ミニレポート第292回 新潟県道232号浦佐小出線 栄橋 後編

所在地 新潟県南魚沼市〜魚沼市
探索日 2025.06.18
公開日 2025.06.30

 続・あと一歩が届かない?!


橋の上にある、珍しい特異点。勾配が変化する継目である。
ここまでは普通の水平な橋だったが、ここから先は結構な勾配の下り坂である。
高欄のデザインも違っており、路面も含め全体的にスロープ側は新しい。
ただ、橋の幅は狭いままである。



橋は水平の部分が3径間で、スロープになってからは2径間だ。
このことは路面の継目の数からも、後ほど写真を見て貰うが、測景からも分かる。
そして下りきる直前に、橋の右岸の陸地、旧小出町である魚沼市岡新田に降り立つ。

降りた先は案の定の河川敷内であり、わずか20〜30m先には、橋の水平の部分とおそらく同じ高さの堤防が立ちはだかっている。
この堤防がすごく遠いというのであれば、河川敷内で水面のある部分だけを横断することにはコスト的なメリットが大きいと思えるが、あまりにも近いので、たいへん失礼だが、みみっちいというか、せこいというか、せせこましいというか、とにかくあと一歩橋の長さが足りないために“奇妙な橋”のレッテルを貼られていることは……、この手の弱小道路大好きな私を笑顔にする。



さてこの写真だが、これは平成23(2011)年7月30日に訪れた時のものだ。
実は私が栄橋を初めて渡ったのはこのときで、スロープになっていることも今回の探索時には既に知っていた。
ただ、この初探索時はいろいろとイレギュラーなことがあって、レポートにはしなかった。
それは何かというと、この日の中越地方は、100年に1度レベルの豪雨災害(平成23年7月新潟・福島豪雨)に見舞われていたのである。
私も本来は探索の予定はなく、秋田から東京へ移動する最中に高速道路の通行止に巻き込まれ止むなく停滞した際、たまたま自転車を持っていたから、時間つぶしで近辺を走り回った中でここを訪れたのだった。
撮影時には既に雨が上がり、洪水も大部分は収まっていたが、方々で多くの爪痕を見た。

だが本題は洪水のことではなく、この橋を側面から撮影した写真だ。
このように全部で5径間の橋は、左岸側の水平で古い3径間と、右岸側の傾斜で新しい2径間からなっていた。



橋の途中で桁が変化する本橋は、親柱や銘板についてもアンバランスである。
左岸には大きな立派な親柱があり、そこに「栄橋」「町屋岡新田線」の2枚の銘板が取り付けられていたが、右岸には親柱が存在せず、銘板は高欄に直接取り付けられている。
銘板の内容は、「さかえはし」と「平成二十二年三月竣功」というものであったのだが……

この平成22(2010)年という竣功年は、明らかにまだ新しい傾斜部分のものである。
なぜなら、平成19(2007)年10月に左岸側からこの橋を目視している。
ただ、残念ながらあの時は渡らなかったから、まさか橋の途中にこんな奇妙なツギハギがあると思いもしなかったのだ。
あの時に渡ってみなかったことが、悔やまれる。

……本当に。

なにせ、「前編」の公開後に寄せられた地元読者さまからのコメントによると――

「この斜めになっている部分、15年くらい前までは木橋だったんですが水害で流されて永久橋に部分的に架け替えされてます」とのこと。



!!!

この先が傾斜した木橋だった?!

このときの私にちょっかいが出せるなら、そこで引き返さず是非渡ってみるべきだと助言したのが……。

せめて、どなたか木橋時代の写真を撮ってはいないだろうか?



