
それでは、この橋の机上調査を始めよう。
と、その前に本編の前提として、「本当にこのような半円断面の箱桁」は珍しい橋なのかということについて、どうやら、確かに珍しい型式で間違いなさそうだ。
というのも、本編公開後の読者さまコメントやSNSへのリプライで同型式の橋を知っているという報告を待ち構えていたのだが、それが今のところ全くないのである。引続きご存知の方からのコメントを全力で待機中であるが、珍しい型式であることは確かとみていいだろう。
そのうえで、今回の机上調査の大きなネックは、現地でこの橋の名前を知ることができなかったことだ。
橋桁に取り付けられた製造銘板のおかげで、竣工年や建造者、発注者が分かったことは大きな収穫だったが、橋名が分からないのは大きな傷手。そして残念ながら、今回の机上調査によっても、橋名は分からず仕舞いであった。
本橋が現役だった当時の宮古市ないし川井村の「道路台帳」を確認できれば橋名が記載されているはずだが、そのためにはまず道路としての路線名を知る必要があり、これも明らかでない。あるいは、「住宅地図」のような大縮尺の地図には橋名が掲載されている可能性があると思う。
橋名が分からない困難な条件の中で、この橋についての情報を得る手掛りを求め、桁の製造者である北日本機械株式会社のサイトを訪れてみた。
同社は岩手県盛岡市に本社を置いており、サイトの会社概要によると、主な営業内容は「橋梁・水門・鋼製エレメント・除塵機・水圧鉄管・各種プラントその他鋼構造物設計・製作・施工・メンテナンス
」とある。さらに沿革を見ると、昭和12(1937)年に岩手鉄工所として設立された当初は鉱山機械の製作を行っていたが、昭和25(1950)年に現在の社名となり、昭和28(1953)年に同社として第一号となる橋梁を製造して以来、中堅橋梁メーカーとしても地位を確立している。
サイトのトップページに、施工マップという同社が手がけた橋梁や水門などの位置を示したものがあり、宮古市周辺の道路橋も複数記載されているが、いずれも平成以降の新しい橋であり、今回の橋は掲載されていなかった。おそらく古い橋は掲載されていないのだろう。
さらに同サイトに掲載されている創業からの歩みをまとめた冊子「〜80年間の歩み〜」によって、より詳しく事業の沿革を知ることが出来た。ここには同社が初期に手がけた橋についてもいくつか記載があり、上述した同社第一号の橋梁というのは、昭和28年にアイオン台風の復旧工事として国鉄山田線の閉伊川橋梁に附属する歩道橋を製作したことであり、単独の橋梁の建造は昭和33(1958)年からであること(橋名は不明)や、昭和33年から44年までの間に211橋という多数の橋を受注していることも分かった。
現地の製造銘板によって今回の橋の竣工年は昭和42(1967)年となっていたから、この211橋には本橋が含まれているに違いない。
その後も多数の橋を建設しているが、昭和51(1976)年完成の昇仙橋(岩手県一関市のここに架かっていた道路橋だが岩手県内陸地震で落橋ののち架け替えられ現存しない)を写真付きで紹介している。これ以前に建造された橋の多くは、(今回の橋もそうだが)歩道橋を含む小幅員のものが多かったようである。だが、この昇仙橋以降は大規模な道路橋の建造を多く手がるようになる。
結局、この冊子の詳細な年表にも今回の橋についての直接の記述は見つけられなかったが、本橋の半円断面の箱桁という独特な形状と関係がありそうな事柄に気付いた。
それは……
同社が“鉄管水路”を多数施工していたという事実!
