ミニレポ第271回 高知県道279号甲殿弘岡上線 甲殿狭区

所在地 高知県高知市
探索日 2023.02.14
公開日 2023.02.22

強烈な狭さのゴールに待ち受けていた青看には…


祝!四国初レポート!

……と盛り上げたいところだが、どう考えてもこの道はミニレポ向きだ。
これは、結構どこにでもあり、それゆえあまり取り上げられることのない、市街地にあるタイプの激狭県道の一つである。
先日(2023年2月)に、私ははじめて本格的な四国探索遠征(6日間)を行った。事前に多くの読者様やフォロアー様より四国地方の面白い道路情報を教わっていたおかげで、山行がで紹介したいような道と沢山出会うことが出来た。

しかし! そんな優秀な道ネタを書くには今日は些か時間が足りない。でも何かアウトプットしたい気持ちは抑えきれない。
そこでミニレポ中のミニレポと思える、これを書くことにした。
ちょうど遠征3日目の夕方で、まもなく日が落ちようとしていた時間だ。初めて訪れた高知市近傍にあった私は、ここで欲張って、「何か暗くなるまでにもう一つ探索出来ないか」と考えた。そして咄嗟に道路地図を調べて目星を付けたのがこの道、「高知県道279号 甲殿弘岡上線」であった。その中でも実際に探索したのは、地図から特に狭い感じが読み取れた、起点寄りのごく短い距離だった。

実際に現地で私が目にしたのは、結構どこにでもあるような地味な狭隘県道の風景だったが、最後の最後にとびきり印象的なものが待ち受けていた。
とはいえ、それも個人的な性癖に依存した感想だ。まあ、「ヨッキれんはこういうの好きなんだな」という程度のユルい目で楽しんで欲しい。どうせすぐ読み終わる。もっとちゃんとした大多数の読者が期待しているような四国産の道路レポートも、遠からず登場予定である。


《所在地(マピオン)》

高知県道279号甲殿弘岡上線は、起点から終点までの全線が高知市内で完結している、約8kmの短距離の一般県道だ。
路線名の通り、起点は高知市春野町甲殿(こうどの)という土佐湾に面した集落、終点は高知市春野町弘岡上(ひろおかかみ)という仁淀川(によどがわ)に面したところにあり、平成20年に吾川郡(あがわぐん)春野町(はるのちょう)が高知市の一部になるまでは同町内で完結していた。

経路は右図の通りで、これといった大きな特徴のない平坦地の路線だ。
敢えて言うなら、新川川(しんかわがわ)の右岸に沿った経路だが、実際はあまり川沿いの風景はない。あと、沿道には四国八十八か所霊場の34番札所である、弘法大師の開基による種間寺(たねまじ)があるので、お遍路さんの多くが少なからずこの路線を利用しているはずだ。しかしそれも全線というわけではないのだろう。参詣者の通行量も多い同寺周辺だけは2車線が完備されているが、それ以外の多くの区間が1.5車線未満の整備状態である。

あと地図上で気付いた道路マニア的な特徴を一つ追記すると、この県道、起点の甲殿では高知県道14号の旧道と接続し、終点の弘岡上では高知県道36号の旧道とそれぞれ接続している。どちらも旧道としか接続していないうえに、後者の旧道は既に県道の認定を解除されているので、地図上だと県道の色で塗られた道が弘岡上でぷつりと終わっている。こんな一事からも、本県道の存在感があまり大きくないことが容易く想像できるのではないかと思う。

最後に今回紹介する区間についてだが、地理院地図では県道色で塗られた「軽車道」として描かれ、スーパーマップル(右図)でもひときわ狭い車道として表現されている、起点・甲殿地区の約700mである。
わずか700mなので、自転車でも徒歩でもあっという間に探索を終えることが出来るが、うっかり自動車で入り込んで、そこで運悪く対向車が来たりすると結構キツイと思う。周辺は住宅地なので交通量皆無ではない。


それでは、ユルーい初四国発レポート、参る!





