ミニレポート第290回 宮古市川井繋地区の珍しい廃橋

所在地 岩手県宮古市
探索日 2025.05.29
公開日 2025.06.16

 見過ごされた橋の真実に刮目する


《周辺地図(マピオン)》

岩手県宮古市の内陸部、平成の合併までは閉伊郡川井村であった北上高地の山深い渓谷を縫うように、同山域を単独で南北に縦断する唯一の国道340号が通っている。
かつては「日本のチベット」と呼ばれたほどに人口密度の低い地域で道路密度も少ないが、国道の整備は重点的に行われ、かつては蛇行する川に沿って迂回の大きかった道も、今日ではトンネルと橋を直線的に連ねる現代的なものへ変貌している。

隣の秋田県に住む私にとって、この辺りは比較的早くから旧道探索を開拓してきたエリアだが、写真も撮っていなかった初期のことはもはや忘れるしかない。先日、おそらく2度目であったと思うが、この辺りの旧道の一つを通ったところ、これまで意識に上がっていなかった奇妙な橋の存在に気付いたので、今回はこれを紹介したい。

具体的な地名は宮古市川井第6地割であるが、この地名だと分かりづらいと思うので、地理院地図にある昔からの集落名を使うと「繋(つなぎ)」という場所だ。
この区間の旧道は、昭和57(1982)年に現国道の繋トンネルと前後の橋を含む道が開通したことで国道から降格したが、現在も繋集落の生活道路として市道繋堂道線という名で供用が続いている。

今回紹介する橋は、この市道繋堂道線から分岐して小国川を渡っており、最新の地理院地図にも記載がある。
それではさっそく、発見の場面から。





2025/5/29 10:40 【現在地】

これが繋地区の旧道風景だ。
昭和50年代に国道から降格したが、その後もずっと生活道路として使われているから、状態は悪くない。
道幅も概ね2車線あるが、白線などは消えたままである。
ネックはとにかく現道に比べて道のりが長いことで、暇でなければ選ばないほうが無難だが、時間に追われないサイクリングなのであれば、車も少なくとてもオススメだ。古くからの暮らしと共に歩んできた車道の味を、川魚の宝庫である清流の風と共に、存分に味わえるだろう。

この写真の川に沿った緩やかな曲がり、その先に、今回の“ブツ”が見えてくる。



赤い橋が見えてきた。

これが今回の主役だが、この段階では別に、「ああ、地図にある橋だな」としか思っていなかった。

おそらく、この区間の旧道は2000年代初頭にもサイクリングで通っているが、写真がなく、この橋も目にはしていると思うが全く記憶になかった。
良く見るような桁橋であるから、印象に残らないのも不思議ではない。

だが、実はこの橋は……



この橋は……

(私は、この時点で橋の上の様子がおかしいことに始めて気付いた)

(この段階で“他のこと”に気付いた人がいたら、その慧眼を尊敬する)




10:42 《現在地》

廃橋であった。

遠目にも高欄が乱れているのが分かったが、その乱れ方の様相からして、間違いなく水害にやられている橋だ。

橋面の高さまで洪水が上がり、流木などで高欄が壊されたのだろう。
橋の構造自体が見た目で分かるほど歪んだりはしていないが、封鎖されていた。
高欄を立て直すだけでは修理困難なのか、それとも高欄を修理する工事さえ後手に回るほど予算が足りていないのか。

宮古市を襲った最近の大水害としては、令和元(2019)年10月の大雨災害や平成28(2016)年8月30日の台風10号が記憶に新しいが、後者は特に内陸部での水害が顕著で、隣接する岩泉町内で多くの犠牲者が出ている。閉伊川やその支流でも多数の床上浸水が記録されているので、本橋が被災して廃止された直接の原因は、平成28年台風10号だと思われる。
だとすると、それより前に旧道を通った時点では現役の橋で、私の目にはより留まりにくかったのではないだろうか。



