2020/1/23 9:52 《現在地》
意を決して…というほどの葛藤もなく、半ば諦めの心境で入り込んだ水没エリア。
はっきりした勾配の数字は分からないが、これまで一貫して着実に下ってきた隧道だけに、水没から予想できる結末は絶望的である。
すなわち、進むほどに水は深くなり、最後は天井に接する深さになるだろうが、それよりだいぶ手前に、私が進めない状況が来てしまうはずである。
ここまで洞奥を追求しながら、最後は貫通や閉塞の決着を見ることなく引き返すのは嫌だったが、こうして水没が現われ、しかもの水位が最初からいきなり腿くらいまでの深さであったこと、そして、この段階で未だ出口の光が見えないことは、ほとんど絶望的であった。
もっとも、これでようやく不快な洞奥を脱して地上へ戻ることを万人の納得のもとに選べるだろうという、屈折した安堵感もあった。
このように、いきなり断面の下半分が水中に行ってしまったような水位だが、水上に露出している側壁に、これまで見なかった“あるもの”を見つけた。
それは、なにか柱状のものを壁に挿し込んでいたような、凹みだった。
凹みは、一つや二つではなく、ぱっと見ただけでも相当な数があった。
周囲ののっぺりとした壁面とは違う、ノミで形を出しながら削り出したようなでこぼこがあり、この形に彫ろうとする人の意思を感じた。
この凹みは、支保工を固定するためのものだったと推定する。
しかし、水位がこれだけあれば当然だが、木製だったろう支保工は腐食や浮上のため、完全に失われていた。
なぜか、向かって右側の壁にだけ凹みが見られ、左側にないのは少々不可解だった。左側の壁は表面付近が大きく崩れてしまったのだろうか。
いずれ、これらの凹みは、崩壊の進む洞内で見つけることが出来た、ほとんど唯一の人間味を感じられる痕跡だった。
本当に、来るところまで来たなという感じ。
しかし、この水位は、あとどれだけ進めるだろうか。
いや、どの水位になったら引き返そうか。 …それが新たな“悩み”の種となる。
この水没が現われてしまう直前には、実はほんの少し、期待が生まれていた。
奥へ進むにつれて晴れ始めた靄や、消えた大量の水に、貫通への期待感を膨らませていた。
しかし、その期待も、この水没でほとんど消えてしまった。 …もう絶望だ。
洞内の靄が幾分晴れたのは、そこに水面があったからだろう…。
あっ!
天井まで土砂が積み上がって見えており、閉塞を強く疑わせる。
近づいて確認すれば、上方にギリギリ通過できるだけの隙間が空いている可能性もあるが、果たして…。
これまで同様、人工的なものではなさそうな、土砂の壁だ。
正直な気持ちとして、これで潔く終わって欲しいと願っていた。
手で壁を触れるところまで近づいて、運命の上方確認をした……
9:54 (入洞17分経過)
完全閉塞を確認!
冷たく閉ざされた土砂の壁で、私はようやく撤退への赦しを得た気分だった。
それにしても、この閉塞壁や、天井の濡れた感じは、気持ち悪い。
激しく水が滴っているわけでもないのに、まるで今しがたまで水中にあったような濡れ方だ。
もちろん、そんなことは現実にはあり得なく、湿度の高さの結果に過ぎないだろうが。
私は、ここが完全な水面下にあったという恐怖の想像を、ひとときも振り払えなかった。
入洞時点より、“三途の川”などという不穏な印象を持っていた今回の隧道、
総じて見れば、よくぞここまで入れたなと思えるくらいには荒廃していた。
そして、これほど荒廃しつつも閉塞がなかなか現われなかった理由は、
水没とそれに関連する大量の流水の存在にあったと想像する。
水の通り道として、多くの狭洞部分が保存されたのではないだろうか。
隧道の全長については、歩いた感覚ではよく分からなかった。あまりにも波瀾万丈過ぎて…。
しかし、最後に到達した閉塞地点は、おそらく西口附近じゃなかったかと思う。
そう考える理由の一つは、閉塞部の天井に崩壊による隙間が見つからなかったことだ。
地上の土砂崩れによって、坑口が埋没したことによる閉塞であることを、示唆する光景だった。
また、洞内の水位については、過去にはいろいろな状況があったと思う。
現状の水没区間は閉塞手前の30mほどだけだが、洞内の水位線痕跡を見る限り、
水位が高かった時期には、東口から水面が始まり、そのまま洞内の下り勾配に応じて水深が深まり、
中央付近では天井に水位が達し、以奥は完全な水面下にあった時期があったと思う。
しかしその後、中央の大きな崩土の山を境に水域は二分され、東口側の水域から、
洞奥側の水域へと徐々に排水が進み、その洞奥側の水域の名残が、
現在の水没区間なのだと推測する。閉塞に近い地下空間でも、
水の蒸発や閉塞壁を貫通しての排水は徐々に進むはずだが、
大量の水が洞外へ消えたメカニズムや、それに要した時間は、よく分からない。
もしかしたら、隧道は比較的最近まで貫通していて、普通に排水されていたのかもしれない。
とにもかくにも…
撤退開始!
