2022/10/28 15:50 《広域地図(マピオン)》 /《現在地》
唐突だが、ここは上ノ国町の石崎漁港 である。
状況は、これからミニレポ第301回 の探索に向かうべく、漁港の一画に車を停めて、いつもの自転車に跨がったところ。
だいたい漁港という場所は広々としているので、旅先でちょっと車を停めて周辺の探索をしたいときに、よくお世話になっている。
それはともかく、この漁港は国道からは200mほど離れているので、まず国道へ出ないとな。
背後に見える道路を左に進むと、国道に出られる。
せっかく港に来たのだから、忘れず海にも挨拶する。
この港を地図で見ると少し変わっている。
すぐ隣を流れる石崎川の河口の一画を細い防波堤で仕切った部分が船溜まりになっていて、物揚場もその周囲にある。
そのため港全体が河口の一部のように見えるのである。
この川と港を隔てる防波堤は、海上まで途切れずにずっと続いているので、港内の水は全て海水なのだろうが、実際の港の景色も、まるで河口から海を見ている感じがした。
ん? (画像の枠内の辺り……)
封鎖されたトンネルがある!
しかも、かなり大断面の立派なトンネルだ。コンクリートの坑門もあるし。
私の探索計画にはなかった(おそらく)“廃トンネル”だ。
計画外だが、とても気になるので、見にいくことに。
今は人っ子一人なく閑散としているが、ひとたび大漁旗を掲げた船団が入港すれば、どこにこんな多くの人がいたのかと驚くくらい賑わうのだ。……たぶん。
漁具やらコンテナやらの雑多な道具が所狭しに並べられている物揚場に秘めたる活気の影を感じる。
この整理整頓がいまひとつである道を進んだ突き当たりに、トンネルが見えたと思うが、今のところ特に予告めいたものはない。
おおお! マジであるな。 見えてきた!
港口に突出している険しい岬の先端部を貫くトンネルであるようだ。
そしてやはり坑口前で道は封鎖されていた。
「通行止」とは特に書いていないが、物言わぬガードレールが通せんぼしている。
15:52
なんだこの状況は?!
遠目には、普通に道路のトンネルの入口がガードレールで封鎖されているように見えたが、ここに来て見ると、トンネル内に路面は続いていない……。
トンネルの入口に大きな段差があり、ガードレールは、道路からトンネル内に“転落”しないように設置しているように見える。
こんな不思議な状況は、さすがに想定外。
今まで見たいろいろなトンネルを思い返してみるが、こんなパターンは初めてだ……。たぶん。
これ、ただの道路トンネルではないのでは……。
やっぱりただのトンネルじゃなかったです!
ヤバいですこれ!
海に直通しています!
ズバリこいつは、
世にも珍しい、船舶用の水上トンネル だったらしいです!
現地には案内板の一つもなく、ただトンネルだけがあるが、国登録有形文化財「石崎漁港トンネル」 というのが、こいつの正体。
この名前で検索すればちゃんと町公式の情報 なんかもヒットするが、道路のことしか下調べしないで来たから、マジ偶然出会った(苦笑)。
見ての通り、とても古びた感じのする坑門である。
単純に「ボロい」というのもそうなのだが、トンネルマニア的視点からいうと、アーチ部分にコンクリートブロックを利用していることが古さの証明 になっている。
一般的に、トンネルのアーチ部分の巻き立てに石材や煉瓦を用いたのが明治から大正の時代で、コンクリートをブロック状に加工したものをその代わりに用いるようになったのが大正から昭和の初期、それ以降は全て場所打ちしたコンクリートが使われるようになる。
早速の答え合わせだが、記録として伝えられているこのトンネルの竣功年は、昭和9(1934)年6月20日 である。
まさに、構造からの見立てに違わぬ古さである。
が、ここで私が真に驚いたのは、断面の幅の広いことだ。
これも記録によると、 幅9m もあるそうだ。
昭和9年に、幅9mのトンネルだと?!
それって、
完成時点における、“日本一幅の広いトンネル” だったんじゃ…?