橋は3径間で、地理院地図では対岸にも道があるように描かれているが、ここから見る限りは鬱蒼とした森にしか見えなかった。
また、対岸側でも此岸と同じようにバリケードで封鎖されているようだ。
そして、これは高欄と共に破壊され脱落されてしまったのだと思ったが、この橋にはいわゆる銘板がないし、親柱も見当らない。
だから、橋名が分からない。

なお、帰宅後にストリートビューで2014年5月時点の画像を見たところ、破壊される以前の本橋の姿を確認できた。
これにより、2016年台風10号被災説がより裏付けられたが、廃止以前の本橋にも親柱も銘板も取り付けられていなかったことも判明した。
そのため、本橋の名称問題はよりこじれてしまった。
本編執筆にあたって手元に確認できるいろいろな資料に当ったが、(既に廃止済だったからか)2018年度全国橋梁マップにも記載はなく、本橋の名前は未解決のままである。



橋の袂には民家の郵便受けがポツンと取り付けられており、この橋の“性格”を物語っていた。
さすがに個人が架設するには規模が大きすぎると思うが、末期の利用実態は対岸にある人家の通用橋のようになっていたのだろう。

というのも、この橋の約300m下流には、同じく旧道と対岸を結ぶ別のより大きな橋がある。
それは涼しげな青色の塗装がなされた曲弦トラスの可愛らしい橋で、桐内橋という。
こちらは現役の橋だが、この段階での私の興味の軽重としては、より上部構造に魅力を感じる桐内橋を重視しており、目の前にある名前の分からない廃橋のことはそこそこに、早く桐内橋を訪れたいと思っていた。

高欄が壊れているくらいの廃橋は珍しくないし、別に渡って確かめるほどのものでもないかな……と。

私は、この名前の分からない、そして今回の主役であるはずの橋の前を……

渡らぬままに出発した。




が!




ん?



んんん?!!!



桁が丸い

という事実に、今初めて気付いた。

そう意識して見れば、遠目に撮した写真でも確かにこの桁は、丸かった。
ただ、そんなことは意識の外過ぎて、考えなかったのだ。
ありきたりな鈑桁(プレートガーダー)か箱桁(ボックスガーダー)の鉄橋だと思い込んでいた。
だが実際はこの無名の橋、私ははじめて目にする、半円型箱桁橋・・・・・(正式な型式名は不明)とでも呼ぶべき、特殊な桁橋だったのである。

※この桁型式の橋にお心当たりがある方は、至急コメントなどでお知らせいただきたい。

私は橋の型式についてはそこまで専門的な知識がないのであるが、廃橋であるなしを問わずこのような半円断面の箱桁橋を他に見た憶えがない。
完全な円断面の鋼橋であれば、水路アーチ橋としてしばしば目にするほか、トラス橋の鋼材が丸いパイプ鋼であるものも見たことがあるが、これらは半円断面の箱桁橋とは根本的に異なるものだろう。そもそも道路橋ではなかったし。



10:45

意外な発見に驚き、一度は去りかけた橋のもとへ戻った。
そして、改めて桁の観察を行ったところ、3径間共に全て同じ形状の桁であることが分かったほか、右岸(旧道側)下流側の側面に、鋼橋ではお馴染みの製造銘板らしきプレートが取り付けられていることに気付いたのだ。

しかし、附近の藪の濃さと、特殊な断面であることが禍し、発見した銘板を“見る”ことに、思いのほか手こずった。



結局、愛用しているデジカメ(Pentax KP)のバリアングル液晶を活用することで、地上にいながらカメラだけを銘板の方向へ向け撮影することに成功したが、無理な撮影姿勢で頭に血が上って大変な思いをした。

銘板はこのように、半円形の箱桁の側面に取り付けられていた。
おそらく銘板自体は平らだが、取り付け面の厚みに僅かなカーブを持たせることで、上手く湾曲した桁に取り付けてある。
このような型式の橋がいくつあるのか不明だが、銘板の存在している事実を含めて、“手慣れている”印象を受ける。
私が知らないだけで、この型式の橋がまだ他にもありそうな気がするが、果たして…。

