らしきものが残るだけで旧道を確認することは難しいが、『由利郡村誌』に「梁袋橋……本村より宿村に通ず、水深三尺余り、川幅二十間、橋長二十七間、幅二間、土橋なり」とある。(以下略)
『歴史の道調査報告 本荘街道』より

残念ながら、隧道や切り通しに関する記述はないが、明らかに現在の旧国道とは違うルートを通っていたことが分かる。
同書に掲載されている地図も参考にして、現在の地図に近世の本荘街道と川大内街道の位置を点線で書き加えたのが、右図である。

近世の本荘街道が石沢川(高瀬川)を渡っていた位置は、高瀬川橋より100mほど上流で、そこに長さ約50mの土橋「梁袋橋」が架かっていたという。
この記述からも、明治以降の道路改修のなかで橋と隧道が一緒に新設され、ルートが短絡化されたのだろうと推測出来た。

それでは、問題の換線は、いつ行われたのだろう。




(3) 明治時代の本荘街道大改修

明治以降の本荘街道の改修について調べるべく、なぜか家にある大正6(1917)年版の古い『秋田県史(県治部四第七冊)』を紐解くと、案の定、明治時代に大々的に改修が行われていたことが分かった。

本荘街道 
本街道は、平鹿郡横手町において国道第40号線より分かれ、雄勝郡の一部を経、由利郡本荘町に達し、県下偏南部と海岸地方とを直通する要路にして、古来古雪港において呑吐する貨物往来の拠るところたり。往時は雄勝郡湯沢町に起こり、西馬音内村、明治村を経て、本荘町に達するものなりしが、明治22(1889)年に至り本線を採択し、翌年より3ヶ年の継続事業をもって、工費金8万余円を投じ、これが大改修を行い、ややその体裁を一新したり。然るに27年8月に水害を被り、大破に及びたるをもって、さらに工費金4万余円を投じ、2ヶ年の継続事業をもって大修築を行い、のち、年々修理を加え、今日の状況に至れり。
『秋田県史(県治部四第七冊)』より

キタキター!!

本荘街道の大改修工事が明治22年から3年間かけて行われ、さらに明治27年から災害対策的な大修築工事が2年間かけて行われたという記録が!

新装なった隧道と橋に国旗や緑門を掲げ、大勢で祝っている【古写真の名場面】は、この2度の大改修工事のワンシーンではなかったのか。

もしそうであるとするならば、隧道は明治22〜29年完成の可能性が大となる。
秋田県内の交通用トンネルとしては、鉱山の通洞を除いて、明治22(1889)年に県北の羽州街道の難所に貫通した徯后阪(きみまちざか)隧道に次ぐ古参である。言うまでもなく、県交通史上における希少な存在といえる。

(ちなみに、本荘街道は明治12年に初めて県道に指定されて以来、大正9年県道本荘横手線、昭和28年二級国道大船渡本荘線、昭和40年一般国道107号という変遷である)

この説を裏付ける記述を、平成2(1990)年に秋田県土木部が監修して出版された『秋田県土木史第一巻』にも見つけた。
『秋田県土木史』は、全3巻からなる大作なのだが、本荘街道に関する記述はなかった。だが、同書に掲載されている、明治41(1908)年3月当時の県内著名橋一覧表に、次の記述があったのだ。


『目で見る本荘・由利の100年』より
橋梁名:高瀬川橋
街道名:本荘街道  所在地:由利郡下郷村  橋種:板橋  長さ:41間(約75m)  幅:2間(約3.6m)   架設年月:明治28年  湖川名:石沢川
『秋田県土木史第一巻』より

これだ!

この明治28(1895)年架設の「高瀬川橋」こそ、写真集に「洞門橋」の名で出ていた橋ではないか?!
板橋という型式が写真の橋と一致する。また、現在の切り通しの前に架かる昭和38年完成の橋とは同名であるから、同位置の可能性が高い。一方で、藩政期にあった「梁袋橋」とは名前と型式(土橋から板橋へ)が一致しない。

ただし、もう一つの可能性として、写真の橋は完成直後の明治27年8月水害で流出してしまい、急いで復旧させたのが、上記の高瀬川橋かもしれない。
本荘街道の大改修は明治25年に一度は完成したはずなのに、高瀬川橋の竣工年が28年になっていることには何かの意味がありそうだ。
いずれにしても、立地的に隧道と橋はセットで開通していなければならず、これは隧道の完成年が明治28年以前だと考える根拠になる記録だ。


旧東由利町が平成元年にまとめた『東由利町史』は千ページを超える大著であり、町内を東西に縦貫する最大の幹線道路である本荘街道(国道107号)についても、いくつかの記述があった。
ただ、期待された隧道に関する記述はなし。
この本には期待していただけに、隧道のずの字も出てこなかったのは、正直、落胆した。

