ミニレポート第308回 東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線 保谷駅分断区間

所在地 東京都西東京市〜練馬区
探索日 2026.07.03
公開日 2026.07.14

 人が作りし鉄道を越せない可哀想な都道


《周辺地図(マピオン)》

東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線は、東京都新宿区から同練馬区を経由して埼玉県新座市に至る主要地方道である。路線の大半は、東京23区内に存在する。平成29(2017)年版『東京都道路現況調書』によると、実延長は22242mとあるが、これは新宿区内に存在する2本の支線を含んでおり、本線のみで起点から終点まで一気に走ろうとすると……



走れない!!!



だって……!



よ〜く見ると、

ここ繋がってない!!!

ちょうど練馬区と西東京市の区市界のところだ。

ここに大手私鉄が運行する西武池袋線の保谷(ほうや)駅があり、都道を地図を遠目に見る分には、橋上駅の下を立体交差でくぐっていそうな感じがするし、実際都市部の鉄道ではそのような場所が良くある。だからそう思うのが普通である。
が、そもそも保谷駅周辺の西武池袋線は高架化していないし、当然駅は地上に存在する。
では、駅の構内を都道が踏切で横断しているかといえば、そんなこともない(あったらそれはそれで面白かっただろう)。

地図を拡大すると分かる通り、都道25号は保谷駅によって分断されている。

それも、駅の周辺のまとまった長さにわたって道がないとかではなく、地図上では本当に駅と被っているごく小さな区画だけ道がない。
これがまた印象的である。
しかも、前後の道の描かれ方が都道とは思えぬような狭さだし。


これは、行って見なければなるまい!





2026/7/3 11:56 《現在地》

ここは西東京市下保谷の都道234号前沢保谷線、通称“伏見通り”の路上(側道上)である。
この前方すぐの地点に、今回のターゲットである都道25号と平面交差する下保谷2交差点がある。
大きな青看も設置されており、私の進路である右折には、「保谷駅 Hoya Sta.」の行き先表示があった。

確かに地図上、ここを右折すると保谷駅へ辿り着けるのであるが、冒頭に紹介したとおり、辿り着くというか、ぶった切られているというか、ぶった切られた地点が保谷駅であるという感じの、不思議なものとなっている。
とはいえ、この先で都道以外の道も使って良いのであれば(当然使って良いのであるw)、ちゃんと青看の通り保谷駅前に辿り着けるので、皆さんはご心配なく。

右折します。



右折直後の都道25号の路上風景である。
都道25号としては、起点の新宿区飯田橋から約18km、終点の埼玉県新座市栗原から約2kmの風景。
どこ〜〜にでもありそうな2車線&両側歩道完備の道路であるが、全体的にまだ新しい道ということは、そこかしこから感じられる。

というか実際この区間はまだ新しく、私が都内に住んでいた2007年の7月に初めてここを訪れた時点では、チェンジ後の画像のように、この先に見えるマンション前の道がまだ完成していなかった。



11:59 《現在地》

冒頭の交差点から500mほど直線的に進むと、前方に信号がある十字路の交差点が見えてきた。
特に案内標識や交差点名の表示はないが、この交差点を右折すると保谷駅の北口ロータリーに繋がっている。
一方で、都道25号はそのまま直進し交差点を突っ切るのであるが、この交差点から200mほど進んだ小さな路地に突き当たったところ、、ちょうど西東京市と練馬区の境で終わっている。

ここまでの道路がまだ新しかったということから察せられたと思うが、この先の練馬区内は未開通なのである。
なので都道25号も行き止まりで終わっているのであるが、それはあくまでも“新道”の話で、都道としての“現道”が別に存在している。
それがどこにあるかというと……



ここだぁ〜!

上述した交差点の70mほど手前から右斜め前方へ分かれる、この全く目立っていない進入路が、都道25号の現道である。

このレポートで使用しているスーパーマップルデジタルや、地理院地図などは、確かにこの道路を都道府県道として塗り分けているのであるが……、よほど注意深く意識していないと、自動車はおろか、徒歩や自転車の速度感でも通り過ぎてしまうと思う。
実際私も一度ならず二度(2007年も今回も)通り過ぎてから、気付いて引き返してきたのである(苦笑)。



なお、この先は車輌一方通行規制があり、自転車を除く車輌は起点→終点方向の一方通行である。
このような規制もあり、かつ地味に分かりづらい狭路である都道を、わざわざ誰も通らないかと思いきや、それは人が少ない田舎の常識であり、ここでは駅へ用事がある自転車や歩行者がよく通っているようだということを、この写真は教えてくれる。

チェンジ後の画像は、2007年当時の状況だ。
都道の幅や形、一方通行規制の内容は変わっていないが、周辺の建物や土地利用はだいぶ変わっている。
保谷駅北口周辺の再開発は、ここ20年ほどの間にかなり進んできたことが分かる。

でも、この酷く狭い都道は変わっていない。
そんなことも、一つの面白さかと思う。
しかし、まだ本題である、保谷駅による分断を見ていない。

このまま都道にしたがって、駅へ向かおうじゃないか。



都道25号の一方通行規制がある狭路区間の様子。
この区間の実際の道路幅は4.00m(道路台帳調べ)である。

ここに都道であることを公然と周知する、例えば“ヘキサ”のような案内標識はないのだが、都内の道路ファンにはおそらくお馴染みであろう、都道(正確には東京都が管理している道)の証しと言えるアイテムが路傍にふんだんに存在している。
以前も何かのレポートで書いていると思うが、それが何かといえば、チェンジ後の画像で“赤矢印”を示したような所に設置されている街灯の管理番号標である。



