今回は前回のミニレポの話を引き継いだ実質的な続篇である。なので先に第297回を読まれることを推奨する。
前回の机上調査編では、昭和40年代に富津市の浅間山(せんげんやま)にてベルトコンベヤーによる山砂運搬が行われていたことを紹介したが、そこで使った昭和50(1975)年の地形図の中にひっそりとベルトコンベヤー用のトンネルが描かれていたことに皆さまは気付かれただろうか。
前回はベルトコンベヤーが設置されていた築堤を潜る道路トンネルを紹介したが、今回はベルトコンベヤーが山を潜るために設置されたトンネルがテーマである。
昭和50(1975)年の地形図を改めて見てもらおう。(↓)
「索道(リフト等)」の記号で表現されている2系統のベルトコンベヤーのうち、南側にある路線に3本のトンネルが描かれていた。
このベルトコンベヤーは「B系統」と呼ばれていたもので(他方は「A系統」)、山がちな地形を縫って海まで通じていた。そのため途中で尾根を越える3箇所にトンネルがあった。これらのトンネルは、海に近い側から順に、1号、2号、3号トンネルと呼ばれていたことが(後ほど紹介する)資料から判明している。
次に、チェンジ後の地形図を見て欲しい。こちらは最新の地理院地図である。
「A系統」の大部分には道路が並走していたため、ベルトコンベヤーが撤去された後も道路部分が存続しているが、「B系統」については道路がなかったため、ベルトコンベヤーが撤去されたことで、地図上では全く跡形がなくなっている。
3本あったトンネルも、全て表記が消失している。
そればかりか、等高線を見て貰えば明らかなように、2号と3号トンネルが穿たれていた山自体が消えている。
おそらくは採砂の進展によって、これらの山は取り壊されたのであろう。
続いて、新旧の航空写真も比較してみよう。
地形図以上に3本のトンネルの在処の変化がよく分かる。
昭和50(1975)年の航空写真に白い直線ではっきりと見えるのがベルトコンベヤーを覆う屋根である。
地形図に描かれていたように数回屈折しながら海まで伸びており、途中で線が見えなくなる3箇所がトンネルであった(見やすいように黄色く着色した)。
チェンジ後の画像は令和3(2021)年に撮られたものだが、1号トンネルがあった山はそのまま残っているように見えるが、2号トンネルと3号トンネルがあった場所は、山自体が消えて平坦化している。そして太陽光発電施設の敷地内に取り込まれている。
探索前にこの状況を把握していたため、2号3号トンネルについては既に跡形なきものと判断し、現存の可能性がある1号トンネルを捜索の対象と定めた。
以下、現地での捜索の模様を紹介しよう。
2025/2/5 7:00 《現在地》
前回の探索現場から1.5kmも離れていない今回の現場へ、そのまま自転車で移動してきた。
ここは富津市笹毛の千葉県道256号新舞子海岸線だ。目の前にある深い切り通しを超えると、湊(みなと)に大字が変わる。
この切り通しに以前は(正確な年は不明)長浜隧道という全長104mのトンネルがあった。昭和42年の『道路トンネル大鑑』トンネルリストに出ているし、昭和50年の航空写真でも健在だった。
7:01 《現在地》
長浜隧道跡の切り通しを抜け出た辺りから振り返って撮影。
「現在地」の地図に“点線”で示したのが、昭和50年の地形図を元にして書き加えたベルトコンベヤーの位置だ。
こうして対照させてみないと現地の風景だけでは絶対に気付けないと思うが、ちょうどこの場所でベルコンは県道と立体交差していたのである。
チェンジ後の画像に、県道を跨ぐベルコンの姿を想像で書き加えた。
ベルコンがあった当時は切り通しになる前で、長浜隧道があったので、その坑口の前を渡っていたことになる。
県道との交差地点から、ベルコンの浅間山方向を撮影している。
橋脚跡でも残っていないかと期待したが、意外なほど何もない。
これがもし鉄道のモノレールの廃線跡であったなら、遺構はなくとも区画に面影が残っていそうだが、そういう感じすらしない。
そして、この方向に100mほど進んだところが、ベルコン2号トンネルの西口であったはずだが、写真だと樹木で少し辛いけれど、山自体が失われている。
なぜか写真が撮れていなかったのでストビューから画像を借用したが、これが同地点から撮影した、目指すべき1号トンネル方向の風景だ。
宅地分譲でもされたことがあるのか、それらしい区画と整地がなされていたが、しかし平場の上は猛烈に密生した竹林と化していた。
この方向にはほんの僅か、長くても20m進めば1号トンネル東口だったと思われるが、それほど近くても見通せないであろう。
逆に言えば、この見通しの悪さが、稀少なベルコントンネルの廃トンネルを人目から隠し続けてきたとも考えられる。
……残っていればだが。
特に山林への立ち入りを制限するものはないので、自転車を県道に残して徒歩で入ってみる。
7:02
密林!