他にも、県立図書館に所蔵されている、『由利郡史稿 明治時代』『村勢要覧 東由利村 1958』『東由利古今暦』『東由利現在の群像』『東由利村管内図』『東由利の民話 第1号〜第5集』などに目を通したが、めぼしい情報はなし。

盛大に開通した希少な隧道だったと思われるわりに、なぜか記録が少ないのである。
これだけいろいろ漁っても、一番最初に見つけた『目で見る本荘・由利の100年』以外に、隧道があったという話さえ見つからない。同書は同書で、どこでいつ撮影された写真なのかという、肝心の説明がない。
なんなのこれ。
なんでこんなに………みんな、あの隧道のこと、忘れちゃったの?

文献調査の狭まりをヒシヒシと感じつつも、『東由利町史』に出ていた話には興味を感じた。
どんな話かといえば、明治時代の本荘街道大改修時に、沿線の集落間で激しいルートの争奪戦があったという内容だった。
そして結果的に、このことを興味本位で調べ進んだことで、隧道に関する新たな記録の発見に至った。




(4) 下郷村と玉米村の本荘街道争奪戦

明治12年に県道となった本荘街道は、従来の湯沢起点から横手起点へ変更されると、横手から奥羽山脈を横断し岩手県北上へ通じる平和街道の開鑿と合わさって、新たな東北地方横断の重要経済路線として脚光を浴びた。全線を車馬交通可能な道路とすべく大改修が、秋田県の主導により、明治20年代に実施されたのである。

横手と本荘を結ぶ新・本荘街道が通ることは、地域の発展に直結するとして、沿道となり得る各地で激しい争奪戦が、明治10年代から繰り広げられた。
たとえば右図に示した平鹿郡内の陳情合戦があった。

最終的には、旧来の本荘街道を多く活用できる浅舞が経由地を射止めるのであるが、より短距離で結べるとして、沼館も激しい陳情を行った。
ここで沼館は敗れたが、大正時代にはこのルートに沿って私鉄横荘鉄道が設立され、横手・本荘両側から着工、横手側の線路は最終的に老方まで達している。(現在の県道48号横手東由利線のルート、関連レポート
当時の県議会の議論次第では、後の国道107号は、だいぶ違ったところを通っていたと思われる。



これ以上に議論を巻き起こしたのが、由利郡の下郷村と玉米(とおまい)村の争奪戦だった。
両村はともに明治22年に誕生し、昭和30年に両村のみで合併し東由利村を形成、昭和49年に町制施行して東由利町となった。
この経過だけをみれば、山あいに仲良く身を寄せ合って生きていた二村と見えるが、本荘街道の誘致に限って言えば、一時期険悪な関係になったという。

『東由利町史』に、次のような記述がある。

玉米村と下郷村の対立
本荘・横手を結ぶ県道新設開鑿工事は明治21年の県議会で可決となり、路線測量も実施して同23年から3ヶ年の継続事業として施工する計画であった。ところが前記平鹿郡二路線の陳情合戦の他に、由利郡玉米村と同下郷村との間にも路線の争奪が勃発して、県でも最終的決定になかなか踏み切れなかった。舘合村(明治22年に玉米村の役場所在地となる)は、老方村(明治22年に下郷村の役場所在地となる)を通らないで近道の「坪倉線」を主張してゆずらず、県議会もその願を容れて測量の仕直しをするという優柔さであった。
『東由利町史』より


『秋田県政史 下巻』より

この対立の最中に、由利郡長が秋田県へ宛てた文書が記載されているが、下郷村玉米村とも自分側の路線でなければ一切の献夫をしないという申し合わせや、工事に同額の寄附を申し出ていることなど、激しく競争して路線の決定が容易ではないことが書かれている。

『町史』は、この陳情合戦については、『秋田県政史』を参考にしたとあったので、『秋田県政史 上・下巻』(昭和31年/秋田県議会)を実際に読んでみた。
するとそこには、右図をはじめとして、陳情合戦のより詳細な内容が出ていた。
県会での議論は白熱し、各ルート案の詳細な測量結果が議場に開陳されて、優劣を戦わされたもとあった。

本稿の目的から逸脱するので、議論の長大な経過を省略し結論を述べると、明治24年11月開会の通常県会において、老方派ルートを母体としつつも舘合を経由する折衷案が賛成多数となって決した。
もしここで舘合派ルートが勝利していれば、蔵を本荘街道の新道が通過することはなかったから、隧道の建設もなされなかったはずである。
つまり、この議論の存在を知ったことで、隧道の完成年を明治25(1892)年以降へと、さらに数年絞り込むことが出来た。(ここまでをまとめると、明治25〜28年の間となる)