あまりに見慣れたものなので、この都道25号では一瞥して「あるな」と確認しただけで撮影をしなかったので、別の都道で撮影した画像をサンプルとして紹介するが、この画像左のフォーマットによる街灯管理番号標が付いていれば、その道路は東京都が管理しているものである。具体的には、都道ないしは指定区間外の国道、都が管理する林道・農道・港湾道路などが該当するだろう。
それ以外の市区町村が管理する街灯には、右のような異なるフォーマットの管理標が付いている。

このことを把握していると、都内の市街地にある道路調べがはかどるので、知識として共有しておく。



12:00 《現在地》

狭路を約80m進むと、車輌一方通行の入口となっている場所に達する。
ここで広い歩道のある道に突き当たるのであるが、これは市道(福泉寺通り)で、ここから右折すると約200mで保谷駅北口ロータリーに突き当たる。現在の保谷駅北口の押しも押されもせぬメインストリートである。

だが、我らが都道は、古参らしい意固地なプライドを死守するかのように、このような“新参者”である最近に整備された都市計画道路の横やりを一切無視して進むのである。
市道の“向こう岸”に始まる、こちらと同じだけ狭い道路が、都道25号の続きであることは言を俟たない。

当然のように、この横断する小径が都道であるという周知はないし(街灯の管理標だけは正直だが)、歩道を鋪装しているタイルや縁石、歩道と車道を隔てる防護柵など、市道側のあらゆる存在が、この古参の都道を軽んじているように見えるのは、完全に私の被害妄想である。実際は、これで何も間違っていない、利用者目線に立った正しい整備がなされている。



都道との無名の交差点から見る、保谷駅方向の福泉寺通りの往来風景。

実際の通行量でいえば、都道とこの市道の間には1000倍の開きがあると思うが、道路地図上では、狭くても圧倒的に都道のほうが目立っている。
それは、無地の道路と濃い緑で塗られた道路の差であり、実際、土地に不案内な者が、道路地図頼りで都会を走ると迷う理由の第一位が、この色塗りのトラップだと思っている。
昨今は、リアルタイムで行き先をナビしてくれるテクノロジーの進歩もあり、昔ほど道路地図の色塗りに騙される機会はなくなったと思うが…。



上記交差点を振り返って撮影。

この区間の都道は、道幅の狭さも然る事ながら、よく見ると微妙に直線ではない小刻みなカーブが残っており、かつてこの周辺が武蔵野と呼ばれた広大な原野や、そこに生まれた農村であった時代の素朴な生活道路の姿を彷彿とさせる。
古い土地に都市開発や都市計画という名の「新しいファイル」が、繰り返し上書き保存された結果が、今の風景である。
古いものの多くは姿を消したが、それでも土地には色々なしがらみがあって、簡単には消え去りきらないものもある。
この狭い都道も、その一つなのだろう。



12:01

福泉寺通りを突っ切って、都道の続きの進行を再開。
ご覧の景色が、東京都道25号飯田橋石神井新座線の現道である。
道路台帳によると、道路幅は約5mで、直前の区間のような一方通行規制はない。

極端に狭いわけではなく、都道府県道らしくもない、あまりにもどこにでもある普通の街路過ぎて、少々コメントに困るが、都心の巨大な交通の要衝である飯田橋のこの場所の0キロポストを出発した道を忠実に20kmばかり辿ると、こんな路地になっているというのは、やはり面白い。

国道に次ぐ“主要地方道”の格を持つ道路が、“23区内”でもこんなにのんびりとした表情を見せるのかと、東京移住初年度だった2007年の初訪時には本当に驚いたものだった。
今となっては、東京に限らず、都市という場所にはこういう都道府県道が結構あるということを知ってしまったが…。



そこから道なりに都心方向へ数十メートル進むと、今度は鮮やかな土色の農地が道路の片面に現れたのであるが、地図を見ると、ちょうどこの辺りから道路の中心線が西東京市と練馬区の市区境となっている。
その状況は、保谷駅を突っ切った先にある都道233号との交差点まで、約300mにわたって続く。

即ちこの写真の場面においても、向かって左の畑は練馬区内で、右の住宅地は西東京市内である。
練馬といえば、練馬大根。おそらくこの畑もその産地だ。



福泉寺通りの交差点からおおよそ200m進むと、道の幅は変わらぬままで、商業地へ取り込まれる。
この直近200mの短い間で、住宅地、農地、商業地を足早に駆け抜けてきたのである。
そして、商業地の中心にあるのは、“アレ”だ。

もう、見えてきている。


道の奥に……




12:02 《現在地》

都道が地味〜に居なくなる地点。

この正面の高いフェンスの向こうが、保谷駅である。

都道25号は、この地点で途切れる。
再開するのは、駅を突っ切った反対側。
この先は完全に駅構内ということで、踏切で横切るのは無理だとしても、地下道でもあれば先へ進めるのだろうが、用意されていない。
とはいえ、道自体が完全に行き止まりというわけではなく、線路に沿って左右に道が分かれている。
左の道を選ぶと、迂回して都道の続きへ出ることが出来る。迂回路は都道ではないが。

