ミニレポ第252回 福島県道383号熱塩加納山都西会津線 ひめさゆり狭区 後編

所在地 福島県喜多方市
探索日 2015.07.14
公開日 2020.04.05

山上のお花畑へ通じる怪しい県道


2015/7/14 10:15 《現在地》

最初の右カーブで杉林に突入すると同時に、グワーッ!🦆というような勢いで、一気に登り始めた。

新しめのコンクリート舗装はあるが、道幅は2.5mくらいで、しかも左右が落ち込んでいるので、路上は凄い窮屈だ。
もしここで対向車が来ようものなら、私の自転車であっても路上ですれ違うことは厳しく、おそらく私が自転車を抱えて路外の草むらに避難する羽目になるだろう。
車同士?
そこには絶望しかない。




振り返ると、薄暗いヘキサが見送ってくれていたが、ほとんど立ち木と同化していて、非常に目立っていなかった。

こんな風に道路脇ぎりぎりまで木が生えているのも、作業道みたいだという印象を与えている大きな原因である。
道を整備する場合、沿道の立ち木は、所有者に補償のうえで伐採されることが普通だ。
この立ち木の障害物のおかげで、余計に道幅の狭さが際立って感じられた。




入口から100mほど進むと、等高線をなぞるように流れている小さな用水路を横断した。
写真は振り返って撮影したが、ほぼ水平である水路を対照にすると、道の勾配の厳しさが分かり易いと思う。

チェンジ後の画像は、水路横断地点から進行方向を撮影。
カーブのため最初は見えなかった領域に入ってきたが……「キツイ!」の一言である。
何がって、坂道が。
自転車だからね……。道幅はどんなに狭くてもへっちゃらなんだけど、その代わり、急坂はキツいです。自転車さんは。

……あと、暑さ ね。
クソ暑かった記憶だけはあるんだが、気象庁の過去データを調べたら、この日の喜多方の気温、午前10時現在で31.9℃でした……。(最高気温は36.5℃を記録)





ィーー!!!(発狂)

ふざけた勾配だ。

そう書くと、すぐに“暗峠”と較べてどうかとか聞かれそうだが、さすがに日本一ではない。
しかし、瞬間最大勾配は20%に達するだろう。道を見慣れている私でも、尋常のレベルではないと感じた。
道路構造令? なにそれ美味しいの? ふざけんなよ! これでも舗装してあるだけマシだが、
舗装してなけりゃ大抵の車は走れないはず。久々に、自転車の前輪が浮き上がる感触を味わった。

クッソ暑いのに!!!




空気が脳を少しも冷却してくれないので、もうどうでもいいような捨て鉢な気分になるのを必死に抑えて、呼吸を絞りながら、限界まで前傾姿勢をとって自転車のハンドルにしがみ付き、あとは力一杯ペダルを踏む。じりじり、登っていく。

自転車を押せばイイダロというのは簡単だが、サイクリストの本能が簡単にそれを赦さない。
未舗装なら物理的に登れないのですぐ諦めるのだが、舗装路だと、前傾姿勢によって車輪を地面につなぎ止めておける限り、脚力次第でどんな勾配でも登れるものだ。だから簡単に諦めるのは悔しいと思う。

休み休み行きたくもあるが、この坂道で一度止まると再始動がキツすぎる問題があるので、勾配がいくらか緩むまでは止まらず進もうとした。
地図が間違いでなければ、このような坂道が長く続くはずがないという予想を、心の支えにして。

チェンジ後の画像は、そうしてようやく見えてきた、いくらか勾配の緩まる変化地点。
あと少し…… 少しだ……。




10:20 《現在地》

写真は、上ってきた道を振り返って撮影。

一番勾配がキツかったのは、150mくらいだったかと思う。
そして、現在地はちょうどこの一連の狭隘区間(約700m)の真ん中くらいのところである。
極めて鈍足を強いられているが、進んでいる。

改めて地形図を見ると、この狭隘区間内で海抜は295mから355mくらいまで、おおよそ60m登るのだが、300mの計曲線を踏んでから350mの計曲線に接するまでの距離は、図上計測で300mほどだ。
この区間の計算上の平均勾配は16.7%にも達する。
瞬間最大の数値がこれを上回っているのは間違いない。

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン 元気過ぎる森の中で、自分だけが除け者みたいにへばっていくのが、頭にくる! 俺もお前らの一員だぞ! 祝福しろ!



