ミニレポ第256回 八森沖の雄島 後編

所在地 秋田県八峰町
探索日 2018.06.03
公開日 2021.09.17

奇遇


2018/6/4 17:31 (上陸22分後) 《現在地》

雄島の中に同居している、雄島と雌島という二つの山。
二つの山を隔てているのは、ご覧の谷であった。

少しだけ大袈裟な気分でこの谷を表現するなら、いつの世も決してなくなることがない男女間に横たわる激しい隔絶だ。
これが世知辛くも、無人島である小さな雄島にも存在していた。

雄島と雌島は一続きだが、一つではない。
おそらくこの島の中で最も険悪で往来しがたい地形が、この谷であろう。
河川浸食力が働かないはずの島で、ここにだけ深い谷が刻まれた経過は不明だが、とにかく雌島から雄島を目指す行程には、この谷の攻略が必須である。

え?
別にこのくらい、越えるのはワケないだろって?
そうかもしれないけど、でもこの谷の存在は、小さな島の地形を単調に没させず、より魅力を高めた価値あるものであり、出来るだけ存在感を伝えたいと思って、少し盛りました。




おーっ!!!

あれはではっ!!

谷を跨いで、雌島と雄島を結ぶ掛け橋が、やっぱりあったんだ!

情報の起源を思い出せないままここに至った「雄島には橋があった」という話しは、本当だった!!


かっこいいなぁ…




こいつを見てくれッ!! →

少しばかり粗雑な造りだが、間違いなく橋台だ。
これが雄島側の橋台
さすがに橋そのものは、時空の彼方へ既に消え去ってしまっていたが、礎である石造橋台が残っていた!

こんな小さな人道橋の跡を、これほど有り難がってまじまじと観察したコトなんて、過去にあったろうか。
地形図に描かれたことがない、描かれうる広さもない無人島で発見した道路遺構ということで、興奮度はいくらかブーストされているが、それでも見て面白みのないものだったら、こんなには嬉しくないだろう。




橋はこの位置に、この再現図のような感じで架かっていたに違いない。
橋はなくても渡れる谷だけど、小さな島がお客を外から呼んでくるための情景として、この橋には価値があったことだろう。

果たしてどんな型式の橋が架かっていたのかは、帰宅後の調査でぜひ解き明かしたいと思う。
みんなも気になるだろう? きっとあの型式だと思うよな? きっと、太鼓橋だよ……、きっとそう。浴衣姿の人物が渡っているというところまで目に浮かぶ。




注意しないと見逃しそうなほど、自然の地形と同化している、雌島側の橋台。

この島の石を少しだけ切り取って、橋台を兼ねた石築堤に整え……ようとしているが、素人仕事といえばさすがに失礼だろうが、あまり出来がいいとは思えない。
目地を中途半端にセメントで固めているのも、不格好さを増やしてしまっている。
まあ、本来は橋板の下にあって、見えない部分だろうからね。
良いことにしましょう。




《現在地》

同橋台上から眺める、雄島の最高峰・雄島(?)の勇姿。
山頂のすぐ下には、西日を背にした立ち枯れのような鳥居が、多くはない参拝者を待っているのが見える。
やはり頂上部は一面のノビルの原となっていて、踏みつければ刺激臭が漂うことは必至だが、白い小花を可憐に揺らす見た目が美しいことにかけては、なにものにもひけを取らない。

これより最終登頂を開始する。
雄島への参拝者は、この橋の消えた谷を渡るときに、己の人生に横たわるままならぬ不満を振り返る。しかし、必ず谷底から這い上がり、頂上に立つことができる。



まずは細田が登っていった。

探索時は常に海軍帽を身につけ、幼少の頃より艦船を深く愛し、内陸の出身でありながら何時間も海を泳ぎ渡れる泳力を誇る彼に、「海」の素養を教えたのは、彼の名に「喜」の一字を受け継いだ祖父であるという。

細田の御祖父は、進学を願ったが許されず、嫌々ながら日本海軍に志願兵として入隊し、嫌々ながらも、割り切って努力をし、四等水兵からの叩き上げで、特務士官である特務少尉にまで昇進して、故郷に錦を飾った。だからこそ、細田はノンキャリアの叩き上げを愛し、船を愛し、我が新船「Explorer K2」への乗船を志願してここに臨んだ。