猛烈な竹林は、道路沿いの整地された部分も、その奥の斜面も、一様に埋め尽くしていた。
地形に架空設置されていたベルコンの痕跡が残るとしたら、橋脚が立てられていた場所と、あとはトンネルだけだろう。
そのことが捜索を困難にしていた。
ベルコンは県道の路面を跨ぐ高さにあったので、トンネルも当然、路面より高い位置にあったはず。
ということは、山の斜面の中腹みたいなところに、唐突に口を開けていた可能性が高い。
探しにくい立地である。
県道沿いの平場には何もないと早々に見切りを付け、トンネルが貫通していたに違いない山の斜面に取付いた。
繰返すが、猛烈に密生した竹林で、見通しも歩きにくさも最悪レベルである。
歩を進める度に乾いた倒竹を踏み、盛大にバッキバキと音を立ててしまう。近隣住宅地の皆さま、怪しい音を立ててごめんなさい。タケノコ盗みじゃないんです。
竹が密生する山の斜面で、前後に脈絡のないトンネルの坑口をピンポイントに探すという困難なミッションであったが、唯一にして最大の救いは、その在処が狭い範囲内で確定していることだ。
GPS画面上の「現在地」を、空中写真や地形図で当りを付けていた「坑口の位置」へ、忠実に寄せていった。
そして至る。
7:04
新旧航空写真によって対照される、この位置。
1号トンネル東口跡地。
そこには……
トンネルと分かる遺構は残っていなかった!(涙)
残念ながら、これが答えだ。
ただ、周囲の林地には見られないコンクリートの礎石らしきものの断片が、地形の一部に露出していた。
見える部分が断片的過ぎて、それがベルコンやトンネルのとどのように関わっているのか不明だが、不自然に竹の薄い場所も礎石の周辺にあるので、地下に埋没している(おそらく埋め戻された)コンクリート坑門の天井である可能性が高いのではないかと思っている。道路との比高関係にも違和感はない。
1号トンネル東口埋没跡地を山側から見下ろしている。
左奥に少し見えるのが、切り通しの底を通る県道の路面だ。
前述したコンクリートの断片的な出土物さえ少し離れると見えないので、本当に写真では何も分からない。
山の中の廃トンネルとしては、想像以上の残って無さである。
人家に近い場所であるだけに、危険防止のため完全に埋め戻された可能性が高いと思う。
今は、毎年生え出てくるタケノコに、地中の様子を聞くしか手立てはなさそうである。
探索としては、残念な感じになってしまったが……
7:10 《現在地》
まだ西口に一縷の望みはある!
県道から適宜の脇道に逸れ、西口擬定地へ向かって移動する。
写真は1号トンネルが潜っている尾根を越える小さな峠の頂上だ。
ベルコンのようなアップダウンをよほど嫌う手段でなければ、坂道で容易く越えてしまえるような小さな頂である。
この峠を越えると……
浦賀水道越しに富嶽が正面!
