@ 地理院地図(現在) | ![]() |
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A 平成18(2006)年 | |
B 昭和41(1966)年 | |
C 昭和27(1952)年 |
まずは歴代地形図によって栄橋の変遷をチェックした。
@は最新の地理院地図で、本編中でも使用した。橋名の表記はないが、栄橋が県道として描かれている。
Aは平成18(2006)年版で、同じ位置に橋が描かれているものの、右岸側が少し短い。理由はおそらく、右岸にあった木橋の部分が架け替え後の鋼橋よりも短かったためだと思われる。
Bは昭和41(1966)年版である。現在の栄橋の竣工年は昭和46(1971)年とされているが(右岸側スロープ部分は平成22(2010)年)、それより前の地形図にも同じ位置に橋が描かれていた。ただし橋の長さがさらに短く、現橋と比べると半分くらいしかなさそう。栄橋には、名前が分からないものの、先代橋が存在したことが窺える。
Cは昭和27(1952)年版である。栄橋はなく、その前身と思われるような渡し場なども表記されていない。@〜Bでは同じ位置に描かれていた橋に通じる前後の道も表記がないので、この時点では架橋前とみられる。
また、@〜Bでは同じ位置にある右岸の堤防も、Cにはまだない。
@ 平成25(2013)年 | ![]() |
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A 昭和51(1976)年 | |
B 昭和38(1963)年 | |
C 昭和22(1947)年 |
続いては、栄橋の構造の変化を歴代の航空写真から見る。
@はごく最近の状況で、探索時と同じ構造の栄橋である。
Aは昭和51(1976)年版で、栄橋の水平部分は@と変わらないが、右岸のスロープ部分が明らかに短い。これは地形図にも反映されていた違いだ。木橋だった当時のスロープは短く、より勾配が急だった可能性が高い。ただし、見える色合い的に、路面に木材は露出していなさそうだ。
Bは昭和38(1963)年版である。地形図のBと対応する時期であり、やはり先代橋があったことが分かる。そして、先代橋は両岸共に堤防よりも低い位置から架橋されていたようだ。構造は不明だが、おそらく純粋な木橋であろう。
@〜Bについて、右岸の堤防を越える道は同じ位置にあるが、河川敷内の道の位置は毎回微妙に異なっている。こういう不安定さも、しばしば洪水によって攪乱された影響ではないかと思う。
Cは昭和22(1947)年版である。地形図のCより少し早い時期だが、なにやら既にBと同じ位置に橋が流失した痕跡のようなものが見える。
より古い地形図を見ても、この“流失橋”らしきものが描かれたことがなく、正体は不明だ。このときは右岸側の経路も異なっており、岡新田へ向かわず水無川の方へ向いているのも不思議だ。栄橋には岡新田とは異なる目的地を持った2世代前の橋が存在した可能性がある。
以上のような地形図と航空写真の歴代調査により、栄橋やその前後の道の時代ごとの変化はある程度分かったものの、これらの情報から背景の“事情”に迫ることは難しい。
続いては、文献調査だ。
平成10(1998)年に旧小出町が発行した『小出町史 下巻 (近代・現代・人物)』を調べてみたところ、町内の県道について述べた項目に県道浦佐小出線の解説があった。次の通りの内容である。
一般県道浦佐小出線
この路線は大和町(中略)浦佐の天王から水無川橋を小出町に入り、岡新田・十日町・虫野・伊勢島新田から福山橋を渡って大字青島の五箇小出線に取りつく路線である。昭和33年に県道に認定された。この改良では水無橋と福山橋が懸案の箇所で、水無橋の架け替えは初期の永久橋は昭和27年度、その次の現在の橋は61年度に完成した。福山橋は48年度に現在の永久橋となったが、魚野川改修事業の堤防後退に伴って伊勢島側に30m継ぎ足しを行い、平成8年8月に完成した。

上記のルートを地図上にプロットすると、右図の赤い破線のようになる。
チェンジ後の画像に赤い実線で示した現在の県道浦佐小出線と比較すると、ルートの起点と終点が共に異なっていたことが分かる。
旧ルートは、浦佐駅対岸の(旧大和町)浦佐の天王町を起点に北上を開始、間もなく水無川を水無橋で渡り、岡新田を真っ直ぐ通り抜けて虫野へ至り、左折して魚野川を福山橋で渡って終点の小出町青島へ至るものであった。
このルートはとてもシンプルで、ちゃんと交通の流れに沿ったものだ。
だが、どういうわけか現在の県道浦佐小出線はルートが変わり、起点側では栄橋、終点側では青島大橋によって、さらに2度魚野川を渡るようになっている。
そのため、わざわざ大きな川を3度も渡るという、とても交通の流れに沿ったとは言えないルートになっている。そこを私は“恣意的”だと冒頭に表現した。
しかし、少なくとも角栄さんの時代は、そんな奇妙なルートではなかったことが明らかになった。今回については(私の勝手な)濡れ衣であったといえる。これははっきり書いておきたい。ごめんなさい。
だとすると、栄橋はどうして県道へ組み込まれたか。
この謎の一端は、同じ町史に記録された別の県道の解説にあった。それは現在は県道浦佐小出線と全く接していない、県道雷土新田(いかずちしんでん)浦佐線である。
一般県道雷土新田浦佐線
県道として最も最近に認定された路線で、大和町五箇地内の国道17号から栄橋を渡り、岡新田を経て浄源塚から雷土新田に至る路線である。昭和59年に認定されたが、栄橋の架け替えが懸案の路線である。認定から日が浅く、現在では改良法線および橋の架け替え計画が示されていない。
このように、町史執筆当時(平成10年以前)の栄橋は、昭和59(1984)年に認定されたばかりの県道雷土新田浦佐線の一部であったらしい。
また、栄橋の架け替えが懸案とあるくらいだから、問題の大きな橋だと認知されていたこともよく分かる。
そりゃそうか、途中で河川敷に降りてしまう、一部は木造のままの橋だったのだから。