このセンセーショナルな推測の根拠は、古典道路トンネルファンには既にお馴染みの文献、昭和16(1941)年3月に内務省土木試験所が発行した『本邦道路隧道輯覽 』である。
同資料は、我が国が昭和初期に建設した主要な道路トンネル100本のカタログであり、幅員の大きさ別に章立てがされている。
ずばり、戦前における我が国の道路トンネルで最大の幅員を有したとされるのは、昭和10(1935)年3月に広島県呉市の国道32號(現国道31号)に完成した吉浦隧道 (位置 )で、その幅員は9.8mであった。これが日本一の通説である。
9.8mであるから石崎漁港トンネルより80cm広いわけだが、しかし石崎漁港トンネルは昭和9(1934)年6月に完成しているのだ。
なので、完成から9ヶ月間は日本一広いトンネルだったのでは? ……という推測が働く。
ちなみに、吉浦トンネルが完成するまでの日本一は、昭和4(1929)年に完成した幅7.5mの桜山隧道(位置 )というのが通説だ。
果たして当時、鉄道や水路用のトンネルで、さらに広いものがあっただろうか…? 私は無かったのではないかと思う。
さすがに意外すぎる伏兵と言わねばならないが、昭和9年の完成時点で、このトンネルは幅員日本一だった可能性がマジあると思う。
……と、こんな感じで今回は、トンネルマニア的視点から、この珍しいトンネルを観察していきたいと思う!
でも先に、ミニ机上調査編をどうぞ〜。
かつての石崎漁港は、「岩山の崖下にうがったトンネルから舟が港に出入りする珍しい漁港として有名だった」 (「桧山民俗建築照相譜」)。
そのトンネルが今回の主役だ。
石崎漁港の構造と、時代による変遷を、まずは新旧2枚の航空写真で見ていただこう。(↓)
右図航空写真の赤線 を書き加えた位置に今回のトンネルがある。
そのことを念頭に新旧の航空写真を見較べて欲しい。
まずはチェンジ前の画像、昭和23(1948)年版 。
写真中央で海へ注ぐ石崎川の左岸に、堤防で仕切られた砲弾型の池が見える。この池のように見える部分が、かつての石崎漁港の船溜まりであり、出入りする船は必ず岬の下に穿たれたトンネルを通った。
トンネルの海側出口にも小さな防波堤があったが、その周囲は人家も道もない荒々しい磯である。
このように、川側の人工堤防と、海側の天然の堤防である岩山とが、この船溜まりをいかなる風波にも動じさせない鉄壁になっていた。
私はこのような構造をした港を他に知らない。奇天烈ではあるが、地形を活用した理に適った構造だ。
これを思いついた技術者は凄い。素直にそう思う。
チェンジ後の画像は平成5(1993)年版 であり、現在もこれとほぼ同じ状況だ。
トンネルは引続き同じ位置に存在しているが、使用されなくなっている。
理由は明らかで、トンネルに替わる船の出入口が隣に用意されたのである。
石崎川河口の左岸に半島のように長く突出していた岬の先端が少し切り取られ、岬と新造された防波堤の間に、新たな船の通り道となる水路が誕生している。
トンネルよりも明らかに幅の広い(そして高さは無限大な)水路である。
どちらかを選べるなら、敢えてトンネルを利用する必要はない。
役目を終えたトンネルは、その南口まで物揚場が延長され、一見空撮だと道路のトンネルがそこにあるようにも見えるが、相変わらずトンネルの北口は海に開いていたままである。
また、船溜まり自体もだいぶ拡張されていることが分かる。
以上のような大変大きな構造の変化を、石崎漁港は経験している。
@ 平成6(1994)年
A 昭和48(1973)年
B 昭和21(1946)年
C 大正6(1917)年
続いて、地形図ではどのように変化しているかも観察してみよう。
@.平成6(1994)年版 は、最新の地理院地図とほとんど変わりが無いので、これを基準に過去の変化を見ていく。
ここに描かれているのは、先ほどのチェンジ後の航空写真と同じ、トンネル廃止後の状況だ。
既に航路トンネルとしては利用されなくなっていたトンネルだが、水域に面した二つの坑口の記号として描かれている(最新地理院地図でも同様)。
このように水域に面して描かれた坑門は珍しいが、この表現は天然の海蝕洞を表現するのに使われており、むしろこれが人工のトンネルであるということが、現地の風景を見た時の驚きになると思う。
A.昭和48(1973)年版 は、トンネルが航路として使われていた時代のもので、トンネルで海に繋がった池に碇マークの港湾記号があるという、唯一無二の表現がなされている! これは面白い! 港湾記号が無ければ、まさかこの“池”が漁港だとは思うまい!