勾配のピークは越えたが、依然として15%前後の猛烈な上り坂が続いている。
この急坂の凄まじさと較べれば、当初警戒していた道幅の狭さや路面状況は、大したことがないと感じる。
路面は完全に舗装されているので、自動車での走行に差し支えない。
どこも路面が白っぽく見えるが、コンクリート舗装がまだ新しいせいだ。

この手のいわゆる“落ちこぼれ県道”(整備水準が著しく劣る県道)の近年における全国的傾向が「放置」であるなか、どういうわけか、この福島県道383号線は、最近になって最低限、自動車の通行が出来る程度の整備を獲得した気配があった。
それは本当に最低限度の整備内容で、見たところただ舗装しただけだが。全線2.5〜3mの道幅は確保されているが、待避所が全くないので、自動車の離合は無理である。従って、最悪700mバックする羽目になる可能性がある。デリニエータとかそういう安全施設も皆無。道路標識も紹介済みのヘキサのみ。

沿道には相変わらず大量の「熱塩加納村」の用地杭が立っており、ここがかつて村道だったことは疑うべくもない。村道が県道になって得たものが、ヘキサとこの舗装ということか。はははははっ。




体温上昇! 限界近いです…! 頑張れッ! ゴールも近いぞ!!

勾配は緩やかになりつつあり、空も近い感じだ。


ぐおーーーーーっ!




見えたっ! 出口だっ!!

傍らには、宇宙船の脱出ポッドを思わせるようなSFチックな金属製貯水槽。
そういえば、この区間の入口にも同じものがあったが、これらの施設整備と、
この区間の路面整備の間に、何か関係があるのだろうか。どちらも同じくらい新しく見えた。

 そんなことより――



10:23 《現在地》

脱出!

下の【入口】から、道のりの長さ約700m、
上昇した高度は約60m、要した時間はわずか9分。

これが全長40km以上ある“険道”の一部だということも含めて、
“瞬間最大”という言葉が最も似合う、ミニレポ向きなピリ辛区間であった。




脱出して真っ先に目に留まったのは、道端の草地に突き出した鉄パイプから流れ出ている水だった。
私はすぐさまその前に行くと、自転車をぶっ倒して跪き、細い放物線の流れに頭頂部から貫かれた。
緊急冷却である。
そしてそのまま口元に回り込んできた水を飲みながら、静止。
静止。
静止。
生き返った。

後日の調査で、ここで知らずのうちに口にした湧き水が「弘法清水」だったことが判明した(だからなんだ)。【昭和62(1987)年版の道路地図】(東京人文社の福島県広域道路地図)は、県道認定以前の地図だが、ここに「弘法清水」というバス停を描いていた。もっとも、バスは広い道を通っており、私が通った狭路を通ってはいない。




ふははははははは!

悪役みたいに笑ってしまった。

これはどこからどう見ても、グーグル先生が正しい。

グーグル先生が悪びれることなく県道と断定している道を選んでおけば、みな幸せになれる。
真実を知る必要は、特にない。
せいぜい、道路という名の教えに身を捧げたいと願う一握りの“狂信者”だけが、殉教の覚悟を以て、地理院地図の“黄線”を追いかけるのみ。



県道383号は、突如として2車線の立派な道になった。(白線は消えかけていたが)
全く別の道に出たとしか思えない変化だが、県道としては1本道である。
そのことを裏付けるように、すぐさまヘキサが待ち受けていた。

……ん?
補助標識に、「↑山都町 32km」って書いてあるんだが、おかしくないか?
【前回のヘキサ】から1kmも来ていないのに、なぜか数字が2km減っていた。

…………長大な“険道”にとって、このくらいは範囲か?




