早口森林鉄道 早口駅〜岩野目間

所在地 秋田県大館市早口
探索日 2008.10.29
公開日 2009. 4.16

早口(はやぐち)森林鉄道は、秋田県内でも最も森林鉄道の利用度が高かった米代川上流における林業輸送を担った一路線である。
また、秋田県内においては標準的だが、全国的に見ればかなり早い時期に生まれた森林鉄道でもある。

早口川沿いに馬力による14.5kmの林用軌道が敷設されたのは明治45年で、大正14年には路盤強化工事が行われて蒸気機関車が入線した。
起点である早口貯木場は奥羽本線の早口駅に隣接しており、ここからはほぼ同時期に北東方向の岩瀬沢沿いに敷設された「岩瀬森林鉄道」も伸びていた。

全盛期には両本線および支線を合わせた路線網は50kmを越えていたが、早口線は昭和33年の水害によって上流部の被害が特に大きく、昭和34年から39年にかけて随時廃止された(一部支線のみ昭和46年まで残った)。

今回紹介するのは、2008年の10月に秋田へ帰郷した際に細田氏と探索した区間で、早口貯木場跡から約7km地点の岩野目地区までである。
敢えて山深い奥地ではなく里側の探索を行ったのは、秋田在住当時に上流にさほどの遺構がないことを一応確認していたからである。
では「下流には何かあるのか」と言うことになるが、こうしてレポートを書いている以上は「ある」。

まあ、騒ぐほどたいしたものではないが…。
たまには秋田の林鉄の解明(忘れて貰っては困る私のライフワークである)の成果を公開したく、レポートするものである。
遺構の乏しい区間はいつも以上に“駆け足”で紹介するが、ご了承いただきたい。


参考資料:『全国森林鉄道 JTBキャンブックス



 早口駅裏の貯木場跡 


2008/10/29 11:58 【周辺地図(別ウィンドウ)

奥羽本線早口駅の裏手(北側)に広がる広大な空き地が、早口貯木場の跡地で、かつて白神山地の奥深くまで伸びていた林鉄網の起点であった。
昭和30年代終盤にはこの場所に繋がる林鉄のレールは全て撤去されたが、トロッコに代わりトラックが出入りするようになった。
奥羽本線の構内側線も多数敷かれ、荷積み用の大きな定置クレーンがトレードマークであったという。

しかし、その後の林業行政の合理化廃統合の結果貯木場は完全に撤去され、駅での貨物取り扱いも無くなった。

その結果が、この空き地である。
しかも、空き地の北側半分は既に売却され、新興住宅地になっている。




《現在地》

平野部に近い林鉄跡の探索で、かつ細田氏同伴ということで、今回の足は車である。
細田氏に運転して貰いながら、私は助手席で古地図と睨めっこである。

早口駅を北西に出た軌道跡は、完全に住宅地内の市道と一致しながら国道7号の早口バイパスと平面交差し、この「出口」という集落に入ってくる。
ここまでは市街地であり、おそらく林鉄も併用軌道のようになっていたのだろう。

しかし、この先の比立内川を渡って早口川沿いに移る部分は、現在の地形図にそれらしい道が無く、早速の「廃線区間」と思われた。
しかもぱっと見ではその入口が分からず、道行く地元民に教えを請うてようやく判明した。




教えに従って左に曲がると、そこにはスロープ状に比立内川へ下っていく砂利道があった。

この砂利道は下ってすぐ右へ折れ、“トリさん”の住み処で行き止まりになっていたが、軌道跡は真っ直ぐ谷を跨ぐ橋を架けていた。
対岸には掘り割りを思わせる凹みが鮮明に見えている。

なお、厳密にはこの砂利道は軌道の橋の横に位置している。
砂利道の右に茂る笹藪が、本来の橋の跡地である。
その証拠として…




笹藪の中のちょうど橋の付け根と思われる辺りに、橋脚の残骸が現存していた。
それも、等間隔に数基ある。

だが、廃止後に故意に破壊されたらしく、どの橋脚も1mくらいの高さで折れていた。
折れた残りは行方不明。断面にはひしゃげた鉄筋が露出している。

橋梁の遺構発見を期待する我々としては、残念な状態であった。





トリさん!

つうか、ダチョウ?!

