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ミニレポート第295回 国道252号 白沢トンネル旧道 後編

所在地 福島県只見町
探索日 2021.05.14
公開日 2025.10.15

 人目届かぬ旧白沢トンネルの西口旧道


旧白沢トンネルの埋め戻された東口を確認したので、次は西口を探しに行こう。
意識すれば現道から見ることが出来る東口とは異なり、西口は、探さなければ絶対に辿り着けない場所にある。



2021/5/14 11:05

再び自転車に跨がって、現白沢トンネルを潜る。
その東口は、旧トンネル同様に地山から突出した重力式坑門で、「白沢トンネル」と描かれた扁額が掲げられているようだが、あいにくツタが邪魔をしていて文字は読めなかった。
【銘板】もある。



現トンネルは全長375mで、洞内は東口から西口へ向かって上りの片勾配である。
また、西口付近の洞内にカーブがあり、入口から出口を見通すことが出来ない。

六十里越区間内では最も新しいだけあって、他の7本のトンネルよりも一回り以上広くて走りやすいが、区間内の多くのトンネルがそうであるように、照明がない。これだけ長い国道のトンネルで、広い歩道まであるのに照明がないのは珍しい。前述したように、洞内はカーブがあるため暗く、灯りを持たない歩行者はギョッとすることだろう。まあ、歩行者はほとんどいないと思うが。



11:09 《現在地》

登り坂とカーブを同時に味わいながらトンネルを出ると、そのまま覆道に繋がっている。
この覆道には現地に名前の証しがないが、資料によると、烏帽子(えぼうし)スノーシェッドという名称で、全長174m、平成16(2004)年の竣功となっている。
つまり、現トンネルが開通した当初はなかった後補の構造物である。



スノーシェッドが後補であるからか、“矢印”の位置に、坑門附属の銘板が、ほとんど見えない状態で埋め殺されてしまっている。
おそらく扁額も、あるべき位置に掲げられているのであろうが、こちらについては“完全に”見えなくなっていた。
……まあ、どちらも通行上、なくて困るものではないが。


そして、この烏帽子スノーシェッドに存在を隠されてしまったものが、もう一つある。

この写真の立ち位置から、そのまま視線を右へずらすと…。(↓)



覆道の外に、旧道が!

まさに、オブローダーでなければ見逃しちゃう隠しステージだ。

私も最初に車で通ったときは全然気付かず素通りしている。
だが、「石川県民」氏がそうであったように、通りがかりに東口を見つけたことで興味を持ち、帰宅後に地図を調べた結果、この烏帽子スノーシェッドの外に旧道があることに気付いた。
そのことを実際に現地で確かめるのが、今日の探索の目的だった。

この先に、まだ見ぬ旧白沢トンネルの西口があるはずである!



11:11

覆道の外へ、自転車ごと“脱獄”した。

旧道があるべき位置に、確かに平場が続いている。
ただ、当時の路面や、本来の道幅は喪われていた。
現トンネルの坑口を守るコンクリートブロックの擁壁が、旧道の道幅の大半のうえに建築されているためだ。



しかし、ほんの少し現道を離れると、そこには旧道を守っていたコンクリート吹付けの法面が、そのまま残されていた。

密生した灌木が視界の大部分を妨げているが、ここからさらに少しだけ進むと――



11:13 《現在地》

おおおっ!!! 旧道の路面があった!

昭和57(1982)年に現トンネルが開通しているので、それと引き換えに廃止された、すなわち40年も昔の廃道であるはずだが、鋪装がされており、道幅もちゃんと2車線分あった。

まるで時が止まったような旧国道が、普通に車で走った場合は絶対に気付けないし、立ち入ることも出来ない位置に、残っていたのである。
それを見つけ、初めて足を踏み入れる。オブローダーが愉快に感じる喜びが、ここにあった。



しかもこの旧道、滅茶苦茶眺めが良い!!