私はこれまでも各地で色々な道路の“不通”を目にしてきたが、線路が横断できず途切れてしまった都道府県道というのは、初めてかもしれない。
山や川で途切れるのは分かるが、道と同じ人が作った線路くらい、どうにかならなかったのかと思ってしまう。
まあ、単線の線路とかではなく、駅なので、結構な障害物ではあるのだが。
ともかく、都道に限らず、都道府県道全体で見ても、これは相当に珍しい場面である。

ただし、直前までも都道らしからぬ道であったことや、その不通を知らしめる告知物が何もないこと、そして、ここから駅の向こう側にある続きの道が見えないことなどの理由から、正直、ここで道が途切れているということに対する、目に見えるようなカタルシスは乏しいかもしれない。




東京都道路台帳公開システムより


なので、道路世界の正典ともえいる道路台帳で、見えるカタルシスを補おう。

これは、東京都道路台帳公開システムで見ることができる、この場所の道路台帳図だ。
オレンジ色の枠内が、都道25号の道路区域である。
中央を横切る駅の構造物の上下、ちょうど真っ直ぐに伸ばせば繋がる位置に、ほぼ同じ幅をした“都道末端”が存在していることが分かる。
“おおよそ”とかではなく、本当に綺麗さっぱり駅構内のギリギリ両側まで都道が来ていて、そこでブッツリと途切れているのが面白い。

なお、この鉄道による断絶のこちら側の端部が、東京都建設局内の管理区域境になっていることも分かる。
こちら側は西東京市他を管轄する北多摩南部建設事務所、線路の向こう側は練馬区他を管轄する第四建設事務所の管轄なのである。
実際の市区境は、先ほども述べたとおり、線路ではなく道路に沿って続いているのであるが。



これは2007年当時の同じ場面だが、今とは大きく異なる点が一つあった。

当時は今よりホームの数が少なかったことや、高いフェンスがなかったことで、構内の見通しが良かった。それで行き交う列車の姿を間近かつ直に眺めることが出来ていた。



ホームへ視線が筒抜けだったので、そこで列車を待つ一人一人の人相をつぶさに観察できた。

……まあ、それはどうでもいいんだが……



当時は駅の向こう側から再開する都道の存在を、ビルの狭い谷間という間接的な形であれ、視認できていたのである。

この変化は、全国推定25万人の都道25号ファンにとって、ちょっとだけ痛い喪失であった。







それでは、駅の反対側にある都道の続きへ行ってみよう。
それをするには、都道の末端にある線路(駅)沿いの狭い道を左方向へ進むと良い。
するとご覧のような路地が続いていて、約80m進むと車も通れる踏切が現れる。

チェンジ後の画像は、2007年の同じ場所だ。
道路や桜並木の場所は変わっていないが、駅構内の様子はだいぶ変わっている。
Wikipediaの保谷駅の解説によると、平成22(2010)年から23年にかけて新たな3番線ホームが増設されたという。
今回の写真に見える白い大きなフェンスの向こう側にあるのが、新設された3番線ホームなのだろう。



踏切名は失念したが、これが保谷駅の都心側に近接して存在する踏切だ。通じているのは練馬区道である。
今回も、そして前回も、ここは沢山の車と人でごった返していた。
駅を挟んで踏切の間隔が開いているので、交通が集中するのは肯ける。道も広くないし。



同踏切から駅方向を撮影。
“黄破線”の位置が、都道の分断区間である。
わずか30mくらいの距離だが、道路台帳上でも道路区域の認定がなされておらず、分断されている。

チェンジ後の画像は例によって2007年のものだが、見える景色がだいぶ変わっていて驚いた。
当時のホームは踏切の直近にまで伸びてきていて、列車の停止位置もとても近かった。
だが、3番線ホームが新設され、構内配線も変わった結果、1〜2番線ホームの東端はだいぶ切り詰められて、踏切から遠ざかったことが分かる。

……まあ、これが都道を整備するための改築じゃないってことは、分かるけどな……。
新たに出来た3番線ホームも都道を邪魔しているし…。
でも、とりあえず踏切と列車停止位置が少し離れたので、この踏切の遮断時間はいくらか短くなったと思う。それが改築の目的かは分からないが。



12:05 《現在地》

踏切を渡ると50mほどで都道233号東大泉田無線、通称“保谷新道”と大泉第六小入口交差点にぶつかる。
ここを右折するとすぐに、分断から明けたばかりの都道25号と、2分ぶりに再開した。
それがこの写真の場面だ。

チェンジ後の画像の“×印”が分断されている駅側で、名前のない交差点で保谷新道と交差して、都心方向に伸びている。
やはり案の定というべきか、案内標識の類は全くない。

なお、この交差点は西東京市と練馬区の境界にもなっていて、交差点で4つに分けられるピースの北西側だけが西東京市、残りの3ピースは練馬区内である。
市区界に関する案内標識もない。



これが、都道25号の練馬区側末端の姿だが、

絵に描いたような袋小路である!!

