ミニレポ第265回 和歌山県道237号宇久井港線 および 旧フェリー基地 後編

所在地 和歌山県那智勝浦町
探索日 2015.07.25
公開日 2022.06.25

紀伊半島のかつての海の玄関口、その残影


2015/7/25 13:07 《現在地》

県道237号を100m戻って、最後の交差点へ。
先ほどはここを右折したが、今度は直進する。
それが旧フェリー埠頭への順路であり、道の格としては町道だろう。
特に案内のようなものはなく、ここから旧フェリー埠頭まで約1.1kmある。


町道に入ってまもなく、巨大な津波避難ビルがある団地の角を左折するのが、旧フェリー基地への順路である。
それから少し進んだ辺りがこの写真だ。道は基本的に2車線あるが、白線が消えかけている場所もあった。また、フェリーが就航していた当時の道路地図を見ると、港まで路線バスが行っていたようだが、現在は国道から宇久井方面へ入るバス路線はない。

道は依然として平坦だが、陸繋砂州を南海岸から北海岸へと横断するように走っており、先ほどから進路の前方に見えるのは、大昔は沖合の孤島だったはずの山だ。休暇村があの山の上に整備されていて、旧フェリー基地は山の北端にある。



13:09 《現在地》

そしてすぐに道は新たな海と出会う。
これは宇久井半島の北岸だ。
海に出たところから道はさらに広くなり、歩道と車道を合わせて9m幅の悠々たる道になる。フェリー基地とセットで整備された区間に入ったためである。

(チェンジ後の画像)
半島北岸の海も、宇久井港であった南岸同様に波穏やかな内海である。しかし比較すると何倍、いや、10倍くらいは広い内海だ。
この広い湾(湾口には長大な防波堤がある)のほぼ全て(この写真の全て)は、地方港湾よりもさらにグレードが高い特定地域振興重要港湾に指定された新宮港の港域であり、例外は古くから湾内にあった宇久井漁港と三輪崎漁港の小さな港域だけである。

前回も少し触れたが、地方港湾としての宇久井港を衰退させたのは、この新宮港の整備であった。
新宮港は宇久井港の整備が終わって間もない昭和45年に地方港湾となったが、平成12(2000)年に上記の指定昇格を経て、紀南唯一の外貿易港や大型クルーズ船寄港地として大規模に整備された(フェリーの就航はない)。もちろん、ユネスコの世界遺産登録(平成16(2004)年)と絡んだ話でもあったろう。

これから向かう旧フェリー基地も半島の北岸にあるので、港域としてはこの新宮港に属しているが、平成17(2005)年に就航するフェリーがなくなる最後まで、宇久井港でも新宮港でもなく、那智勝浦フェリーターミナルを名乗っていた。
単純にそこが那智勝浦町に属していたこともあっただろうし、隣り合う新宮市と那智勝浦町の綱引きの結果でもあったろう。



旧フェリー基地の400mほど手前にある福祉施設を過ぎたところで、道の雰囲気が変わった。
道幅は変わらないし、廃道というわけでもないのだが、旺盛に枝葉を茂らせた路外の樹木が山側の車線を隠す勢いで繁茂しているせいである。
この先にあるのは旧フェリー基地だけと思われ、その現状を予告するような道の変化だった。

そして直後に現われた小さな岬を回り込むと、今回の最終目的地が見えてきた。




あれが、旧フェリー基地。

昭和48(1973)年から平成13(2001)年まで、長きにわたって「さんふらわあ」が寄港し続けた、紀南の海の玄関口だ。

私がここを訪れるのは初めてだが、廃墟らしきフェリーターミナルの建物が、錆び付いた乗降用移動桟橋(飛行場にあるようなものに似ている)と共に現存しているのが見て取れた。
岸壁に取り付けられた防舷材(ぼうげんざい、岸壁と船体の間のクッションとなる装置)の大きさが、只者ならぬ雰囲気を醸していたと言って伝わるだろうか。

記録によれば、この港を利用した最大の定期船は、昭和48年から平成9年まで寄港を続けた「さんふらわあ8」(後に「さんふらわあ とさ」と改名)で、全長185m、1.2万トンを超える、就航当時は国内有数の大型フェリーだった。海を走る豪華ホテルの異名と共に太平洋沿海を渡り続けたその船が、この海と山の鮮やかな景色に負けない赤い太陽を灯したのは、もう随分と昔のことになった。