とはいえ、この程度の前進では、まだ物足りない。
県政史を読んでいると、何かが、見えかけている気がした。
しかし、オブローダーとしてはそれなりに経験を積んできた私でも、この先は、“未知の世界”だった。
それは、県政史の全ての記述のベースとなった、県議会場で実際に戦わされた議論の内容を記録したもの、すなわち……秋田県議会会議録への挑戦だった。

近年の会議録はインターネットで公開されており、発言の一つ一つまで検索できるので、気軽に読むことが出来る。
だが、明治20年代の会議録は簡単ではない。
内容も膨大だし、検索性は限りなく低く、県政史の記述が唯一の道標だった。
しかし秋田県議会の会議録は、秋田県公文書館に全て印刷されて所蔵されていることが分かったので、挑戦した。

そこには、まだほとんどのオブローダーが足を踏み込んでいない、未開の迷宮が広がっていた。




(5) 秋田県議会会議録から掘り出してきたもの


『明治24年秋田県通常県会議事日誌第25号』より

赤枠の部分を見よ!

墜道 十四間 金三百三十六円

製本された会議録は数百冊あった。うち、明治24年通常県会の会議録は3冊。内容の索引は一切なし。辞書みたいに同じ大きさの文字が並んでいるだけのページがひたすら続く。ページをめくり続け、「本荘(本庄の表記も多し)街道」の文字列を肉眼で検索する。全部をもれなく見つけようとしたら、1冊2時間はかかるだろうから、まとまった量の議論だけ見つけられれば良いということにして、手を抜いた。

この年の通常県会の1日目から読みはじめ、25日目にあたる12月5日の議事録に、ついに見つけた。
先ほど紹介した県政史の記述の元ととなった、喧々諤々の議論の模様を。

そしてその60ページ近い議論の中盤、老方線と舘合線の各種データを比較した参考資料が挿入されていた。
その資料の中に見つけた。
いままで、『写真集』以外で一度も見ることが出来なかった、そして初めて本荘街道と紐付けられた形での、「墜道(隧道)」の文字を!
静謐な公文書館の閲覧室で叫び出したい気分だった。やった!

この資料から分かるのは、本荘街道の老方派ルートには、隧道が計画されていたということ。
本数は書かれていないが、全長は14間=25.45m。古写真の隧道とも、現地の切り通しの長さとも、一致する。
時代が時代とはいえ、336円で隧道が出来るんだなぁ。

同日の議論の中でも、議員が隧道に言及している箇所が、わずかにあった。
それが次の部分。

二十一番(目黒貞治)
……老方線中たしか蔵村とかの隧道なるが用水堰あり如何ともする能わず……土管にても架設せざれば防ぎ難しとのことに聞きたれども用水路を作るは県税の仕事に非ず。もしこれも作らざるときは雨中を行くが如く最も困難なり、委員の取り調べはいかがなるや詳細に弁明せよ……
『明治24年秋田県通常県会議事日誌第25号』より

蔵村に隧道という記述、もう決まりだろこれ。
そのあとの内容は、一見意味が分かりづらいが、老方線の隧道がくぐる予定の山には既存の用水堰があり、それが隧道と干渉するから移設するなりの工事が必要だ。しかし、本来用水路の工事は地元負担すべきもので、どうすべきかという問題提起なのである。そこで現地の景色を思い出すと、現地には切り通しを跨ぐ【水路橋の跡】があった。
やっぱりあの場所だと確信した!


おそらく、もっと徹底的に時間を掛けて読み込めば、さらに詳しい隧道の情報があったかもしれないが、週単位で更新停止になるおそれがあるので、これくらいにして……、だが最後にもう一つ、会議録から調べたいことがあった。
それは、『県政史』に、明治26年通常県会の議題として挙げられた、次の内容についてだ。

続いて緊急を要する26年度追加予算議案の審議に入った。監獄費、臨時土木費(道路橋梁費に599円を追加し、隧道内の危険を除く費用)、官行費、都市勧業補助費等であったが、議会の空気は当初から険悪な様相を呈し(中略)、監獄費のみはほとんど問題なく確定したが、その他はいずれもその必要なしとして否決した。
『秋田県政史 下巻』より

「隧道内の危険を除く費用」というのが、引っかかった。
どこにも本荘街道の話題だとは書かれていない。そもそも、本荘街道のルート問題は、前述した24年通常県会で解決しており、議論としては完結していた。
だが、当時の秋田県にはまだ鉄道もなく、隧道といえば、徯后阪隧道か、本荘街道の蔵の隧道しかなかったと思われたのだ。
そんな状況でのこの記述、大いに気になる。

そして、またしても長時間の肉眼検索の末に、該当する記述を見つけ出した。
『明治26年秋田県通常会議日誌第3号』での内容である。



『明治26年秋田県通常県会議事日誌第3号』より

どこにも蔵の隧道の話だと書いていないが(会議録は人に読まれるつもりはないらしい…)間違いなく、蔵の隧道の話をしている。しかもそれが早くも崩壊寸前の状況になっており、追加予算で切り通しに変えることについて議論をしている!