10:03 (入洞から26分経過) 《現在地》
帰りは、極力一定のペースで歩くことで、所要時間から洞内の長さを測定しようと意識した。
あんなに気持ちが悪かった洞内も、帰り道となれば、だいぶ気分も緩やかだった。
出口まで、ひたすら上り坂で、脱出に要した所要時間は、閉塞地点より約9分間だった。
では何メートルなのかと言われると、やっぱり歩速が分からないので、不明である。
ただ印象としては、250mくらいと思う。これは地図上で想定される全長の範囲内でもある。
そして、毎度のことながら、地上に戻れた時の安堵感たるや!!!
私は、地下の“三途の川”を渡りかけたが、閉塞していたので戻ってきたのである。意味深だな。
隧道を出た私は、すぐさま自転車を回収し、移動を開始。
約1時間後には、かつて炭鉱があったという椴木下(もみのきした)の地に入った。
この途中、「道の駅ならは」に停めていた車へ一度戻り、濡れた服を着替えている。
これより、閉塞確認済みである第2隧道(仮称)の西口を探しに、今回最後の入山をする。
2020/1/23 10:58 《現在地》
ここ椴木下も、隧道の東口と同じ楢葉町下小塙に属する土地で、木戸川支流の小山川の谷間にある、数軒がぽつぽつと点在する小集落だ。
地区を貫く2車線道路は、県道35号いわき浪江線で、国道6号や常磐自動車道と並行する山側の南北ルートとして、これらの道路のバイパスとなっているため、交通量が多い。
うらぶれた元炭鉱集落の風景を想像していても、県道を走るだけでは、炭鉱があった気配さえ感じることはないだろう。
奥に写っているオレンジ色の工事看板のところに、左に入る細い道がある。
(チェンジ後の画像)
小さな切り通しで始まるこの道が、隧道西口擬定地や炭鉱跡地への進入ルートであるものと判断し、自転車で進行した。
ここは地形図にも軽車道として描かれている道だが、入ってすぐに廃道同然となった。かつては車道だったと分かるのだが、新しい轍が全くなく、路上にまで笹や雑草が覆い被さっている。時期が悪いと、さらに厳しい藪道になっていることだろう。
ちなみに、この日の夕方、別の場所で自転車のパンクに見舞われたが、それはここでイバラを踏んでしまっていたせいかもしれない。タイヤに刺さったとげが、時間差でタイヤ内部のチューブに刺さるのは、よくあるパターンだ。
もっとも、この廃道寸前の道は長くは続かなかった。
地形図だと、この道は入口から200mほどで3軒の家屋が密集している地点に到達し、途切れている。
実際の光景は、次の写真だ。
11:01 《現在地》
一見すると何の変哲もない広場。地形図にあった3軒の建物は、取り壊されたか、既になかった。
しかし、チェンジ後の画像に示したとおり、この広場、実は、実に変哲のある広場だったのだ。
最も重要なことは、ここから見た隧道西口と軌道跡の想定される位置で、
旧地形図に描かれていたそれらは、小山川の対岸の少し高い位置にあったと考えていた。
したがって、この広場はゴールではなく、ここからさらに川を渡って進む必要があるということだ。
これから紹介する、広場にあった様々なモノのどれが、軌道や
その親元である炭鉱と関係するのかは分からないが、簡単に見てみよう。
(←)まずはこの小屋。
地形図に描かれていた3軒のうちの1軒かと思われるが、なんとなく普通の民家の一部っぽくない姿だと思った。