淡水の池ではなく、海面の一部だというのも愉快だ。
B.昭和21(1946)年版 である。
この時代も港の構造はAと同様であったが、地形図としてはその特殊性をほとんど表現できていない。
川と堤防で仕切られた丸い池があることは分かるが、海と結ぶトンネルは描かれていないし、港であることの表現もない。この地形図を頼りに現地の特異な風景を予想することは無理だ。
C.大正6(1917)年 は、航空写真は残っていない石崎漁港開鑿以前の状況を表現したものとして貴重だ。
漁港開鑿以前の石崎は、地図に描かれるような規模の漁港の施設を持たない、河口の小集落に過ぎなかったことが分かる。
後に漁港の船溜まりが作られる部分も川べりの茫漠とした荒れ地で、特に利用されていた様子はない。
このような手付かずの地形に、ほぼゼロから100年も以上存続する港を建設して見せた、当時の設計者の発明と技術者の努力に感心する。
続いては石崎漁港の建設について、文献的記録を調べてみた。
前述の通り、石崎漁港トンネルは平成15(2003)年に国の登録有形文化財(建造物)に指定されているほか、平成18(2006)年には水産庁による「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」にも追加選定され、その技術的・歴史的評価は、私のようなマイナー好みのオブローダーが語るまでもなく多方面で了解がなされているところである。
上ノ国町公式サイトの文化財を紹介するコーナーにも紹介ページ があるので、ご覧いただくと良い。
上記リンク先の解説と重複するところもあるが、本項でもいくつかの文献を紹介する。
全国漁港協会が平成元(1989)年に発行した『写真でみる漁港 明日をめざして』 に、石崎漁港の古い写真と、開発の概要が記されていた。
『写真でみる漁港 明日をめざして』より
これは、昭和28(1953)年に撮された石崎漁港の船溜まりの様子 だ。
奥にトンネルが見えており、これは現在と同じ坑門である。
船溜まりの海面には大量の木造漁船が整然と係留され、漁港としての賑わいぶりが伝わってくる。
石崎漁港は昭和7年9月10日道費補助事業着工にはじまる。その設計は当時道庁港湾課長中村廉次氏の欧米視察による特殊様式設計(トンネル式漁港)で東洋では唯一、世界でも珍しいものであった。
その工事の主な内容は、防波堤延長72m、物揚場護岸193m、トンネル(干潮面から)の高さ6m、トンネル延長45mで2ヶ年で完成した。 更に澗内左側の岩に白い三脚型の鉄塔が設置され、これに風車が取りつけられた。風車がまわると鐘が鳴り夜間の入船に備えたものでトンネルと共に特色の一つであった。
昭和26年10月17日、第1種漁港に指定され、昭和31年第2次漁港整備計画により局部改良工事に着工、その後第3次漁港整備計画へと継続されてきたが、昭和42年頃から大宗漁業であるイカ、マスの盛漁と相まって漁船の近代化が始まり、船型の大型化に伴ない港内が狭隘となった。以降地元漁船の生産伸長も大いに期待され、又本港を基地として操業を希望する漁船も多いところから、町の基幹産業としての漁業振興を考え、利用漁船の増加に対応し得る長期展望に立った漁港の拡張整備は不可欠と考え、昭和45年度から第4次計画に着手、第5次計画を経て、第6次計画では改修事業により整備され、昭和56年完成となった。第7次計画では臨港道路の整備を行い、昭和60年度をもって着工以来35か年の歳月をかけ新しい石崎漁港が誕生した。
当時、漁港はまず役場所在地から始まるのが例であったが、最初の漁港である石崎漁港は(上ノ国村の)役場所在地から離れ、まして海産のみでは難があるとのことであったが、村長の熱意に動かされて(整備が実現した)。
『写真でみる漁港 明日をめざして』より
このように、整備の経過が記されている。