反対の西東京側の末端部は、線路沿いの道があって迂回出来たが、こちらはガチの行き止まり。
ここから見えている奥の塀が駅の外壁であり、そこで都道は途絶えている。

だが特に通行規制はなく、むしろ保谷新道から都道25号の都心方向へは一方通行規制で入れないのに、この“行き止まり”の方へは入れる。写真左上にそれを示す規制標識がある。



この短い袋小路の区間に“ヘキサ”はなく、街灯も設置がないので、それに附属する街灯管理標から都道の証しを得ることも出来ない。

万事休すかと思いきや……

駐車禁止 この都道は道幅が狭いので駐車違反になります。 警視庁石神井警察署 東京都第四建設事務所」 ってな看板が!!!

グッジョブ警察! おかげでここが都道であることの“見える証し”を得られたぜ!

私みたいに普段田舎に住んでいると、かつて自動車教習場では習った交通ルールの中でも忘れがちになるものがある。
たとえば、無余地駐車という違反行為もその一つ。
幅の狭い道路では、そこに駐車禁止の規制標識がなくても、駐車した車の右側に3.5m以上の余地が確保できない駐車は違法駐車になる。
この道も駐車禁止の標識はないが、道路台帳によると幅員4.34mと狭く、どう考えても3.5mの余地を残して駐車はできないだろう。
看板がなくても駐車違法を取られる道路であるが、看板でわざわざ教えてくれているのである。

ちなみに、【2007年当時】も道路の様子は今と変わりがないが、看板は設置されていなかった。



メートルを刻むごとに迫る終焉。
終わりの塀の向こうには、我が物顔をした列車の姿が。

果たしてここが袋小路になってから、新座方面への道が途切れてから、どれくらいの時間が経過しているのだろう。
都道になったのと、袋小路になったのは、どちらが先であったのか。 これらは机上調査の宿題だ。

こんな短い袋小路の区間でも、沿道にはびっしりと人家がある。
この区間の通行量調査が行われたことはないと思うが、23区内に所在する供用済み都道の中で最も交通量が少ない区間かもしれないと漠然と思った。
私のような好き者や、配送関係者、インフラ整備関係者などを除けば、部外者が立ち入る理由が見当たらない都道だと思う。とてもプライベート感がある。



12:05 《現在地》

1分もかからずに、行き止まりの末端へ。

この最後の5mくらいだけは道がさらに狭くなっており、道路台帳によると3.71mしかない。
向かって左の建物が更新されていたが、道路の様子は2007年から変わっていない。
今回の写真は2番線に列車が停まっているが、2007年の写真では一番手前の1番線に列車が居るので、それが物凄く近くてビックリしたのであった。塀越しに手が届きそうなくらい近く【見えた】

あと、当時は意識しなかったのでよく確認しなかったが、2007年の写真の道路末端の路面に白いペイントが見える。
おそらく都道の道路管理者が描いたものだと思う。



折り返す。

自転車でも、乗車したままのUターンは道幅ギリギリであった。
当然、ここまで四輪の車で入ってきてしまった場合は、50m前の交差点までバックで戻るしかなくなる。そして、バックのまま信号待ちをして、バックで交差点に出ることになるだろう。
その一部始終を目撃したら、私はきっと微笑むだろう。みんなもきっと微笑うと思う。世界が笑顔になる。
そんな都道の袋小路である。



保谷新道との交差点まで戻り、そのまま十字路を直進するのが都道25号の順路(終点→起点なので逆路)である。

先ほども触れたとおり、この先も車輌一方通行規制区間で、こちら側からだと逆走になる。



同交差点を振り返り。

中央に見えるビルとビルの間の隙間の道が、50m先で終わっている都道である。



12:15 《現在地》

本編レポートは、標題の分断区間を終えた上述の交差点で終了であるが、私の探索はそのまま都道25号の都心方向へ続いた。
都道25号は、練馬区内の大半において、古い形の道路のままであり、充分な広さがない。
部分的に2車線に拡幅されている区間や、バスが通る区間もあるが、ご覧のような路地同然の道が断続的に数キロ以上続く。
さすがに交通量は、勝手知ってる皆さん弁えているようで道なりだが、いざ対向車が来ると離合に苦しむことになるだろう。



12:20 《現在地》

保谷駅の分断地点から1.9kmほど都心方向へ都道を辿ると、練馬区石神井台6丁目の都道8号千代田練馬田無線、通称“富士街道”との変則交差点がある。
そしてここに、今回探索した区間内では唯一となる、都道25号のヘキサがある。
とはいえ、この道路がここで“狭路癖”を改めて真っ当に生まれ変わるかといえばそんなことはなく、富士街道を斜めに横断した先にもまだ狭路区間である。
この地点で都心の起点まではあと16kmだが、このくらい近づいても世界有数のメガロポリスは片鱗を見せないということに、むしろ意外な驚きを感じる道路であった。

なお、2007年当時は、ここにあるヘキサに「旧早稲田通り Kyuwaseda-dori」という道路名の補助標識が付いていた。
これは東京都が設定した公式の道路通称の一つで、都道25号の歴史的起源を調べるうえでも参考になる道路名だと思われたが、どういう判断があったかは知らないけれど、東京都は2007年以降のある時点で旧早稲田通りを縮小し、富士街道から保谷新道までの区間を除外したらしい。だから補助標識が取り外されていたのである。