細田特務少尉がいま、雄島の頂に立とうとしている。




パイの実食いながらじゃなかったら、絵になったのになぁ…(苦笑)。

あ、でもさっきの話は本人から聞いた本当のことだよ。

さあ、私も登頂する。



島の最高峰へ至る道すがらに振り返れば、
島での行動の軌跡の大半を、一望にすることが出来た。
雄島は、小さくとも包含する要素が多彩で、それゆえに箱庭の愛おしさがある。



17:34 (上陸25分後) 《現在地》

雌島に引き続き、雄島にも登頂成功!

階段がある参道のゴールはこの鳥居の下であり、鳥居をくぐる道は一面ノビルの花に覆われていた。

鳥居がある以上、神社としての名があるはずだが、扁額は失われており、それを知る術がない。




島の真に最も高い位置を占める、一畳ばかりの堂跡。
雌島のコンクリートの祠ですら破壊される自然の暴威を前に
四周の木壁は敢えなく消失し、本尊は全くの吹き曝しとなっている。

石仏が2つ並んでおり、左は自然石に薄く「南無妙法蓮華経」の刻字がある、いわゆる名号碑。
右は石の仏像で、私の観察眼では単純にお地蔵さまと判断しかねないところだが、
これについては事前情報のおかげで、弁財天の石仏ということが分かっていた。
いわれてみれば確かに頭髪が髷になってて、女神像っぽい。




弁財天は弁天さまとしてもよく知られる、恵比寿天と同じく七福神の一柱だ。
七福神の紅一点であり、財宝や芸術を司るとされ、縁結びのご利益も信じられてきた。
共に七福神をいただく雄島と雌島が、小さな橋で結ばれていた。

雄島頂上にある2つの石仏には年号が見られず、寄進時代は不明であるが、おそらくはブロンズ像である恵比寿天よりも古くから祀られているのではなかろうか。
雌島に男神、雄島に女神が祀られている状況は、一見ちぐはぐであるが、より古くから祀られていたのが弁財天だとすれば不自然ではない。

雄島の頂上は、雌島よりいくらか尖っていて、平らな場所は少ない。
しかしそれだけに見晴らしの良さは群を抜いている。狭い海峡の向こうに広がる八森の街並みが手に取るようだった。




この狭い頂上にはまだ、お堂の屋根などの残骸がいくらか留まっていた。
平成6年の写真では間違いなくまだ健在だったので、それ以降に吹き飛ばされたのだ。

チェンジ後の画像の柱は、お堂とは別の建造物の名残とみられる。
これは建物ではなく、旗揚げの棒と想像する。かつては島に祭り旗を掲げて、盛大に例大祭をしていた時期があったのかも知れない。




雄島頂上より眺める、雌島頂上の恵比寿天の祠。

弁天さまは西の沖を、恵比寿さまは南の沖を向いている。
いずれも陸を背にして、海に向いているところに特徴がある。
人は神前で陸に向かって祈りを捧げたのであり、海陸両方の平穏を祈る守り神の島だった。




我々も、ささやかながら持参した供物を捧げ、島での活動に対する感謝と、この航海の無事な完遂を祈った。
もちろん、恵比寿さまにも供物を怠ってはいない。

いま、全てが満ち足りた気分である。
あと1分で17:40になる。
日が傾いてきた。そろそろ島を出る準備をしよう。

我々はこの後、再び海の上の小舟となる。
そこに、誰も予想しなかった遭遇が、待っていた…?!




17:42 (上陸33分後) 

島での活動を終えるときが近づいている。
上陸時よりも明らかに金色の度合いを増してきた太陽に急かされるように、雄島の最高地点から下る。
上の全天球画像では、島の道路の中心となっている船揚場から最高峰の頂上まで続く歩道の全容を表示している。
この歩道は目測で50〜100mの長さがあり、2箇所の階段に加えて、1本の橋を持っていたようだ。
破線で示した部分には痕跡があまりないが、他に道はないので、こう繋がっていたはずである。