六十里越の国道が今も人気のドライブコースであるように、そもそも風景に恵まれた道だが、何らかの理由により廃止されているこの旧道も、眺めはすこぶる良い。
見渡せる峠方向には、うねうねと青い山肌を回り込んで伸びる現道や、壮大な送電線の連なりを、爽快に見渡せる。
巨大な山河を自分たちのために作り替えてきた、そんな人類の偉大な仕事の成果を思う存分に独り占めに出来る眺めは、私の大好物である。



また方向を少し変えると、人による国内の地形改変では最大級の事例といえる田子倉湖の湖面も、路肩の草木を透かして見ることが出来る。
この湖面は道路から100mは低い所にあるが、これより下の湖畔を走る道がないから、巨大な人工物でありながら人工のものが全く目に付かない湖である。



11:15 《現在地》

現道との分岐から150mほど進んで来た。
眺めのスケールは素晴らしいが、小規模な旧道であるから、もう終わりが近いはずだ。
そろそろ、旧白沢トンネルの西側坑口の擬定地である。

ここまで間違いなく私を運んできてくれた鋪装路面が、ちょっとした森と呼べるくらいに大きく育った木々のもとへ吸い込まれるように伸びていき――



11:16

道は、あるべき広さと平らさと、鋪装された路面を一挙に喪った。

まだ山側にコンクリート吹付けの法面が続いているから、間違いなくここが旧道なのだろうが、豹変である。

あまり人為的に埋め戻されたという感じもしないのだが、どうなんだろう。崩落跡というほど険しくもない、微妙な感じだ。



この時点でのGPSデータによる「現在地」を、旧道の現役時代である昭和51(1976)年の航空写真に当てはめてみたのが、上の画像だ。

センターラインを持つ2車線舗装路が平然と続いているシーンなのだが、実際はこのような“森”へと変化していた。

あるべき道が、喪われていた。



路面が喪われ、さらに進むとコンクリート吹付けの法面も区別が付かなくなって不明となったが、それでも路肩に連なる長い擁壁と、その上に設置されたガードロープの支柱が、残っていた。
おかげで、ここに道があったことは確信できた。

果たしてこの状況の先に、旧白沢トンネルは残っていてくれるのだろうか。
先に見た東口の状況を見る限り、坑口は埋め戻されていそうだったが、坑門が残っているかが焦点だ。



この先、仄かに左の山側へ切れ込んでいく谷地形があるのが感じられる。
GPSを見る限り、その奥が旧坑口の在処である。

ただ、この段階で既に、道としては跡形なしといえる状況だった。具体的な遺物が全く地表には見えなくなっている。
おそらく路面よりも数メートル高い位置に地面があり、道は全体的に埋れているのだが、それが意図的なものなのか、自然の崩壊によるものなのか、両者の複合なのかが、はっきりしない。

チェンジ後の画像は、同じ場面で来た道を振り返って撮影したものだが、一応ブル道なりの道形があるものの、道幅も路面も、明らかに旧道のそれではない。
埋れた旧道の上に再設置された作業路といった雰囲気だった。
しかし、周囲の樹木が廃止後芽吹いた木の芽より育ったものとは思えないほど太いなど、違和感もある。



11:25

そして最終的に私は、西口があった場所に辿り着いた。
その場所を、確かに踏みしめた。

しかし、直前までの状況から予感されたとおり、残念ながら、トンネル本体の遺物は皆無であった。
そのことは、チェンジ後の画像である平成17(2005)年版航空写真からも明らかである。



何をどの方向から撮れば、ここが坑口の跡地だと分かりやすいだろうか。
そのことに思い悩みながら撮った1枚だが、やっぱり何も分からない。
平面座標的な意味では一致しているが、おそらく高度的に現在の地表は旧道および旧トンネルよりもだいぶ高く、遺構を望める希望は皆無といえた。