13:11 《現在地》

道が荒れていないので、すんなり御入場と行けると思ったが、そうは問屋が卸さず。
ゴールまであと150mくらいのところで、軍事基地か何かと思うくらいの厳重な鉄条網フェンスゲートで道は封鎖されていた。

ゲートにはたくさんの看板が取り付けられていたが、敷地は今も那智勝浦町の町有地であるようで、町名義の「関係者以外立入禁止」の看板の他は、漁業権設定に関して説明したいわば密漁警告の看板が絶対に見逃されまいという感じに何枚も取り付けられていた。封鎖の主旨はそこにあるのだろうと解釈した。(ネットのレポートによると普通に解放されているときもあるようだ)




このゲートと鉄条網は本当に執拗で、山側も、海側も、一筋縄では行かなかった。

……イタイニャン。




ゲートの向こう側はもう、フェリー基地と一体的に整備された空間だった。
間髪入れずに醸し出される、椰子と蘇鉄の南国ムードにいささか胸焼けが…(笑)。
紀南の観光面でのイメージは、ユネスコが熊野古道へ大きな注目を惹きつけるまで、南国ムードが優勢であったことを思い出させる。もちろん、那智山などそうではない歴史のある名所も多くあったが、少なくとも紀南の海といえば、こういうものが植わっていてほしい風潮があったかと思われる。
そしておそらく(行ったことがないので想像で語るが)、ここに寄港した西行き船が最後に辿り着くべき高地港も、大分別府港も、宮崎港も、多分ぜんぶに椰子と蘇鉄が植わっていたと思う。

南国の木々の先で道を跨いでいたのが、フェリー基地には鉄板の高さ制限ゲートだ。
これはフェリー基地の入口には必ずあった施設だが、役目を終えた今では左右の支柱だけが錆び付いた姿で残されていた。


(→)
ところで、直前の封鎖ゲートがある土地と、フェリー基地の主要な構造物がある土地は、元々地続きではなかったようだ。
フェリー基地がある場所を目覚山というのだが、そこは本土との間を非常に狭い海峡で隔てられた離島であったらしく、フェリー基地の整備に伴う埋め立てによって現在の道が付けられ、地続きになった模様。

この部分の護岸擁壁に、御影石の立派な銘板が取り付けられていた。
そこには「フエリー基地埠頭 昭和四十八年九月 三井建設株式会社」と刻まれており、橋ではないが、離島架橋の小さな一例であったとみられる。

チェンジ後の画像は、深い入り海として残された海峡部の名残である。
綺麗な風景だと思うが、それもそのはずというべきか、この宇久井半島先端部に残る天然の海岸や樹林は、国が定める吉野熊野国立公園の特別地域(第二種特別地域)になっていて、新たな開発にはいくつか制限が加えられている状況にある。




キター!

来る船の途絶えた、悲しきフェリーターミナルだ。

普段の慣れた廃道探索とはだいぶ毛色は違っているが、廃止された交通施設であることは圧倒的に間違いない。
これも私の探索対象として申し分ないものであろう。……なんて理由付けはどうでも良くて、好き!(←大事)





13:14 《現在地》

今回事前情報を持たずに訪れたので余計に感激したのだが、こうして入口から見る限りにおいて、
この港は、寄港する船がなくなって営業を終了した当時のままで、何もかもそのままな感じがした。

もちろん、現役時代を知らないので、細かな変化は分からないけれど、
一番目立つターミナルの建物やボーディングブリッジがそのまま残っているし、
航送を待つ各種の車両が待機する広いスペースも、黄色い区画線とともに残されている。
そして、利用者を案内していた各種の看板とか、インターフェイスもそのままっぽい。

何かに流用することも出来そうな広い土地だけど、敢えてそのまま残していたのだとしたら、
やはり那智勝浦町としては、もう一度フェリーが寄港する可能性を大事にしたかったんだろうか。
(実は建物の後ろ側の方は港湾工事の材料置き場として流用があったが、それでも大部分は手付かずだ)

なるほど……、これは来てよかったと思う。この嬉しさは………駅舎が残ったままの廃駅を見つけ感じだ。
いままでも使われていない漁港とか船着場なんかはたくさん目にしたが、旅客港の廃墟はたぶん初めてだ。
体験したことがなかったから、どんな印象を持つのか想定がなかったが、これはまさに廃駅の印象だと思った。


それではさっそく、目に留まった各ポイントを近いところから紹介して行こう。



萌えるッ!!

