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ミニレポート第300回 一般道道507号船泊港利礼公園線 白浜隧道跡

所在地 北海道礼文町
探索日 2023.10.30
公開日 2025.12.02

 日本国内最北のトンネル跡


今回はキリ番となる第300回目のミニレポなので、山行がとして何がしかの“極致”を示すものを記したいと思う。

というわけで、思いついたテーマは……


日本国内最北のトンネル跡!

あくまでも“私調べ”だが、国内の交通用トンネルにおける最北は、北海道は礼文島の北端、スコトン岬の近傍に存在したとされる“白浜隧道”という名のトンネルであると思われる。

その大雑把な位置については、次の地図を見て欲しい。


なお、現在も使われている現役であるトンネルに限定した場合でも、やはり礼文島にある新桃岩トンネルが最北の地位にある。
だが、白浜隧道はそこからさらに15kmほど北にあったとされ、それより北となると、(北方領土を除くと)北海道本島の宗谷岬先端周辺のわずかな陸地しかないので、そこにトンネルがあったという新情報が今後もたらされない限り王座は揺るがないと思う。

宗谷岬が国内の最北地であることは著名な事実であり、現地にもそれを売りにした様々な記念物が存在する。
だが、敢えて“最北のトンネル”について検討した著述(……というか暇人?)は見たことがないので、本項でそれを論じつつ、もちろんその現場を紹介したい。
見たいでしょ? 最北のトンネルってやつをさ!!


本編に入る前に、まずは私と白浜隧道の馴れ初めから解説しよう。
私がこのトンネルの存在を私が知ったきっかけは、道内におけるトンネル探索のオーソリティである北海道トンネルWiki作者のMorigen氏@morigen_tw)より、令和5(2023)年5月にご提供をいただいた、北海道庁作成『道路現況調書(昭和40年4月1日現在)』内の「トンネル箇所調書」である。

行政の資料らしからぬ素朴な筆致による手書き資料であることに年代を感じるこの資料(右図)は、北海道庁が管理する道路トンネル(つまり北海道開発局が管理する国道や開発道路、あるいは林野庁が管理する林道用などは除外)の一覧であり、掲載されているトンネルの総数は、主要道道にあるもの6本と、一般道道にあるもの25本の合計31本だった。
そしてこの中に、礼文町に所在する次の2本のデータが含まれていた。(当時から礼文島は礼文町が単独で管轄している地域である)

路線名トンネル名箇所延長車道幅員限界高竣功年度覆工鋪装
礼文島線駒谷崎隧道礼文町大字香深字香深井21m3.5m4.7m昭和2年度素掘
船舶港利礼公園線白浜隧道礼文町大字船泊字白浜21m3.0m4.0m昭和11年度素掘

この下段に記載されているのが、廃止時点で国内最北のトンネルだったとみられる白浜隧道である。

続いて、このデータを元にトンネルの位置を探ってみよう。 路線名覧に「船舶港利礼公園線」とあるが、極めて名前が類似した一般道道507号船泊港利礼公園線が現役であるから(おそらくデータの路線名は誤記)、その位置を右図に示す。

広袤南北26km東西8kmという南北に細長い礼文島であるが、道道507号船泊港利礼公園(ふなどまりこうりれいこうえん)線は、その北岸を占める船泊湾を抱く海岸線に沿っており、終点である須古頓(すことん)集落は、スコトン岬というこの島の最北突端に迫っている。
そのためこの道道507号は、稚内市内の宗谷岬付近を通る道道889号上猿払清浜線に(ほんのわずかに)次ぐ、国内2番目の緯度が高い都道府県道である。

そして、現在の地図を見ても道道507号には1本のトンネルもないが、左図のように、「白浜」集落が前述の須古頓集落のすぐ南に存在している。
白浜トンネルは、この白浜集落付近(データの箇所覧にあった「礼文町大字船泊字白浜」)にあっただろうことは、容易く予想ができた。

ならばということで、同じ場所の昭和45(1970)年版地形図を見較べてみたらば……(チェンジ後の画像)……

やっぱりあった!

it's easy !!!