傾斜部分が架け替えの原因についてコメントに「水害で流されて」とあったので調べてみると、南魚沼市の合併後の主な出来事という年表に、平成20(2008)年7月27日、「豪雨災害」「県道浦佐小出線の栄橋(五箇)の橋台が流出し、通行止め」という記述があった。
おそらくこれが原因だろう。
ここから平成22(2010)年3月に架け替えられるまで、本橋の傾斜部分は1年半ほど不通となっていたようである。

また、現地の銘板からは本橋の水平部分がいつ架けられたのか分からなかったが、「2018年度全国橋梁マップ」だと栄橋全体の架設年は昭和46(1971)年となっていた。
おそらくこれが水平部分3径間の竣功年であろう。

しかし気になるのは、水害で架け替えられる以前のこの橋が、水平鋼橋3径間とスロープ木橋2径間という、なんともチグハグな組み合わせで供用されていた“理由”だ。
現状でも不思議な橋ではあるが、一応は永久橋の桁で揃っている。だが、一部が木橋で一部が鋼橋という橋はなかなかない。しかも、いかにもイレギュラーなスロープ部分だけが木橋ということに、特に理由がないとは思えない。

……橋を見ながら考えてみても、いろいろな可能性は脳裏に浮かぶものの、正直答えは分からない。これは机上調査の課題としよう。



下りきった河川敷の高さから振り返る栄橋。
ボロボロの“にーにーコンビ”が頑張っている。

それはそうと、橋台の高さ程度だけ坂道を登ったところから橋が始まるが、手前の微妙なカーブや橋上に勾配の変化点があること、さらに河川敷に育つ樹木の影響などで、本橋は死ヌほど見通しが悪い。
対向車が既に橋の上に来ていても、おそらく渡り始める前にそれを察知する術はない。
これは反対側からも同様である。

「2018年度全国橋梁マップ」によれば、全長122m、幅2.5mである本橋上に一切の退避スペースはないので、もしもスロープを渡り終えたあたりで対向車を見つけた場合、どちらかがしずしずと待避可能な橋の袂まで後退するハメになるのだろう。
もう想像するだけで首が痛くなりそうだ。

……実際そんな鉢合わせが滅多に起らないくらい交通量は少ないと思うけど…。



ダート区間現るwww

橋を渡り終え、河川敷に入ると、道は舗装を失った。

紛うことなきダート区間だ。
しかも、封鎖された区間や行き止まりに通じる区間ではない、一般に開放された区間のダートは、今どき珍しいと言わねばなるまい。
まして山奥などでもない、こんな田園風景の中に、時が止まったみたいなダート県道があるなんて!



ダート終わりw 笑えるほど短いッ!!ww

河川敷内のほんの20m足らずだけがダートであったが、堤防にぶつかってそれを斜めに登り始めると、そこでボロいコンクリート鋪装が復活した。
しかし、今度は道幅が異常に狭い。橋の上よりも狭く、一連の区間で一番狭いと思う。
軽トラの轍が鋪装からはみ出しそうになっている。普通車なら間違いなく路肩の草を踏みながら走らねばならないだろう。幸い縁石などはないので、走れはするだろうが、マジで狭い。



12:26 《現在地》

たいして高くもない堤防を上りきると、堤上はとても狭く、そのまま斜めに乗り越えて向こうへ下っていく。
そして下った先には、魚沼産コシヒカリのメッカである一面の美田が広がっていた。



堤上で振り返るのが、栄橋の見納めだ。
ここから見る夏草に溺れた河川敷のアップダウンは、ワイルドさと長閑さの同居する、現代の県道とは思えない風景。
しかも左の奥に微かに見えるのは新幹線の高架で、その一角に浦佐駅がある。ここは新幹線駅から2kmも離れていない至近だ。

この県道の現状は、河川敷を通る部分だけが未舗装であることや、橋のスロープ部分だけが以前は木製であったことなど、様々な要素より、過渡的で間に合わせという印象を受ける。
ただ狭くて古い橋というのではない奇妙さが、この橋と県道にはある。