これは出入口近くの護岸の壁にペイントされた、とても大きな道案内!

内容は、国道42号の“おにぎり”のみ!

このシンプルさは、むしろ親切だろう。
フェリーを利用して当地へ降り立つドライバーの多くは、まだこの土地には不慣れだから、地名もそんなには知らないはず。
だから、ここからどこへ行くにも必ず使うことになる紀伊半島の大動脈だけを案内する。
実際の経路としては、私がレポートしてきたルートの逆を辿る約2.2kmの道のりである。

それにしても、妙にふっくらした、腹の膨れそうな“おにぎり”だなぁ。
いつ書かれたものかは分からないけど、このままずっと残っていて欲しい愛おしさだ。



“おにぎり”の近くに残されていた、「勝浦温泉周辺観光ルート案内図」と銘打たれた大きな案内板。
デフォルメされた観光地や観光客のカラフルなイラストが所狭しと描かれた、90年代の観光ガイドブックっぽいイラストマップだ。表面全体のひび割れと退色による劣化ぶりも、潮風に晒された時間の長さを感じさせた。

もちろん、描かれている内容も当時のものである(正確な時期は不明)。
詳しく見たい方のために高解像度の画像を用意したので、興味のある方はこちらから。
今はなくなった施設(例えば「グリーンピア南紀」)や、もう聞かなくなった道路愛称(国道168号に付された「十津川・本宮いでゆライン」)に加え、「現在地」のところには、航路どころか会社自体もなくなってしまった「マリンエキスプレス」の文字が残されていた。

ところで、この盛りだくさんな観光イラストマップに、なぜか隣接する新宮市の中心市街地や駅の存在、そしてそこにある熊野三山の一つである熊野速玉大社が全く描かれていない。本宮大社や那智大社は、もっと遠いのに描かれているが…。これを見てなんとなく、那智勝浦町と新宮市はこの当時あまり協力的な関係ではなかったのかと思った。(調べてみると、平成の合併においても、両市町は合併協議会を1年で解散させて合併を回避しているようだが…)



案内板の隣には、朽ちかけた……という表現は、敬虔な方に怒られてしまうかも知れないが、情感たっぷりな姿となった木製の赤鳥居があった。
その奥にまた鳥居があり、そこから急な石段の参道が目覚山と呼ばれる山の上目指して伸びていた。暑過ぎるし、登らなかったよ。

扁額がないので神社名は分からないが、奥の鳥居には宇久井漁業協同組合と書かれており、フェリー基地の整備が行われる以前、目覚山が半島の先端に浮かぶ小さな離島だった時代から、大漁祈願や漁業安全の海神を祀った名残であろうと容易に想像が出来る。

しかし、1万トンクラスの大型フェリーが日々に立ち寄っていた時代ならば、待ち時間の暇潰しのような軽い気持ちであっても、お参りする観光客がいただろう。そして、信心深い船員がいたら、船の上から航海安全を祈念することも常々であったはず。
小さな島の名も知らぬ神社に祀られた神の成り上がり……。そんな事もあったのかと思う。八百万の神々は人の世の移ろいやすいことに慣れっこで、今は再び静かになったこの島を見守っているんだろう。



直射日光を遮るものがないので、本当に暑いが、吹き抜ける海風は少しだけ心地よかった。
ここはフェリー基地を象徴する存在とも言える、乗船車待機場および乗船口誘導路である。
様々なラインや文字が路上に書かれた広い土地は、どことなく飛行場を連想させた。もちろんそこまで広くはないが。