砂利道の終点には2つの大きな囲いがあり、その中には沢山のダチョウたちがいた。
餌場も用意されていて、養“ダチョウ”場らしい。

林鉄との関係性は未知数だが、意外な遭遇に2人は固まった。
檻の中のダチョウたちの優しげな目が、印象的だった。
(彼らは食肉用だと思われます…)




12:32 《現在地》

橋の対岸に回り込むのに道が乏しく、車の取り回しには少し苦労したが、車と徒歩を組み合わせて反対側へとやってきた。

こちら側から見ると、ここに架かっていた橋の大きさがよく分かる。
「もし残ってくれていれば…」
慣れたこととはいえ、思わず口惜しさに舌打ちをしてしまう。

林鉄の橋というのは、幅員や過重に対する性能が車道とは設計から異なっており、それが木橋であった場合は特に、廃止後転用されてカタチを留める期待は薄い。
そして朽ちるに任された場合、半世紀という時間の経過は、雪国秋田にとっては余りに重い。
最盛期には林鉄総延長が1000kmを越え、全国的に見ても「林鉄王国」の一翼を担っていたことは間違いない秋田だが、こと木橋に関しては現存発見例が皆無に近いのもやむを得ない事情がある。

もし「遺構発見至上主義」というものがあるならば、秋田は決して宝の山ではないと思うが、地元の愛着もあって、何かを期待しちゃうんだよね…。
私に林鉄を教えてくれた、秋田の山には。




(←)
早速現れた、林鉄お馴染みの付属物。電柱。
大きく育った木の枝に紛れて分かりにくいが、先細りの梯子状に組まれた古レール仕様の電信柱が、橋のたもとの狭い敷地に残っていた。

(→)
そして橋のたもとから、対岸からは掘り割りになっているだろうと思っていた進行方向に向き直ると、ご覧の通り“塞がっている”。
如何にも掘り割りを埋め戻したような人工的な斜面だが、よじ登っているうちにその正体が判明した。

掘り割りの余生は、ゴミの埋め立て処分場であった(涙)。
つうか、よじ登りは体に悪そうだ…。大丈夫か細田さん。




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【現在地(別ウィンドウ)】

処分場は現在では草が生い茂る空き地に変わっていたが、その中を一本の林道らしき砂利道が横断していた。
さらに地中に消えた掘り割りを思い描きながら突っ切ると、写真の場所に下り着いた。

もしこちら側から来たならば、まず軌道跡とは気付かずに通り過ぎてしまうだろう。
或いは、隧道があったのではないかという期待を持ってしまいそうだ。

だがこの場所が掘り割りであったことは当時の地形図が教えているし、ちょうど近くを通りかかった軽トラのオヤジに聞いても、同じことを言っていた。




少し離れた場所に停めておいたクルマを回収してから、細い林道となった軌道跡の前進を再開。

最新の地形図では、今回の目的地である6km先の岩野沢まで、早口川左岸沿いに最後まで軌道跡らしき道が描かれている。
ただし、現在地も含めてその表記は破線(徒歩道)であるから、どこまで車で行けるのかは分からない。
最後まで車で行けちゃうかも知れないし、そうでないかも知れない。

とりあえず、林道化している部分には目立った遺構も期待できそうにないので、観察もそこそこに前進した。




12:50 【現在地(別ウィンドウ)】

1km弱林道を進むと、道は急な下りに呑み込まれていた。
林鉄としては考えがたい急勾配。
地形図を見ても、こんな下り坂はちょっと違う。


つまり、正解は【こっち】だな!

坂の直前には車2台分ほどの空き地があり、停めてくださいと言わんばかりだ。
やや興奮気味に車を捨て、探索の道具を身につけると、道の気配など微塵も感じられない藪へ潜り込む。
ひと掻き、ふた掻き、み掻き。




間違いない!

軌道跡はこの藪の中だ!


道から5mばかり入ったところに、いきなりこんなもの(小さな橋と橋台)が現れやがった。
俄然、この先の展開が楽しみではないか。




さらに進むと、再び廃レールを組んだ電信柱が現れた。
倒れているのは雪崩のせいだろうか。
しかもこれと同じ電信柱は、このあとにも繰り返し繰り返し、合計30本くらいは見たと思う。

それにしても、まだ藪に入ったばかりだというのに、早速踏み跡が無い。
しかも、鬱蒼とした森の中とは違って日当たりが良いので、路盤は密林の状を呈している。
どこまでこんな状態が続くのか分からないが、ちょっとこれは大変そうだ。
苦労に見合ったものが何か出てきてくれると良いのだが…。




こいつはきついぜ…。


眼下に広がっている田圃は早口川の氾濫原で、そこから直に立ち上がる二子山(197.8m)の山腹を軌道は巻いている。

古くは直接に川の浸食作用を受けていただけに、その傾斜は非常に急峻で、崖を削ってしつらえられた路盤は一応残っているが、大量の崩土と一緒に持ち込まれた藪によって不鮮明である。