そのまま額縁に入れて飾りたくなるような景色が唐突に出現。
そして私は直ちに思った。
この景色における聖域のような青い海上に1.5kmもベルコンを伸ばし、人類の便益で世界を上書きした先人たち誇るべき畏れ多さを!!
私こういうの大好き!
7:16 《現在地》
富士山の美貌に熱くなりながら峠から前進し、この写真の場所に来た。
この切り通しは先ほど越えた峠のそれではない。
地図の「現在地」の位置にこれがある。
昭和50年の地形図だと、この切り通しは隧道である。
残念ながら隧道の名称は不明で、往時の写真も未発見だ。
そして、この切り通しの入口が分岐になっている。
ここから右後ろに切り返す道がある。
私が行きたいのは、そっちだ。
私はこの右の道から下ってきた。
そして、切り返して左の道へ行く。
一帯は南北と東を山に囲まれて西側だけが海に開けた緩斜面で、今はまだ太陽が背面の山に隠されて寒々としているが、日中は明るい棚田になっている。
この農地の整備に関する立派な石碑が“○印”の位置に設置されていた。
また、この少し先でも道は二手に分れており、ガードレールが2方向に見えている。
私が進みたいのは、登っていく方の道だ。
「農村基盤総合整備事業富津市笹毛土地改良事業共同施工長浜工区 竣功記念碑 富津市長黒坂正則書」
そのように表書きがされた黒御影石の石碑。
裏側には農地の沿革を述べる碑文がしたためられていた。
一時的とはいえこの土地を通過していたベルコンについて書かれていないか、読んでみた。
当地区は三箇所の山合の棚田で、起伏多く生産物は背板で搬出していた。昭和29年隧道の完成を見たが、耕地の殆んどは不整形の谷津田で排水施設なく、田越排水で天水に頼る極めて生産性の低い強湿田であった。
昭和53年土地改良事業の期が熟し、笹毛地区との共同施行を組合員の協力と関係諸機関の適切な指導に依り、集落道路も新設され、平成6年遂に其の事業の完成を見るに至った。従来は此の地を悪浪と呼んでいたが、是を期に富士を望む地に因んで、富士浪と字改した。今後大いに生産性の向上が期待されるものである。(以下略)
竣功記念碑裏面碑文
前述の隧道が切り通しになったのも、私が県道から越えてきた切り通しの道路も、上記の土地改良事業の一環であったらしい。
ベルコンの話は出てこないが、昭和53年にスタートした事業であるということで、これはベルコンが使われていた末期である。
さらに、碑文の省略した後段部分に関係者の名前が多数列記されているのであるが、その「集落道路施工業者」の項目は「五洋建設(株)東京支店 房総建設事業所」となっており、これは後に机上調査で明らかになるのであるが、当地のベルコンを運用し土砂の採取を行っていたのが五洋建設であり、ここに小さな繋がりが見て取れたのである。
7:18 《現在地》
分岐の右の道は鋪装がなく、そのうえ竹筒で簡単な車止めが施されていた。
固定はされていないので、持ち上げて自転車ごと先へ進んだ。
枯れ草が路上まで覆い被さる勢いであり、廃道寸前のような感じだが、目的地はもう間近である。
7:20
道は緩やかな上り勾配で、耕作地と山林の境をなすように伸びている。
ただ、この道の周囲の耕地は既に利用されなくなっているようで、それがこの道が草生している原因だろう。
あっという間に、終点と思しき谷戸の奥に突き当たってしまった(チェンジ後の画像)。
ベルコンの痕跡は見当らない。
せめて坑口の跡地の現状を確かめたいが、路上でさえこの藪である。
闇雲に路外の藪を掻き分けて探すのは、現実的ではない…。
ここで改めてGPSで現在地を確認すると、いつの間にか、1号トンネルの西口擬定地を通り過ぎていたことが判明した。
知らずに通り過ぎていた……?
