
『福島県のトンネル1994』より
さて、白沢トンネルについての机上調査だ。
まず紹介するのは、前説でも少し取上げたが、福島県が管理する道路トンネルについてまとめた資料『福島県のトンネル1994』だ。
この資料には現在使われている2代目の白沢トンネルについて、平面図などの図面を含む詳しい諸元が掲載されている。
右に掲載した2枚の写真は、同書にある白沢トンネルの東口および西口である。
東口は現在と変わらない状況だが、西口は現在スノーシェッドと接続しているため、この坑門を見ることは出来なくなっている。そういう意味でも貴重な1枚である。
また、これらの写真から、当初から洞内照明がなかったことも分かる。
そして注目すべきは、同書の“本文”である。
白沢トンネルについて、次のような解説がなされているのである。
少し長いが全文を掲載する。
本路線は、新潟県柏崎市と会津若松市を結ぶ主要幹線道路で、当該トンネルは昭和55年度の災害により通行不能となり、災害復旧事業と国の特殊改良一種事業との合併により、昭和57年度に完成した。工法としては、膨張性地山のため、当時施工中であった駒止トンネル(R289)と同じNATMを採用した。
これにより、極めて短命だった旧トンネルが廃止された経過が初めて判明した。
すなわち、「昭和55年度の災害により通行不能となった」ことが、トンネルが切り替えられた原因だったのである。
旧トンネルは、『道路トンネル大鑑』に昭和42(1967)年竣功とあったから、完成からわずか13年目に致命的な被災をしていることになる。
しかも、旧トンネルを含む一連の六十里越の国道が開通して一般に広く供用されたのは昭和48(1973)年9月11日であるから、実質的に国道252号として利用されていた期間は7年足らずということになろう。
……この短命ぶりは、本編冒頭で軽く触れた、令和になってから喪われた2本のバイパス橋、あいよし橋と出逢橋を連想させるものがある。
というか、白沢トンネルの短命を知っていた者(具体的には道路管理者である福島県)にとっては、上述の2橋の被災が、白沢トンネルの再来と思われたとしても不思議はない。
ただ、この資料からは具体的な災害の内容については分からない。
現トンネルの工法に関連して“膨張性地山”というワードが出ているので、それが原因のように合点したくなるが、やはりこれについては直接的に言及した文献を捜索する必要があるだろう。
さらなる文献の捜索が必要だ……。

『季刊防災 (63)』表紙
国立国会図書館デジタルコレクションを調べると、うってつけの文献が見つかった。
それは、全国防災協会が刊行する『防災』という機関誌の記事である。
昭和56(1981)年1月に刊行された通巻63号に、その名も「55年災 国道252号線白沢トンネル災害について」という、9ページからなる詳細な記事が掲載されていたのである。
見つけたときは、私のための記事だろこれってなったwww
では、かいつまんで紹介しよう。
まずは序文の一部を。
このトンネル災害はきわめて稀なケースとして、その原因究明から復旧工法決定に至るまで、多くの検討を費やすこととなった。ここにその経緯の一端をのこし、幾分なりとも後日の参考に供する次第である。
「トンネル災害」として「きわめて稀なケース」であったと述べられているのが、いきなり興味をそそる。
私も早速、参考に供させていただくこととしよう。
つづいて、具体的な被災の状況について。
真新しいトンネルに、いったい何が起きたのかが今明かされる。
会津地方における55年冬期の根雪は、例年より遅く1月上旬頃であったが、その後の降雪はドカ雪の連続から、総積雪量は平年並みとなった。これを反映して融雪は短期間に集中し、多量の融雪出水が発生したのである。(中略)4月11日から被災(5月1日前後)までの融雪深は109cm、降雨を加えた換算雨量は606mmにも達することとなった。特に消雪直前の4月28日には換算雨量98mmの融雪を生じており、これが災害発生の直接の誘因になったとみられる。因みに当地方では、ほぼ同時期に数ヶ所の地辷り災害が発生したと報告されている。
このトンネルの諸元は、幅員5.5m、高さ4.5m、延長303.4m、ライニング厚0.6m、インバート無しの構造で、昭和42年11月に竣功をみたのである。トンネル内の変状は、側壁および天盤部ライニングに発生した亀裂、ならびに北側の側溝と道路の表層コンクリートとの、接触部のズレを主体とする路面の変形(隆起)である。

『季刊防災 (63)』より
この変状はトンネルのほぼ全区間にわたって発生しているものの、特に路面の隆起が顕著で、車輌の通行に支障をきたす程の異常地点は、次の区間に発生している。
A区間 測点No.1+14m 〜No.4+7m(53m)
B区間 測点No.5 〜No.9+10m(90m)
A区間 測点No.10+10m〜No.12+3m(33m)
路面の隆起量は、AおよびC区間で10cm強、B区間では約30cm強にものぼっており、後者の区間においては、このため側溝と道路の表層コンクリートが完全に分離した状態になっているほか、側壁がトンネル内側に若干移動するとともに、側壁に1〜2cm程度のクラックが発生する状況となっている。また変状現象はその後も継続しており、前述のA〜C区間の3区間を中心として新たな亀裂が多数発生している。
専門誌らしい表現が多いので少し難しいが、簡単にまとめると、昭和55(1980)年春の大量融雪が引き金となって、旧トンネルがあった山が広範囲に地辷りを起し、そのために全長約300mのトンネルのうち、53+90+33=176mという半分以上の長さに、路面の隆起や壁面の亀裂などの変状現象が生じたというのが、被災の内容である。
幸いにして冬季閉鎖中の出来事であり、通行に関わる人的被害はなかったようであるが、長い冬季閉鎖期間中に、積雪に起因する自然災害によって道路構造物が破壊されているのが発見されたというパターンは、後のあいよし橋や出逢橋と同様だ。
冬季閉鎖中の道路というのは単に雪に埋れて静かに眠っているだけで、いわばコールドスリープのように自然融雪と共に自然復活するものと期待してしまうが、六十里越ほどの積雪量となると、全く甘くはないらしい。