……せっかくつけて貰った通称さえ剥奪されて、どこまで行っても不憫な都道……、かわいい。



 机上調査編 〜無抵抗主義で鉄道に分断された都道のなぜ〜


それでは机上調査編。

まずはいつものように歴代地形図で、今回探索した区間が収まる範囲の変化を見てみよう。


@
明治39(1906)年
A
大正6(1917)年
B
昭和28(1953)年
C
昭和41(1966)年
D
地理院地図(現在)

@明治39(1906)年版は、長閑な武蔵野の原風景といったものが描き出されている。
まだ保谷駅も線路もなく、あるのは一面の農村的景観だ。桑畑、果樹園、湿田などの地図記号が点在している。
現在は西東京市と練馬区の境界線になっている場所は、この時点では埼玉県北足立郡保谷村と、東京府豊島郡大泉村の境であった。
保谷村が越県合併によって東京府北多摩郡保谷村となったのは、この図の翌年明治40年である。

その府県境だった線上に、両点線で表現された「里道(間路)」が重なっているところがあるが(青矢印の位置)、そこが後に今回探索の“都道分断地点”となる場所だ。
間路は、里道の中で最も低級の道とされ、周辺にも同様の表現をされた道が沢山ある。
現在は都道で主要地方道でもあるが、当時はまだ地図上で頭角を現していなかった。

A大正6(1917)年版には、この2年前の大正4年に池袋〜飯能間を全通させた武蔵野鉄道が出現する。
保谷村下保谷の地に保谷駅が開設された。
今回探索した道は、この時点では踏切道として存続していた。
道の表現も一段階だけグレードアップし、「里道(間路)」→「里道(連路)」となっている。

B昭和28(1953)年版も、引き続き一帯は農村的風景が優位であるが、名称的なものが色々と変わっている。
昭和15年に保谷村は町制を施行して北多摩郡保谷町になっていたし、大泉村は昭和7年から東京市に編入されていたが、昭和18年に東京府が東京都になって東京市が廃止されると、東京都板橋区の一部となり、さらに昭和22年に板橋区から東京23番目の区として練馬区が分区した。
武蔵野鉄道も、昭和20年に西武鉄道と合併、西武農業鉄道となった翌21年に改めて西武鉄道へ社名を変更。保谷駅は西武鉄道池袋線の所属駅になっていた。

“我らが道”は、この時点で遂に「府県道」として描かれている。
路線名は地図上からは読み取れないが、今日ある都道25号の前身は、昭和20年代までは遡ることが出来るらしい。
そして、もう皆さまお気づきかもしれないが、都道25号のうち、練馬区内のルートはほぼ全て、この当時の「府県道」と同じである。
で、その府県道のルートを遡れば、Aや@の時代から既にあった道であることもまた明白で…。

C昭和41(1966)年版は……、ついに分断される!
この版で、保谷駅が東側に少し伸びており、“赤矢印”の位置にあった道を寸断している。
地図を見る限り、この段階で、道路は分断されたと考えて良いだろう。
また、駅周辺の市街化も、この版あたりから急速に進行しており、近郊農村地帯がベッドタウンへと変貌を遂げていく。
図の翌年の昭和42年1月1日に保谷町は近隣の田無市、国立市と同時に市制を施行し、東京で17番目の市になった。(平成13年に保谷市と田無市は合併して西東京市となる)

そして最後は一気に時間を飛ばして、最新のD地理院地図である。
駅の北側や西側の西東京市区域内では、直線的で広大な都市計画道路が旧来の区画を断ち割るように出現し、都市の新たな骨格を形成している。
一方、駅の南側や東側の練馬区内ではそのような動きが鈍く、依然として@〜C以来の伝統的な街路網が密集する住宅地の交通を支えている状況であることが読み取れる。



次は、歴代の航空写真で、保谷駅の周辺のさらに細かな変化を見てみよう。

I.
昭和16(1941)年
II.
昭和38(1963)年
III.
昭和41(1966)年
IV.
平成19(2007)年
V.
令和元(2019)年

I.昭和16(1941)年版は、武蔵野鉄道時代の長閑な保谷駅である。駅南側の保谷新道(現都道233号線)沿いに市街地が展開しているが、その外は畑が目立つ。
“矢印”の位置には、はっきりと道路と鉄道の平面交差が見えている。
踏切前後の道も、いわゆる小径の規模感だが、現在の都道の微妙にカーブしている線形や道幅は、この時代から変わらずに継承しているものである。

II.昭和38(1963)年版は、注目すべき版である。
というのも、この次のIII.昭和41(1966)年版では、矢印の位置の踏切が消滅しているからだ。
したがって、保谷駅による都道の分断は、昭和38年から41年までの3年間のどこかで起きた出来事だと判明した。

III.昭和41(1966)年版では、上述の通り、都道の踏切が消滅して道が分断されている。
II.と比較すると、都道を分断する形でのホームの延伸や、駅の南北を繋ぐ橋上駅舎の出現など、目に見える変化が大きい。