そう言われてみれば、実は一箇所だけ、気になる場所が途中にあった。
7:21
気になる場所というのは、ここだ。
私が、予め探索対象物などの諸々を自分で書き込んでいる地図アプリ「スーパーマップル・デジタル for Android」だと、1号トンネル西口はここにあることになっている。
これは昭和50年の地形図から忠実にトレースした坑口の位置だったが、いま辿ってきた道は、坑口を南北に横断するように通行していた。
(チェンジ後の画像)
この場所のほんの数メートル四方だけ、コンクリートで路面が鋪装されている?
なぜ?
ああああ〜〜〜!!!
道路直下にコンクリート擁壁あり!!
すぐさま下降して確認だ!!!
これが本邦初公開……かは知らないが、
浅間山土砂採取事業用ベルトコンベヤー1号トンネルの西口跡地である!
東口同様、明らかに開口していないのは残念だが、確証を持てる遺構を初めて見つけ出すことが出来た。
全長が3.5kmもあった巨大なベルトコンベヤーだったが、ほとんどが架空施設であったため、廃止後も地上に残った遺構は極めて少なく、この坑口を埋めた壁が最大の遺構ではないかと思っている。
そしてこの壁、よく見ると一部の形が変わっていて、全体が均一の垂壁ではない。
チェンジ後の画像で示したような形状になっていたのである。
ここにも秘密がありそうだ。
休耕田らしい一面のススキの原っぱに降りて、道路下にある擁壁の全体像を撮影した。
両側に翼壁を持つ幅15m、高さ6mほどのコンクリート擁壁だが、右側の5分の2くらいの幅が膨らんだ壁になっている。
また、この壁の膨らんでいる部分の上だけ路面がコンクリートで鋪装されていた。
これはこの部分の構造がボックスカルバートになっていて、その天井裏が路面であることを示唆しているに違いない!
路面の下には空洞があるのだろう。
二度と近づけない、密閉されたトンネルの空洞が…!
坑口を埋め殺している壁の前までやって来た。
目隠しみたいに笹が生い茂っているが、掻き分けて壁を見ても、やはり開口はしていなかった。
この壁の裏側に坑門が隠れており、本来は左側の垂壁とツライチだったのだろう。
したがって、私が今立っている場所にベルコンが設置されていたのである。
ここは数少ない、架空ではなく地表にベルコンが通っていた場所ということになろう。
向かって右側の翼壁はコンクリートブロックだが、これもベルコン時代からの構造物だと思う。
このベルコン跡、国内最大規模の巨大土木工事に関わった遺構であるにも関わらず、どこでも保存や産業遺産のような扱いを全く受けておらず、すっかり無かったもののようにされているのが印象的だ。
確かに富津市側の感覚として、新たな土地が生み出された対岸の扇島側と比べれば、資源を奪われたというネガティブな要素を持つ遺構なのかもしれないが、当時の人が実際にどのような感じ方をしていたのか気になるところ。
@ 令和2(2020)年
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A 平成7(1995)年
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B 昭和50(1975)年
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探索の答え合わせを、3世代の航空写真から行なってみる。
@令和2(2020)年版は、探索時の状況に極めて近い。
「現在地」の地点にある擁壁は、直上からの撮影のため分かりづらいが、その上にある路面だけ鋪装されているのが色の違いで分かると思う。
A平成7(1995)年版は、ベルコンは残っているが、設置の目的であった扇島の埋め立ては昭和55(1980)年に完了し、一連の事業も終了したとされているから、おそらく稼働していない休眠設備だったのではないかと思う(平成17年の航空写真では撤去されている)。
そして最も重要な点として、「現在地」は確かに1号トンネル西口の目の前である。
B昭和50(1975)年版は、ベルコン稼働の最盛期の光景だ。
先ほど土地改良事業の碑文を紹介したが、この当時は農地が不整形で、改良前であることが分かる。
また、周辺の道路も未成で、坑口直上の道路はまだない。
さらに、坑口は両側に擁壁がある奥まったところにあり、現在と地形が少し違っている。
耕地を拡大するために片側の擁壁を撤去したことが分かる。
結論。
この場所が坑口跡地で間違いない!