こちらは、同一地点の反対車線のヘキサだが(写真右奥に、いま紹介したヘキサが見える)、これもおかしい。

【次のヘキサ】から1kmも手前じゃないはずなのに、なぜか数字が3kmも増えていた。

怖ッ! もしかして空間の歪みか?!

セルフマジレスすると、この補助標識の距離は、ヘキサが示す県道を経由した場合の距離に限定されていないということだ。
道路利用者への利便を考えれば当たり前のことだが、県道のストーキングばかり考えていると忘れがちな事実である。
しかし、よく見るとこっちの補助標識の数字は修正された形跡があり、以前は県道に拘った距離表示(つまり「3km」)になっていた可能性がありそうだ。
また、反対車線の数字が合わない理由は説明できないので、よく分かりません。 やっぱりテキトーなだけかも…(苦笑)。





まあヘキサのことはよく分からんが、

良い磐梯山が見られたので、下山します。

もう誰も「ひめさゆり」のことなんて覚えてないと思うし、
今は旬じゃないし、そこはまだ700mも登った先だしね、
暑いんで帰ります。“ひめさゆり狭区”を使ってね。



3分後、下山終了!

もしあなたが自動車で通るなら、対向車が来ないことを祈り続けましょう。
あと、4トントラックもギリギリ通れるんじゃないかなとは思うけど、
実際に通ったことはないと思うし、県も実際通れるか確かめてはいないと思うぞ。





ちょっとだけ机上調査編やります。

帰宅後にまず調べたのは、同業者達の活動記録。
私よりも先にここを探索した人のレポートによって、以前の状況が分かると思ったのだが、すばらしいサイトがあった。

たかな氏(@takana_sokudo)の「高速道路の側道から」だ。
平成21(2009)年10月に、この区間へエクストレイルT30で挑んだ、迫真のレポートを読んだ。
なんと驚いたことに、当時この区間は未舗装であった!
しかも激しく路面がガレており、急勾配もあって、エクストレイルで通り抜けられるような状況ではなかったというのだ。
にもかかわらず【例のヘキサ】が既にあったというのも驚いた。
では、いつ舗装されたのかというと、たかな氏平成25(2013)年6月にリベンジしに行くと、忽然と舗装が完了していたというのである。

つまり、舗装工事が行なわれたことで、自動車の通行が可能になったのは、平成21(2009)年10月〜平成25(2013)年6月のどこかのタイミングだった。
私の探索は平成27(2015)年7月だったので、現地で舗装の新しさを強く感じたのも、当然だったと言えるが、そこまで最近だったとは。
平成4(1992)年の県道認定以来、20年近く手つかずだったと思われるのに、なぜ急に整備が進んだのだろう?


整備の背景を調べてみたが、現時点では、はっきりしたことは分かっていない。

ただ、喜多方市と西会津町の首長を構成員とする「県道熱塩加納・山都・西会津線整備促進期成同盟会」という組織が存在していて、直近では令和1(2019)年にも喜多方市長が県に対し同県道の整備促進を要望したことが、喜多方市議会会議録から判明した。
また、同組織は平成18(2006)年の喜多方市広域合併時には既に存在していて、合併により消滅した旧熱塩加納村と旧山都町が、西会津町と共に構成員であったことも判明している。

令和1年7月に発行された「西会津議会だより」でも、この期成同盟会の活動が登場しており、商工観光課長が、「会津北西部の北西部地域の活性化と産業振興を図る上で重要な路線である。このことから、喜多方市とともに整備促進期成同盟会を設立し、道路の狭い部分の拡幅、線形改良を毎年、県に要望している」と述べているから、会の活動は近年かなり活発であるようだ。