 河川敷内に降りることの弊害を実感 〜2011年7月30日の状況〜
2025/6/28追記

前述した通り、只見線が11年も不通となる切っ掛けの豪雨災害の日の夕方に、この栄橋を初めて渡った。
その時に見た風景をここで少し紹介しよう。


2011/7/30 18:30

左岸側堤防上より撮影した栄橋。
細く狭い華奢な橋なので流出が心配されたが、百年に一度といわれる規模の水害に耐えていた。
だが、橋脚に引っ掛かった流木が、数時間前までの川の猛威を物語っている。当然、現状でも平水時とは比較にならない濁流だ。

対岸には1台の軽トラが橋の状況を確かめに来たが、「通れない」と察したか、引き返していった。
しかし、ちゃんと気に懸けられているのだと分かって、ちょっとだけ嬉しく思う私がいた。



誰もいない橋の上へ漕ぎ出した。
渡るのはこのときが初めてだったが、橋の極端な細さから、どこを見ていても常に超高速スクロールをしている濁流の背景が目に入る状況で、激しくクラクラした。
仕舞には、橋自体が動いているような錯覚まで覚え始め、その都度不動の山を見て冷静になった。

そして、この先に驚くべき傾斜橋との遭遇があったが、そういう橋であることは橋上に立つ前から見えていたから、その段階で驚きは済ませていたものの……



下って行く傾斜橋の2径間目がまるまる水に浸かった痕跡を帯びていて、ギョッとした。

本編で述べたように、この傾斜橋部分は平成20(2008)年7月27日の豪雨で木橋だった橋台が破損したため、平成22(2010)年3月に架け替えが完成したばかりだった。
その翌年7月27〜30日の豪雨災害によって、再び橋台や桁が完全に水中に没するほどの浸水を受けていたのである。
これでまたも流失していたら、果たして再三の架け替えが行われたかどうか……。

よくぞ保ったな。
橋台や桁が頑丈になっただけでなく、周囲の護岸もしっかりやっていたのが、功を奏したっぽい。

……ただし、



河川敷内の道路は駄目だったよ。

まあこれは仕方がない。これは織り込み済みだろう。
橋さえ落ちていなければ、このくらいならどうにでもなる。

現に、ここで押し倒されていた“にーにーコンビ”なんて、【その場で復活】してるからね。
こんな激流に揉まれながらも頑張る標識、オレ尊敬しちゃう。



というわけで、直前に行われた傾斜部分の架け替えや護岸工事のおかげで、百年レベルの大水害にもどうにか耐えた栄橋を、その日の現場よりお伝えしました。
洪水時に河川敷内の道路がどうなるのかも実証してくれていたね。
あと、低水域の植物がことごとく流失しているために、今回の探索と同じ季節とは思えないくらい見通しが良かったことも印象的だね。




12:28 《現在地》

堤防を降りて田園に入ると、ここまでのキレッキレの変態ぶりはなりを潜め、どこにでもある農道と区別の付かない道になる。
だが、どこにでもある農道の方が、間違いなくさっきまでの県道よりも上等だ。

そしてこの農道的な風景の中に、地図を見ていなければほぼほぼ県道の正解を逸してしまうだろう丁字路がある。
この写真の丁字路がそれ。
県道はここを左折である。
……まあ、間違って真っ直ぐ進んでも普通に県道と同じ行先へ辿り着けるので、実質的には全く問題はないが…。



前記の左折さえ見逃さなければ、あとは道なりに進むだけだ。
地理院地図だとこの辺も橋の上と同じ“軽車道”として表現されているが、実際の道幅はだいぶ違っていて、軽自動車同士ならすれ違えるくらいの余裕がある。
やがて前方に河岸段丘らしき一列の丘崖が近づいてくるので、これも道なりにひと息で登る。



12:31 《現在地》 

登った先が岡新田の集落だ。
ここからは路上に融雪パイプが埋められており、今度は農道から生活道路らしい風景になる。
相変わらず県道らしいアイテムは全くないが、通行に困ることも全くない。