なお、箱桁の幅は橋面の幅の半分ほどに過ぎず、桁の外側は波形の鋼板と(おそらく鉄筋)コンクリートの混合桁となっている。
また、箱桁の通例として、内部は空洞であると思われるが、鋼材の厚みは不明だ。桁の途中にはリベットの部分があり、そこで鋼材を接合している、リベットを利用していることからも、ある程度は古い橋と分かる。ちなみに、写真右に見える筒状のものは、路上から続く排水管だ。

……で、肝心の銘板の画像であるが……(↓)



1967年3月
川井村建造
鋼示(1964)
製作 北日本機械株式会社
材質 SS41 SM50

橋名は、遂に判明しなかった!
が、値千金の竣工年が分かった!
竣工は1967(昭和42)年3月であり、また川井村建造とあることから村道として架設された可能性が高い(村営の農道や林道だった可能性もあるが)。

3行目の「鋼示」とは、鋼橋に関する道路橋示方書(国内の道路橋の技術的基準を定めた)のことで、昭和39(1964)年の示方書に準拠した設計であることが分かる。
もしこの示方書を見ることが出来れば、この型式の橋が掲載されているのだろうか。
また、これも重要な情報として、製造者の名前が分かった。北日本機械株式会社である。
この社名に心当たりはなかったが、後日調べてみると興味深いことが判明するのである。
が、その話は机上調査に譲って、まずは残り少ない現地探索の続きだ。



見慣れない形をした橋の細部を、まじまじと観察する。

通常は四角い箱桁が半円形であるために、橋台や橋脚との接合にも、見慣れない形状の接合具が用いられていた。
とはいえ、おそらくこういう形状の接合具は、円形断面の水管路の固定などにも使われているのだと思う。普段、注目してこなかっただけで。
このような丸い箱桁の橋はなぜ少ないのか。また、どのようなメリットやデメリットがあるのか。



8:47

ここで満を持して橋の上へ。 ……嘘です、一旦は立ち去るつもりになっていました……。

しかし、封鎖も簡単であれば、渡ってしまうのも簡単だった。
欄干は半分ほど失われているものの、床板自体は歪んだりはしておらず、高低もない。
まあ、自動車も通れるくらい安全であるかは分からないが、とりあえず歩いて渡る分には全く不安を感じない状態だ。

しかも、この橋の最大の特徴である桁の形状は、橋の上にいる限りは全く察知できない。
呆気なく渡り終え、対岸へ。



10:48 《現在地》

小国川の左岸は宮古市川井第10地割というのが正式な地名だが、本来は繋集落の片割れである。
地理院地図には橋の袂に3軒の建物と、少し離れたところにもやはり3軒の建物が描かれているのであるが、このうち最も橋に近い建物はチェンジ後の画像のように盛大に倒壊している最中であって、近寄り難い状態だった。

橋へ通じる左岸の道もあったが、車が通っている様子はなく、おそらく他の建物も無人であろう。
右岸へは今回の橋を使わなくても来られるので、これらは橋の廃止とは別の理由からの無人化だと思う。
橋に関する手掛りは他になさそうだったので、ここで引き返し、本橋に関する現地調査を終えたのだった。(このあとは桐内橋を見にいった)


以下は、帰宅後に本編執筆のために行った机上調査の内容である。



 ミニ机上調査編 〜独特過ぎる桁の由来は?〜


それでは、この橋の机上調査を始めよう。

と、その前に本編の前提として、「本当にこのような半円断面の箱桁」は珍しい橋なのかということについて、どうやら、確かに珍しい型式で間違いなさそうだ。
というのも、本編公開後の読者さまコメントやSNSへのリプライで同型式の橋を知っているという報告を待ち構えていたのだが、それが今のところ全くないのである。引続きご存知の方からのコメントを全力で待機中であるが、珍しい型式であることは確かとみていいだろう。