そして、easyがてらに伝家の宝刀“ストビュー”をみれば……

……いや、止めよう。

ぶっちゃけ見た。
私は見たけども、このレポートではせっかくなので私が見た風景として紹介したい。
ストビューでも見られるけれども、それでも行くのが探索じゃないか。

正直言って、ここまで行くのは私にとって気軽なことではない。
秋田から礼文島まで行くのは、2回も海を渡らなければならないし、単純にとても遠い。
その遠い島の中の、さらに最北の果てである。
でも行く。


最北のトンネルよ、白浜隧道よ、いま行くぞ!






2023/10/30 13:21 《現在地》

ここは、礼文町大字船泊村にある浜中集落
足元の道路は道道507号船泊港利礼公園線で、起点から約6kmの位置にこの集落はある。
秋田からここまでの旅路はスポーンと吹っ飛ばして、いつもの自転車に跨がった私がここにいるところからのスタートだ。スポーン!

前方の風景に注目。
雲一つない快晴の空の下に、樹木のない山並みを据えた海岸線が弓なりに伸びている。
山に樹木がないのは、そこがごく薄い半島状の地形であり、背後にも海を控えているからだ。
幅500m前後の薄板の半島が、最北の離島の最北の先端へ先細っていく。そんな脆さを秘めた景色だ。

だがこの海岸線にも人々の暮らしが深く息づいている。
この浜中集落の先に、江戸屋、白浜、そして須古頓の各集落が約1km刻みで並んでいる。
最末端の須古頓集落まで、あと3.5km。
ひとつ前の白浜集落までは2.7kmほどであり、白浜隧道跡までは2.5kmほどである。



13:23

浜中集落を外れると、稀に道を塞ぐ鋼鉄のゲートが開いた姿で待ち受けていた。
ここは「浜中ゲート」で、この先は事前予告通行規制区間に指定がされている。
ゲートを過ぎても狭いとか荒れているという感じはなく、片側に歩道を配する2車線の立派な道路が続く。
どこを見ても木が生えていないことは、私にとってやはり普段見慣れた風景との違いが大きく、特異な感じを受ける。



13:24

この辺りまで来ると、目に留まるあらゆるものに“最北の”という冠を付けて呼びたくなるのは、旅行者としてやむを得ない衝動だろう。
先細っていく陸地と引き換えに、私のテンションは高まっていった。

酷く錆びた標識柱に取り付けられた「江戸屋」の地名標識があった。
礼文島、元のアイヌ語では「レプンシリ」、意味は「沖にある島」。
彼らにとっても果てを感じていた島の果て近くに、唐突な「江戸屋」というのが、なんだかおかしい。
この地名の由来はそれほど古いものではなく、明治大正のニシン漁全盛時代に、江戸屋という親方の漁場であったことから付いたものらしい。

この島に多くの集落が根付いているのは、ただの最果てではなかったからである。
礼文島や隣の利尻島は、近世における北前船貿易の北端であった。
畿内に巨大な財を持つ大船主たちが挙ってこれらの島々を目指したのは、この地方の特産である昆布が、上方の食文化を支える重要な資源であったからだそうだ。



道に面する高さ100m内外の山並みは、絶壁ではないものの相当に急傾斜であり、その起伏の至るところに、まるで樹木の代わりのような密度で雪崩防止柵が植えられていた。
実際に、樹木が持つ治山的機能を代替しているのだろう。
なんとも風変わりな風景であり、これもまた印象に残った。




13:25 《現在地》

江戸屋の集落入口に、小さな岩の岬を回り込む場面がある。
そこはいかにもトンネルを切り通しに改めた跡のような感じがする場所だが、白浜隧道があったのはここではない。
また、ここに別の隧道があったというような記録もない。

切り通しの向こうに見え始めたのが江戸屋集落だ。
あと1.7km先、江戸屋を白浜に置き換えればこことそっくりの風景であり地形が、白浜隧道の跡地である。



13:27

最果ての2歩手前、道道沿道の集落数的に勝手にそんな憶え方をしていた江戸屋集落を通過中。
背後は例の樹木代わりの鉄柵が林立する枯れ草色の急斜面で、前面は埋め立てや築堤によって整備された立派な漁港。その合間の一本道の道道沿いに一列に人家が並ぶ。
水もなければ畑もない、漁以外暮らしの根拠を持たない土地に見えた。