一本道で真っ直ぐ集落を抜けると、防風林のような木立の先に車の行き交う広い通りが見えてくる。



12:33 《現在地》 

突き当たりを、県道は左折する。
この交差点は、国道17号上の県道の起点から1150mの地点である。
県道の来た方向を指して「←岡新田」と書かれた案内板があるが、ここにも県道らしい表示物は全くない。
というか、ここで突き当たった真っ直ぐな2車線道路の方が、よっぽど県道らしい。(←実は伏線)

今回のレポートでお伝えする県道浦佐小出線は、ここまでだ。
この先も私は走ったが、特に狭い区間はなく、不案内なところはあるものの、地図さえ見ていれば簡単に終点までトレース出来ると思う。
それだけに、起点からここまでの区間の奇妙さは際立っている。


次回、机上調査に臨む。


 ミニ机上調査編  〜ねじ曲げられた県道浦佐小出線〜


@
地理院地図(現在)
A
平成18(2006)年
B
昭和41(1966)年
C
昭和27(1952)年

まずは歴代地形図によって栄橋の変遷をチェックした。

@は最新の地理院地図で、本編中でも使用した。橋名の表記はないが、栄橋が県道として描かれている。

Aは平成18(2006)年版で、同じ位置に橋が描かれているものの、右岸側が少し短い。理由はおそらく、右岸にあった木橋の部分が架け替え後の鋼橋よりも短かったためだと思われる。

Bは昭和41(1966)年版である。現在の栄橋の竣工年は昭和46(1971)年とされているが(右岸側スロープ部分は平成22(2010)年)、それより前の地形図にも同じ位置に橋が描かれていた。ただし橋の長さがさらに短く、現橋と比べると半分くらいしかなさそう。栄橋には、名前が分からないものの、先代橋が存在したことが窺える。

Cは昭和27(1952)年版である。栄橋はなく、その前身と思われるような渡し場なども表記されていない。@〜Bでは同じ位置に描かれていた橋に通じる前後の道も表記がないので、この時点では架橋前とみられる。
また、@〜Bでは同じ位置にある右岸の堤防も、Cにはまだない。



@
平成25(2013)年
A
昭和51(1976)年
B
昭和38(1963)年
C
昭和22(1947)年

続いては、栄橋の構造の変化を歴代の航空写真から見る。

@はごく最近の状況で、探索時と同じ構造の栄橋である。

Aは昭和51(1976)年版で、栄橋の水平部分は@と変わらないが、右岸のスロープ部分が明らかに短い。これは地形図にも反映されていた違いだ。木橋だった当時のスロープは短く、より勾配が急だった可能性が高い。ただし、見える色合い的に、路面に木材は露出していなさそうだ。

Bは昭和38(1963)年版である。地形図のBと対応する時期であり、やはり先代橋があったことが分かる。そして、先代橋は両岸共に堤防よりも低い位置から架橋されていたようだ。構造は不明だが、おそらく純粋な木橋であろう。
@〜Bについて、右岸の堤防を越える道は同じ位置にあるが、河川敷内の道の位置は毎回微妙に異なっている。こういう不安定さも、しばしば洪水によって攪乱された影響ではないかと思う。

Cは昭和22(1947)年版である。地形図のCより少し早い時期だが、なにやら既にBと同じ位置に橋が流失した痕跡のようなものが見える。
より古い地形図を見ても、この“流失橋”らしきものが描かれたことがなく、正体は不明だ。このときは右岸側の経路も異なっており、岡新田へ向かわず水無川の方へ向いているのも不思議だ。栄橋には岡新田とは異なる目的地を持った2世代前の橋が存在した可能性がある。

以上のような地形図と航空写真の歴代調査により、栄橋やその前後の道の時代ごとの変化はある程度分かったものの、これらの情報から背景の“事情”に迫ることは難しい。
続いては、文献調査だ。



平成10(1998)年に旧小出町が発行した『小出町史 下巻 (近代・現代・人物)』を調べてみたところ、町内の県道について述べた項目に県道浦佐小出線の解説があった。次の通りの内容である。