そのうえで、今回の机上調査の大きなネックは、現地でこの橋の名前を知ることができなかったことだ。
橋桁に取り付けられた製造銘板のおかげで、竣工年や建造者、発注者が分かったことは大きな収穫だったが、橋名が分からないのは大きな傷手。そして残念ながら、今回の机上調査によっても、橋名は分からず仕舞いであった。

本橋が現役だった当時の宮古市ないし川井村の「道路台帳」を確認できれば橋名が記載されているはずだが、そのためにはまず道路としての路線名を知る必要があり、これも明らかでない。あるいは、「住宅地図」のような大縮尺の地図には橋名が掲載されている可能性があると思う。




北日本機械株式会社」トップページのスクリーンショット

橋名が分からない困難な条件の中で、この橋についての情報を得る手掛りを求め、桁の製造者である北日本機械株式会社のサイトを訪れてみた。

同社は岩手県盛岡市に本社を置いており、サイトの会社概要によると、主な営業内容は「橋梁・水門・鋼製エレメント・除塵機・水圧鉄管・各種プラントその他鋼構造物設計・製作・施工・メンテナンス」とある。さらに沿革を見ると、昭和12(1937)年に岩手鉄工所として設立された当初は鉱山機械の製作を行っていたが、昭和25(1950)年に現在の社名となり、昭和28(1953)年に同社として第一号となる橋梁を製造して以来、中堅橋梁メーカーとしても地位を確立している。

サイトのトップページに、施工マップという同社が手がけた橋梁や水門などの位置を示したものがあり、宮古市周辺の道路橋も複数記載されているが、いずれも平成以降の新しい橋であり、今回の橋は掲載されていなかった。おそらく古い橋は掲載されていないのだろう。

さらに同サイトに掲載されている創業からの歩みをまとめた冊子「〜80年間の歩み〜」によって、より詳しく事業の沿革を知ることが出来た。ここには同社が初期に手がけた橋についてもいくつか記載があり、上述した同社第一号の橋梁というのは、昭和28年にアイオン台風の復旧工事として国鉄山田線の閉伊川橋梁に附属する歩道橋を製作したことであり、単独の橋梁の建造は昭和33(1958)年からであること(橋名は不明)や、昭和33年から44年までの間に211橋という多数の橋を受注していることも分かった。
現地の製造銘板によって今回の橋の竣工年は昭和42(1967)年となっていたから、この211橋には本橋が含まれているに違いない。

その後も多数の橋を建設しているが、昭和51(1976)年完成の昇仙橋(岩手県一関市のここに架かっていた道路橋だが岩手県内陸地震で落橋ののち架け替えられ現存しない)を写真付きで紹介している。これ以前に建造された橋の多くは、(今回の橋もそうだが)歩道橋を含む小幅員のものが多かったようである。だが、この昇仙橋以降は大規模な道路橋の建造を多く手がるようになる。

結局、この冊子の詳細な年表にも今回の橋についての直接の記述は見つけられなかったが、本橋の半円断面の箱桁という独特な形状と関係がありそうな事柄に気付いた。

それは……

同社が“鉄管水路”を多数施工していたという事実!

昭和28(1953)年に秋田県の小坂鉱業所発電所へ水圧鉄管を納入したことを皮切りに、31年には青森県の東北電力岩谷沢発電所へのサイフォン管納入、その後も34年の岩洞ダム水圧鉄管や濁川サイフォン管路、35年の蔦発電所水圧鉄管などを次々と納入し、同社の昭和30年代は、東北地方各地に続々と新設された水力発電所への水圧鉄管納入と共にあったのである。
そしてその後も同社は発電用に限らず多数の水管橋を手がけている。

この事実と、今回の橋の“まるで半分にした水路管のような”箱桁形状の間には、間違いなく、技術的繋がりがありそうに思える。

そのことを明記した資料は見当らないが……。

鉱山機械の製造工場として昭和初期に創業した同社は、東北地方の産業の変化に歩調を合わせるように発電用水圧鉄管や水門、道路橋の建造を主力事業とすることで発展を続けた。
その歩みの途中で、同社の強みを活かした橋梁への新提案として、半円断面の箱桁橋というものを推し進めたシーンがあったのではないかと想像する。
そしてどのような経緯からからは分からないが、昭和42(1967)年の川井村はこれを受け入れ、同社が本橋を架設した。