それにしてもいろいろな路面ペイントが残っているので、当時のレイアウトを詳細に脳内再現できて面白い。

この足元には「トレーラSTOP」と書かれているので、乗船手続きを終えたトレーラーはここで2列に待機して乗船を待ったのだろう。
正面側にも同じようなペイントがあり、おそらくあちらの2列は(トレーラー以外の)貨物車両の待機列だろう。
車両乗船口自体はここから左へ向かって岸壁にあり、後ほど紹介する。
また、普通車やバイクの乗船待機場もここから見えている。チェンジ後の画像で拡大した辺りがそれ。
(背後の建物も気になるかと思うが、あそこが廃駅でいうところの駅舎……本丸なんで最後に行く)



自転車を最後のゲートで引き離されていた私は、逃げ水さえ蒸発しそうな熱せられたアスファルトの上を這いずり回って、撮影を続けた。
ここは乗用車の待機列で、ぜんぶで4列あった。
でもこの4列のレーンが終わりまで埋まるようなことは、ほとんどなかったんだろうなぁ。そうだったら航路がなくなることは無かったもんなぁ…。

乗船口に近い先頭部分には、「乗船車駐車場」という文字や、「No.1」〜「No.4」というレーン番号が、何れも手書きの字体で路面ペイントされていた。
それなりに整備された施設だったとは思うが、なんとなくこの辺りは、公道とは違う手作り感がある。公道ではないからな。

チェンジ後の画像は、50m以上ある長い待機列の始まり側の様子。ターミナル正面の位置だ。
こういう景色は、フェリーを利用したことがある人なら見たことがあるだろう。乗船手続き完了後、整理員の指示に従ってドライバー自ら運転してこれらのレーンに並び、船の着岸を待つのである。この待機列で船を待つときが、愛車と一緒に行く船旅の期待感が最も高まる瞬間で、私は大好きだ。


乗用車4番レーンのさらに海側に小さく存在するのが、「オートバイ駐車位置」の看板があるバイクの乗船待機列だ。
5列(5台分)あって、先頭には「単車駐」とやはり手書きの文字で書かれていた。

そしてここが車両待機列では最も乗船口に近い。
すぐ奥に見える金属板が敷いてある一角がそれだ。次は車両乗船口を見てみよう。

なお、今日の景色からは想像が難しいと思うから敢えて書くが、1万トン級の船体が接岸するときは、この写真の背景の海や山々は全て船体に隠されて見えなくなったはずだ。この港に接岸したフェリーはどれも大きかったので、大迫力の接岸風景が日々展開していたはずだ。




これが車両乗船口の跡。
フェリー埠頭らしく喫水の高い岸壁の一部が切られ、緩やかな下りスロープになっている。この部分を直接車両が走行する訳ではなく、船体側からここにランプウェイが下ろされ、地上と船体を結ぶ即席の橋になる。車はそこを乗り降りする。

ランプウェイは車両航送の機能を持つ船舶の多くに存在し、その規模も位置(船体側面、船尾、船首など)も様々だ。
そのためフェリー基地側で、寄港するフェリーの構造に合った車両待機列のレイアウトや車両乗船口の位置を設定する必要があった。
規模の大きなフェリー基地では船ごとにバース(泊地)や岸壁を複数用意することが行われるが、この那智勝浦フェリーターミナルでそのような複数対応が行われていた形跡はない。


本編冒頭に掲載した歴代航路図にまとめたとおり、この港を最後の4年間(2002〜2005年)に利用していたのは、川崎港〜宮崎港を結ぶマリンエキスプレスの一航路だけだった。
同航路で使われた船は、パシフィックエキスプレスとフェニックスエキスプレスという約1.1万トンの同型船で、ランプウェイは船尾近くの左舷側と船首にあった。
那智勝浦フェリーターミナルの構造からして、船首のランプウェイは利用できなかったと思うので、左舷船尾のランプウェイこちらで同型船のランプウェイを下ろした姿を見られる)で乗下船の両方を行っていたのではないかと思う。


『那智勝浦町史 下巻』より

そしてマリンエキスプレス就航の前年まで長く(1973〜2001年)就航していた東京港〜高知港を結ぶ「さんふらわあ」シリーズについてだが、平成9(1997)年に大きく総トン数を減らした新造船に切り替えている。
いずれにしても、「さんふらわあ」とマリンエキスプレスの船ではランプウェイの配置が大きく違っていたので、2002年に就航時に港の手直しをしているのではないかと思う。
設備が1バースしかないことは、本港が航路をあまり拡張できなかった原因となる大きな弱点だったのではないかと思う。