発見のきっかけとなった、そこだけが鋪装された路上に戻って、かつてベルコンが沖まで伸びていた海上を俯瞰する。
海の手前に内房線の線路があり、ベルコンは跨線橋で跨いでいたが、やはり痕跡は残っていないようだ。
ただ、その先の砂浜の海岸線には沿う道がなく、私は行ったことがない。南北から浜伝いに歩いて近づくことは出来そうなので、もしかしたらベルコンの痕跡が何かあるかも知れない。
今回、坑口の閉塞や埋め戻しのためトンネルの内部へ進入することこそ適わなかったが、僅かながら明確な痕跡を見ることが出来たのは大きな収穫であった。
7:29 《現在地》
塞がれた坑口直上の路面に戻ってきた。
これから撤収するところだが、ただの撤収なら敢えて書くことなど何もない。
実はここで、さらなる驚きの発見をした!
私はこのタイミングで坑口とは反対側の向かって左の藪に目を向けた。
何を期待してという明確なビジョンはなかったが、「この下に隧道が埋もれている」ことが分かったので、地下にある隧道が地表に“何かの影響”を与えている可能性を考えてのことだった。
通常、このような行為が実を結ぶことはない。
誰かによって意識的に埋め戻されたトンネルは、いつまでも大人しく埋まっているべきなのである。
密生した笹藪が、道路と山の斜面の間を埋めていた。
笹藪の地面は平らだから、おそらくここにも隧道の一部であるボックスカルバートが埋めてあるのだろう。
昼なお暗い藪を掻き分けながら、山の斜面が始まるところまで進んでみた。
7:31
なんということでしょう!
穴が開いているではありませんか!!
まるで自然洞窟のような崩れ放題の穴だが、位置的には完全にベルコン1号トンネルの直上であり、無関係とは考えにくい!!
崩れ放題の坑口だが、身を屈めれば入っていける広さがある。
洞床は平らでないフカフカの砂山で、人の出入りしている様子は全くない。
そもそも、私がいるのは本来の1号トンネルの塞がれた坑口の“直上”の高さであり、本来ならば隧道は私の足元に埋れているはずだ。
いったいこの穴はなんなんだ?!
突入!
立ち上がることが出来ない低い天井は、大まかにはアーチ型をしているが、整形された感じではなく、崩れっぱなしのゴツゴツとした岩壁だ。
一方で、洞床はふかふかの砂地で、天井から剥がれたらしき岩塊も散乱している。かつ、中央部が盛り上がった“かまぼこ”のような形をしている。
明らかに、人間が立ち入るために用意された“空洞”ではない所に誤入している感覚があった。
空間の大きさ的に、人体をねじ込める限界が早くも来た。
だが、この最後の空間で、私は穴の正体を理解した。
皆さまも、お気づきだろうか?
洞床のかまぼこ状に膨らんでいる部分に、あばら骨のように等間隔に埋設された、H鋼の存在に。
これは、これまで様々な隧道で内側から触れてきた、坑道補強用の鋼製セントルである。
私が“誤入”していると感じたのは道理で、ここはやはり意図的に設けられた“洞内”ではなかった。
現地で手に入れた手掛りを元に、1号トンネル西口の縦断面図を想像して描いてみた。
坑口はボックスカルバートになっていて、その上に道路がある。
ボックスカルバートは土被りの全くない部分に設置されており、本来の地山を潜る部分は一般的な山岳工法のトンネルであろう。
そしてこの地山に掘抜かれた坑道は、全部がそうであるかは不明だが、少なくとも西口付近については補強用の鋼製アーチセントルで巻かれている。
私が見つけた空洞は、このセントルで巻かれた坑道と、地山の間に生じたものである。
建設当時から自然に存在していた空洞であろうが、後年に崩れて広がった部分もあるかもしれない。
素掘りのトンネルを巻き立てると、基本的には巻き立ての外側にもいくらかの空洞が残ってしまう。
通常、その空洞は坑門で塞がれるため地表には露見しないが、ここには適当な坑門が無いために、こうして開口したままになっていたのだろう。
最奥の到達地点から入口を振り返った。
人が入れる空洞の奥行きは10mほどで、トンネルの全長はこの10倍以上はあるはずだ。
今回のこの意外な最後の発見。