注意すべきは、この追加予算は結果的に否決されてるから、この年に撤去が行われた可能性は低いということだ。
とはいえ、崩壊しつつあることは事実なのであり、あまりにも酷すぎる!
失敗作の誹りを免れまい!

以下、気になる部分を、発言者を無視して適当に抜き出し、転載する。

  1. 墜道の天井は木の枠にて巻きあるが、岩石崩壊して往来の真中に落ち掛かり、その他二三ヶ所も危険なる箇所あり。故に1日も早く修繕して完全なる道路にせんと欲するなり
  2. 去年、該道路修築の場合、当時の県庁委員は、用水路ありて到底掘割が出来ぬより隧道を通せんと言うが、今度はこれを掘割るるも用水路に妨げなきや
  3. (堀割る用水路は)筧(かけひ、木樋のこと)となす見込み
  4. (墜道のまま復旧できない理由は)石質のためなり。外部に出現せぬ間はいと堅牢なるが如しといえども、もし空気に触るるときは柔にして土の如しために二三ヶ所の崩壊を見る。復旧工事はとても出来難しと思う
  5. 破壊せしは石質によると言うが、聞くところにては構造の不完全なる故なりとか。わずかの間に木材を継ぎ足したるは堅牢を妨ぐるゆえんなりと。構造の模様を詳細に説明ありたし
  6. (上記を質問を受けて)例を挙ぐれば荷上場の墜道の如し。彼は四間なるがこれは十四尺にして広狭に差違はあれども構造はほとんど同一なり。しかして三尺ごとに枠あり。栗材の代わりに杉を用いたり、その他は荷上場の墜道と異なるなし
『明治26年秋田県通常県会議事日誌第3号』より



『目で見る本荘・由利の100年』より

古写真で最初に気になった、奇妙に角張った坑口の断面だが、どうやら杉材の木枠だったらしい。
石材などによる巻き立てはなく、素掘りに木枠だけをあてただけの、完成後も支保工を残したトンネルだったようだ。
しかし、岩質に重大な問題があったらしく、開通直後(当年か翌年か)に、崩壊が始まった。
水路と交差していたことも問題だったようで、建設以前から掘割にすべきという議論もあったようだ。最終的に隧道としたが、この顛末である。

地味に興味深いのは、「荷上場の隧道」こと、徯后阪隧道(所在地が能代市荷上場)の構造に言及した部分だ。
これまで、県内最古にして、なおも現役を貫いている同隧道の古い構造が分かる写真は発見されておらず、長年探し求めていたが、ただ幅員が異なるだけで蔵の隧道と同一構造だと述べられているのだ。これは重大な発見だ!

蔵の隧道の幅員も判明した。14尺=4.2mである。
写真からも、かなり広く見えたが、本当に広かった。この広さも、安定性には悪影響であったろう。
土被りが浅いところに掘るには、広すぎたと思う。





数日間、図書館や公文書館に入り浸り、ここまで解明した。
最後まで3枚目の写真は現われなかったし、正式な隧道名も明らかにならなかったが、衝撃的な顛末が見え隠れした。

おそらく隧道は、明治25(1892)年に完成したが、同年か翌年中から崩壊が始まった。
明治26年には撤去が議論されており、この年には否決されたが、おそらく数年内に撤去されただろう。

全長も分かった(25.45m)、幅員も分かった(4.2m)。

信じがたいほどに短命だった。未開通に終わったものを除けば、私が知りうる限りで最高に短命。いや、最悪と言うべきか。
とはいえ、道路自体は廃絶せず、切り通しになっていまも活躍しているのが、救いである。
こんなに存在していた期間が古く短いのであれば、現代人に記憶されていないのは当然で、町史もこれを取り上げなかったのだろう。
変に取り上げると、町内に不和が思い出される可能性さえあったのかも。

それにしても、こんな深い歴史の底に、小さな隧道が眠り続けていたなんて、なんてメルヘンチックなんだろう。

でも最後にひとこと。

もう当分、会議録は見たくない!!

完結。


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