右図は昭和55(1980)年に発行された『那智勝浦町史 下巻』に掲載されていた、開港からあまり経っていない時期に撮られた当港の風景だ。
さんふらわあ5姉妹の一員として長く愛された「さんふらわあ8」(総トン数1.28万t)が、たくさんの車両の待つ岸壁に接岸している。
フェリーターミナルの建物は現在あるものと変わっていない。港に収まってはいるが、いささか窮屈そうに見えるのは、私だけではないだろう。

町史によるとフェリー岸壁は長さは230mだったそうで、全長185mの船を着けると余裕がなかったというのは頷ける。
この港への接岸は、高度な技術を要するものだったのではないだろうか。



ここまでのまとめとして、私の探索よりもだいぶ後に撮られた2021年の航空写真上に、各車種ごとの車両待機列の位置を示してみた。

車両航送に関する遺構の観察は以上である。 最後は本丸、フェリーターミナルの廃墟を見にいこう。



ターミナルの建物に近づくと、建物のどの部分よりも圧倒的にボロボロで、

ひと目見てヤバイ状況だと分かるボーディングブリッジに目を奪われる。

(残念ながら、2018年以降に撤去されて現存しない)



このボーディングブリッジ(可動式搭乗通路)は、小さなガントリークレーンのような構造をしている。
レール上を前後に移動する高架台の2階部分に、角度の変化を付けられる屋根付き歩道橋が架装されていて、
様々な船体側の乗船口に対応する構造だったのだと思うが、とにかく全体的に朽ちている。
全国の港を調べてまわったわけではないが、あまりよく見るタイプのボーディングブリッジではないと思う。

新旧の「さんふらわあ」や「あるごう」、そして最後のマリンエキスプレスといった、
いくつかの大型フェリーに対応するために、この設備が必要だったのだろうが、
実際、ターミナルビル側の通路には、「さんふらわあ」時代に使われていた乗船位置らしき切り欠きがある。
また、昭和50年代の航空写真を見ると、この画像の「延長部分」は見えないので、
この部分はまるごと、マリンエキスプレスへの対応で増設されたのかも知れない(詳細不明)。



建物側から見るとこんな感じ。

この港をサイズが異なる船が同時に利用していた時期は、「さんふらわあ」だけでなく「あるごう」も寄港していたが1975年から80年までの間だけだと思う。
となると、この可動橋が日常的に移動していたのは、この時期だけかも知れない。

それでも、可動機能は最後まで維持されていたようである。
なぜなら、廃止後の現在の停止位置が、通常は移動させる必要がない、建物側の通路には接続しない位置にある。
おそらくだが、廃止後に事故防止のため、ここまで移動させたのだと思う。




このような廃墟的なものを私がどうして表現するか悩ましいところだが、この港からフェリーを徒歩で利用するならば必ず渡る必要がある、一種の橋なのは間違いない。
フェリーを使った旅の途中で渡る橋である。
ややこじつけのようだが、『町史』にも「旅客乗降専用の架(まま)道橋」として橋のように記録されていた。

フェリー基地那智勝浦港の造成工事は、昭和47年8月から総工費21億339万円の巨費を投入して(中略)延長230mのフェリー接岸用岸壁と公有水面2万4180平方メートルを埋立て、消波式防波堤延長150mを構築。さらに基地から国道42号線に通じる宇久井港線までの延長942.9m、幅員9m(うち歩道1.5m)の取付け道路や既設道路の一部改修や舗装など“基地づくり”など付帯工事等、またフェリー接岸岸壁には、旅客乗降専用の架道橋(高さ12m、幅1.5m)とともに竣工したものである。

『那智勝浦町史 下巻』より

全国に廃フェリーターミナルというのがどのくらいあるのか分からないが、たぶんこの“廃橋” “廃可動橋” と出会うことは、当分ないだろうな。下手したら最初で最後かも知れない。




ターミナルビルの正面玄関。
遠目には分からなかったが、ガラスなどもしっかりしていて、廃墟と呼ぶには程度が良い。
探索した当時が、空き家になって10年目だったはずだ。
だが建物自体の竣功は昭和48年だから、それなりに時間は経過している。