残念ながら、西口は、そこに通じるラスト100mほどの路面ともども完全消失というのが、探索で得た結論である。
したがって、旧トンネルは東西両口とも非開口であり、立ち入り不能ということがはっきりした。
旧道・廃トンネルとしてはそこまで古くない存在であり、旧道の一部は現道から隔絶されつつも綺麗な姿で残っているが、トンネルは意表を突く遺物の乏しさであった。現道からも見える【埋れかけた東口坑壁】しか残っていなかったのである。




 旧白沢トンネルについての机上調査 



『福島県のトンネル1994』より

さて、白沢トンネルについての机上調査だ。
まず紹介するのは、前説でも少し取上げたが、福島県が管理する道路トンネルについてまとめた資料『福島県のトンネル1994』だ。
この資料には現在使われている2代目の白沢トンネルについて、平面図などの図面を含む詳しい諸元が掲載されている。

右に掲載した2枚の写真は、同書にある白沢トンネルの東口および西口である。
東口は現在と変わらない状況だが、西口は現在スノーシェッドと接続しているため、この坑門を見ることは出来なくなっている。そういう意味でも貴重な1枚である。
また、これらの写真から、当初から洞内照明がなかったことも分かる。

そして注目すべきは、同書の“本文”である。
白沢トンネルについて、次のような解説がなされているのである。
少し長いが全文を掲載する。

本路線は、新潟県柏崎市と会津若松市を結ぶ主要幹線道路で、当該トンネルは昭和55年度の災害により通行不能となり、災害復旧事業と国の特殊改良一種事業との合併により、昭和57年度に完成した。工法としては、膨張性地山のため、当時施工中であった駒止トンネル(R289)と同じNATMを採用した。

『福島県のトンネル1994』より

これにより、極めて短命だった旧トンネルが廃止された経過が初めて判明した。

すなわち、「昭和55年度の災害により通行不能となった」ことが、トンネルが切り替えられた原因だったのである。
旧トンネルは、『道路トンネル大鑑』に昭和42(1967)年竣功とあったから、完成からわずか13年目に致命的な被災をしていることになる。
しかも、旧トンネルを含む一連の六十里越の国道が開通して一般に広く供用されたのは昭和48(1973)年9月11日であるから、実質的に国道252号として利用されていた期間は7年足らずということになろう。

……この短命ぶりは、本編冒頭で軽く触れた、令和になってから喪われた2本のバイパス橋、あいよし橋と出逢橋を連想させるものがある。
というか、白沢トンネルの短命を知っていた者(具体的には道路管理者である福島県)にとっては、上述の2橋の被災が、白沢トンネルの再来と思われたとしても不思議はない。

ただ、この資料からは具体的な災害の内容については分からない。
現トンネルの工法に関連して“膨張性地山”というワードが出ているので、それが原因のように合点したくなるが、やはりこれについては直接的に言及した文献を捜索する必要があるだろう。
さらなる文献の捜索が必要だ……。




『季刊防災 (63)』表紙

国立国会図書館デジタルコレクションを調べると、うってつけの文献が見つかった。
それは、全国防災協会が刊行する『防災』という機関誌の記事である。
昭和56(1981)年1月に刊行された通巻63号に、その名も55年災 国道252号線白沢トンネル災害についてという、9ページからなる詳細な記事が掲載されていたのである。
見つけたときは、私のための記事だろこれってなったwww

では、かいつまんで紹介しよう。
まずは序文の一部を。

このトンネル災害はきわめて稀なケースとして、その原因究明から復旧工法決定に至るまで、多くの検討を費やすこととなった。ここにその経緯の一端をのこし、幾分なりとも後日の参考に供する次第である。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

「トンネル災害」として「きわめて稀なケース」であったと述べられているのが、いきなり興味をそそる。
私も早速、参考に供させていただくこととしよう。
つづいて、具体的な被災の状況について。
真新しいトンネルに、いったい何が起きたのかが今明かされる。