昭和28(1953)年に秋田県の小坂鉱業所発電所へ水圧鉄管を納入したことを皮切りに、31年には青森県の東北電力岩谷沢発電所へのサイフォン管納入、その後も34年の岩洞ダム水圧鉄管や濁川サイフォン管路、35年の蔦発電所水圧鉄管などを次々と納入し、同社の昭和30年代は、東北地方各地に続々と新設された水力発電所への水圧鉄管納入と共にあったのである。
そしてその後も同社は発電用に限らず多数の水管橋を手がけている。
この事実と、今回の橋の“まるで半分にした水路管のような”箱桁形状の間には、間違いなく、技術的繋がりがありそうに思える。
そのことを明記した資料は見当らないが……。
鉱山機械の製造工場として昭和初期に創業した同社は、東北地方の産業の変化に歩調を合わせるように発電用水圧鉄管や水門、道路橋の建造を主力事業とすることで発展を続けた。
その歩みの途中で、同社の強みを活かした橋梁への新提案として、半円断面の箱桁橋というものを推し進めたシーンがあったのではないかと想像する。
そしてどのような経緯からからは分からないが、昭和42(1967)年の川井村はこれを受け入れ、同社が本橋を架設した。
ただ、残念ながら同社のこの新提案は、あまり広くは受け入れられなかったのではないだろうか。
だからこそ、今日この形状の橋は我々の周りにほとんど見られないのだろう。
あまりにマイナーなせいか、この形状の橋のメリットやデメリットについて技術的な言及も今のところ見つけられていない。
素人目にも、あの船底のように丸い形状は、洪水時に流水や流木が接触した際に衝撃を緩和し、橋が破壊されることを防止する効果がありそうに思える。
そして現状でも、本橋の洪水への高い抵抗力は示されていると思う。
おそらく本橋廃止の直接の原因となった2016年の台風10号では、架設から50年を経過した状況で欄干が破壊されるほどの洪水に遭いながら、桁自体は目に見えて壊れていないのである。もし普通の箱桁でも、同じ洪水に耐えられたかは気になるところ。
ただ、このような洪水への抵抗力という(ありそうな)メリットを相殺するようなデメリットもあったのだと思う。
その最大の問題は、半円形ゆえ幅員を大きく取ることが難しいことではないだろうか。
また、製造コストや運搬のコストも通常の鈑桁や箱桁より大きくなった可能性がある。
もしも大きなデメリットがないのであれば、我々の周りにはもっとこのような形状の人道橋や小型橋があっても良さそうなのである。
……以上、本橋に関する直接の記述は見つからなかったが、製造者の情報から特別な桁の形状が選ばれた事情を想像することが出来たという話である。
次の章では、歴代の地形図や航空写真を使って、本橋が利用されてきた状況について調査した。
“本橋”よりも8年古い昭和34(1959)年生まれの「桐内橋」

が、この先を述べる前に、今回の橋の直後に探索した桐内橋という隣接する別の橋についても簡単に紹介したい。
桐内橋は、今回の橋の300mほど下流に架かっており、市道繋桐内線に属している。
今回の橋が橋名も所属路線名も分からないのに比べれば遙かに恵まれた、現役の橋である。

こちらの桐内橋は、橋の長さこそ同じ3径間で、今回の橋とほぼ一緒だが、型式は下路曲弦トラスと全く違い、幅も大型車両が通れる1車線なのでだいぶ広い。
単純に橋としての規模を比較すれば、今回の橋より1世代は新しい橋に思えるし、実際かなり近い位置に隣接しているので、新旧橋の関係ではないかとの第一印象だった(今回の橋は「旧桐内橋」ではないかと思った)。
が、おそらく事実は異なっている。

というのも、この桐内橋には(市町村道には珍しい)立派な親柱と、凝ったデザインの銘板があり、そこに「昭和34年7月完工 青森営林局」と刻まれている。
桐内橋の竣工は、今回紹介の橋よりも8年も早かったのである。立派な橋が架かってから小さな橋が架かったわけで、単純な新旧道ではなかったことが分かる。
また、この橋は当初から市町村道だったわけではなく、架設当初は国有林林道だったことも分かる。
オマケに、(チェンジ後の画像のように)この橋の袂には赤く塗装された軽レール転用のガードレールがある。
国有林林道だったことと照らせば、これは10km圏内に昭和30年代まで存在していた薬師川林鉄などからの転用レールの可能性が極めて高い。林道繋がりというわけである。
以上が桐内橋の簡単な紹介である。