なお、一連の整備の過程で旧来のトンネルが封鎖された期日は、町公式サイトによると昭和58(1983)年3月31日とのことで、昭和9(1934)年6月20日の完成から約39年間にわたって、「東洋では唯一、世界でも珍しいものであった」トンネル式漁港が活躍したのである。
このトンネルの設計者として、北海道庁港湾課長であった中村廉次 という人物の名前が挙げられているが、彼については後述しよう。
2枚とも『広報かみのくに no.667 (2017年3月号)』より
右の2枚の写真には、昭和45(1970)年当時の石崎漁港が写っている。
左側の写真は、トンネルに替る新水路の開鑿工事が始まった直後の風景で、トンネル右側の堤防を海上へ延長する工事の初期であろう。堤防にクレーン車が入っている。
また、船溜まりにいる船が、先ほどの昭和28年のものと比較して全体的に大型化していることも分かる。
右側の写真は、この漁港改修工事の(おそらく着工を)記念した式典に伴う行列の風景だという。
右奥にトンネルのある漁港が見えており、そこへ通じる長い砂利道を人波が埋め尽くしている。
工事完成への期待の大きさや、着工の喜びが伝わってくる。
砂利道の道路は、位置的に今の国道228号であろうか。当時の道路の整備状況が分かる写真でもある。
次に紹介するのは、昭和36(1961)年に栗林商会東京支店なる企業が発行した『北海道のみなと』 という文献の記述である。
同書は序文に「大体の主なる施設は全部網羅した積り」とある通り、道内の漁港を含む主要な港湾の概要をまとめた貴重な資料だが、その著者は中村廉次その人だ。
100以上の港湾が施設概要図と共に紹介されている中で、彼自身が昭和7年に設計したとされる石崎漁港については以下の通りである。
『北海道のみなと』より
石 崎 港 (上ノ国村字石崎) 第1種漁港
本港は石崎川の河原を掘さく船澗を設け、海岸の山に墜道を作り、外海に通ずるもので、工事費118,767円に対し補助6割にて、昭和7年9月起工、同9年6月竣功した。
船溜面積 6,300㎡ 墜道 45.1m 防波堤 72m
掘さく 16,500㎥ 埋築 16,000㎡
其の後防波堤増築、墜道内部コンクリート捲き、及び掘さく面積を増加した。
本港を根拠とする漁船 動力船28隻(201屯) 無動力船276隻(112屯)
『北海道のみなと』より
自身の設計によるものであることには一切言及せず、トンネル(墜道)を用いた構造であることが記されている。
一緒に掲載されている概要図面を見る限り、石崎川の河原を掘削して船溜まりを作り、(おそらくその掘削土を用いて)物揚場の埋立を行ったようだ。
また新情報として、昭和9年の竣功以降に、トンネル内部のコンクリートによる巻き立てを行ったことが分かった。
ということは、当初は内部が素掘りであったらしい。
コンクリートブロックを用いている坑門については、私は当初からのものだと考えているが、これについても完成直後の写真が見つかっていないので、確実には言えない。
もしも、内壁の巻き立て改修と同時に、隧道自体の拡幅も行われていた場合、当初の幅は9mに満たなかった可能性があり、“開通時点で日本一幅のあるトンネルだった”という自説は覆されるかもしれない。
次に、この「東洋一、世界でも珍しい」構造の港の設計者として記録のされている中村廉次という人物について調べてみた。
まずは、北海道開発協会の広報誌『開発こうほう』平成24年10月号の記事「北海道の発展を支えた港湾技術史から何を学ぶか」の記述から。
東京帝国大学時代の広井勇の高弟・中村廉次は、昭和6年に世界的にも珍しい、上ノ国町の石崎トンネル漁港の造成で注目され、以後、北海道の港湾建設事業に中心的な役割を果たすことになる。
『開発こうほう平成24年10月号』より
“日本港湾工学の父”の異名を持つ広井勇 (明治中期に北海道庁技師として小樽築港事務所長に就任、開港に尽力したほか、秋田港築港にも大きな功績があったことが知られる) の後継となって、北海道の港湾建設に大きな功績があった人物として紹介されている。