これは、1号トンネルの内部に入ったと、言えるだろうか。
心情的には言いたいところだが、まあセントルの内側が本来の通路としての坑道なんで、ギリギリ「足りてない」かなぁ……。
惜しかった!! でも、執念でここまで迫ってやったぜ!(笑)
今回探索したベルトコンベヤーを運用した事業の全体像については、前回の机上調査編と内容が重複するので省略する。
ここではベルコンの建設に関わる資料を捜索し、現在では痕跡がほとんど残っていない、この壮大な運搬施設への理解を深めたいと思う。
国立国会図書館デジタルコレクションのデジタルライブラリを「浅間山土砂採取」などのキーワードで検索すると、この事業が行われていた昭和40年代に編まれた技術的な資料が数多くヒットした。

『建設の機械化 (265)』(昭和47年3月号)より
まずはそのうちの一つ、昭和47(1972)年3月発行の雑誌『建設の機械化 (265)』の記事から、「採土地区およびベルトコンベヤ位置図」という平面図を見ていただく。
「A系統」「B系統」という2本の「搬出コンベヤ」が、それぞれ「A工区」「B工区」と注記された採土区域から、国道127号と内房線の線路(当時は房総西線)を跨いで海上の「船積み設備」まで通じている姿が描かれている。
チェンジ後の画像は、これも同資料から引用した、A・Bそれぞれのコンベヤ延長や搬出能力、採土計画量についての表である。
採土面積はAの方が広いが、採土量は6200万立方メートルで拮抗しており、その搬出能力も同等であったことが分かる。
なお、採土量1億2400万立方メートルなどと言われてもピンとこないが、よく比較に使われる東京ドーム1杯分がちょうどその100分の1の124万立方メートルである。また、巨大な土木構造物の代表格である黒部ダムの有効貯水量は1.49億立方メートルという。これは浅間山からベルコンで運び出された土砂の総量にかなり近い数字である。

『建設の機械化 (265)』(昭和47年3月号)より
同資料にはベルコンの縦断面図も掲載されていた(↑)。
特に説明はないが、途中に3本のトンネルがあるので、明らかに今回探索した「B系統」の縦断面図である。
この図を見ると、ベルコンによる長距離架空輸送の実態を、よりイメージしやすいと思う。
注目点として、地形は全体に採土現場から海へ向かって下り坂だが、ベルコンのラインには部分的に逆勾配の部分があったことや、途中の屈折地点にベルコンを連絡する落差があったりすることも分かる。
今回探索した「1号トンネル」は、この名前の注記と共に、「県道新舞子海岸線」と「国鉄房総西線」の間に描かれている。
図を見る限り、トンネル内には77分の1の片勾配がついていたようだ。道路勾配で見慣れた%に換算すると、わずか1.3%である。、

『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)より
別の技術系雑誌『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)は、巻頭グラビアとして本事業を取上げており、ベルコンの雄姿を映した写真が複数掲載されている。いくつか紹介しよう。
右の画像は、A系統と国道127号の交差地点という。現在のこの位置&アングルであるはずだが、道だけでなく背後の小高い浅間山がすっかり失われていることで、全く面影がないのに驚く。
チェンジ後の画像は、同じくA系統が内房線を跨ぐ場面だ。
華奢な橋脚がベルコンラインを支えている。
航空写真を見る限り、遅くとも平成7年までこれらのベルコンラインは写っていた(休眠施設であったと思う)。その後、平成17年までの間にことごとく撤去されたようである。

『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)より
これはベルコンの内部である。
基本的には全線とも防塵カバーが取り付けられていて、外からはベルコンの可動部や運搬されている土砂は見えない構造だった。