ただ、残念ながら同社のこの新提案は、あまり広くは受け入れられなかったのではないだろうか。
だからこそ、今日この形状の橋は我々の周りにほとんど見られないのだろう。
あまりにマイナーなせいか、この形状の橋のメリットやデメリットについて技術的な言及も今のところ見つけられていない。

素人目にも、あの船底のように丸い形状は、洪水時に流水や流木が接触した際に衝撃を緩和し、橋が破壊されることを防止する効果がありそうに思える。
そして現状でも、本橋の洪水への高い抵抗力は示されていると思う。
おそらく本橋廃止の直接の原因となった2016年の台風10号では、架設から50年を経過した状況で欄干が破壊されるほどの洪水に遭いながら、桁自体は目に見えて壊れていないのである。もし普通の箱桁でも、同じ洪水に耐えられたかは気になるところ。

ただ、このような洪水への抵抗力という(ありそうな)メリットを相殺するようなデメリットもあったのだと思う。
その最大の問題は、半円形ゆえ幅員を大きく取ることが難しいことではないだろうか。
また、製造コストや運搬のコストも通常の鈑桁や箱桁より大きくなった可能性がある。
もしも大きなデメリットがないのであれば、我々の周りにはもっとこのような形状の人道橋や小型橋があっても良さそうなのである。


……以上、本橋に関する直接の記述は見つからなかったが、製造者の情報から特別な桁の形状が選ばれた事情を想像することが出来たという話である。
次の章では、歴代の地形図や航空写真を使って、本橋が利用されてきた状況について調査した。


 “本橋”よりも8年古い昭和34(1959)年生まれの「桐内橋」


が、この先を述べる前に、今回の橋の直後に探索した桐内橋という隣接する別の橋についても簡単に紹介したい。
桐内橋は、今回の橋の300mほど下流に架かっており、市道繋桐内線に属している。
今回の橋が橋名も所属路線名も分からないのに比べれば遙かに恵まれた、現役の橋である。


こちらの桐内橋は、橋の長さこそ同じ3径間で、今回の橋とほぼ一緒だが、型式は下路曲弦トラスと全く違い、幅も大型車両が通れる1車線なのでだいぶ広い。
単純に橋としての規模を比較すれば、今回の橋より1世代は新しい橋に思えるし、実際かなり近い位置に隣接しているので、新旧橋の関係ではないかとの第一印象だった(今回の橋は「旧桐内橋」ではないかと思った)。

が、おそらく事実は異なっている。


というのも、この桐内橋には(市町村道には珍しい)立派な親柱と、凝ったデザインの銘板があり、そこに「昭和34年7月完工 青森営林局」と刻まれている。
桐内橋の竣工は、今回紹介の橋よりも8年も早かったのである。立派な橋が架かってから小さな橋が架かったわけで、単純な新旧道ではなかったことが分かる。
また、この橋は当初から市町村道だったわけではなく、架設当初は国有林林道だったことも分かる。

オマケに、(チェンジ後の画像のように)この橋の袂には赤く塗装された軽レール転用のガードレールがある。
国有林林道だったことと照らせば、これは10km圏内に昭和30年代まで存在していた薬師川林鉄などからの転用レールの可能性が極めて高い。林道繋がりというわけである。

以上が桐内橋の簡単な紹介である。
そのうえで、今回の橋とこの桐内橋の不思議な関係が読み取れる、歴代地形図の変遷(↓)を見て欲しい。




@
地理院地図(現在)
A
昭和54(1979)年
B
昭和45(1970)年
C
昭和27(1952)年
D
大正5(1916)年

ここに新しいものから古いものまで順に5枚の地形図を比較する。
@は最新の地理院地図であり、既に通行止となっている今回の橋も上述した桐内橋も、それぞれが細い橋と太い橋として描かれている。
これらの2本の橋の変化を中心に見ていこう。