一般県道浦佐小出線
この路線は大和町(中略)浦佐の天王から水無川橋を小出町に入り、岡新田・十日町・虫野・伊勢島新田から福山橋を渡って大字青島の五箇小出線に取りつく路線である。昭和33年に県道に認定された。この改良では水無橋と福山橋が懸案の箇所で、水無橋の架け替えは初期の永久橋は昭和27年度、その次の現在の橋は61年度に完成した。福山橋は48年度に現在の永久橋となったが、魚野川改修事業の堤防後退に伴って伊勢島側に30m継ぎ足しを行い、平成8年8月に完成した。

『小出町史 下巻 (近代・現代・人物)』(平成10年)より

上記のルートを地図上にプロットすると、右図の赤い破線のようになる。
チェンジ後の画像に赤い実線で示した現在の県道浦佐小出線と比較すると、ルートの起点と終点が共に異なっていたことが分かる。

旧ルートは、浦佐駅対岸の(旧大和町)浦佐の天王町を起点に北上を開始、間もなく水無川を水無橋で渡り、岡新田を真っ直ぐ通り抜けて虫野へ至り、左折して魚野川を福山橋で渡って終点の小出町青島へ至るものであった。
このルートはとてもシンプルで、ちゃんと交通の流れに沿ったものだ。

だが、どういうわけか現在の県道浦佐小出線はルートが変わり、起点側では栄橋、終点側では青島大橋によって、さらに2度魚野川を渡るようになっている。
そのため、わざわざ大きな川を3度も渡るという、とても交通の流れに沿ったとは言えないルートになっている。そこを私は“恣意的”だと冒頭に表現した。

しかし、少なくとも角栄さんの時代は、そんな奇妙なルートではなかったことが明らかになった。今回については(私の勝手な)濡れ衣であったといえる。これははっきり書いておきたい。ごめんなさい。

だとすると、栄橋はどうして県道へ組み込まれたか。
この謎の一端は、同じ町史に記録された別の県道の解説にあった。それは現在は県道浦佐小出線と全く接していない、県道雷土新田(いかずちしんでん)浦佐線である。

一般県道雷土新田浦佐線
県道として最も最近に認定された路線で、大和町五箇地内の国道17号から栄橋を渡り、岡新田を経て浄源塚から雷土新田に至る路線である。昭和59年に認定されたが、栄橋の架け替えが懸案の路線である。認定から日が浅く、現在では改良法線および橋の架け替え計画が示されていない。

『小出町史 下巻 (近代・現代・人物)』(平成10年)より

このように、町史執筆当時(平成10年以前)の栄橋は、昭和59(1984)年に認定されたばかりの県道雷土新田浦佐線の一部であったらしい。
また、栄橋の架け替えが懸案とあるくらいだから、問題の大きな橋だと認知されていたこともよく分かる。
そりゃそうか、途中で河川敷に降りてしまう、一部は木造のままの橋だったのだから。


そして町史刊行後のどこかのタイミングで、昭和33年に認定された県道浦佐小出線と、昭和59年に認定された県道雷土新田浦佐線の間で、起点のトレードという珍しいことが行われ、現状のように、これらの県道は接続しないようになった。

昭和61(1986)年版の人文社刊『新潟県広域道路地図』で【この辺りを見る】と、県道の色で塗られた浦佐小出線は栄橋を通らない旧ルートであり、栄橋を通る県道雷土新田浦佐線の認定はまだ反映されていなかった。

右の写真は、今回探索の最終地点となった岡新田の交差点だが、町史刊行当時と現在の県道の変化を示した。
以前の県道浦佐小出線は、今のような奇妙なルートではなかった。

では、なぜ2本の県道の間で起点のトレードが行われたのだろうか?
残念ながら、このことに言及した資料は未発見であり、理由は正直分からない。
ただ、これも正確な時期は不明ながら、町史刊行後に浦佐小出線は起点だけでなく終点も変更され、新たに組み込まれた青島大橋によって3度魚野川を渡る経路となった。

