ミニレポート第282回 兵庫県道524号才金宗行線 宗行不通区 後編

所在地 兵庫県佐用町
探索日 2024.03.02
公開日 2024.04.30

 続・思わず御一行様が出現した小さな峠


2024/3/2 15:50 《現在地》

無名の峠の頂上の傍らに建つ、遠目には東屋にも見えた建物の正体は、石仏を本尊として安置する無銘の小さなお堂であった。

峠の頂上やその周辺に石仏が安置されていることは、往来安全への祈願や、難路に力尽きた人畜供養などの目的からしばしば見られるが、それがお堂によって風雨より守られているというのは上等な計らいであって、廃道ではまず見られないことである。
こういう木造のお堂が健在であること自体が、近隣住民による熱心な手入れが生きていることを教えている。
当然、これまで何度も建物は更新されてきたのであろう。お堂の傍らに、旧堂の名残らしき屋根瓦が数枚置かれているのを見た。

自動車交通全盛のこの時代にあって、それを容れない峠が充分に活躍出来ている様子はないが、それでも手入れを欠かされないほど愛着を持たれているのだと私は判断した。
なおこのお堂の存在は、地理院地図などには反映されていない。



お堂にはまだ新しい風合いがあり、3尊の石仏が安置されている台座や献花台も同様であった。

3尊は大きさも造形もだいぶ異なっているが、いずれも座禅を組んだ石仏である。
一番小ぶりな右の石仏の台座正面には「弘法大師」と大きく刻まれているほか、右側面に「昭和十二年三月」、左側面に「建立者福澤●● 加古原正」の文字が読み取れた。先ほど通過した大塚集落を含む福澤地区住民の建立であろう。ちなみに昭和30年まで福澤は佐用郡江川村の大字だった。一方、これから下る宗行は同年まで佐用郡長谷村の大字で、現在では佐用町内の大字境でしかないここが両村の境であった。

中央の最も大きな石仏には文字が見られず建立年その他詳細不明。
左の石仏の台座には「享保十六年」の文字が刻まれており、江戸時代中期の享保16(1731)年の建立であるようだ。その割に原形を良く留めているように見えるのは、代々お堂が維持されてきたお陰なのかも知れない。
それぞれの石仏に深い謂われがあるのだろうが、通りがかりの私には解き明かしがたい。
解かずとも読み取れるのは、峠と共に石仏を守ってきた人々の変わらぬ敬愛だ。



私の旅はだいたいが慌ただしいが、ここでは珍しくリラックスした心境となり、普段以上に神妙に石仏と向き合ったり、お堂の窓?から時代劇さながらの坂道を見下ろしたりした。

5分後の15:55、峠を出て宗行へ下り始める。



峠頂上にある幅3〜4mのやや広い切り通しだが、宗行側へ進もうとすると、大量の倒木に行く手を阻まれた。
しかも最近倒れたもののようには見えないから、だいぶ長く「そのまま」らしい。
この一事からも、お堂をどちらの集落が守っていたか窺える気がする。宗行はもう、この峠への興味を失ってしまっているかもしれない。
(ある峠に対する興味が峠の両側で異なることは珍しくない。そのことはしばしば、峠道改良への障害になる)



しかし、宗行側は福澤側にも増して峠の近くまで耕作の痕跡が及んでいた。
ほぼ切り通しの下にまで段々の整地が行われており、水をどう確保していたのか不思議だが、田なり畑なりが営まれていたようだ。
現在ではその全てがスギ林になっており、太いものも細いものも混在して生えているが、残念ながら手入れは行届いておらず、放置された倒木が多く道を阻害している。
とはいえ下り坂なので、雑に自転車を乗り降りしながらハイペースに前進した。



おっ! 石垣がある。

道はスギ林を出ると1本の水涸れした谷の縁に取り付いた。
地図を見ても、あとはこの谷に沿って真っ直ぐ下るだけでゴールの宗行集落へ達するようだ。
谷沿いに出てすぐの所に、苔生した石垣が路肩を守っているのを見つけた。

そしてこの直後、思いがけない景色があった。
それは地理院地図にはしっかりと描かれていたのだが、思いのほか存在感が大きく、印象的な場面となった。

現れたのは…



16:00 《現在地》

巨大な砂防ダム。

水涸れの谷を鉄壁に塞ぐ姿は、昼行灯の振る舞いを思わせるが、活躍せずに済むならそれに越したことがないものである。
まだ新しい様子なので、建造後、幸いにして未だ、本格的に活躍するだけの土砂流出が起きていないのだろう。
こんなに堆砂していない空の砂防ダムを目にすることは稀なことだ。