IV.平成19(2007)年版は、本編中でも比較写真を多く使用した、“前回の探索”の年次である。
これまではみられなかった駅北口の開発が始まっている。

V.令和元(2019)年版は、今回探索時の状況に近い。
新たな駅前通り(福泉寺通り)と共に北口がオープンしたほか、新たな3番線ホームが増設され、これまでの1面2線から2面3線の駅となった。
駅周辺の市街化は、農地がほぼ見えなくなるくらい進行し、建物の高層化も進んだ。にょきにょきぶりがシムシティみたいだ。
おかげで、旧色依然とした都道25号という道の存在感は、空から見ても薄れている。


次に、Wikipediaの保谷駅の解説を読んでみると、昭和39(1964)年8月の出来事として、「構内踏切を廃止し、橋上駅舎使用開始、北口開設」との表記があった。
“構内踏切”というのは、駅の利用者が改札とホームを行き来するのに使う通路のことである。
それを廃止して橋上駅舎にしたという内容は、都道の踏切廃止について書いてあるわけではないが、航空写真のIIIからIVへの変化とタイミングが完全に合致しており、このとき(=昭和39年8月)に都道の分断が起きたことが分かる。

この駅舎拡張の背景となった事情について文献的確認はしていないが、西武池袋線が農村的路線から都市輸送路線へ変化していく過程の当然の変化であろう。
鉄道の輸送力を増強するためには、列車の編成を長くすることが効果的であり、そのためには発着ホームを長くする必要がある。それで駅中心の近い位置にあった都道の踏切が犠牲になったと考えられるのだ。


とはいえである。
それはあくまでも鉄道側の事情であり、道路側の事情はどうだったのか?

たとえ狭くても、当時から都道ではあったはずで、私鉄によっておいそれと分断されたままというのは、ちょっと不思議な感じがする。
分断対策として、単に近隣の踏切へ迂回をさせるということではなしに、新たな都道を地下道や跨線橋として新設することが、当然に考えられて良い気がする。

続いては、道路側の歴史と、事情を、見ていこう。





実は、本編のラストシーンの富士街道から、さらに都心側へ1.5kmほど都道25号“旧早稲田通り”の狭路を進んだ練馬区石神井台1丁目の沿線に、右写真の「所沢道」案内板があり、次のようなことが書いてある。

所 沢 道
所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入ります。禅定寺の門前で向きを西に変え、道場寺、三宝寺の門前を通って、富士街道と交差した後、南大泉を経て西東京市に入り、所沢へと通じています。概ね今の「旧早稲田通り」です。
江戸時代の文人の大田南畝(1749−1823)が記した紀行文『石神井三宝寺遊記』にも登場する道です。(中略)
三宝寺池の弁財天(現厳島神社)の祭礼の日には、近在や江戸からたくさんの人がこの道を使って石神井へ訪れました。大泉・石神井から江戸方面へ農産物を運んだ産業の道であったとともに、江戸からの参詣・行楽の道でもありました。

令和8(2026)年3月 練馬区教育委員会

このように、都道25号の“旧早稲田通り”の前身が、江戸城下より石神井、南大泉を経て所沢へ至る「所沢道」であったことが述べられていた。

これをキーワードにして検索を進めると、明治初期の『東京府統計表 明治14年』に掲載された「道路表」に、名だたる東海道や中仙道、陸羽街道などを筆頭とする府下35路線の中に「所沢道」が記載され、「青梅街道東多摩郡中野村ヲ経テ富士道出口北豊島郡上石神井村ニ至ル」との記述がなされているのを見つけた。

さらに、昭和49(1974)年に練馬区教育委員会が発行した『練馬の道 祖先の足跡』には、この道のより詳しい経路が、「中野町の追分で青梅街道から北に分れ、中野村桃園、上沼袋村に至り(中略)、井荻村を経てここより下石神井村に入り(現在の八成橋付近)丘陵を次第に降って(中略)上石神井村の(中略)三宝寺門前を通過し(中略)富士街道を斜断し、小榑村に入って下保谷村からさらに所沢に達する道」と解説されており、これを地図に当てはめてみると、中野村桃園(現在の中野区中野付近)以西はそのまま現在の都道25号と合致することが確かめられた。

「所沢道」は、武蔵野を東西に横断して青梅街道と所沢を結ぶ古い道であったが、これが現在の都道という格付けと通じる格を得たのは、旧道路法が施行された大正9(1920)年であったようだ。
『東京府統計書 大正10年』に、旧道路法によって認定された東京府下209路線の府県道が列記されているが、第65号として中野桃園所沢線が掲載されていた。
全長2里33町1間(≒11.5km)、平均幅員2.8間(≒5.1m)の諸元もあった。

次に掲載するのは、昭和7(1932)年7月に東京府土木部が発行した『東京府道路概要』の一部である。


『東京府道路概要』所収「東京都市計画区域内国府県道路線図」の一部


見づらいと思うので、大きな画像もこちらに置いておくが、ここに赤い太線でハイライトしたのが、東京府道65号中野桃園所沢線の経路だ。

当時は東京府豊多摩郡中野町桃園という地名にあった中央線の中野駅を起点に、杉並、井荻、下井草、石神井、大泉を経て東京市境に至る経路が描かれおり、このうち「環状七号線」以西の経路は、現在の都道25号とほぼ一緒である。
なお、原図の赤系統の線が国道、指定府県道、府県道であり、中野桃園所沢線は府県道として表記されていた。
また、原図の緑系統の線は「都市計画線」の注記があり、この図が描かれた昭和10年当時に計画されていた都市計画道路網を示しているが、現在の環七や環八を初めとする8本の幹線環状線は、早くもこの時代から計画があったことが分かる。

ここで一つ、気付いてしまったことがある。
東京府道中野桃園所沢線の大部分は、この時代の都市計画道路網からも既に外れた存在(都市計画道路としての改良計画がない道路)であったことに気付いてしまった!