そしてもう一つ島での活動の仕上げに、見つけた人工物と道の全貌を描いた地図を用意した。
遠目にはせいぜい、山頂に小さな祠があるだけで、あとは岩と草に支配された原始島の雰囲気だが、
実際にはちょっとした自然公園のような人工物の密度を持った島であった。
しかし大仰なものはなにもなく、開発によって荒れ果てた廃墟島の印象はない。
2つの祠を中心とする、清廉な聖地の島という印象を持った。



17:45

船着場へ戻って、出航の最終準備に架かった。
一番肝心なカヤックの空気圧に問題がないことを確認した。
島に残したものが、お供えのパイの実3コだけであることを確認の後、再びライフジャケットを着用し、カヤックを船着場へ浮かべた。
来るときとは逆に、細田に前席を譲って私は後席に収まった。
来るときのようなお囃子も太鼓の音も聞こえない海へと向けて……

17:47 (上陸38分後)

Explorer K2は雄島港を出港!



復路は往路と反対コースで出発地点を目指すが、一部コースを変えた。
島へ来るときは、島の北側を時計回りに、本土と島の間の海峡を通過して上陸したので、島から出るときは、また時計回りに今度は島の南側の外洋を巡って行くことにしたのだ。

外洋側といっても、いわゆる夕凪となっているようで、来るときよりもさらに波は穏やかになっていて、やすやすと航行することが出来た。
写真は初めて見る島の南側からの遠望と、チェンジ後の画像は望遠である。

陸側から見る雄島とは違い、トレードマークのふたコブはあまり目立たず、表面はゴツゴツしているのに全体はなだらかなシルエットという、面白い姿だった。
しかし、海抜8mはあるだろう雌島の祠の下まで外洋の大波が迫ることがあるようで、全く土と草もない荒涼とした地表であった。

黄色く染まった2つの頂上に別れを告げて、今度こそ島を離れる。



18:11 (出航24分後) 《現在地》

このとき我々が行く八森漁港沖の海上は、まるで湖面のように凪いでおり、6月の長い1日分の熱量を発散し終えた太陽は、日本海の水平線へ近づいていた。
進行方向より左側の海面は全て金色に包まれていて、浄土がもしあるならばこの先だろうかと、かなり柄にないことを考えた。

口数やや少なく、息を合わせて漕ぎ行く我々は、出航から20数分で見覚えのある白亜の灯台を間近に過ぎて、それから数分後には、全体の半分を漕ぎ終えようという辺りに差し掛かりつつあった。

我々が全く想像しなかった、海上での遭遇劇がおこったのは、灯台を過ぎて5分後、18:16のことであった。
正確には、その時刻より、遭遇劇は、始まった。




18:16 (出航29分後) 《現在地》

進行方向100mほど先、滝の間集落沖の海上に何かが浮かんでいることに、私と細田が同時に気付いた。

ここは往航時に太鼓を鳴らして快走する【2艘の漁船】と遭遇した辺りだが、大きさがそれとは明らかに違う。

船のように見えるのだが、まるで正体が分からず、少し不気味だ。




それは我々の航路上からほとんど動かずにいるように見え、我々も帰還のため自然と近づいていくことになった。

日が落ちかけた海の上で、我々は何と遭遇しつつあるのか……。先が読めない展開だった。

だが、近づくにつれて輪郭がはっきりと見えてきた。それやらそれは……

帆を掲げた和船らしかった。




なんということだろう。

浮かんでいたのは満艦飾に彩られた木製の小舟で、「春日丸」という船名を舳先と後部の旗に掲げていた。
周囲は海上であるから当然のように人影はなく、太鼓や鉦(かね)の音も聞こえては来ない。
陸地はそう遠くないが、見える範囲の海岸線に春日丸とK2の邂逅を眺める人影はなかった。

私とて全くの無知ではない。これは往航で出会った太鼓の船と関係があるものなのだろう。
我々が今日を探索の日と卜したのは偶然だったが、この日はたまたま、地元の祭礼の日と重なっていたのだ。
この祭りはきっと、陸で大勢が太鼓を囃し、海の上でもまた囃し、最後に夕暮れの海へ小舟を放つものなのだろう。

今日はつくづく、ついていた。
まさかこんな奇遇に遭遇しようとは思わなかった。
人生でたった3度目(練習を合わせても4度目)のカヤック旅で、こんな機会を得ようとは。