さらに、日本港湾協会発行雑誌『港湾』昭和60年6月号 の記事「北海道開拓(港湾)人物伝」には、次のとおり、より詳しい経歴が記されていた。
中村 廉次 明治15(1882)年〜昭和42(1967)年
富山県高岡市生れ、明治43年7月東京帝国大学工科大学土木学科卒、直ちに北海道庁に奉職、小樽築港事務所勤務。(中略)
室蘭、函館、浦河等幾つかの所長を経て勅任技師となり、北海道の土木全般に関与するようになった伊藤(伊藤長右衛門 ) の後を継いで港湾課長になり、全道港湾の指導に当る。進取の気性に富み、(中略)昭和12年早くも退官、東京和雲埋立KK(現東亜建設)取締役をはじめ、多くの会社役員、顧問を引き受け、特に室蘭では会社所有の港湾施設の殆どすべての計画、工事に関与、常に新しい構想を生み出した人。室蘭港を見下ろす八幡宮に、氏を慕う人々の手による胸像がある。著書多く、伊藤長右衛門伝、北海道港湾変遷史等、北海道の港湾の歴史を語るには書くことのできない人物である。
『港湾 62(6)(691)』より
また、彼自身が記した回顧録「港づくりの思い出」が、昭和39(1964)年に北海道が発行した『北海道回想録』 に掲載されている。
その内容は、師である広井勇との交友、道庁での経歴、港湾開発への思いなど多岐に亘っているが、残念ながら彼の代表作とされる石崎港については言及がない。
しかし、昭和3(1928)年夏から翌年まで、北海道庁土木部港湾課主席技師として「欧米出張を命ぜられ、先進諸国の港湾施設をつぶさに視察することが出来ました」という記述があり、このときに「欧米視察による特殊様式設計」の着想を得たのだと思われる。 (具体的にどの港を参考にトンネル式漁港が発案されたのかは不明。)
「北海道トンネルwiki」によると、“船の航路となるトンネルはTunnel de Malpas(フランス)、Shrewley Tunnel(イギリス)、Weilburger Schifffahrtstunnel(ドイツ)、琵琶湖疏水(日本)などいくつもあるがいずれも内陸運河であり、海に穿たれたものは現代でも非常に珍しい” という。
外遊一か年ののち、翌昭和4年に帰朝し、もとの港湾課勤務に戻り、函館・室蘭両築港事務所長を兼ねて、各港の調査とか設計をしておったところ、8月になって港湾課長を拝命し、函館・室蘭のほか、さらに浦河築港事務所長をも兼ねることになりました。この港湾課長時代に、北海道は、しばしば冷害凶作と不漁とに見舞われて、ひじょうに困ったことがあるのです。ちょうど漁業の転換期にきていたため、沿岸漁業ではやっていけなくなり、沖合漁業をやらなきゃならんようになったので、全道から請願陳情が殺到したものです。
『北海道回想録』「港づくりの思い出」より
彼が港湾課長として石崎漁港を設計した当時の事情を、上のように述懐している。
すなわち、それまで北海道の大宗漁業であったニシン漁(沿岸漁業)が不漁となったため、沖合漁業への転換が必要になり、より大型の漁船が利用できる漁港の整備が各地から激しく陳情されるようになったのである。
石崎漁港の歴史については、北海道新聞 でも採り上げられたことがあり、記事には実際に船を操って利用した漁師さんの言葉や有形文化財指定の経緯などが記されていたので、ここで紹介しよう。
平成16年8月13日朝刊号の記事「<土木遺産を訪ねて>9*石崎漁港トンネル(上ノ国町)*イカ漁支えた船入澗」より……
上ノ国町舘野の石崎漁港。昭和9(1934)年から約半世紀にわたって、「石崎漁港トンネル」が、漁港と外海を結ぶ唯一の海のルートだった。
トンネルで隔てられているため、荒天でも漁港内の波は静か。石崎漁港の北にある汐吹漁港の船など、付近の漁船の避難港として重宝がられたという。ただ、トンネルが昭和58(1983)年に閉鎖されるまで9トンの船を操っていた、ひやま漁協の市山亮悦組合長(63)は「海底が浅いし(トンネルの)天井も低い。船頭泣かせの場所だったんだ」と笑う。