今回の区間の整備直前の状況を想像してみると、全長42kmの長い県道に、最後まで僅か700mだけ、自動車の通れない区間が残っていたわけだ。
そんな状況で、この県道の整備促進を唯一の目的とする組織が存在したなら、彼らが当該区間の整備を県に対し強力に要望したことは、想像に難くない。
その活動が功を奏して舗装工事が行なわれた可能性は十分ありえるが、残念ながら証拠はないのである。

あとは、現地で目にした、区間の前後にある貯水施設整備との関係もありそうだ。
これらの施設を結ぶ最短ルートが今回の県道だけに、もし道路の下に配水管が埋設されているとしたら、その保護や工事車両の行き来のために、ついでにコンクリート舗装を行なったかもしれない。現地でマンホールなどは目にしなかったが、これらの施設整備と舗装の時期は、だいたい一致している。

また、この県道の全線が、奥地等産業開発道路に指定されていたことが判明した。
指定日は平成5(1993)年6月3日で、平成10年6月3日にも再指定されているが、平成15(2003)年3月31日付けで、根拠法である奥地等産業開発道路整備臨時措置法が失効したため、自動的に指定を解除されている。
奥地等産業開発道路といえば、悪名高い未成道量産システム(例1例2)という印象を持つ人もいるだろうが、それは挑んだ相手が強大すぎただけで、立派に完成した路線も多くある。
この指定を受けることで、一般県道には本来資格がない国庫補助によって整備される道が開けるのだが、既に述べたとおり、平成15(2003)年に制度がなくなっている。



@
平成25(2013)年
A
昭和51(1976)年
B
昭和43(1968)年
C
昭和22(1947)年

歴代の航空写真調査によって、今回探索した道の誕生時期が、ある程度絞り込めた。

県道認定は平成4年だが、それ以前は熱塩加納村の村道であったらしく、A昭和51(1976)年版にもはっきりと道形が見え、さらに遡ってB昭和43(1968)年版だと、間違いなく現役道路だと思えるレベルで、くっきりすっきりと見えていた。

しかし、C昭和22(1947)年版では全く見えないことから、この道が整備された時期は、昭和43年から昭和22年までの間に絞り込めた。

ところで、【ヘアピンカーブ】の太い方の道(グーグルマップが県道扱いしている道)も、意外に古くから存在していたことが分かる。
現地の風景からは、この太い道は県道383号の代替となる意図を持って最近整備されたと想像したが、現実はそうではなく、県道が認定される遙か前の昭和40年代から存在していたのである。

そうなると、既に整備されていた道を県道に認定した方が、効率的だったのではないかと疑問視したくなるが、おそらく、敢えて未整備の道を県道にすることで、県によって整備を進めて貰いたいという、そんな地元の意向が働いたのだろう。これはよくあること。

ただ、それが実を結ぶとは限らないことは、当サイトの読者さんなら、よくご存知だろう…。
本県道の場合も、なかなか難航していると言わざるを得まい。
認定から20年近くかかって、辛うじて舗装だけは得たが、それだけではまだまだ……。


このほか、明治から昭和初期までの地形図や、大正8(1919)年に刊行された『耶麻郡誌』にも目を通したが、めぼしい情報は得られなかった。
大正8年の時点で、県道や里道に、該当する路線はなかった。


最後に、推論を交えつつまとめる。
今回探索した狭隘区間は、昭和43年以前に開削された低規格な道で、村道として管理されていたが、平成4年に会津北西部の山間地を連絡する広域的な県道の一部に組み込まれ、整備促進を訴える期成同盟会が熱心な活動を続けてきた。
しかし、迂回路である市道が充分機能していることもあり、この区間が県道として大々的に改良されることはなく、平成20年代になってようやく舗装が行なわれた。

完結。


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