そして町史刊行後のどこかのタイミングで、昭和33年に認定された県道浦佐小出線と、昭和59年に認定された県道雷土新田浦佐線の間で、起点のトレードという珍しいことが行われ、現状のように、これらの県道は接続しないようになった。
昭和61(1986)年版の人文社刊『新潟県広域道路地図』で【この辺りを見る】と、県道の色で塗られた浦佐小出線は栄橋を通らない旧ルートであり、栄橋を通る県道雷土新田浦佐線の認定はまだ反映されていなかった。
右の写真は、今回探索の最終地点となった岡新田の交差点だが、町史刊行当時と現在の県道の変化を示した。
以前の県道浦佐小出線は、今のような奇妙なルートではなかった。
では、なぜ2本の県道の間で起点のトレードが行われたのだろうか?
残念ながら、このことに言及した資料は未発見であり、理由は正直分からない。
ただ、これも正確な時期は不明ながら、町史刊行後に浦佐小出線は起点だけでなく終点も変更され、新たに組み込まれた青島大橋によって3度魚野川を渡る経路となった。
青島大橋や栄橋を県道として整備したい思惑と、県道浦佐小出線への編入には関わりがありそうな気がする。
先ほど町史より引用した浦佐小出線の解説文にも、この県道の認定時から水無橋と福山橋の改良が懸案であったと言及されていたが、同じように栄橋や青島大橋の改良を行うことを意図した編入だったのではないだろうか。

町史をさらに紐解いていくと、現行道路法下では昭和33年に初めて(一般県道の第一弾として)認定された県道浦佐小出線には、旧道路法時代に遡る長い県道の歴史があったことが判明した。
町史によると、旧道路法の制定から間もない大正12(1923)年に上越線の浦佐駅が開業したことで、浦佐駅と小出駅の中間附近の魚野川右岸にある虫野より浦佐駅へ至る村道の開削が沿道の村々の手で行われ、翌年に開通すると同時に、県道虫野浦佐線へ認定されたことが出ていた。
これが後の県道浦佐小出線の前身となった。
また、この路線は昭和19(1944)年に起点が変更され県道吉田浦佐停車場線となったが、この県道の認定に関しても橋の改良との関わりが出ている。
吉田浦佐停車場線は佐梨川と水無川を渡る経路であったが、それぞれの川に架かる木橋がたびたび流失してしまうので、県道への認定によって永久橋へ改良すべく、南魚沼郡より選出された県会議員が中心となって県道昇格が目論まれたとあった。
このように、小出町史にはたびたび橋の改良と県道との関わりが言及されている。
そしてこのことの原点として、この地域の戦前からの“橋梁事情”があったことが次のように述べられている。
川の多い旧小出町および旧伊米ヶ崎村は、魚野川に水無川・三用川・大池川・佐梨川・羽根川・破間川など急流の中小支流が注いでいて、県道および町村道を問わず資金や資材の不足と橋梁技術の未熟な時代にあって、橋梁は交通の大きな障害になっていた。
明治から大正にかけての県道認定を願った大きな目的は、これらの河川の洪水に耐えうる橋梁の架設であった。しかし、当時は木橋の架設がせいぜいで、鉄道橋を除いてコンクリート橋や鉄橋は昭和も戦後の車時代に入ってからである。
このように、橋梁の整備こそが、県道の認定を願う大きな目的であったということが直截に述べられていた。
ここで紹介した以外にも、この町史では非常に多くの橋と県道の関わりが述べられており、私は少々驚いた。
そして感じた。
この地域の人々にとって、橋の整備を願うならばまずは県道への認定という“成功の方程式”が、他の地方よりもよほど執拗に刷り込まれているのではないか。
そのために、端から見れば不自然な県道経路の延長や、ねじ曲げ、経路のトレードといったことまでもが、日常のように繰り広げられてきたのではないか。
今回は情報や資料が少なく、栄橋が最初に架けられた経緯や、その後の橋の架け替えられた記録、河川敷内に降りることになった理由などは、見つけることが出来なかった。
橋の水平な部分は永久橋で、河川敷へ下るスロープ部分だけが木橋だったという状況には、明らかに不自然で未完成的なものを感じるが、このことに言及した記録は未発見であり、未確認である『大和町史』の取り寄せを今後行う予定である。
栄橋については、命名の由来も含めてまだまだ分からないことが多いが、この不完全な橋を真っ当に整備しようという関係者の願い……執念……が、酷くねじ曲げられた県道の原因であったことは突き止められた。
果たしてこの奇妙なツギハギの橋が、平凡だが完備された姿へ生まれ変わる日は来てしまうのか。
引続き見守っていきたいが、需要やコストを踏まえた現実的には少々厳しいかと思う。
ただ、この周辺で両岸を結ぶ新たな橋(新浦佐大橋)が、国道17号浦佐バイパスの一環として近い将来に建設される予定である。
これが完成すれば、今回の探索の起点附近の国道17号(八色大橋)は旧道となるので、そのまま県道へ降格し、新たな浦佐小出線の経路となる可能性があるだろう。