2023/2/14 17:15 《現在地》

本日の日没まで残り30分の差し迫ったタイミングで、すぐ近くに停めた車から自転車で漕ぎ出した私。ここは高知市春野町甲殿を走る県道14号春野赤岡線の旧道上だ。目当ての道はまだ始まっていないが、その起点は近い。

土佐湾に面した長大な砂丘海岸地帯を高い防波堤を兼ねながら真っ直ぐ貫く新道に対し、旧道は海岸線の後背に点在する集落を結ぶ生活道路として、1.5車線程度の古い姿のままで県道の認定を継続している。もっとも、同じような条件の道は各地にあるのに、なぜここの旧道が県道の認定を継続しているかの理由は、よく分からない。

写真にはそんな路傍の家並みと、その中にあってひときわ高く異彩を放つ津波避難ビルが写っている。
こうしたものの存在からも一帯の低平な土地が伺えるだろう。奥に小高い山は見えているが、緊急時に避難するには少し遠い距離である。



そんな旧県道を進むと、1本の橋が現われた。
中央が盛り上がった山なりの橋だが、前後の道より広い2車線分の道幅があり、見るからに古くはない。渡った先に家並みが続いており、目指す県道279号の起点はその辺にあるはずだ。

チェンジ後の画像は、橋の上から撮影した甲殿川の上流方向の眺め。河口に近い非常に穏やかな流れである。右に直前の画像にも写っていた津波避難ビルが見えるが、同じ形のものが奥にもう一つ見えている。甲殿川は別名を派川甲殿川(はせんこうどのがわ)といい、本流である新川川から分流して海へ注ぐまでのわずか1.5kmほどの川である。当地は発達した砂丘によって河川の排水が困難な地形であるため、昔から洪水に苦しめられてきたという。

特に古くもなく、狭くもない普通の橋だ。さっさと渡って目当ての県道へ、と思ったのだが、ん? ナンダレコハ。




鋼鉄製の欄干に全く似つかわしくない、いかにも古色を帯びた複雑な造形のコンクリート製親柱が、ちょこんと橋の四隅に鎮座していたのである。
なるほど、旧橋の親柱だけを架け替え時に再利用したんだろう。正直不格好ではあるが、古い橋への愛着が感じられて好きだ。
でもここにはもう一つ、古い親柱の再利用がもたらした奇妙な光景があった。

画像をよく見て欲しい。
この親柱には、ほぼ同じ内容の銘板が2枚取り付けられている。

おそらく下に付いているのが旧橋時代の銘板だろう。「すみよ志はし」と変体仮名混じりで書かれている。対して上の銘板には「すみよしばし」と、間違っていたら申し訳ないが、近隣の小学生に揮毫してもらったような素朴な字体で書いてあって、現代では「はし」から「ばし」へ川も濁ってしまったなどというのは重箱の隅突きな話だが、とにかくこの1本の親柱に新旧銘板が併存している状況が、実は残り3本の親柱でも同様に行われていた。



新: 「住吉橋」
旧: 「住吉橋」
新: 「新川川」
旧: 「昭和十一年三月架設」
新: 「平成15年5月完成」
旧: 「昭和十一年三月架設」


橋を渡っても大字レベル地名は甲殿ままだが、浜から南へ地区名が変わる。
旧県道は再び狭まり、集落へ入っていく。
この集落は背後に山を負っており、津波避難ビルを必要としないようだ。

前説に書いたとおり、この探索は極めて純度の高い行き当たりばったり、咄嗟の思いつきで行っているし、このエリアへの土地鑑も全くない。生まれて初めて高知市を訪れたその日の探索である。当然、次のカーブを曲がった先がどうなっているか分からないが、地図と照らし合わせて分かることは、そこにお目当ての県道279号の起点があるだろうということだった。

さあ、現われよ! そして私をもう少しだけ楽しませてくれ!




17:18 《現在地》

バァーン!

……うん。 なるほどね。

こいつは、なかなか強烈と言っていいんじゃないだろうか。
どんな地味な県道にもそれくらいはあったりする、いわゆる“卒塔婆標識”すらないので、よほど念入りに地図を見ていないと、ここが県道の起点だとは分からない。
というか、今いる道は県道の中でも格上の主要地方道であり、そこから格下の一般県道が分岐するという場面なのだが、どちらも県道としての存在感は皆無である。前者は、県道の認定は継続しているといっても旧道なので、まだ分かるのだが……。



主要地方道で井戸端会議に花を咲かせる婦人たちの目の前で、MTBに跨がった怪しいオヤジが、スマホの地図アプリを盛んに確認しながら、今どき首から提げる人も減ってきたようなデカイ一眼レフカメラでパシャパシャと路地を撮影する姿は、いささか危険を感じさせるものがあったかも知れない。しかもその表情はえらくニヤついているんであるから…。

楽しいんだもん、仕方がないよね!