おそらく今回探索したトンネルの内部も、これに近い風景であったと思うが、残念ながらB系統に3本あったトンネルを撮影した写真は見つかっていない。

『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)より
採土場全景と土砂積み出し桟橋(右A系統、左B系統)、桟橋築造場所は大和田、天羽の町境を中心に海岸で500m、先端で900m離れてA、B2系統のコンベヤが海上に突き出している。先端の積み出し桟橋にはシップローダが上載された積み出し桟橋がつき、両側に大型船が1隻ずつ同時接岸が可能なる構成になっている。
『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)より
チェンジ後の画像は、B系統のトンネル3本が写る範囲を拡大した。今回探索した「1号トンネル」は“矢印”の位置である。

『土木施工 13(10)』(昭和47年3月号)表紙より
扇島の埋め立ては、日本鋼管(株)京浜製鉄所の集約更新を図るため、現扇島前面516万平方メートルを造成する工事で、所要土量約7000万立方メートルを千葉県富津市浅間山付近から、大容量ベルトコンベヤ2系統により搬出し、大型土運船を海上輸送に就航させ、バージ投下、ポンプ船による再揚土の工法を用いて埋め立てを行なうものである。
表紙は、千葉側の採土設備の全景であり海岸から2kmはいった採土現場220万平方メートル(標高約130m)は、山林の伐採を終え、表土を剥ぎ、大型モータスクレーパによる集土作業が約1500万立方メートル進捗している現状である。
国道際に両系統のストックパイルがあり全長3.5kmに及ぶ2系統のベルトコンベヤのうち、A系統(東亜港湾)は直線上に伸び、またB系統(五洋建設)では3箇所のトンネルを経、途中国鉄房総西線を横断し海岸に達している。海上部分1.5kmは先端両側に接岸設備を持ちシップローダが搭載されている。
いま5000DWTのプッシャーバージおよび自航船が接岸されており、その前面におのおの500mの防波堤が築造されている。
(写真提供:東亜港湾工業(株)、五洋建設(株))
『土木施工 13(10)』(昭和47年9月号)「表紙説明」より
採土エリアから搬出ラインまで、AB2系統は完全独立して稼働していた。
担当するゼネコンもそれぞれ別の企業が割り当てられており、『富津市史 史料集1』によれば、A系統は浅間山開発、東亜建設工業、三菱鉱業セメントの3社が受け持ち、B系統は五洋建設、三井建設、熊谷組の3社の受け持ちであったという。
つまり、私が探索したトンネルを、作ったり、利用していたのは、後者の3つの企業であったことになる。
ここからヒントを得て、『株式会社熊谷組四十年史』を紐解いてみると、記述があった。
◇天羽土砂採取(昭和46年8月〜50年2月)
日本経済の発展とともに工業用地の不足が深刻になり、当社としてもこの解決への一助として、山林・荒地を改良した土地造成を目的に、昭和30年後半より土地取得を手がけてきた。その一環として、東京、川崎および横浜の対岸に位置する房総半島浅間山・天羽地区の良質なる砂山(約105万立方メートル、有効採土量3500万立方メートル)を確保したが、折柄日本鋼管川崎製鉄所が川崎市扇島沖合に大量の土砂を利用する扇島建設工事を計画、日本鋼管と三井不動産、その他関連企業との間で具体化した。
当社は自社所有の山砂の採掘運搬工事を受持つことが昭和46年3月に決定し、同8月着工となった。工事は、採取した土砂を延長1.2kmのベルトコンベヤに載せて海岸まで運び出し、大型バージで東京湾を横断して扇島へ運ぼうというものである。当社の受持ちは山砂を採取し、これをベルトコンベヤの投入口まで運搬する工事であり、これから先を五洋建設と三井不動産が担当した。
『株式会社熊谷組四十年史』より
……とのことで、ベルコンラインの建設や船積みは、五洋建設と三井建設(三井不動産)が担当したとなっていた。
今回探索中に遭遇した【土地改良記念碑】