そのうえで、今回の橋とこの桐内橋の不思議な関係が読み取れる、歴代地形図の変遷(↓)を見て欲しい。
@ 地理院地図(現在) | ![]() |
---|---|
A 昭和54(1979)年 | |
B 昭和45(1970)年 | |
C 昭和27(1952)年 | |
D 大正5(1916)年 |
ここに新しいものから古いものまで順に5枚の地形図を比較する。
@は最新の地理院地図であり、既に通行止となっている今回の橋も上述した桐内橋も、それぞれが細い橋と太い橋として描かれている。
これらの2本の橋の変化を中心に見ていこう。
Aは昭和54(1979)年版で、@との大きな違いは国道のルートである。現在は市道である川沿いの蛇行する道路が国道として描かれているが、2本の橋については現在と同じ描かれ方をしている。
Bは昭和45(1970)年版で、2本の橋の描かれ方が逆転している。いずれも同じ位置に橋があるが、太さの表現が現状と逆だ。
ただ、現地の銘板から分かるそれぞれの橋の竣工年に照らせば、このBの時点では共に現在と同じ橋が架かっていたはずで、単純に地図の誤りに過ぎない可能性もある。
また、これらの橋からは少し離れるが、黄色い枠の位置に小中学校の記号があることにも注目したい。
Cは昭和27(1952)年版である。
この年代は、現在架かる2本の橋は共に架設前だが、地図上にはいずれも描かれている。
したがって、桐内橋も今回の橋も、それぞれ旧世代の橋があったことが窺える。
また、学校の記号の位置がBから変わり、今回の橋を渡った南の高い丘の上に描かれている。
したがってこの当時は、今回の橋の旧橋が通学路として利用されていたことも想像できる。
Dは大正5(1916)年で、この最古の地形図に描かれているのは、今回の橋の位置にあった橋だけで、桐内橋はまだなかったことが分かる。
この時点では繋と桐内方面を結ぶ点線道は今回の橋を経由しており、このように先代の橋以前にまで遡れば、今回の橋が桐内橋の旧橋であるというのも間違いではない。
D以降に、桐内方面への車道を整備する目的でCにある桐内橋の先代橋が架設されたのだろう。
以上のことをまとめると、今回の橋は、ほぼ同じ位置に架かっていたとみられる先代の橋まで遡れば、桐内橋に先駆けて桐内方面へ通じた重要橋であり、桐内橋の先代橋が架設された後も、生活路や通学路としての需要があったことが窺える。
しかし、その後は学校移転や廃校、住人の退転などにより、需要は減少していっただろう。

そしてもう一つ、歴代地形図からは窺い知れない突発的な出来事の存在が、右の航空写真の比較から読み取れる。
これは昭和42(1967)年版と昭和27(1952)年版の航空写真の比較である。
前者には、今回の橋(の竣工当年の姿)と桐内橋がどちらもはっきり見えている。
一方で、後者にはどちらの橋も全く見えないのである。
前述した歴代地形図Cと同じ年の写真だから、両方の橋の先代の橋が写っていて然るべきなのだが、なぜか全く見えない。
そしておそらくその理由は、昭和23(1948)年9月16日から17日にかけて列島を襲い、閉伊郡一帯に未曾有の大災害をもたらしたアイオン台風であったと思う。このときの閉伊川流域の被害は壊滅的なもので、川に架かる橋はことごとく流失したと伝わっている。(国鉄山田線は6年間も不通となり、沿線の林鉄も壊滅して一部はそのまま廃止された)
このアイオン台風によって、今回の橋も桐内橋も、それぞれの先代橋が流失したと考えられる。
そして、昭和34(1959)年にいち早く本復旧したのが、現在の桐内橋なのだろう。
対して、今回の橋は台風から19年も経過した昭和42(1967)年にやっと架けられており、この間はずっと本復旧がされていなかったのだと思う。
想像を交えながらだが、地形図や航空写真を使って本橋の歴史を検討したことで、小さな橋が歩んだ激動を垣間見た気がする。
少なくとも、桐内橋ともども未曾有の水害の経験より生まれてきた橋というのは間違いがなさそう。
ますます、北日本機械が本橋の型式を水害に強いものとして推した可能性が高まったと思う。
引続き、この型式の橋の目撃情報を募集している。
果たしてこれが日本唯一というほどに珍しいのか、あるいは少数ながらも類型のある橋なのか、とても興味がある。
そして、どちらかといえば後者であって欲しい。その方が、きっと面白い。