というわけで、ここが県道279号甲殿弘岡上線の起点である。

オブローダー的には、何か少しくらいは県道を感じさせるアイテムがあった方がポイントは高いのだが、マジで何もない、ただの小路の入口だった。
とはいえ、この道路からしかアクセス出来ない住居が沢山あるので、当然日常的な利用者がいる。
私は自転車なので対向車が来ても何とか退避できるので気楽だが、この先が分からぬ状況で自動車を乗り入れるとしたら、勇気が要るだろう。



う〜〜〜ん! 初っ端から乗用車はギリギリの強烈な狭さだ!

同じ狭さでも待避所が頻繁にあるとかならいいのだが、左右とも年季の入った密集住宅地のため、そういう場所もない。
左右に直角に分岐する路地もいくつかあるものの、角が狭すぎて乗用車は曲がることも出来ないはずだ。バイクや、軽トラまではギリギリ通れるのだろうが。

チェンジ後の画像は、起点から100mほど進んだ場面だ。
相変わらず逃げ場がない狭さが続いているし、民家の外壁や塀のため見通しも悪い。




起点から150mの位置では、左の山が道のすぐそばまで迫ってきて、そこにブラインドのカーブを作っていた。
ここは一応、手前の民家の敷地を借りればm車の行き違いが出来るのは救いだが…。

なお、高知県内全般について感じたことだが、こうした古い街角には多くのヌコが棲息していた。
明らかに秋田県より路地ヌコの数が多かった。しかもその多くが人慣れしていて、この画像の個体も私が自転車で県道を通るのを塀の上から悠々と観察していた。このくらい道が狭いと、車にひかれる心配は少なさそうである。



起点から200m付近は、左の山の一番出っ張ったところを、まるで海の岬を回るような雰囲気で、狭い道が回り込む。
これを“海の岬”と表現したのは、自然の小さな磐座に小社が安座されている姿が、いかにもそのように思えたからだ。

しかし実際ここは大昔、海ではないけれど、海に極めて近い新川川に突き出したような岬だった可能性がある。
というのも、史料によると、弥生時代頃まで新川川と甲殿川は、四国第三の大河川である仁淀川の自然分流として今よりも遙かに多くの水を湛えていたと考えられているようだ。また、江戸時代初期には新川川から浦戸湾に通じる運河(現在の新川川本流)が開削され、この一帯は高知城下への舟運を支える河岸としても賑わったというのだ。

この道の佇まいや周辺の街並みから感じられる歴史の深さには、当然に理由があるのだろう。そしてそういう歴史の入り組んだ土地が型どおりの道路整備の障害になりやすいことも、世の常と思う。



17:21 《現在地》

起点から約400m(自転車の所要時間約3分)で、今回紹介したい激狭区間の概ね中間地点に辿り着いた。
甲殿の中における小地名が、これまでは南だったが、この辺りは北坊といい、前述の“岬のようなところ”を境に、これらの地区は対になっている。

起点からここまではほぼ一本道だったが(乗用車が出入り出来ないような路地は沢山あった)、ここで初めて分岐らしい分岐がある。
しかもこの分岐を前に、起点から県道を律儀に辿ってきたドライバーを相手にしているとしか思えない、正規デザインの案内標識が設置されている。そしてそこには、この県道の沿線で唯一の全国区的目的地である種間寺ついて、「種間寺→」の表示があるが、ズバリ県道の順路は「←」である(苦笑)。

なお、この案内標識の支柱には、高知県が管理していることを示すステッカーが貼ってあり、ここが県の管理する道路であることを白状していた。やっぱり県道ナンスねぇ…(ニヤニヤ)。