には、五洋建設が「集落道路施工業者」として記名されていたことも関連がありそうだ。
おそらく、B系統のベルコンラインの建設や運用の中心的役割を五洋建設が担当したのだと思う。
同社は社名から海を連想させるが、実際に埋め立てや海底トンネルのような海洋土木分野における最王手ゼネコンで、以前探索した青ヶ島の青宝トンネルの建設にも携わっている。
また、既に取上げたものを含むいくつかの資料には、これらベルトコンベヤーの建設工事について具体的な記述があったので紹介しよう。
本来ルートは屈曲部が少なく、直線で最短コースを通すことが望ましく、ここでは人家への配慮、用地問題、将来道路等の関連があり、簡単には決定されなかった。
A系統のほうは将来の道路計画に合致したので、山林と田圃を直線で通る屈曲の少ないルートの確保が出来たが、B系統では地形に合わせたので屈曲があり勾配も最大下り傾斜16°と限界に近いところが生じ、また途中50m、100m、145mの3本のトンネルを通すルートとなった。
コンベヤの据え付け工事にあたっては、A系統のほうは、敷地幅8mを確保したので工事が容易であったが、B系統は山越しで通路の確保が出来ず、トンネルよりケーブル輸送により資材を持ち込む難工事の場所もあった。コンベヤは全線防塵用カバー付きで、途中国鉄、国道、県道の上はギャラリ付き全断面被覆を行ない安全、防音等には十分なる配慮を行った。なお、国鉄の上は最終列車の通過後、夜間手延べ工法により、また国道上はレッカー車を使用して一般の交通に支障のないように上架工事を行った。
『土木施工 12(5)』(昭和46年1月号)より
コンベヤルートは大容量高速の運転に際し、公害防止上の見地からなるべく民家地区を避けた場所を選定したが、土地買収上からも制約があり、A系統では比較的直線コースが確保でき、長尺コンベヤの特徴を発揮できたが、B系統では途中トンネル貫通部3個所、屈折点3個所を通るルートになった。(中略)
B工区のトンネル延長は50m、100m、145mで地盤が良好のため順調な作業であった。据付に関しては、コンベヤルートの一部を仮道路に使用できたところはクローラクレーンにより容易に出来たが、トンネル内を通り、索道により資材の搬入をしなければならない難行場所もあった。
『建設の機械化 (265)』(昭和47年3月号)より
これらにより、3本あったトンネルの長さが判明した。今回探索した1号トンネルは、このうち一番長い145mのものだと考えられる。
コンベヤのルート設計に関する内情も判明した。
前回探索したA系統は極めて直線的であったが、それは将来の道路計画に応じた用地確保が上手く行ったおかげであり、そのような道路計画がないB系統は、トンネルと屈曲の多いルートになったらしい。
これらのトンネルの建設は地盤に恵まれ難しくなかったが、コンベヤの据付けにあたっては、地上道路が未整備のため、ベルコン用のトンネル内に索道を張って資材輸送をしなければならない場所もあったとあるが、これはまさに今回探索した「悪浪」改め「富士浪」の農地を指していると考えられ、1号トンネルがこの用途に使われたと想定できる。
沿線のうち幹線の道路から隔絶しているのは、唯一今回の探索領域である。
以上が今回の机上調査だ。
これまで道路や鉄道は当然ながら、索道用や流材路用など、なかなか変わった輸送手段に関係するトンネルも捜索・探索してきたが、ベルトコンベヤ用トンネルというのは初めてだった。
だが、意外にもベルトコンベヤ用トンネルは現代の鉱山では比較的メジャーな存在であり、例えば埼玉県秩父地方で武甲鉱業が運用する「Yルート」という鉱石輸送用コンベヤは、総延長23.4kmのうち97%がトンネルという国内最長級の地中式長距離ベルトコンベヤとして現役稼働しており、地形図にも描かれている。
今回の現地探索では遺構の発見にあまり恵まれなかったが、下図のように大きく地図が書き換わるほどの地形改変をわずか10年足らずでやってのけた、そんな偉大な縁の下の力持ちであるベルトコンベヤラインが存在したことは記憶に留めておきたいと思う。