ここにあったのが、鉱山事務所のような施設だったと仮定すると、付属する倉庫っぽい。
(→)広場を照らす、錆びた街灯柱。
これも、なんとなく鉱山施設らしいと思った理由の一つだが、根拠としては弱い。
(←)井戸。
あまり大きな井戸ではないが、中は深く、そこにはなみなみと水が張られていた。
注目は、井戸を塞ぐ重しの一部として、レールの切れ端が使われていたことだ。
このレール、林鉄や鉱山軌道で使われていたような軽レールで、おそらく9kg/mだろう。
レールの来歴を知りたいなどと思いながら、辺りを見回したら、近くにもっと沢山あった。
(→)小山川を渡る人道橋。
正式な橋という感じではなく、鉄管などを組み合わせて応急的に作られた印象だ。
腐食が進んでおり、ちょっと足を踏み入れただけで揺れた。
橋を渡っても軌道跡へはあまり近づけないので、敢えて渡る必要はなかったが、なんとこの橋の部材にも、大量の廃レールが使われていた。
やはり8〜9kg/mの軽レールではないかと思うが、この大量のレールはどこから調達されたのだろう。
それは、間近にあった鉱山軌道に違いないと言いたいところだが、数キロ圏内には木戸川林鉄の廃線跡もあり、判断が難しい。製造年代を知る手掛かりになる刻印類を探せれば良いのだろうが、橋の部材として使われてしまっているので、それも難しかった。
広場や、そこにかつてあった建物の正体は分からなかったが、続いて、本題である炭鉱軌道の廃線跡と、西口擬定地を目指すことにした。
小山川は非常に水量が少なく、前出の危うい人道橋を頼るまでもなく、簡単に徒渉できた。
西口擬定地がある支谷の入口は、広場より少しだけ上流なので、河床を進んだ。広場から左岸の川沿いに伸びる道もあったようだが、川岸が崩れているのと、廃道でススキが多く繁っているので、見通しの効く河床を進路に選んだ。
河床を歩いている最中、川底に煉瓦を見つけた。
来歴を特定できるような刻印はなかったが、川の源流近いところに転がっていること自体が普通ではなく、おそらく炭鉱に由来する遺物だったろう。
(チェンジ後の画像)
さらに直接炭鉱の存在を感じるアイテムも発見した。
真っ黒な石炭の塊、炭塊である。採掘された後で散らばったか、露頭から直接流れ出した原石か。
明治のコールラッシュ当時には、多くの山師がこういう川底を歩き回って鉱脈を探したといわれ、時代が時代なら、こんなに山を歩いている私も一つくらい鉱脈を見つけたかも知れない。
11:05 《現在地》
河床を歩いて、支谷の入口へやってきた。
似たような支谷が何本もあるが、新旧地形図の比較を慎重に行った結果、西口擬定地はこの谷を措いてほかにないと判断していた。
西口が開口していることは、あまり期待できないと思うが、跡地を確認をしなければ納得は出来ない。
軌道が通っていたとみられる支谷の左岸斜面(向かって右側)は、かなり急傾斜だが、スギの植林地になっており、強引によじ登っていけそうだ。
一方、支谷そのものは、急なだけでなく、細い河床がスラブっぽいので、とても登れなさそう。
迷わず、スギ植林地の急斜面の直登を選んだ。
数刻後の平場発見の報をお待ちください。
平場発見!
この瞬間は、何度味わっても嬉しいものだ。
新旧地形図の比較から独自に割り出した、今の地形図には描かれていない古い道が、予想通りの場所で見つかる瞬間……!