で、案内標識によって案内されている道の様子は、ご覧のようなものだ。
やや白線がくたびれてはいるものの、紛れもない2車線道路である。だがこれは県道ではなく、(おそらく)農道である。そして事実上の県道の迂回路、代替路として機能している道の一つである。わざわざ集落内を通りたいという拘りがなければ、こうした通りやすい農道や市道が周囲に沢山あるので、それを使って労せず種間寺へ行くことはできる。

県道の起点からここまで、敢えてこの県道を辿って種間寺を目指そうという、そんな県道殉教精神豊富なドライバーを相手にしてもなお、「この先は迂回しておけ」と県に言わしめるほどの道が、この先にあるのだろうか…。




笑った(笑)。

件の農道側から見た県道は、こんなにショボい。

2車線道路の終わりを掠めながら、折れて奥へ逃げていく県道。
そんなに広い道が嫌いか。そんなに集落内に籠もりたいか。
このちぐはぐな道のつながり方は、なかなかインパクトがあると思う。



というわけで、案内標識の矢印とは反対へ、狭隘区間の後半戦へ行ってみよう!

まず現われたのは、通常の側溝よりだいぶ存在感が大きな路傍の水路だ。
しかもその水路が、奥の方でググッと道幅を狭めるようにして寄っている。
蓋さえしてあれば、この狭さでも何も心配はないのだが、側溝並に無防備な開渠なので、ちょっとこれは(自動車だったら)脱輪が怖い状況だ。




敢えて蓋をしないことで、ドライバーに試練を与えてくるスタイル。
路上に刻まれたタイヤ痕が道幅ギリギリであることが、この道の狭隘を雄弁に物語っている。
通れるか、通れないかと問われれば、通れるが、通りたいかと問われれば、私はNOだ。

しかもその行き着き先が、どちらへ行くにも直角折れ必須の丁字路なのも嫌なところで…。




17:22 《現在地》

突き当たりの丁字路。
特に案内的なものはないが、自動車の轍がいくらか多く刻まれていて、心持ち幅が広い右の道が県道の正解だ。
土地に不案内なドライバーが、うっかりここへ入り込むなんてことは、あまりないことだと思うが、一応間違って左の道を選んでしまった人のために――

(チェンジ後の画像)
左の道にはこんな珍しい道路標示(正確には法定外表示)が、狭すぎる道幅いっぱいに書かれていて警告を発してくれるのは親切だ。
つうか、狭すぎて車が通れない部分の用水路にはこんな蓋をしているのだから、ここ以外の区間も念のため蓋をしたら通りやすいのに…、敢えてそれはしないスパルタさが好き。



はい、こちらが正解の県道ルートです。

……が、相変わらずの狭さ。
この区間は、起点の辺りほど民家で窮屈な感じはしないのだが、代わりにずっと片側に寄り添う水路が、気の抜けない狭さおよび対向車との離合困難を演出している。
いぶし銀の街並みをひっそりとすり抜けていく、まさに忍びの県道、そんな印象。

(チェンジ後の画像)
用水路に沿ったカーブの鋭角な内角、よほど脱輪してしまう車が多かったのだろう。ごくごく最小限度、鉄板で道幅の拡幅が行われていた。
もっと広く蓋をしてほしいと思うのは、甘えなんだろう。
特にこの区間、車両サイズに関わる通行規制は行われていないが、事実上、通ることができない車は沢山ある。いわゆる大型車だけではない。




起点から約700m続く一連の狭隘区間の終わりが、近づいてきた。
最後まで水路と仲良く、離合困難な駐車余地皆無のほぼ一本道だ。
終盤は錆びたトタン壁の建物の脇をいくつもすり抜けていく。奥に見える建物の先がゴールだった。



起点から約700m、自転車でわずか6分にて、狭隘区間の終わりに辿り着いた。
先ほど【分岐した】2車線の農道から続いている1.5車線の道路が、県道の進路を争奪するような感じで迎えに来た。

県道でなければ、まあどこにでもあるような狭い路地だし、県道であるとしても、そのことをアピールするものが特にないので、総じて本当に地味な区間だったと思うが、スキマ時間の思いつきで探索した私にとっては、これでも十分に有意義と思える成果だった。
そう満足しそうになっていた私だが、この道最大の驚きは最後の最後、ここを出た瞬間の振り向きざまに待ち受けていた!