浜の願いを乗せて、静の海をたゆたう、春日丸。
満艦飾と見えたものの多くは、てるてる坊主型の色とりどりの人形であって、まるで七夕飾りのように各々が短い願文を掲げていた。曰く、「平目大漁」「テリ大漁」「鱈大漁」「家内安全」「商売繁盛」「禁飲酒運転」などなどで、「滝の間自治会」と書かれたものもあった。
たくさんのミニ人形に埋もれるように、ひときわ大きな(子供くらいの)若武者のぬいぐるみが横になっていた。彼が和船・春日丸の船長か。

この日我々が往航と復航を通していくつかの場面に遭遇した祭りは、八森に古くから伝わる鹿嶋祭りであった。
帰宅後に読んだ八森よめこ漁業ブログの2012年2015年のエントリに、祭りの全容が紹介されているのを見て、同じ祭りと確信した。

上記ブログによれば、和船はこの祭りの主役といえるもので、まず舟を乗せた山車が集落内をお囃子とともに練り歩き、それから浜で舟をボートに乗せて、岸の回りをまた囃されながら巡る。著者の地区では、日本海中部地震(昭和58(1983)年)がおこるまでは、雄島まで舟を出していたそうである。そして祭りの最後に、海上からこの沖へ舟を流すそうだ。舟には各家庭で作った人形が乗せられていて、これには厄を流すという意味があるのだとか。



皆様がお住まいの土地にも伝わっているかもしれないし、そうでなくても聞いたことはあるかも知れない。
いわゆる厄流しや神送りの要素を持つ祭りは、虫送りなどとともに古くから日本各地に点在していて、いずれも祭りを主催するものと外部の境界が舞台となるところに特徴がある。

八森の鹿嶋行事も歴史の古いものであり、昭和9(1934)年に柳田国男が記した『神送りと人形』(『定本柳田国男全集第13巻』所収)に、次のように紹介されているのを見つけた。

カシマブネ 秋田県の各地から津軽地方にかけて、鹿島舟というものが神送りの式に用いられている。これなどはもはや藁や麦稈(ばっかん)の粗末な舟でなく、材料と制作に大分の銭をかけ、中には木で切り組んで本物に近いものを作り、祭りがすむと引き上げて家にしまい込み、毎年出して使うものさえある。
カシマニンギョウ 多くの鹿島舟に共通な点は、舟に人形を乗せて送ることで、他の府県の送り舟でも、類例はあるのか知らぬが、私はまだ聴いていない。深浦の鹿島祭でも数多の人形を小舟にのせ、笛太鼓ではやしつつ送って出て海に流したというが、舟と共にであったかどうかは明らかでない。(中略)しかもこの人形は、本来必ずしも舟に乗せて、流すものとは決まっていなかったのである。同じ羽後国でも平鹿郡の或る村などでは、盆を過ぎてからこれを作って村の境に立てておいた。目的は疫病の防衛にあったらしく、ところによってはこれを鹿島人形とはいわず、草仁王ともまた牛頭天王とも呼んでいた。

……などとあって、県南の住人ならたいていどこかで見たことがあると思う【こういう鹿島様】とも、共通点の多いものらしい。




このような奇遇に接したことも何かの縁だろう。

ちゃっかり我々の厄も一緒に流して貰おうということになり、

細田と私のぶん、合計2つのパイの実を加えた艫(とも)は、金色の海原へ離れていった。



18:42 (出航55分後) 《現在地》

夢のようなひとときが終わり、往路とちょうど同じ時間をかけて、出航地に上陸した。

Explorer K2 × ミリンダ細田特務少尉の初航海は、これにて無事終了。




賑やかな祭り囃子も、我々の楽しい笑い声も、夜の海の沈黙に沈んでいく。
無灯火の無人島である雄島も、人の世界の賑わいから、ひととき切り離されていく。
だが今宵ばかりは、浜の人々を乗せた鹿島舟が、雄島の孤独を慰めているはずだ。寂しさも、いくらかは拭われることだろう。

次回、雄島に多くの人工物を残した“開発”の記録を探る。
島にあった橋の姿が、ついに明らかになる?!




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