思えば、発見の過程を含めて、私を十分に苦闘へと誘った2本の廃隧道――いずれも貫通出来なかった隧道――を、この平場は“理論”の中で貫通して、ここに来ている。
理論の中では、この平場は今もなお、約4km離れた木戸駅前へと通じているのだ。
通じていないけど、通じている、そのことを現場で想う時が、私は大好きだ。
この軌道跡と見られる平場が発見されたのは、小山川の河床より15mほど高い山腹で、平場は前後に伸びておりどちらへも進めるが、まずは写真の手前方向、隧道西口を確認してから、最後に炭鉱方向の終点を見に行くことにした。
支谷の奥へ軌道跡を進むと、すぐに谷底が登ってきて、ほとんど高低差がなくなった。
負けじと軌道跡も上り坂で抵抗するが、行く手は鬱蒼としたスギの植林地で、さらに奥には隧道以外に越えようがない高い稜線が予感される袋小路の風景だ。
スギが植えられていても、あまり手入れがされていないようで、林床は荒れていた。
いくつか倒木を跨いだりしながら、前進した。
それにしても、かつて石炭を満載した馬車トロッコが、この坂道をよじ登っていたのだから、馬たちの苦闘は想像するにあまりある。
まして、この先には長くて狭い隧道が待ち受けていたはずで、身体の大きな彼らにとって、どんなに息苦しかったろうか。
この辺りの標高は約80mあり、隧道を抜けた先で約90m、その後は微妙なアップダウンを織り交ぜながら菖蒲平まで80m前後を維持し、以後下りとなって標高10m以下の木戸駅へ達していた。
数字としては大した高低差ではないが、馬力という非力な輸送手段で石炭のような重量物を運搬するのは、大変な仕事だ。
逆に、“黒いダイヤ”と持て囃された当時の石炭には、そこまでして運び出す価値があったともいえる。
さらに進むと、軌道跡の周囲にコンクリート製の標柱を発見した。
かなり古そうな苔生した標柱で、側面の一方に「公有地」とだけ刻まれていた。
公有地とは、地方公共団体に所属する土地のことで、あらゆる土地から私有地と国有地を除いた部分である。
具体的には、都道府県と市町村が所有する土地であるから、この場所に関して言えば、福島県ないしは楢葉町の所有する土地ということだ。
これまでの軌道跡では見なかった標柱だが、1本だけでなく、この後も何本か、いずれも軌道跡と関係する位置に建っているのが確認された。
おそらく、軌道を廃止した時点で、用地が県か町に払い下げられたが、周囲の山林は私有地か国有地なのであって、区別する必要があったのだろう。
この想像が正しければ、この境界標を追いかけることで正確に軌道跡を特定できそうだが、実際の設置状態は疎らであるため、まあ難しいかと思う。
そして、境界標発見の直後、ついに肝心なモノの登場を予感する光景が……!
あの斜面、……怪しいぞッ!
11:11 《現在地》
あった! 西口跡地だ!
疑う余地のない、典型的な坑口跡の地形だ。
支谷左岸の急斜面にこれはあり、坑口前で支谷を渡っていたようだが、その橋の跡はなかった。
注目すべきは、坑口前に高く積み上がった瓦礫の斜面にも、水が流れた痕跡があることで、
おそらくこれは、瓦礫の斜面を貫通して洞内の地下水が流出した痕なのだと思う。
地上だけを見れば湧水地のようで、実際は隧道内の水が流れ出ていたという状況があったと思う。
あくまでも湧水の痕跡があるだけで、現状では目に見える形で水の流出はない。
それでも、大雨などで洞内の水位が上がれば、自然と流れ出すのだろう。
落葉の堆積の仕方などに、今もときおり水が出ていることが感じ取れた。
即座に坑口跡地の瓦礫斜面を頂上まで登ったが、目に見える形の開口部は存在していなかった。
瓦礫の斜面は、隧道の本来の天井の高さより3mくらいは高く積み上がっているとみられ、
これを今から発掘するのは、人手を集めてもほとんど不可能であろう。
最近になって埋没してしまったという感じでもなく、閉塞からは相当の時間が経過していそうだ。
それだけに、これだけはっきりとした痕跡が残っていたのは幸運なことで、嬉しい。
もし先にこれを見ていたら、唯一開口している東口から、洞奥を極めようとする意欲は大いに削がれただろう。
ともかく、この閉塞確認によって、こちら側からもう一度あの隧道へ入る必要がなくなったのは、助かった。
西側坑口跡斜面から見下ろす、今歩いてきた軌道跡の眺めだ。
途中途切れているところは、小さな支谷を渡っていた部分。
軌道跡は、隧道内の長い下り坂をそのまま引き継ぐ形で、
炭鉱があった終点の小山川の谷底へ緩やかに下って行く。