Aは昭和54(1979)年版で、@との大きな違いは国道のルートである。現在は市道である川沿いの蛇行する道路が国道として描かれているが、2本の橋については現在と同じ描かれ方をしている。

Bは昭和45(1970)年版で、2本の橋の描かれ方が逆転している。いずれも同じ位置に橋があるが、太さの表現が現状と逆だ。
ただ、現地の銘板から分かるそれぞれの橋の竣工年に照らせば、このBの時点では共に現在と同じ橋が架かっていたはずで、単純に地図の誤りに過ぎない可能性もある。
また、これらの橋からは少し離れるが、黄色い枠の位置に小中学校の記号があることにも注目したい。

Cは昭和27(1952)年版である。
この年代は、現在架かる2本の橋は共に架設前だが、地図上にはいずれも描かれている。
したがって、桐内橋も今回の橋も、それぞれ旧世代の橋があったことが窺える。
また、学校の記号の位置がBから変わり、今回の橋を渡った南の高い丘の上に描かれている。
したがってこの当時は、今回の橋の旧橋が通学路として利用されていたことも想像できる。

Dは大正5(1916)年で、この最古の地形図に描かれているのは、今回の橋の位置にあった橋だけで、桐内橋はまだなかったことが分かる。
この時点では繋と桐内方面を結ぶ点線道は今回の橋を経由しており、このように先代の橋以前にまで遡れば、今回の橋が桐内橋の旧橋であるというのも間違いではない。
D以降に、桐内方面への車道を整備する目的でCにある桐内橋の先代橋が架設されたのだろう。

以上のことをまとめると、今回の橋は、ほぼ同じ位置に架かっていたとみられる先代の橋まで遡れば、桐内橋に先駆けて桐内方面へ通じた重要橋であり、桐内橋の先代橋が架設された後も、生活路や通学路としての需要があったことが窺える。
しかし、その後は学校移転や廃校、住人の退転などにより、需要は減少していっただろう。


そしてもう一つ、歴代地形図からは窺い知れない突発的な出来事の存在が、右の航空写真の比較から読み取れる。
これは昭和42(1967)年版と昭和27(1952)年版の航空写真の比較である。

前者には、今回の橋(の竣工当年の姿)と桐内橋がどちらもはっきり見えている。
一方で、後者にはどちらの橋も全く見えないのである。
前述した歴代地形図Cと同じ年の写真だから、両方の橋の先代の橋が写っていて然るべきなのだが、なぜか全く見えない。

そしておそらくその理由は、昭和23(1948)年9月16日から17日にかけて列島を襲い、閉伊郡一帯に未曾有の大災害をもたらしたアイオン台風であったと思う。このときの閉伊川流域の被害は壊滅的なもので、川に架かる橋はことごとく流失したと伝わっている。(国鉄山田線は6年間も不通となり、沿線の林鉄も壊滅して一部はそのまま廃止された)

このアイオン台風によって、今回の橋も桐内橋も、それぞれの先代橋が流失したと考えられる。
そして、昭和34(1959)年にいち早く本復旧したのが、現在の桐内橋なのだろう。
対して、今回の橋は台風から19年も経過した昭和42(1967)年にやっと架けられており、この間はずっと本復旧がされていなかったのだと思う。


想像を交えながらだが、地形図や航空写真を使って本橋の歴史を検討したことで、小さな橋が歩んだ激動を垣間見た気がする。
少なくとも、桐内橋ともども未曾有の水害の経験より生まれてきた橋というのは間違いがなさそう。
ますます、北日本機械が本橋の型式を水害に強いものとして推した可能性が高まったと思う。

引続き、この型式の橋の目撃情報を募集している。
果たしてこれが日本唯一というほどに珍しいのか、あるいは少数ながらも類型のある橋なのか、とても興味がある。
そして、どちらかといえば後者であって欲しい。その方が、きっと面白い。




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