青島大橋や栄橋を県道として整備したい思惑と、県道浦佐小出線への編入には関わりがありそうな気がする。
先ほど町史より引用した浦佐小出線の解説文にも、この県道の認定時から水無橋と福山橋の改良が懸案であったと言及されていたが、同じように栄橋や青島大橋の改良を行うことを意図した編入だったのではないだろうか。


町史をさらに紐解いていくと、現行道路法下では昭和33年に初めて(一般県道の第一弾として)認定された県道浦佐小出線には、旧道路法時代に遡る長い県道の歴史があったことが判明した。

町史によると、旧道路法の制定から間もない大正12(1923)年に上越線の浦佐駅が開業したことで、浦佐駅と小出駅の中間附近の魚野川右岸にある虫野より浦佐駅へ至る村道の開削が沿道の村々の手で行われ、翌年に開通すると同時に、県道虫野浦佐線へ認定されたことが出ていた。
これが後の県道浦佐小出線の前身となった。

また、この路線は昭和19(1944)年に起点が変更され県道吉田浦佐停車場線となったが、この県道の認定に関しても橋の改良との関わりが出ている。
吉田浦佐停車場線は佐梨川と水無川を渡る経路であったが、それぞれの川に架かる木橋がたびたび流失してしまうので、県道への認定によって永久橋へ改良すべく、南魚沼郡より選出された県会議員が中心となって県道昇格が目論まれたとあった。

このように、小出町史にはたびたび橋の改良と県道との関わりが言及されている。
そしてこのことの原点として、この地域の戦前からの“橋梁事情”があったことが次のように述べられている。

川の多い旧小出町および旧伊米ヶ崎村は、魚野川に水無川・三用川・大池川・佐梨川・羽根川・破間川など急流の中小支流が注いでいて、県道および町村道を問わず資金や資材の不足と橋梁技術の未熟な時代にあって、橋梁は交通の大きな障害になっていた。
明治から大正にかけての県道認定を願った大きな目的は、これらの河川の洪水に耐えうる橋梁の架設であった。しかし、当時は木橋の架設がせいぜいで、鉄道橋を除いてコンクリート橋や鉄橋は昭和も戦後の車時代に入ってからである。

『小出町史 下巻 (近代・現代・人物)』より

このように、橋梁の整備こそが、県道の認定を願う大きな目的であったということが直截に述べられていた。

ここで紹介した以外にも、この町史では非常に多くの橋と県道の関わりが述べられており、私は少々驚いた。
そして感じた。
この地域の人々にとって、橋の整備を願うならばまずは県道への認定という“成功の方程式”が、他の地方よりもよほど執拗に刷り込まれているのではないか。
そのために、端から見れば不自然な県道経路の延長や、ねじ曲げ、経路のトレードといったことまでもが、日常のように繰り広げられてきたのではないか。


今回は情報や資料が少なく、栄橋が最初に架けられた経緯や、その後の橋の架け替えられた記録、河川敷内に降りることになった理由などは、見つけることが出来なかった。
橋の水平な部分は永久橋で、河川敷へ下るスロープ部分だけが木橋だったという状況には、明らかに不自然で未完成的なものを感じるが、このことに言及した記録は未発見であり、未確認である『大和町史』の取り寄せを今後行う予定である。

栄橋については、命名の由来も含めてまだまだ分からないことが多いが、この不完全な橋を真っ当に整備しようという関係者の願い……執念……が、酷くねじ曲げられた県道の原因であったことは突き止められた。

果たしてこの奇妙なツギハギの橋が、平凡だが完備された姿へ生まれ変わる日は来てしまうのか。
引続き見守っていきたいが、需要やコストを踏まえた現実的には少々厳しいかと思う。

ただ、この周辺で両岸を結ぶ新たな橋(新浦佐大橋)が、国道17号浦佐バイパスの一環として近い将来に建設される予定である。
これが完成すれば、今回の探索の起点附近の国道17号(八色大橋)は旧道となるので、そのまま県道へ降格し、新たな浦佐小出線の経路となる可能性があるだろう。




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