環七から下井草までは、この図でも都市計画道路が重ねて描かれているが、後にちゃんと都市計画道路としての整備がなされ、現在は「早稲田通り」の通称で呼ばれている一方で、下井草以北は、今以て都市計画道路としての整備が行われず、「旧早稲田通り」の通称で呼ばれるようになったらしい(そして今ではこの通称さえ廃止された区間が末端にある)。



『東京府道路概要』所収「東京都市計画区域外国府県道路線図」の一部

府道中野桃園所沢線は、東京市の外側に続いていた。
その部分を描いたのが右図で、赤くハイライトした位置に同路線がある。

保谷で武蔵野鉄道を渡り、県境を越えて栗原(現在の新座市栗原)までが単独区間であった。そこで指定府県道7号東京所沢線と合流すると、以後は同路線と重複して清瀬から埼玉県所沢市へ達する経路であったようだ。

ここで一つ、昔の府道中野桃園所沢線と、現在の都道25号、その整備状態の進歩を端的に比較できる数字を紹介しよう。
前掲した『東京府統計書 大正10年』には、府道中野桃園所沢線の東京府内の平均幅員は2.8間(≒5.1m)と記載されていたのであるが、現在の都道25号についても『東京都道路現況調書』を使って平均幅員を算出できるので、比較してみよう。

手元にある平成29年度の『道路現況調書』を調べてみると、都道25号の都内区間の実延長は22242mで、面積が318728㎡とのことだから、計算すると平均幅員14.3mと求められる。

なるほど、流石に5.1m→14.3mと、大幅に拡張されていることが分かるのだが、これを都道25号が所在する新宿区、中野区、杉並区、練馬区、西東京市のそれぞれについて計算してみると……、平均幅員は新宿区20.2m、中野区15.7m、杉並区12.1m、練馬区6.2m、西東京市14.0mとなって、いかに練馬区内の都道25号が旧態依然としたものであるかが、はっきりと分かるのである。

なお、昭和58年度の『現況調書』でも計算してみたが、新宿区から練馬区まではあまり変わらない一方、西東京市(当時は保谷市)については平均幅員4.7mと極端に狭く、同市内での改良が近年急速に進んでいることがはっきり分かる変化であった。


上図は、ここまでのまとめとして、現在の都道25号と、その前身となった府道中野桃園所沢線の経路の比較である。

東京府道として大正9年に認定された中野桃園所沢線は、昭和18年に東京府が東京都となった後も、他の府道と共に、しばらくは府道の名称でであり続けた。
これが現在の都道という呼び名に変わったのは、昭和27年の道路法全面改正によって、府県道に代わる都道府県道という名前が登場してからだ。
この際、自動的に東京府道65号中野桃園所沢線は、東京都道65号中野桃園所沢線にスライドし、現行道路法下の存在となった。

そして、この路線の廃止はおそらく昭和40(1965)年4月1日のことである。
埼玉県土木部道路維持課が昭和60年に発行した『道路維持課20年史』は、この日付で東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線が主要地方道に認定されたとしており、経路が重なる都道65号中野桃園所沢線は、このときに廃止されたものと考えている。
つまり、保谷駅の拡張によって分断された時点では都道65号中野桃園所沢線だったが、その翌年に主要地方道へ昇格し、都道25号飯田橋石神井新座線になった。


話が長くなってきたので、そろそろ終わりにしよう。

この都道が保谷駅によって分断された際、無抵抗で受け入れたように見えるのは、なぜかという話。


その答えは単純で――


都市計画道路ではないからだ。


上図は、保谷駅周辺の現在の道路地図だ。
都道25号の周りには実に沢山の道路があり、都道や市道が複雑に入り乱れている。
そしてこの入り乱れた道路網を観察すると、広幅員で直線的、旧来の道の形をほとんど無視して整備されたものが、断続的に存在していることが分かる。
例えば東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線が分かりやすい。
同じ都道の路線内にも、新しい良い道と、古い狭い道が、まだらに混ざっている。

チェンジ後の画像を見ると、この二つの性格が異なる道の混ざり方のルールがはっきりする。
これは東京都都市整備局の都市計画情報等インターネット提供サービスで見られる都市計画道路図である。
そこでハイライトされている道路網が、現行計画による都市計画道路のネットワークである。

現在の地図にある“新しい良い道”は、都市計画道路であり、“古い狭い道”はそうではない。
このあまりにも単純で明確なルールが見て取れる。
本編内の風景を振り返っても、これは明確に区別できる。

都市計画とは、都市の過密性から来る様々なデメリットを克服し、都市の機能性を最大化するために存在する。
都市計画が定められる都市計画区域内では、都市計画なき大規模な道路整備は、まずあり得ない。
市道も、都道府県道も、国道も、高速自動車国道さえも呑み込んで、その上位に都市計画が君臨する。