会津地方における55年冬期の根雪は、例年より遅く1月上旬頃であったが、その後の降雪はドカ雪の連続から、総積雪量は平年並みとなった。これを反映して融雪は短期間に集中し、多量の融雪出水が発生したのである。(中略)4月11日から被災(5月1日前後)までの融雪深は109cm、降雨を加えた換算雨量は606mmにも達することとなった。特に消雪直前の4月28日には換算雨量98mmの融雪を生じており、これが災害発生の直接の誘因になったとみられる。因みに当地方では、ほぼ同時期に数ヶ所の地辷り災害が発生したと報告されている。

このトンネルの諸元は、幅員5.5m、高さ4.5m、延長303.4m、ライニング厚0.6m、インバート無しの構造で、昭和42年11月に竣功をみたのである。トンネル内の変状は、側壁および天盤部ライニングに発生した亀裂、ならびに北側の側溝と道路の表層コンクリートとの、接触部のズレを主体とする路面の変形(隆起)である。


『季刊防災 (63)』より

この変状はトンネルのほぼ全区間にわたって発生しているものの、特に路面の隆起が顕著で、車輌の通行に支障をきたす程の異常地点は、次の区間に発生している。

A区間 測点No.1+14m 〜No.4+7m(53m)
B区間 測点No.5    〜No.9+10m(90m)
A区間 測点No.10+10m〜No.12+3m(33m)

路面の隆起量は、AおよびC区間で10cm強、B区間では約30cm強にものぼっており、後者の区間においては、このため側溝と道路の表層コンクリートが完全に分離した状態になっているほか、側壁がトンネル内側に若干移動するとともに、側壁に1〜2cm程度のクラックが発生する状況となっている。また変状現象はその後も継続しており、前述のA〜C区間の3区間を中心として新たな亀裂が多数発生している。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

専門誌らしい表現が多いので少し難しいが、簡単にまとめると、昭和55(1980)年春の大量融雪が引き金となって、旧トンネルがあった山が広範囲に地辷りを起し、そのために全長約300mのトンネルのうち、53+90+33=176mという半分以上の長さに、路面の隆起や壁面の亀裂などの変状現象が生じたというのが、被災の内容である。

幸いにして冬季閉鎖中の出来事であり、通行に関わる人的被害はなかったようであるが、長い冬季閉鎖期間中に、積雪に起因する自然災害によって道路構造物が破壊されているのが発見されたというパターンは、後のあいよし橋や出逢橋と同様だ。
冬季閉鎖中の道路というのは単に雪に埋れて静かに眠っているだけで、いわばコールドスリープのように自然融雪と共に自然復活するものと期待してしまうが、六十里越ほどの積雪量となると、全く甘くはないらしい。



『季刊防災 (63)』より

地辷りは東側(Iブロック)が幅約40m、長さ約60mの規模で、記述のA区間の直上部に広がり、また西側(IIブロック)は幅約140m、長さ約180mの大規模な地辷りを生じてB、C区間に隣接しており、この両者は地質構造に規制された岩辷りの地形特性を有している。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

トンネルの広範囲に変状を及ぼした地辷りは、なんとトンネルの東西両側で同時に発生している。
トンネル坑道は、これらの地辷りによって移動した地盤に直接触れてはいなかったが、地中の地圧が大きく変化したことで、間接的に変状をもたらしたのであった。
その機序についても元資料で詳細に記述されているが、本稿では省略する。

今回生じた白沢トンネルの変状は、以上述べた各要因が素因・誘因として相互に複雑に関連しあって発生した、きわめて特殊な災害とみられるのである。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