この探索の最後は、おそらく遠くないはずの終点を確認しに行く。
果たして、何か残ってくれているだろうか。
隧道を後にする前に、当日のGPSログデータから、現時点で最も正確な隧道全長の推定値を表記しておく。
西口と東口でそれぞれ立てたフラッグの間の直線距離は、約260mであった。
隧道内には微妙に勾配があるものの、ほぼ直線なので、全長約260mと考えて差し支えないだろう。
この数字は、東口から閉塞地点までの洞内探索の印象と近いものがある。
この点からも、現在の閉塞地点は、西口埋没地点なのだろうと推測できる。
GPSログデータから、今後の探索の広袤もあらかた予期されたであろうが、その内容を、ご覧頂こう。
これを執筆していて気付いたのだが、地形図が描いている小山川の位置は、不正確だ。
以後に掲載する地図は、こちらで現実に即して川の位置を修正している。
11:16 《現在地》
支谷沿いの軌道跡を小山川本流沿いまで100mほど下ると、この軌道跡に最初に登り着いた【地点】に戻った。今度はそのまま軌道跡を直進する。
すると間もなく、軌道跡は少し右にカーブして、小山川と正対する方向へ。
どうやら、川を渡るつもりらしいと分かったが、この段階では河床からは10〜15mくらいの高さを維持しているので、大きな橋の出現に期待が持てる状況となった。
しかし、橋が現われることはなく、代わりに、密生する灌木とスギのために見通しの効かない築堤が伸びていた。ここに写っている標柱も、「公有地」の境界標だった。
ここに来て、おそらくもう最後の場面というところで、隧道以外では道中最大規模とみられる構造物が現われた。
この築堤、見通しがきかないことが残念だが、河床からの高さといい、長さといい、侮れない規模がある。
ただ築堤を歩いているだけでは伝わりづらいと思うので、後ほど降りて側景を見たい。
灌木を掻き分けながら、20mほど前進しただろうか、いくらか藪が浅いところが現われた。
これは藪の切れたところから見た、上流側の眺めだ。
築堤の高度感や、岸辺からどれくらいの長さ続いているかが、なんとなく分かる写真だと思う。
なお、地形図を見ると分かるが、ちょうど築堤が小山川を横断しようとしているところのすぐ上流で、谷が二手に分かれている。
それもあって、ここで渡る築堤は長いものになっている。
上流側に向かって右が本流で、左は支流なのだが、写真中央に見えているのは支流側の谷である。
この支流の谷底は、休耕田を思わせるような湿地になっていた。
後ほど、あそこからこの築堤を撮影した写真をご覧いただく。
さらに築堤を進み、おそらく右岸から30mほど進んだところで、前方の築堤が唐突に途切れた。
灌木で見通しがきかないが、切れたところの下方から、滝があるような水の音が間断なく聞こえており、小山川の水流を渡る部分に差し掛かっているのだと分かった。
この先の橋が落ちてしまったのか、或いは築堤が暗渠ごと崩れてしまったのか分からないが、現状、路盤を通って対岸へ行くことは出来ない。
向かって左(上流側)から築堤の法面を下り、この切断部分を迂回することにした。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
築堤が途切れた部分で渡っていたはずの谷の様子を、全天球画像で。
そこには粘土質の岩盤を流れ落ちる落差3mほどの滝があった。
特に橋の跡と思える遺構はなかったが、おそらく戦前と思われる廃止の時期を考えれば、
何も残っていないとしても、不自然ではないだろう。
軌道は、ここで小山川を渡って、現在の県道があるのと同じ左岸に入っていたのは、間違いない。
これが、もう少し寄った滝の姿。
観光地になりそうな規模ではないが、かつてこの軌道を通った人、この地で採炭に従事した人にとっては、忘れることのない象徴的な風景であったかも知れない。
そう考えれば、本当は名前だってあるんだろうが、私には分からないのが残念だ。
上流側から見た、築堤末端部の外観。
築堤の下に滝があるので、上流側から見ると余り高さを感じないが、築堤自体も奥から手前に向かって結構な勾配で下っているので、いま見ているのは、この築堤を最も低く感じられるアングルだろう。
それでも、5mを優に超える高さはある。
上の画像の○を付けた部分には、こんな発見が……!
私もこれだけの規模のものは初めて見るのだが、天然の状態で埋蔵された石炭層だ!(現代だと、“マイクラ”を思い出す人が多いのか?)