下から見上げると、こんな感じ。(→画像にカーソルを合わせてね)
これはORJで公開したネタだが、「清六新道」の状況に似通っていると思う。
問題は、この道の場合は下に迂回できないと言うことだ。




なんとかピークは脱したが、このあとも繰り返し崩壊地点は現れた。
しかも悪いことに、それら崩壊地点のいずれも藪が密生し、視界は乏しく派手な遺構も見あたらない。

つまり、写真写りが悪いのである。

辿っている分にはそれなりに(困難に立ち向かうという意味での)楽しさはあるが、逐一レポートしても冗長になりそうなので、少しカットする。




13:30 《現在地》

双子山の急斜面を脱し、路盤の状況もだいぶ改善した。

相変わらず電信柱が点々と現れ、軌道跡を教えてくれる。

ちなみにご存じの方も多いと思うが、軌道と電信柱がセットなのには理由がある。
林鉄の多くは単線でかつ、当時としては通信手段がない山間部を通行していたために、列車同士の衝突事故を防ぐ目的から、軌道沿いの所々に電話を置いた詰所を設け、列車の運行状況の連絡把握を行う必要があった。

林鉄が発達した地域では、最初の電話開通が軌道開通と同時であったという例は少なくない。(むろんそれは、現在のように各戸にある電話ではないが)




杉林の中にゆったりと続く、車道未満歩道以上の道。
私の中では、最も林鉄跡を実感する景色だ。

そして、そんな森の道で我々の目を楽しませてくれるのが、朽ち木を彩る怪しいキノコたちである。
私も細田氏も大のキノコ好きで、しかも食べるのではなく見るのが好き。

細田氏などは以前、「俺キノコ食えねんだすよ。 マツタケ以外」と発言し、私を驚かせたことがある。
つうか、お前が食べているのはキノコじゃねぇ。札束だっていう話で、全く不愉快だったのを覚えている。

いずれにせよ、キノコは良いものだ。




眼下を流れる早口川と、対岸に広がる純農村地帯。

現在の車道は全て対岸を通行しており、軌道だけがわざわざ険しい左岸を通っている。

林鉄の場合は一般の鉄道とは違い、あくまで森林が目的地の(原則的には)貨物専用線であるから、土地の入手のしやすさなどから人家や耕作地を避けて不便な場所を通行するケースが少なくない。
おそらくこの早口林鉄も同様であろう。
もちろん、左岸が山に迫っていて、より多くの森林資源を期待できたということもあるだろう。




どうやら、歩き始めた最初の石垣は、我々をおびき出すための罠だったらしい。

あれ以降は基本的に藪が深く、かつ急傾斜地では崩壊が進みすぎているため、これといって記録すべき遺構には出会えていない。
もう少し藪がおとなしい時期ならば印象は変わっていたかも知れないが、最新の地形図にも描かれているのが不思議なほど、廃道化は進行している。



帰りもここを往復しなければならないと思うと少しうんざりしたのだが、たまたま振り返った時に見た景色が私を慰めてくれた。

クルマを置いて歩き始めたのが、ちょうどあの「双子山」の裏側のあたりだ。
急な山腹と杉の林を通過して、今再び雑木林の山腹を歩いているのがお分かりいただけるだろう。

なんか新鮮だ。

山登りをしていて振り返るのであればいざ知らず、このようなほぼ水平移動に終始する里山の軌道探索で、辿ってきた道をこれだけ長々と見る(直接見えるわけではないけれど)のは珍しい。
この林鉄に良い印象が一つ追加された。




13:57 《現在地》

歩き始めて約1時間。
ようやく藪から解放されるときが来た。

おもむろに左から登ってきた砂利道が、我々の進路に重なったのである。
この時点では現在地がどこなのか定かではなかったが、最終的に測ってみると、この廃道区間は約1.4kmあった。

ちなみに、この左下から登ってきた道と、クルマを置いたところで左下へ下っていった道とが繋がっていることを期待した(帰路としてね)のだが、残念ながらそれは川岸に阻まれて成らなかった。



14:05 《現在地》

杉林の平坦路を歩くことさらに300m。
車通りのある道に出た。

地形図にも描かれた大館市道で、軌道跡はこの道を横断して反対側へ続いている。

一旦クルマを取りに戻ることも考えたが、そうすると時間的にこの先をまた歩いて探索することは難しくなりそうだった。

このまま進めば、帰りは暗くなることも覚悟しなければならないが、私が「橋が残っているかも知れない」と期待していた地点は、もう少し先である。
やはり、明るいうちにそこを見届けたいのである。


結局、里山という安心感に胡座をかいたカタチではあるが、このまま夕暮れまでの前進を決定した。




というわけで、

何か発見が欲しい次回は、こっから…


……むぐぅ。