13:29 《現在地》

いよいよ地、果つるところが、間近に見えてきた。
そのことは、道路上の案内標識も、控え目な方法で教えてくれている。
「須古頓 1km」 ……これがほぼほぼ残りの地の長さだ。
「鮑古丹 2km」はもっと遠いが、これはちょっと脇道に逸れている。

そして、この位置から既に、白浜隧道の跡地はよく見えていた。(↓)



あのような岩脈が、もしも海岸線まで途切れず延びていたら、通過には隧道が必須であったろう。

そんな予想を容易く行える隆々とした岩脈が、道路のところで綺麗さっぱり、崩されていた。

ミニレポということで、皆さんの期待感は“大丈夫”だと思うが、ご覧のとおり、白浜隧道は完膚なく残っていない。

本当に何も残っていないんだが、それでも紹介したくなるのは、ここが“最北のトンネル”というステータスを持っていたからだ。

この現状ではそうそう語られにくいだろうからこそ、実際に訪れてから、語りたかった。





13:30

江戸屋から白浜へ向かって北上している。
白浜集落の入口にあった白浜隧道の跡までは、おそらくもう少しだ。

相変わらず、道は広々としていて、とてもいい。
海岸線を切り開いて作られている道だが、どちらかというと、埋め立ての要素が強いと思う。
人が手を加える前の海岸は、向かって左の切り立った切岸にあっただろう。
そしてその岸の下には、今は道路の右側に少し見えている広い磯があったはず。
道は磯に盛土をして、護岸を設けて作ってある。そのため、道と岩場の間には常にある程度の間隔があった。



13:31

さらに進むと、開いている通行止ゲートが見えてきた(写真だと分かりづらいが、すぐ先の電柱の所にある)。
これはレポート開始地点にあった【浜中ゲート】と対になる「白浜ゲート」である。
ここまでが、異常気象時の事前予告通行規制区間であった。
それを抜けるということは、地形的に険しい部分を抜けるという意味である。

実際、ゲートの直前から、道の周囲はより解放的な状況になっている。
平らな土地が広々としていて、険しさが遠のいている。
ぶっちゃけ、このゲートが閉ざされていたとしても、道路の山側の広い砂利敷きの広場を迂回して簡単にパスできてしまいそうだ。



どうやら、ここの道路の山側にある広い空地は、採石場であったようだ。
岩を切り出した後の特徴的な段々の模様が残っていた。
現在は全く行われていないようで、敷地はもぬけの殻である。

そしてこの採石場という降って湧いたような要素の影響は、これだけではなかった。



読者諸兄に告ぐ。


総員、衝撃に備えて!!




13:32

ここが、“日本最北のトンネル跡”、白浜隧道の跡地だ。

おそらく、多くの皆さまの想像を遙かに超えるレベルで、何も残っていない。

トンネルが残っていないパターンとして、坑口が塞いであるだけで形が残っているような“優しい”ものから、坑口が埋め戻されていて姿を見ることができないが地中に遺存していると考えられるもの、さらにはトンネル全体が開削されて切り通しになるなどして構造物としては完全に消失してしまっているものなど、いろいろあるが、切り通しどころかトンネルがあった山自体がすっかり消滅しているというのが、今回の現状だ。

これは、考え得る限りにおいて最も痕跡度の低い“トンネル跡地”であると思う。



現在の地形図と、昭和45年当時の地形図を見較べてみると、ここが白浜隧道の跡地であったことがはっきり分かる。
当時、日本最北のトンネルがここにあった。



しかし、これはなかなか衝撃的な現状だ。
トンネル跡に、トンネルどころか、地形の起伏が全くないとは普通思わない。

もしも私が普段通り遺構の発見を期待して訪れていたら、この場所までの道のりの遠さも相まって、相当ショックを受けて落胆していたやも知れないが、今回はストビューで予習を終えていたので問題はなかった。
むしろ、実際に相まみえてみて、このあっけらかんとした現状は楽しいと思った。