なぜ海へのトンネルが必要になったのか。石崎川の河口にあった石崎港は、ニシンが取れなくなった大正末期から、「川崎船」と呼ばれる帆と櫓だけの船が集まり、沖合でのイカ漁が盛んになった。しかし、海が荒れると小さな船の逃げ場がなく、当時の道の港湾課長が岬をくり貫いて内海を造り、船の一時避難場の「船入澗(ふないりま)」にすることを考えついたという。
幅9メートル、全長45メートルで、断面が半円形をしているコンクリートブロック造り。漁船の大型化に伴って狭くなり、現在は堤防と岬の間に航路が設けられている。役目を終えたトンネルは現在、陸地側入り口が岸壁となり通り抜けられなくなっている。
「このままトンネルを忘れていいものか」と、町文化財課の渡部孝之課長が中心となり、文化庁に有形文化財としての登録を申請。文化審議会が「船が往来するためのトンネルは全国的にみて極めて珍しい」と、昨年1月に登録が認められた。同5月に行われた、登録証と登録プレートの伝達式には、地元の早川小児童や地域住民約50人が出席。「そんなに貴重なものなのか」とあらためて、海の男たちを守ってきたトンネルに敬意を表した。伝達式であいさつした当時の桧山教育局長は「地域の財産として、積極的に活用してほしい」と要望した。これを受けて町文化財課は、トンネルが崩落しないよう補修することなどを検討している。
渡部課長は「建設当時は東洋随一のトンネル、と評判が高かったと聞いている。使用しなくなっても、後世の人たちにトンネルの役割などを語り継ぐ必要があるでしょうね」と話している。
「北海道新聞」平成16年8月13日朝刊号より
トンネルが如何に地域の産業に深く根ざしていて、愛されたトンネルであったかということが、よく伝わってくる記事である。
といったところで、机上調査は終了。
再び現場でのレポートに戻って、この貴重なトンネルの現状を紹介しよう。
2022/10/28 15:52 《現在地》
坑口前からレポートを再開する。まずは坑門観察会。
この坑門、サイズ的には竣功年に似つかわしくない大物だが、なかなかにツギハギめいた姿をしていて、よく言えば歴戦の、悪く言えばチープである。
目立つのは、アーチ上半部を構成しているコンクリートブロックを二重巻きとした部分であるが、残りのアーチと側壁は場所打ちのコンクリートを用いている。
また、アーチ上部のスパンドレルはモルタル練積みで、骨材としておそらく墜道掘鑿時に生じたズリ砕石をそのまま用いているのも野趣的だし、左上の部分にはスパンドレルが無く、代わりに素掘りの岩肌がそのまま露出している(坑門より手前に突出している)ことも、この印象を強めている。
なお、アーチの上半部分にだけがコンクリートブロック(あるいは煉瓦による)の組積造りで、他は場所打ちコンクリートを用いているのは、組積→場所打ちに技術が移り変わっていく過渡期に特有の施工法である。
こうしたことからも、本坑門は昭和9年竣功当初からあまり外観は変わっていないのではないかと思う。
坑口を塞ぐように設置された路肩のガードレールを躱すと、いよいよ洞内と洞外の境目に差し掛かる。
洞内には海水が入っているが、堆砂によって埋れつつあり、潮位に拠ると思うが、探索時は“海底”が大部分露出していた。
その“海底”と外の路面の落差は1m程度である。
しかし当たり前だが、通船していた当時はもっと遙かに深くなければならなかった。
記録によると、トンネルの天井の高さは干潮位から6mだったことが分かっている。だが、どの程度の水深が確保されていたかの記録は未発見だ。
昭和59年まで使われていたとのことだが、当時の一般的な漁船の喫水(5トン〜10トンクラスの漁船の喫水は、0.8m〜1.5m程度) を考えると、最低でも干潮時2mの水深は欲しいだろう。
そうなると、海底の洞床から天井までの高さは最低でも8mあったことになり、この数字は現代の道路トンネルよりも遙かに高い。
幅だけでなく、高さも特別な大断面トンネルであったのだ。
お〜〜! 広いなぁ!