道は砂防ダムの堤端を掠めて越える。
ダム建造以前の道がどこにあったかは痕跡がなく分からなかったが、素直にもっと谷底に近いところを通っていた可能性もありそうだ。
下手したら道路台帳上の県道は無造作に砂防ダムで断ち切られたままだったりするかもしれない。こんな県道で律儀に図面の更新が行われているものだろうか。
まあ、そんなことを私が心配しても仕方がないが。



堤端を越えると、一気に眼下が開けた。
初めて見る佐用川の谷と宗行の集落がそこにあった。
奥に見える大きな集落は、対岸の口長谷地区殿町の集落で、宗行は手前の谷口にある方だ。
というか、この県道の終点である国道との丁字路交差点が、ここからはっきり見下ろせた。
あそこまで辿り着けば、ゴールである。

が、ここからあのゴールまで直線距離はたった200mだが、落差が50mもある。
砂防ダムが“溜め込んだ”のは土砂だけではなく、峠道が順当に手放すべき高度も、ここまで溜めてしまった。
そしてその結果が……



殺人級の急勾配だった!

ここが県道として正しく認定されているのかは正直不明だが(地理院地図はここを県道としている)、エンジン付き車輌の限界を試す急坂で、溜め込んだ高度を一気に放出する勢いをもってダム直下へ下る。
一応舗装はされているが、道幅は1.8mしかなく、路面に大量の瓦礫が浮いているので、車と名のつくあらゆるものからは下車して進まないと危険だ。自転車など絶対に乗ってはいけない。私は危うく滑落“死”かけた。故意に転倒させることでなんとか脱出したが……。



なお、スマホのジャイロセンサーによる簡易計測で、勾配は最大30%を表示した。
坂道の異なる点で3回計って、それぞれ30、27、29%という結果を得た。
あの有名な“暗峠”級の激坂であった。


堤体の下流側壁面に、お馴染みの銘板が取り付けられていた。それも2枚。
案の定まだ新しいダムであり、平成24(2012)年の完成であった。施工者は県。県道管理者と同一だ。
そして、地図では無名であるこの沢の名前も初めて判明。峠谷川というらしい。
こんな地名が付けられるくらいには、宗行側でも存在感ある峠だったのだろうな。


16:15 《現在地》

激坂を下りきると同時に防獣柵が行く手を阻んだ(写真は通過後に振り返って撮影)。
ブレーキが利かない状態で突っ込むと簡単に串刺しになるので注意だ。

で、この道がもうほとんど歩かれていない事実が、柵の状態で改めて発覚した。
開閉できる構造になっているのだが、開閉部が大量の瓦礫に埋れ、まともに開かないのである。
そのため、腕力で扉を捻って強引に隙間を作って通過せざるを得なかったが、チェンジ後の画像の通り、自転車の通過にはなかなか手こずった。

何とか通過し、獣界から人界へ復帰。これで私が宗行だ。



使われていなさそうな耕地があり、墓地があり、また耕地がある。
道はそれらを脇目に急勾配で下っており、幅も狭い。
数年前は砂防ダムの工事でひとしきり賑わったことだろうが、峠道としての賑わいが最後にあったのは、いつ頃なのだろうか。
そして、一連の県道の中でこの小さな峠越えの区間だけが車道化に恵まれなかったのは、いかなる理由であったろうか。

……そんなことを考えながら、進んでいくと……。



16:25 《現在地》

唐突に、“いい道”が、迎えに来た。



“いい道”、これだけ。

奥に見える突き当たりが、この県道才金宗行線の終点であり、もう200mしかない。

地理院地図だとこの区間は軽車道の表現になっているが、実際は2車線幅がある立派な舗装路だ。(スーパーマップルなんて最後まで徒歩道表現だし)
おそらくこの部分だけ集落内での利用を見越して県道並の道路を整備したが、その先の山越えには着手されなかったパターンの一種の未成道なんだと思う。ここで行き止まりが前提ならば、この道幅は不要であろう。
ブツッとした末端の様子も未成道らしいし、よく路面を見ると白線があったのも分かる。すっかり消えてしまっている。30年は更新されて無さそうな雰囲気だ。

役立ちようもないほど小さなこのミニ改良区間だが、県道らしいアイテムが全く見られなかった一連の峠越え区間の中で唯一、ここにも県道として真っ当に整備される可能性があったことを感じさせるものである。こういう“匂わせ”は、ご老公も大好きよ。



こんな入口だけで、建設が止まってしまったんだねぇ……。
砂防ダムが谷を塞ぐように建設されたことで、ますますこの道を延ばすことが難しくなってしまった感じがする。



16:26 《現在地》

県道終点、到達!