また仮に、至って普通のトンネル跡がここに残っていたとしたら、私自身が“最北のトンネル跡”に気付いてあげる前に、私は誰かの手で気付かされてしまったと思うし、その場合は訪問もずっと後回しになっていた可能性がある。
私の探索はあくまでも自分の楽しみが最優先で、私が楽しければ勝ち、楽しくなければ失敗だ。そういう意味で、この現状を含めて楽しんだから、勝ち。
……なんか念を押すと負け惜しみっぽくなるけど、本当に楽しい。



それに、私はちゃんと成果を挙げる。

訪れたなりの新たな成果ってやつを、今見せる。




ズバリ、

旧道はここにこういうカーブを描いていて、

白浜隧道はそこにあった

……と思う。



真の跡地へ行ってみよう。



一見して道の痕跡……どころか、地形の痕跡さえない、現道の高さですっぱりと均された更地である。
だが普通に考えれば、このように突出した出崎の地形は、通過にトンネルを必要とすることもある険しい岩山であったと思う。
そのトンネルが廃止された直後には、普通に廃トンネルがあったかもしれないが、やがて前述した採石場の稼働がここまで及び、山ごと痕跡を切り取ってしまったのではないかと思う。

当地の地形の変化について、後ほど航空写真で“答え合わせ”を試みる。



13:33 《現在地》

言葉や文章はともかく、見た目には全く説得力が伴っていないと思うけれど……

改めて、

ここが白浜隧道の真の跡地だと思う。

どこが路面であったかも正確には定かではない跡地に立って、全天球画像を撮影した。

足元よりも海側には、自然のままに見える磯の岩場が残っているので、道や隧道があったのは、それよりは陸側……やはり私が立っている辺りかと思う。



チェンジ後の画像に示したように、出崎を巡る旧道があったはずだ。

トンネルや、路面の痕跡は全く見られないものの、“矢印”の位置に、重要な道路痕跡を見出した。



古い護岸擁壁と、その上に設置されたガードロープの支柱を発見。
明らかに、道路の路肩を構成していた風景である。

チェンジ後の画像は、隧道の跡地を振り返るものになっている。
出崎の突端の部分に、全長21m、幅3m、高さ4mと記録されている白浜隧道があったのだ。
目を瞑れば、それを見ることが出来ると思う。
きっと、素掘りのママの素朴なトンネルだ。



白浜隧道跡地に隧道は残っていないが、かつての通行人達が、その入口や出口で見た風景は残っている。

これらは隧道の北口にあった風景だ。
白浜の集落と同漁港が間近である。
集落の先に海岸の道はなく、段丘へよじ登って最果ての村落である須古頓に達する。そこはこの島にあって珍しい海を持たない集落であるが、おそらく白浜がその役割を担う存在だったのだろう。

そしてチェンジ後の画像は、白浜や須古頓の沖合に浮かぶ、トド島の姿だ。
今は灯台があるだけの無人島だが、礼文島の北に連なる“最”最北の離島である。それでも宗谷岬の緯度には敵わない。
あるいは、海上の天象次第では、50kmほど離れた樺太も見えそうだった。

このように、“最北のトンネル”からは、島の最北領域が手に取るように見えた。
トンネル並びに岩山が健在であった当時なら間違いなく、トンネルを過ぎたときに初めて見える、そんな鮮烈さを持った風景だったと思う。



一方の南口の風景もまた優れていた。

大きな半円を描く船泊湾を透かして、嫋やかなこの島の稜線越しに、礼文水道の向こう側、圧倒的高度感を以て峙つ利尻富士の頂を望んだ。
北の海に睦まじくある利礼姉妹の美を凝集したような風景であった。



13:37

以上が、白浜隧道の跡地である。
トンネルの“跡形無さ”としては、なかなか突出したものを持っている。
遺構はないが、それでも面白いと思える凄まじい変貌であった。

現地での足りない部分は、机上調査で補いたい。





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