都道25号は、これまで見てきた通り、所沢道というバックボーンを持つ古い道だ。
だが、その大部分は戦前の時点で既に、都市計画からは漏れていた。
武蔵野の農村を素朴にフラつきながら点綴する、徒歩の参詣や農産物の行商に適していたこの道を広幅員に拡張して幹線道路にするのではなく、碁盤の目に近い全く新しい道路網を作ることを選んだ。そしてそれはおそらく正しい選択なのだ。

保谷駅によって都道が分断されることになった際も、この都市計画が存在していた。
でも、都市計画道路ではないこの道に対しては、地下道や跨線橋のような大規模な補償が行われなかったのだ。
都市において、都市計画がないということは、大きな進歩はないことを約束されているに等しい。
もちろん、生活道路としては実際に重要で、そのための整備は惜しみなく行われるが、仮に鉄道によって分断されて、広域交通路の機能を喪失したとしても、ローカルな生活道路としての機能を重視しているので、問題ないと見做されたのだろう。



「東京における都市計画道路の整備方針(令和8年3月)」より

したがって、今後も都道25号は昔ながらの路地道であり続ける公算が大で、これが都道でなくなるとしたら、並行する都市計画道路の整備が完了したときだと思う。
実際、西東京市内では2007年の探索から今回の探索までの間に、都道25号のルートが一部変化していた。

とはいえ、東京都は計画から50年以上未着手の都市計画道路を膨大に抱えており、優先整備路線を決めて整備を取り組んでいるが、それを見る限り、【この交差点】を直進して都道25号と都道24号を一本化する補助156号線も、その北側に並走する都道24号の本命整備である幹線街路放射第7号線も、完成時期はまだ見通せない。

まだ当分、このエリアのまだらな都道たちは、都道であり続けると思う。


 もう一つの解決策 〜鉄道立体化の可能性〜
2026/7/14追記

本編執筆時には失念していたが、保谷駅の存在によって長らく固定化されている都道25号の分断をほぼ確実に解消する手段が、もう一つあることに気付いた。

鉄道側が高架化すれば、解決できる。

しかもこれは、未だ計画すらない都市計画道路の新設を当てにするよりは遙かに実現性が高い、実現可能性を感じるプランである。

読者に教えていただいたのだが、練馬区公式サイトの「区政へのご意見」平成25年度7月分に、以下のような区民の意見と、区の回答が掲載されていた。

寄せられた声
西武池袋線保谷駅付近の踏切と交差点がとても危険である。朝は踏切が開かないため渋滞し、赤信号を無視して進入する車が多い。踏切近くの交差点・横断歩道を利用するが、これまで何度も通学中の子ども達が危険な目にあっている。他の駅はどんどん高架になっているが、保谷駅はならないのか教えてほしい。鉄道の高架が無理であれば、せめて歩道橋をつくるなどの安全策を考えてほしい。
区の回答
西武池袋線の大泉学園駅から保谷駅付近は、東京都の「鉄道立体化の検討対象区間」に位置づけられています。一方、立体化には非常に多くの費用と時間がかかるとともに、立体化の事業効果を高めるには、あわせて駅周辺の道路整備などのまちづくりを一体的に進めていくことが重要です。区としては、隣接する市とも十分に連携して都や西武鉄道に鉄道の立体化を働きかけるとともに、駅周辺のまちづくりに取り組んでいきます。
練馬区サイト「寄せられた声と回答の要旨/平成25年度7月分」より

注目は区の回答で、西武池袋線の大泉学園駅から保谷駅付近は、東京都の「鉄道立体化の検討対象区間」に位置づけられているという。

そこで調べてみると、都が平成16(2004)年に公表した踏切対策基本方針があり、確かに西武池袋線の大泉学園駅から保谷駅付近の連続立体化が検討対象区間になっていることが分かった。
ちなみに、大泉学園駅の都心側の連続立体化は平成28(2016)年度に完成している(ミニレポ291の舞台)。


多摩北部都市広域行政圏協議会「圏域内の踏切と鉄道立体化の検討対象区間(平成21年8月)」より

この大泉学園駅から保谷駅付近の連続立体化については、多摩北部都市広域行政圏協議会のサイトたまろくナビ圏域内の踏切と鉄道立体化の検討対象区間のページにも記載があり(→)、立体化の実現によって除去を見込まれる“開かずの踏切”として、どういうわけか、実際には踏切などなく完全に道路が分断されている都道25号の横断地点も表示されていた。

もっとも、図は検討対象区間を示しているだけで、実際に立体化が実現したとして、これらの“開かずの踏切”が全て解決するという保証はないのだろうが、もし保谷駅を高架化すれば、確かに都道25号の往来を妨げるものはなくなるだろう。

……で、肝心の“検討状況”についてであるが……。

西東京市のサイトにも関連ページが用意され、「連続立体交差化の早期事業化を目指しています」と記載されているなど、沿線自治体は前向きであるように見受けられる。

そして最新の情報として、今年令和8(2026)年6月に、都は22年ぶりに踏切対策基本方針(改訂版)を公表した。
鉄道立体化の検討対象区間として、改訂前に引き続き西武池袋線の大泉学園駅から保谷駅付近が記載されていることが確認できた。

検討区間として言明されているだけ希望はあるが、事業化には至っておらず、実現までには相当の時間が掛かるとみるべきだろう。


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