突き当たりは、赤穂市と鳥取市を結ぶ陰陽連絡国道の一つ、国道373号。かつての因幡街道である。
左折すると同街道を代表する宿場風景の残る平福宿まで約1km、右折すると佐用町の中心地区まで約4kmである。
後に見えているのは大正時代に計画され、平成6年にやっと開業した智頭急行の線路だ。この宗行集落に駅でも作られていたら、峠の利用はもっと多くなったかも知れないが、駅の建設はなく、そもそも鉄道自体の開業が、この峠の盛衰と関わるにはちょっと遅すぎたようだ。



国道側より県道を撮影。
な〜んにもない。県道であることを示すアイテム。
この分岐に県道を感じる人は、まずいないと思う。

県道を覗き込むと、行き止まりの奥に壁のような砂防ダムが見え、そのさらに背後に峠のVサインが見えた。
距離は近いが、整備の道は果てしなく遠そうな、いまやほとんど地図上だけの県道であった。



実は壮大な構想もあった? 〜ミニ机上調査編〜

全長約9.6kmの県道才金宗行の終点に接する、約1.8kmの自動車交通不能区間。
廃道探索としては自転車同伴で越えられる程度の楽な部類だったが、峠のお堂や殺人級の急坂を生んでしまった砂防ダムの存在など、印象的な場面もあった。
そして全体を通じて言えることがもう一つある。

この区間、ただの一度も「通行止」を示されなかった。

現地には、通行止はおろか、自動車交通不能区間であることの明示もなく、これはつまり法的には自動車で通過しても問題ないということだ。
現状、倒木の存在や、開きづらい防獣ネットなど、車両交通への物理的障害はあるが、制度的障害はないのである。
ちなみに道幅も全体的に2m程度は確保されているから、路面整備さえすれば、軽トラやジムニークラスの車なら通過できると思う。【ここ】だけは農道へ迂回)

というわけで、誰でも大手を振って通り抜けられるところにも秘かな特徴があった今回の道だが、どんな過去を持っているのか机上調査を試みた。
しかし、この路線自体がマイナーであるようで、多くのヒットは望めなかった。あまり成果は多くないが、少しお付き合いいただきたい。



@
地理院地図(現在)
A
昭和39(1964)年
B
昭和25(1950)年

まずはいつもの手筈で、歴代3世代の地形図を比較してみる。

全部の版に、この峠道は描かれている。
福澤集落内の経路が少し変化しているようにも見えるが、峠周辺は半世紀以上変化していないように見える。

Aの昭和39(1964)年版では、この区間の全体が「幅員1.5〜2.5mの道路」を示す実線で表現されているのは特筆すべき点だ。
素直に受け取れば、この当時は最低限度の道幅を持った車道として健在であったことになる。
そして実際その通りなのであろう。
前述通り、現状においても路面整備さえすれば軽車両が通れそうだと感じたのである。以前は通れていたものと考える。

さらに遡って戦後間もないB昭和25(1950)年版になると、「町村道(連路)」+「荷車を通せざる区間」の表現となり、自動車が通れる道ではなさそうだ。
道自体の位置は全く変わっていないので、当時も無理をすれば通れたかも知れないが、そこまで自動車も普及していなかったであろう。

また視点を変えて、町村という枠組みに注目してみると、昭和30(1955)年に佐用(さよ)町(第一次)と周辺の江川、長谷、平福、石井の4村が合併して、佐用(さよう)町(第二次)となる出来事があった。(現在の佐用町は平成17(2005)年に旧佐用(さよ)郡全域が合併して生じた佐用(さよう)町(第三次)である)

本文中でも触れたが、この合併まで峠道は江川村と長谷村を結ぶ越境路線であった。
両村は佐用町を扇の要の位置に置いて山に隔てられており、直接連絡する近道としてこの峠道があったのだ。
これらの村が合併しようとする動きの中で、必然的に各村の結びつきを強化しようとする交通改良の需要があり、その文脈において今回の道に関する数少ない文献上での言及を発見した。