『季刊防災 (63)』より
地辷りは東側(Iブロック)が幅約40m、長さ約60mの規模で、記述のA区間の直上部に広がり、また西側(IIブロック)は幅約140m、長さ約180mの大規模な地辷りを生じてB、C区間に隣接しており、この両者は地質構造に規制された岩辷りの地形特性を有している。
トンネルの広範囲に変状を及ぼした地辷りは、なんとトンネルの東西両側で同時に発生している。
トンネル坑道は、これらの地辷りによって移動した地盤に直接触れてはいなかったが、地中の地圧が大きく変化したことで、間接的に変状をもたらしたのであった。
その機序についても元資料で詳細に記述されているが、本稿では省略する。
今回生じた白沢トンネルの変状は、以上述べた各要因が素因・誘因として相互に複雑に関連しあって発生した、きわめて特殊な災害とみられるのである。
……このようにまとめてあり、これが序文に、「このトンネル災害はきわめて稀なケース」とされていた事由である。
続いて、私にとって災害の内容以上に興味深い、被災した白沢トンネルをどう処置したのかという復旧工法についての内容が述べられていたので見ていこう。
復旧工法については国庫負担法の性格から、現道トンネルを使用して補強工による、いわゆる原形復旧に基づく対策工法を第一の検討の対象とした。(中略)トンネル内側に新たに厚0.45mのライニングとインバートを施工する構造としたのである。
一方このライニング施工により車道幅員が減殺され、原形機能低下をカバーするため、新たに別ルートに一車線の新トンネルを施工する復旧工法が考えられ、その工費は合計1063百万円要することが算定された。
これは意外だったのだが、全長の半分近くに変状が現われ部分的に30cm以上も隆起したトンネルを、補強工によって復旧することが最初に検討されたという。
おそらく現在であれば、原形復旧の建前はありつつも、再度災害防止の観点からすぐに新トンネルの建設に舵が切られるかと思う。
ただ、内壁を厚く補強するとトンネルの内径が小さくなることから、新たに1車線分のトンネルを新設し、新旧トンネルで上下線を分離した構造にすることも計画されたそうだ。
もしこれが実現していれば、新たな白沢トンネルと旧の白沢トンネルが現在も併用されていたことだろう。
この案について総合的に考察を加えると、@このトンネルの変状はその後も引続き進行中であること、A豪雪地帯であること等のため、今後の変状形態の予測が出来ないこと、B(略)C(略)D(略)。このため第二案として、現トンネルの機能を確保した新トンネルを、既述の変状を生じている地域から完全に分離した地点に設け、恒久的な安全性を確保しようとするものである。
このあとの経過は引用を省略するが、結果的にはこの「第二案」である完全な新トンネルによる復旧工法に決定され、その工事を始めようというタイミングがこの文献の執筆のタイミングであった。
そして実際に2年後の昭和57年に開通したのが、現在使われている白沢トンネルである。
なお、この工事中には工事用道路として被災したトンネルを補強して利用する計画があると述べられており、実際にそのようにされたと思われる。
その後の事情は明らかではないが、2年間にもおよぶ工事中は一般の交通は遮断され続けただろうから、随分長期にわたって福島県と新潟県の間の重要な幹線が通れなかったことになる。
六十里越を国道として完成させた最大の立役者とされる田中角栄氏(彼が「会越の窓開く」と揮毫した開通記念碑が沿道に存在する)も、気を揉んだことだろう。時期的にそれどころではなかったかもしれないが…。

『図説会津只見の歴史』より
雑誌『防災』の記事による白沢トンネルの被災については、以上である。
今のところ、この記事以降の経過は記録が見当らず、特に現地で私を惑わせた、旧トンネル西口はどこへ行ったのか?の謎は、謎のまま残っている。
旧道として放棄された後も地辷りが継続し、自然と破壊され地中に埋没したものなのか、人為的な廃道化工事による客土によって地中に埋没したものなのか。
個人的には後者っぽい印象を持ってはいる。
旧トンネルがあった尾根上には現役の鉄塔があり、地辷りを放置し続けるとは考えにくい。だが記録は未発見である。
また、旧トンネルの現役当時の写真も、残念ながら見つかってはいない。
このトンネルを撮影したものとしては唯一、昭和45(1970)年に只見町が発行した『図説会津只見の歴史』に、昭和40年頃に撮影されたとされる「白沢隧道工事現場」と注釈された写真が見つかっている。(→)
今では立ち入ることが出来ないトンネル内部で撮影された貴重な写真ではあるが、完成後の姿も見てみたかった。
国道252号の六十里越には、豪雪を原因とした短命すぎる構造物が、最近のニュースで知られる2本の橋に先行して、もう1つあった。
このあまり知られていない事実に光を当てたいことが、本稿の最大の執筆動機である。
ここまで豪雪によって直接的に痛めつけられてきた国道は、他にはないかもしれない。次に通る時は、もっと労ってみたいと思う。