トンネル内に降り立って45m先に在る出口を見通した第一印象は、なんと言っても断面の広さに尽きる。
トンネルというか、地下のホールにいるような解放的な空間感覚がある。
現代でこそ、広幅員道路をはじめ、様々な用途で地底ホールのような大断面トンネルが施工されているが、昭和初期としては特例中の特例であったと思う。
ちなみに、複線の新幹線トンネル(おおよそ幅10m、高さ8m)に近い断面のサイズ感である。廃トンネルとしては稀に見る大断面だ。
内壁も全てコンクリートで巻き立てられていて、素掘りの部分はない。そして坑口同様、天井アーチの上半部のみコンクリートブロックが見えている。
両側の壁の場所打ちが終わってから、最後に天井部分のブロックを下から持ち上げる方法で一つずつ填め込めていったはずだ。
『北海道のみなと』によると、内部の巻き立ての一部は後年のものとのことだが、それがどの部分かは分からなかった。
コンクリートブロックを使用している事から、洞内の巻き立て完了もかなり早い時期であるとは思う。
また、両側の側壁の中ほど(点線の位置)には、次の写真のような“模様”が存在している。
側壁コンクリートの海面より1m弱の高さに並ぶ、四角い穴をセメントで埋め戻したような跡。
一部、みられない部分もある(後年に打ち替えた部分っぽい)。
穴の正体は分からないが、船舶の衝撃に備えるような何らかのクッションが設置されていたのかもしれない。
海側の出口近くの左側の壁の傷みが進んでいて、剥離崩壊による大きな穴が生じていた。
地表からの漏水も多いようで、かなり茶色く変色している。
廃トンネルでは見慣れた状況ではあるが、異例の大断面であるだけに、近い将来の大崩壊に結びつかないか不安である。
役目は終えているので、産業的な被害にはならないだろうが。
チェンジ後の画像は、壁の穴を拡大したものだ。
煉瓦のような模様が見えるのが気になる。
はっきりはしないが、もしかしたら側壁の裏側に(坑口部分だけかも)煉瓦を用いている部分があるのだろうか。
非破壊手法で確かめるには、当時の図面が必要だろう。
15:54 《現在地》
入口から30mほどは床に陸があり進むことが出来たが、全長の3分の1にあたる15mにはそれがなく、進むことはしなかった。
腰まで浸かれば突破は出来そうだったが、そこまでしなくても反対側の坑口を目撃する目途があるので遠慮する。
トンネルの外の少し離れた海上に防波堤があり、外洋を直接は見通せないが、それでもこの海面に浮かんだ円いシルエットの感じは、子供のころに夢見た秘密基地からのメカ発進シーンを連想させるものがあり、食卓の平和と郷土の繁栄を胸に、イカやタラを目指し出撃した幾万隻の漁船の雄姿が瞼に浮かんだ。
VIDEO
世にも珍しい人工トンネル内の渚の様子の動画も撮影してきた。
防波堤のおかげで波は穏やかだが、外洋より陸へ吹き上がってくる風は強く、そして冷たかった。
この先は海の仕事人たちの独壇場であり、私がザブザブをするような“遊び場”ではない。
そんな印象だ。
15:56
洞内の探索を終え、入口へ帰還。
かつて、漁師たちが、その日の生還に安堵した眺めを、追体験している。
地上へ戻った私は、次に上図のようなルートを辿って、トンネルの海側坑口を見に行くことを考えた。
実際に行けるかは、行ってみないと分からないが。
というわけで、再び自転車に跨がって、出発。
写真は坑口を背に撮影したもので、目の前の船溜まりの外周をぐるっと回り込んで、左側に見える堤防の先端を目指す。
次の写真(↓)は、現在地から見て正面向こう、船溜まりの対角位置から、逆にこちらを向いて撮影したものとなる。
16:00 《現在地》
矢印の位置に、トンネルが見える。
トンネルが貫く切り立った岩崖の上の丘は、中世における道南の和人拠点“道南12館”に数えられた比石館(アイヌ語のピツウシ(石の多い所の意)に由来する地名)の跡地である。
また、この目立つ岬の地形が、石崎という今日の地名の由来になったという説がある。
右側にあるのは石崎川と石崎漁港を隔てる長い堤防で、昭和初期の開港以来からの由緒ある構造物だが、大部分が作り替えられており、見た目に古い感じはしない。
これからこの堤防の突端を目指すぞ。
漁港の一角に、施設案内図があった。
既に役目を終えたトンネルは描かれていないが、これにより各防波堤の名称が分かる。
私は、「東防波堤」を行き、その先端からさらに伸びる「北防波堤」の突端まで行こうとしている。
船溜まりの真っ正面にトンネルを収める位置まで来た。
巨大な断面を持つトンネルが45mの長さを圧縮し、まるで薄い壁を貫くように、向こう側の防波堤(西防波堤)を見通すことが出来ていた。