やっぱりここは炭鉱だったんだなぁと、しみじみする発見だった。
こんな風に、微妙に褶曲というか、曲がったみたいな感じで地下に埋蔵されているものなのか。
この場合、灰色の粘土質の層に乗っかっている感じだ。石炭層の上も粘土っぽい地層だが、下とは色合いが違っている。
こんなにあからさまに露出しているのに、わざわざ掘り出されていないところに、国内石炭鉱山の悲しい現実がありそうだ。そもそも、こんな地上で風化したモノは低品位過ぎるのかも知れないが。
実際に石炭として着火させられるのか試してみたい気もしたが、鉱区が設定されていれば勝手に採掘できないので、スルー。
途切れた築堤の先(左岸)へ行く前に、この立派な築堤の全貌を記録すべく、
それを眺められそうな位置にある、湿地じみた支流の谷底へ行ってみた。
これはそこから眺めた、築堤の全貌。
11:24 《現在地》
ついでに、この支流の上流へ少し入ってみた。
上流は湿原から水が抜けたような平らな雑木林で、水流が蛇行しながらその一部を削っていたが、基本的にはどこでも歩ける感じだ。
そして、築堤から7〜80m離れたところで、流れを渡る小さな丸太の破橋が現われ、この谷にも人が入っていたことを意識した刹那――
見つけた。
坑道を。
そこにあったのは、土嚢で半ば以上閉塞された素掘りの坑口。
位置・方位的に、これまでのような隧道ではなく、かつてここで稼働した炭鉱の初めて見る坑道だった。
炭鉱に限らず、多くの鉱山は、その盛衰史の中で複数の坑口を開発する。
この坑道が、大正時代から昭和30年代まで何度も名前を変えながら一帯で稼行したとされる炭鉱のなかで、どのような位置づけのものであったかは分からない。
しかし、椴木下には炭鉱があったという最も説得力のある痕跡を発見したことで、この地を目指してきた鉱山軌道の探索は修まったと感じた。
周囲をさらに探せば、さらに炭鉱の遺構を発見できる可能性があったが、私の探索対象は輸送手段たる“道”であるから、この先は専門家に委ねよう。
途切れた築堤の代わりに徒渉で小山川の本流を横断して、左岸の杉林を登ると、すぐに築堤の続き、すなわち軌道跡が現われた。
写真は、左岸から築堤方向を振り返って撮影したもので、こちら側にも短い築堤があった。
こうして辿り着いた左岸は、現在は鬱蒼としたスギ植林地だが、その林床の地形をつぶさに見ると、明らかに人為的な整地がなされており、その最大のものが、軌道跡が辿り着いたこの広場だった。
旧地形図でも、もう間もなく軌道の記号が終わるのだが、それは正しく終点を示していた可能性が高い。
ちなみに、ここから左岸沿いに下って行くやや急傾斜の道があり、それを辿ると150mほどで【下流の広場】に出ることが、帰り道に確認された。
おそらくこの炭鉱は、軌道廃止以降(稼動があったかは不明ながら)、この道を通って(県道経由で)下界と繋がるようになったのだろう。
11:32 《現在地》
最後のストレートがあった。そこは全体的に緩やかな上り坂で、複線以上の幅があった。
そして、川を渡って100mほど進んだところで、山に突き当たる形で終わった。
現在は、このすぐ先を県道が横切っているが、段差があって接続していない。
木戸駅から、隧道による2度の切断を克服して到達した、終点擬定地である。
双葉炭礦軌道、あるいは伊勢炭礦軌道、もしくは木戸炭礦軌道、終点到達。
特に具体的な遺物は見られなかった、終点全景。
旧地形図に描かれていた鉱山記号は、ここからもう少し上流側だが、
地形的に、軌道はここが終点だったと考えている。
結果的に、旧地形図に描かれていた2本の隧道の現存が確認された今回の探索。
隧道以外は全体的に希薄だったが、大正時代に作られたと見られるループ線やトンネルの
痕跡が確認できたことは、今回の最大の収穫だった。(第2隧道の恐ろしさも忘れがたい…!)
(なお、昭和8(1933)年版の地形図も見たが、既にループ線が描かれていることを確認済み)
帰宅後、楢葉町史を入手するなどして、この特異なループ線建設の背景を含む新情報を求めたが、
残念ながら、現時点では新たな机上調査編を執筆するほどの情報はない。