この正面玄関前の路上にも2レーンの白線が敷かれ、「バス」と書かれていた。
観光バスや団体のバスがここに乗り付けていたのだろうか。路線バスのバス停も敷地内にはあったはずだが、見当たらない。




玄関のガラス越しに、バス乗り場の案内板が見えた。
ここがターミナルと呼ばれていた時代には当然、ここを起点にした陸路の公共交通も完備されていたのだ。
今でもこの地方の観光名所としては著名である「瀞峡」「那智山」「勝浦」などが、バスの行き先として並んでいて壮観だった。

とはいえ、フェリーの寄港は、「さんふらわあ」時代がおおよそ1日に1便(上り下り交互の寄港)で、マリンエキスプレスになってからは週2往復だったから、おおよそ3日に1便の頻度だった。
そう考えると、やはり晩年は結構寂しい感じだったのだと思う。
一応、この建物がマリンエキスプレスの南紀支店を兼ねていたらしいので人は常にいたと思うが、寄港のない日は閑散としていたことだろう。



あああ〜〜。空間がおじいちゃんだー。

扉はしっかり施錠されていて、内部は反射の強い窓越しに観察するよりなかった。

正面玄関を入ったところは、フェリーではなく連絡バスの乗車券売り場だったようで、
観光色が強い案内になっている。上の方にあるのは各社のバス路線をまとめて表示した名所案内地図。
「現在地」を示す部分にはシンプルに「宇久井港」と書かれている。一般には那智勝浦フェリーターミナルと
呼ばれていたと思うが、この呼び名も期間を跨いで一定したものではなかったのかも知れない。

連絡バスは、フェリーの発着に合わせて走らせていたのだろう。
ここと(紀伊)勝浦駅および那智駅と結んでいた「勝浦方面行連絡バス」の運賃が書かれていた。
やはり新宮方面には行かないんだなという感想だ。また、連絡バスには那智山や瀞峡などの
観光地へ向けての路線もあったらしく、それらは勝浦駅から発着しているという案内もあった。
そういえばこのフェリーターミナルにはレンタカー事務所はなかったのだろうか。

この建物の中は、手付かずの廃駅を見るような、空間の缶詰的魅力に満ちている。
いつか取り壊すことがあるとしたら、その前にタイムスリップツアーみたいなものを企画したら、
行きたい人はこの業界(?)にならいくらでもいると思う。扉から見えない部分をもっと見たいよー。



正面玄関の裏側にも同じような造りの扉があった。一応裏口ということになるかと思う。
こちら側の土地には、車を置いて乗船する人たちが使う一般駐車場があったかと思うが、
その敷地は舗装されたまま港内工事資材の置き場にされていて、当時の面影はない。

やはり鍵が掛っているので、窓越しの観察を……。



it's ノスタルジック!
もろに一昔前のチケット売り場だ〜!

正面玄関側は連絡バスの売り場で、フェリーの売り場はこちら側にあったのだ。
窓口がいくつも並んでいて、「トラック手続」「乗船券手続」などの窓口名が掲げられていた。
この黄ばんだ空間で手続きをして、大勢の人々が西へ東へ、鮮やかな海の旅へ出発していったのだ。

令和の現在だって、離島航路の窓口なんかに行けば、こんな窓口は全然普通だけれども、
さすがに規模の大きなフェリー乗り場なんかは、もっと遙かに垢抜けているよな。
これは、「ザ・昭和40年代のチケット売り場」って感じの風景だと思う。私の年齢を超えて懐かしい。
(2005年まで営業してたのだが、当時でさえ古びて見えただろうと思う)



おっ! 外階段だ。

建物の中には入れなくても、この階段を使ったら、“あそこ”には行けるんじゃないか?