チェンジ後の画像は、近い位置から撮影されていると見られる、『写真でみる漁港 明日をめざして』掲載の昭和28(1953)年のショットを重ねてみた。
この写真に写っている石積の堤防は、取り壊され、部分的には現在の堤防に取り込まれる形となり、見ることは出来ない。
さらに前進すると堤防が細くなり、港内の海面と、石崎川の水面の間を綱渡りするような、一風変わった風景となる。
古ぼけたボラード(係船柱)が港内側に並んでいるが、船の姿は見られない。
ここから先の港内水路は、トンネルを廃止する代わりに開鑿されたものであり、人工のものである。
堤防も含め、昭和50年代の建造物であろう。
なお、ここまで来ると海風を遮るものがないので、強風である。
私はそのまま自転車で進んだが、風に煽られての転倒や、特に落水に注意である。
水面に両サイドを挟まれた堤防から、今まで見えなかったアングルで坑門を眺望できた。
坑門が地山に対してどのように配置されているのかがよく分かる。
片側が少し突出している構造であり、側面にもコンクリートブロックを用いているようだ。
なかなか複雑な形状である。
16:01 《現在地》
堤防が折れ曲がっている地点まで来た。
ここが「東防波堤」と「北防波堤」の境であり、この先の北防波堤は、石崎川ではなく外洋を背にしている関係上、文字通り防波のための高さを持っている。
目指す目的地は、もうすぐだし、もう見えていた。
チェンジ後の画像も、ほぼ同じ地点から撮影したもので、目指す北防波堤の突端まで見通せている。
正面奥の陸地は西防波堤であり、両者の間隙に船の出入口が開いている。
左の陸地はトンネルがある岬の先端で、水路幅を確保するための突角除去のほか、海底が掘り下げられているので、隣の川とは別のもの青さを見せていた。
個人的印象だが、このカーブから先は急に人里の温もりから離れる感じだ。
古典的コンピュータRPGで、村の外に出た感じと言えば伝わるだろうか。
外洋というフィールドにいる緊張感がある。
ここで私が膚に感じた“孤立している感じ”は、全天球画像の方が伝わりやすいだろう。
水域に囲まれた細道を、行き止まりまで進むことも孤立だし、岩山によって人里や港の温もりが視界から隠されることも孤立であった。
加えて私のタイミングだと、日暮れという孤立もあった。
岬の先端は、掘鑿によって無理矢理地表へ引き出された、黒くぬっぺりとした岩崖であった。火山岩っぽい。
このどことなく異界染みた壁を大回りに回り込み、初めてその“外側”、外洋側の面が見えるようになると、そこに……
16:03 《現在地》
見えた! 海側坑門!
当たり前だが、ちゃんとあったし、陸路だけでそれが見える位置まで辿り着けた。
北防波堤の突端に立つ、小さな灯標。
幅30mほどの水路を挟んだ対岸の西防波堤突端にも同じものがあり、港の入口を知らせる役割を担っている。
ちなみに、平成20(2008)年11月までは、これと別に檜山石崎灯台というコンクリート造の灯台が岬の突端にあったそうだ。
防波堤の突端から、約110m離れた海側坑口を遠望している。
このように、ちょっとだけフィールドの外まで足を伸ばすことで、本来なら船乗りしか見ることができない、激稀な“東洋一”の漁港トンネルのもう一つの顔を拝むことができた。
そしてその表情は、廃止から40年近い月日の経過を差し引いても、……いや、それは差し引きがたいのかもしれないが……、
限界 の二文字を読み取らせる姿だと、私には見えた。
扁額さえ掲げていない質実一辺倒な坑門の表面は、限界まで風波に削りとられ、ボロボロだ。
構造の心臓部といえるコンクリートブロックのアーチこそ健在だが、どう見ても苦しそうな姿。
それでも美しいと思えるのは、心の中にある敬意からか、それとも頽廃美に毒され過ぎているのか。
VIDEO
最後に、真っ正面からのアングルを撮ってみたくて、ドローンで撮影をしてみた(無音の動画)。
坑門の直上やや右側にガレた陥没地形があり、これが【洞内の崩壊】 に影響を与えているようだ。
机上調査編で紹介した平成16(2004)年の新聞記事では、崩壊しないように町で補修することを検討しているとのことだったが、果たしてトンネルにとって致命的な崩壊が起こる前に間に合うだろうか。
半世紀にもわたって石崎を恵みの海と結びつけ、その繁栄の大きな動力源となってきた偉大なトンネルは、役目を終えた今もまだ、出入りする船を港の守り神のように見守りながら、風を通し続けている。
その姿が、とても印象的だった。
私としても引続き、開鑿初期のトンネルの姿が分かるような資料の捜索を進めたいと思う。