昭和57(1982)年に佐用町が刊行した『佐用町誌下巻』には、昭和30年2月に合併直前の各町村が新町に対して要望した項目の一覧が記載されていた。
例えば長谷村では要望23項目のうち道路(農道含む)への要望が9項目、江川村では35項目のうち実に25項目が道路関連(橋、農道含む)であったから、道路整備にたいする需要の大きさが窺えるのであるが、このうち江川村の要望事項に次の内容を見つけた。


6、現長谷村宗行より江川村福沢――西河内――乙大木谷を経て幕山村に通ずる山崎――江見線の県道編入方促進運動をされたい。

7、乙大木谷線の道路を改修されたい。

8、乙大木谷――幕山村に通ずる未改修地を改修されたい。

9、福沢――宗行線を道路改修されたい。

『佐用町誌下巻』より

ここに要望されている4項目は全て、後の県道才金宗行線と関係している。
特に6番と9番の項目は、今回探索した区間に直接言及したもので、まとめると、峠越えを改修したうえで、“県道山崎江見線”への昇格運動をしてほしいということになる。

この初めて目にする“県道山崎江見線”については後述するが、旧江川村の目線に立ってこれらの要望の背景を想像してみると、それまで隣接しながら山に阻まれて直接行き来が出来なかった東西の隣接村(長谷村、幕山村)への連絡路を欲したということだと思う。またこれは新たな佐用町内の環状線として機能する位置であったと見ることも出来るだろう。

しかしこの一方で、同じ合併の当事者である長谷村の要望項目に、この路線に関係する内容は見られなかった。
これは沈黙の背景を勝手に想像するような恣意的な見方にはなってしまうが、やはり宗行側の峠に対する意識は、福沢側と温度差があったということではないだろうか。
そしてそのことが最終的にこの峠の整備に暗い影を落とした……のかもしれない。

町誌には、合併直後にまとめられた新町建設計画が紹介されており、そこに「道路・橋・トンネルその他土木施設の整備に関する事項」として、県道関係、町村道関係、橋関係それぞれの新規事業が列記されているのだが、宗行と福沢を結ぶ路線は採択されていない……。
また、その後の道路整備に関する文献的な記述も、一切見つけられなかった。

県道才金宗行線の認定は、この合併からだいぶ遅れて、昭和53(1978)年前後のことであるとみられる。
根拠としては、兵庫県土木部が発行した『土木部要覧 昭和53年度』の路線一覧に県道524号として才金宗行線(全長9694m)が記載されているが、『同 昭和51年度』では当該路線番号は空いていて路線名がなかった。

また、今回探索区間内で唯一、県道の新設区間らしい雰囲気があった宗行での工事だが、航空写真を見較べたところ、昭和51年当時は影も形もなく、平成2年には現状と同じ道が出来上がっている様子だった。この時期に僅かながら県道整備への動きがあったようだが、文献的な情報は未発見である。


ところで、先ほど紹介した合併直前の江川村の要望項目に、「山崎江見線の県道編入方促進運動をされたい」として言及されていた道路だが、上の図に示したような経路で現在の宍粟市山崎と岡山県美作市江見を結ぶ、全長45km前後の壮大な県道が構想されていたようである。

現在の県道に当てはめると、兵庫県道53号、443号、そして524号(図の青線部分)、365号で越県していくもので、国道29号と179号を広域的に結ぶ。
今日までこれらを結ぶ1本の県道は実現していないが、偶然なのか関係があるのか、全体的に中国自動車道(開通は昭和50年代)が近い経路である。
ちなみに、この経路のうち山崎から平福までは大正12(1923)年に早々と県道昇格を果たしており(県道平福山崎線)、江川村が夢見た山崎江見線は、これを自村内まで延長し、中国地方と近畿地方を結ぶ新たな幹線の導入に地域の発展を期待したのかもしれない。

だが結局この長大な構想のうち、未だに宗行と福沢の僅か1.8kmだけが、自動車交通不能区間のまま、水戸黄門の世界観に取り残されている。
それでも福沢の人々は峠のお堂を守り続けて、なんとも大切にされている峠なのだった。

ところで、地図や現地では明らかにならなかったこの小さな峠の名前だが、『佐用町誌上巻』にて、福沢地区の地籍を解説するなかで僅か一文、「宗行へ越える大塚峠の名称をつけられている」との記述があったので、峠名は大塚峠であろう。


ふぉっふぉっふぉ、これにて




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