廃駅探索の気分で、どんどん入り込んでいくぅー。


(←)
2階の外周通路に到達。
窓がたくさんあるので中は覗き放題。

最初に覗いた部屋は、大抵のフェリーで一番安い乗船券を買うと利用できる雑魚寝空間を、そそのまま再現したような巨大な畳敷きの休憩所があった。
ゴミ一つ落ちておらず、なんというか…、営業最終日にはしっかりと建物にも礼が尽くされたんだろうなという感じがして、嬉しかった。
もうすぐにでも利用を再開できそうだよ。ここは強力な台風も多いのに、ガラスが割れていないのも素晴らしい。




2階外周通路から見渡す、建物裏側の広い土地。
前述の通り、ここは駐車場だったはず。
辛うじて当時の名残である街路灯の支柱が残っていた。

あとたぶん、乗船用と下船用のランプウェイが別にあった「さんふらわあ」の時代には、車両下船用のランプウェイがこちら側に接岸して下船が行われていたと思う。

なお、このスペースの奥には、フェリー基地と一緒に整備された長さ150mの突堤が陸の先端から沖へ伸びていて、今でも新宮港の門戸を守る重要な役割を担っている。
ここからもその先端に立つ照明灯が見えた。





外周通路は、四角い建物の角を1回折れて旅客用の乗下船口に辿り着く。
先に下から眺めたボーディングブリッジや延長通路が目の前に現われた。

この右手にあるチェーンで塞がれただけで壁がない部分が、
「さんふらわあ」時代のボーディングブリッジの位置だと思う。
下船してきた乗客は、「ご乗船ありがとうございました」と書かれた扉を潜って……



このグリーン絨毯の階段から、先に見た1階の窓口エリアへ下りたのだろう。



さあ、旅立ちの時だ。

出港に乗り遅れるな〜。



やはり2000年代に増設された部分であるのだろう、全体に造りが新しいし、
時代に合わせたバリアフリーの観点からか手摺りも整備されている通路を終点まで行くと、
右側に収納式のフェンスゲートが施錠された状態で閉じていた。

本当なら、この位置にボーディングブリッジが接合し、乗下船通路となるのだが、
何か謎解きの出来ていないゲームのような微妙な憎たらしさで位置が合わず、先へは進めないのだった。



まあ仮に向こう側に乗り移れたとしても、

気持ち悪すぎて足を踏み入れたくはないがな!

こんな廃橋でおっちぬのは勘弁だぜ。(←勘弁して欲しいのはオマエじゃなくて那智勝浦町だからな)





13:25 《現在地》

そんなわけで、どうやら私にはまだ船のお迎えは来ていなかったらしく、大人しく陸地へ戻った。

宇久井港の2大ミッションを攻略し、探索終了だ!




本レポートを書くにあたって、この航路の思い出についてTwitterとFacebookで皆様からコメントを募集したところ思っていた以上に多く寄せられた。
だが、その多くは乗っていたフェリーは勝浦港に寄港したが下船はしなかったという体験談で、最初の数年を除けば利用者の拡大が思うように進まなかった実態を物語っているようだった。
ハチコ(@YellowPigeons)様から那智勝浦航路の開設を記念して作成された「さんふらわあ」の貴重なパンフレットをご提供いただいたので、興味ある方はこちらからご覧下さい。

また、拙書『日本の道路122万キロ大研究』の編集者である磯部祥行氏のブログの記事によれば、今でも東京港フェリーターミナルには行き先「那智勝浦」の案内が残っているそうだ。→記事
さらに2021年秋にも現地を訪れて、最新の状況を報告して下さっている。→記事

最後に、マリンエキスプレスの川崎〜宮崎便の最終航海、平成17(2005)年6月17日の極めて貴重な乗船記を見つけたので紹介したい。
ゆかねカムパニー様によるこちらの記事である。
乗船記の中では、川崎出航の翌朝、すなわち那智勝浦港の最終営業日となった6月18日の同港最終寄港の場面も描写されている。
ターミナルビルの最後の雄姿、そして…どのくらいの人数から「大勢」と呼べるかの議論はあるかも知れないが、私には十分に「大勢」であったと思える那智勝浦や会社の人たちが手を振る姿が、私の心を打った。
ぜひご覧いただきたい。こんなのナマで見たらぜったい泣いちゃうヤツだよ…。

2022/6/26追記

本レポート公開直後、平成16(2004)年6月に川崎港から那智勝浦港までマリンエキスプレスに乗船した方が、多数の写真を含む乗船記をブログに掲載して下さった。廃止前年の風景を伝える非常に貴重な記録になっている! →「2004(平成16)年7月、川崎からマリンエキスプレスの宮崎行きに乗船し、那智勝浦へ行った。」



海の廃駅探索、無事完結。



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