17:24 《現在地》

こういうの、たまに見る光景ではあるが…

激狭の右の道が県道だ。

左の農道とみられる道に、完全に負けている。

で、最後の驚きというのは――

思いがけず存在していた、青看(案内標識)



!!!

一部がガムテで隠されていたこと!

めっちゃすっげー久々に見た…、ガムテ貼り青看の姿を……。
平成18(2006)年に福島県の某県道で見て以来じゃないかと思う。

青看は、いわば道路の“インターフェイス”である。そこにガムテを使っていることがまずイレギュラーだ。
普通、修正する場合は、ちゃんとしたそれ用のシール材を使って、違和感が少なくなるように行うものだ。
ガムテ修正は、はっきりいって見栄えが最悪であり、もはや廃道なんじゃないかと疑うレベルのものである。

それに、青看は県道に限らず存在する道路標識の一つだが、外部者の通行があまり想定されないようなところに、
わざわざ大きなコストを掛けて設置されたりはしないはず。状況的に、ここが県道だからこそ設置されたと考えられた。
県道利用者の目に等しく触れる存在として“ガムテ青看”が容認されている状況が、この県道の侘しさを象徴していた。
(以上、日本ガムテ青看収集委員会会長の談話より)



最後に、ガムテで青看の何を隠そうとしていたかについてだが、

目の前の分岐の右の道、すなわち県道は「幅員減少」であり(←ここまでは隠されていない)、
通り抜け困難であるという内容が隠されていた。

青看全体としてみれば、隠されている部分の有無はそれほど重要ではなく、
ここまで来た県道利用者の多くがこの青看をみて、行先に「幅員減少」しか描かれておらず、
県道の表示もされていない右の道を選ぶことはなく、ちゃんとした行先表示があり、
まともな太さで描かれた左の道を自然と選ぶことだろう。というか青看がなくてもたぶんそうする。

敢えて「通り抜け困難」を隠している理由は不明だ。
別にこの程度は困難ではない!と、設置者である県が思い直したのだろうか。
さすがに住民の誰かが勝手に青看の一部をガムテで隠したままというわけではないだろう。
仮にそうだとしても、それを県は黙認している状況だ。この場所はまずまず目に付くのだから。




……というわけで、久々に強烈なものを見たよ……。

まだ日本には生き残っていたか、ガムテ青看…!

高知県道279号甲殿弘岡上線、恐ろしいッ!

(なお、この区間を抜けると県道は穏当な1.5車線路となり、そこに起点以来初めての“ヘキサ”もあった)

本探索、これにて終了。



この道について、簡単な机上調査で分かったことはほとんどない。
現在の道路管理者である高知県の県議会録や、地元である高知市の市議会録を検索可能な範囲で調べても、今回の区間について何か議論されている様子はなかった。
また『春野町史』を読んだが、この県道の存在について一切の言及は見つけられなかった。

右図は、明治39(1906)年の地形図と、現在の地理院地図の比較である。
これらを見ると、今回探索したルート(=県道)は、概ね明治39年の地形図に「里道」として表現されていることが分かった。
さらに子細にみると、里道の中で第二位の「聯(連)路」でありかつ「荷車を通せざる部」として表現されていた。
(聯路は、「隣接する市町村の主要な居住地を連絡する道路」として定義された、概ね旧道路法における「郡道」相当の道路、現在の道路法に当てはめるなら「一般県道」くらいの格を持った道路である)

この県道は、甲殿地区の生活道路として長い歴史を持っていることは間違いない。
それが現在の県道認定へと至った経過や、県道認定された時期については、まだ調べが及んでいない。

歴史ある古い道が古い姿のまま県道となり、それがやがて県道ではない別の道(今回は農道)として実質的に整備された結果、県道は古い姿のままに残る。
全国津々浦々に無数の激狭県道を存在させている、この定番パターンがここにもあったことは想像に難くない。
そしてそんな見過ごされてきた県道の誇らしい恥部として、あのガムテ貼りの青看は出現しているのである。このままが許されるならば、これからもぜひ大切にしてほしい、我が国道路風景の一局部であった。



完結


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