……このようにまとめてあり、これが序文に、「このトンネル災害はきわめて稀なケース」とされていた事由である。

続いて、私にとって災害の内容以上に興味深い、被災した白沢トンネルをどう処置したのかという復旧工法についての内容が述べられていたので見ていこう。

復旧工法については国庫負担法の性格から、現道トンネルを使用して補強工による、いわゆる原形復旧に基づく対策工法を第一の検討の対象とした。(中略)トンネル内側に新たに厚0.45mのライニングとインバートを施工する構造としたのである。
一方このライニング施工により車道幅員が減殺され、原形機能低下をカバーするため、新たに別ルートに一車線の新トンネルを施工する復旧工法が考えられ、その工費は合計1063百万円要することが算定された。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

これは意外だったのだが、全長の半分近くに変状が現われ部分的に30cm以上も隆起したトンネルを、補強工によって復旧することが最初に検討されたという。
おそらく現在であれば、原形復旧の建前はありつつも、再度災害防止の観点からすぐに新トンネルの建設に舵が切られるかと思う。

ただ、内壁を厚く補強するとトンネルの内径が小さくなることから、新たに1車線分のトンネルを新設し、新旧トンネルで上下線を分離した構造にすることも計画されたそうだ。
もしこれが実現していれば、新たな白沢トンネルと旧の白沢トンネルが現在も併用されていたことだろう。

この案について総合的に考察を加えると、@このトンネルの変状はその後も引続き進行中であること、A豪雪地帯であること等のため、今後の変状形態の予測が出来ないこと、B(略)C(略)D(略)。このため第二案として、現トンネルの機能を確保した新トンネルを、既述の変状を生じている地域から完全に分離した地点に設け、恒久的な安全性を確保しようとするものである。

『季刊防災 (63)』「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」より

このあとの経過は引用を省略するが、結果的にはこの「第二案」である完全な新トンネルによる復旧工法に決定され、その工事を始めようというタイミングがこの文献の執筆のタイミングであった。
そして実際に2年後の昭和57年に開通したのが、現在使われている白沢トンネルである。

なお、この工事中には工事用道路として被災したトンネルを補強して利用する計画があると述べられており、実際にそのようにされたと思われる。
その後の事情は明らかではないが、2年間にもおよぶ工事中は一般の交通は遮断され続けただろうから、随分長期にわたって福島県と新潟県の間の重要な幹線が通れなかったことになる。 六十里越を国道として完成させた最大の立役者とされる田中角栄氏(彼が「会越の窓開く」と揮毫した開通記念碑が沿道に存在する)も、気を揉んだことだろう。時期的にそれどころではなかったかもしれないが…。



『図説会津只見の歴史』より

雑誌『防災』の記事による白沢トンネルの被災については、以上である。

今のところ、この記事以降の経過は記録が見当らず、特に現地で私を惑わせた、旧トンネル西口はどこへ行ったのか?の謎は、謎のまま残っている。
旧道として放棄された後も地辷りが継続し、自然と破壊され地中に埋没したものなのか、人為的な廃道化工事による客土によって地中に埋没したものなのか。
個人的には後者っぽい印象を持ってはいる。
旧トンネルがあった尾根上には現役の鉄塔があり、地辷りを放置し続けるとは考えにくい。だが記録は未発見である。

また、旧トンネルの現役当時の写真も、残念ながら見つかってはいない。
このトンネルを撮影したものとしては唯一、昭和45(1970)年に只見町が発行した『図説会津只見の歴史』に、昭和40年頃に撮影されたとされる「白沢隧道工事現場」と注釈された写真が見つかっている。(→)
今では立ち入ることが出来ないトンネル内部で撮影された貴重な写真ではあるが、完成後の姿も見てみたかった。


国道252号の六十里越には、豪雪を原因とした短命すぎる構造物が、最近のニュースで知られる2本の橋に先行して、もう1つあった。
このあまり知られていない事実に光を当てたいことが、本稿の最大の執筆動機である。
ここまで豪雪によって直接的に痛めつけられてきた国道は、他にはないかもしれない。次に通る時は、もっと労ってみたいと思う。





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