廃線レポート 池郷川口軌道と不動滝隧道 第2回

公開日 2023.03.30
探索日 2023.03.16
所在地 奈良県下北山村

 軌道跡と、由来不明の歩道 


2023/3/16 15:17 《現在地》

永冨氏たちが2012年8月に辿った軌道跡の探索をはじめよう。
ここまでの区間も同じ軌道跡ではあっただろうが、舗装されていて往時の面影は薄かった(小又谷を渡る旧橋台という新発見はあったが)。

地道となった軌道跡は幅1.8mくらいで、いかにもそれらしい水平なラインが川沿いに伸びている。
車が入らないので持て余し気味になった道幅の中央には、よく踏み固められた踏み筋が1本付いていて、歩き易い。入口に釣り人へ向けた【看板】があったくらいだから、彼らが入っているのだろうか。

チェンジ後の画像は、道から見下ろした池郷川の渓流だ。
特になんだという場面ではなく、全般にこんな感じだというワンシーンである。両岸とも岩がちだが、この距離でも瀬音が聞こえないくらい穏やかに流れている。川幅に対して水量が少ないという印象を受けたが、これは(今回の探索範囲のずっと)上流に取水堰があるせいだということを後で知った。



15:17

(↑)時刻表示が前の場面と同じだが、これは誤記ではなく、1分足らずで進めるほど至近の位置ということだ。
ここで早くも、氏の報告にあった“新旧道の分岐地点”が現われた。
言い換えると、荒廃した軌道跡(左)と、付け替えられた歩道(右)の分岐である。

この手の場面では、初見のオブローダーなら当然左を選ぶだろうが、今回は先を知っているので、迷わず右の道を取る。
大丈夫だ。右の道でも、軌道跡の見逃しが起らない程度の極小の迂回である。




軌道跡は水平に進んでいくが、付け替えられた歩道は川べりへ下りていく。
その下りていく歩道から、振り返り気味に軌道跡を見上げたのがこの写真だ。
その路肩に作られた、苔生した石垣が見える。

チェンジ後の画像は、石垣部分を拡大したもの。
丸石を空積みにしてあり、その作り方も、苔生し方も、年季を感じさせる。
丸石のサイズ感は、小又谷口で見た橋台跡ともそっくりである。

まあ、この程度の合致で同時に作られたモノと断じるのは乱暴だろうが、200mも離れていない位置関係にある2つの石垣であるから、そのように考えるのが自然だろう。



古びた石垣がある軌道跡に対して、私が選んだ歩道はといえば、コンクリートを路面と路肩擁壁の両方に使っており、明らかに後年作られた道だと分かる。
歩道は、一旦川べり近くまで下りてから、すぐに上り返して軌道の高さに戻る線形になっていた。これだと単純に軌道跡の迂回路……ただアップダウンが増えただけの“迂遠路”でしかないが、この歩道が作られた原因は、過去の大きな氾濫によって軌道跡が流失したためだと考えられる。

チェンジ後の画像は、歩道から見上げた軌道跡があったライン。
微かに平場のカケラが残っているが、石垣は大半崩れてしまっていて、もはや道として辿るのは難しい。すぐ先で小さな谷筋を横断しているが、その部分の道も完全に消失していた。
ここはこうして下から見上げて通れば十分だろう。遺構はなさそうだ。

この軌道跡の荒廃に対する復旧策&将来の氾濫対策として、コンクリートで全面的に守りを固めたこの歩道を、増水時には水面下に入ることで流木などの衝撃による破壊から身を守るという逆転の発想で(沈水橋のようなものだ)敢えて低い位置に再整備したのだろう。

この歩道の存在は、軌道後が単純に放置されてきた道ではないことを物語っている。少なくないコストを掛けて復旧させているのだから。
しかも、このように軌道跡を再整備して利用した痕跡は、この後も引き続き現われるのである。

オブローダーたるもの、軌道跡の再整備は基本的には歓迎しかねるのだが、実際のところこの再整備が全く行われていなかったと仮定すると、この直後の場面からして突破出来たか怪しいので、今回は甘んじよう。
さあ、次は初めての険しい場面だ。




15:19 《現在地》

もとの高さに戻った歩道……それすなわち、軌道跡である。

軌道跡を受け継いだ歩道は、連続する桟橋で、深淵に懸かる崖を横断する。

この桟橋も、ボロく見えるが鉄製であり、明らかに軌道時代のものではない。

そして、氏のレポートだと、手すりがちゃんと揃っていたが、今はだいぶ怪しくなってきている。
正式な管理者の手によるものかは分からないが、桟橋の入口が1本のロープで通せんぼされており、
一応は封鎖の扱いがされている。氏のレポートにはなかった封鎖だ。



2012年に氏が探索した当時から、この鉄の桟橋があり、氏はこれを、「今は鉄製の桟橋が築かれていて、身の危険を感じたりすることはないのだが、真新しいそれがなかった昔は一体どうやってこの場面をクリアしていたのだろう」と書いている。

氏は「真新しい」と表現しているこの桟橋だが、現状ではどう見ても、真新しくはない。
鉄板である踏み板がボロボロで所々に穴が開いており、ボロボロに見えない部分にはたいてい落葉が載っているので、表面が見えないだけで、やはりボロボロかも知れない。

それでも、鉄板の下にある格子状の梁材は堅牢性を保っているようで、橋自体がグラついたりはしないので、まあ穴に足を突っ込んで転ぶことに注意さえすれば、まだまだ容易に渡れる橋ではある。

氏が言うとおり、この桟橋が無かったら、現状とは比較にならない危地であったろう。
峡谷のスケールを思えばさほどの高さではないものの、転落に恐怖を感じないほど低くはないし、そもそも川岸の道がなければ泳がずには進めないような、狭い峡門を真っ青な深淵の水が満たした地形である。





伝説を秘めていそうな深潭……。

この程度、谷奥に待ち受ける池郷川の本領より見れば序の序の序なのだろうが、
それでも人が交通の場面で触れる自然の神秘としては、十二分に印象的なものだと思う。
何かしら名前もあって、誂えられた伝説もありそうに思えるが、残念ながら私は知らない。

古い軌道跡は、確かにこの岩場を今の桟橋と同じ位置で横断していたのであろう。
桟橋の上にいると見えにくいが、橋材の下に古い路盤の一部が残っているようで、
全く何もない空中を渡っているのではないことが分かる。石垣の残骸もわずかにある。



軌道跡の再現としては、なかなか堂に入った桟橋である。
基本的には、かつての木橋を鉄の部材に置き換えて作り替えたようであり、橋上からの風景は軌道時代と大差ないのではないかと思われた。手すりは余計なんだけどね。

手すりと言えば、気になるのが、この歩道の妙なハイスペックぶりだ。
軌道跡を単に山仕事用の歩道として維持するだけの目的なら、桟橋は木製で再生しそうだし、ましてやこの手すりは山仕事道には過保護じゃないか?
この外見は率直に言って、遊歩道レベルの手厚さを感じる……。

氏のレポートでは、この歩道がなんのために再整備されたかについて、推測を含めて言及はなかったと思うが、私は、軌道跡を渓谷探勝用の遊歩道として整備した(しようとした?)過去があったのではないかと疑っている。【この看板】も関係あった?)

遊歩道説には今のところ文献的な証拠がなく、外見の印象しか根拠がないが、下北山村が1980年代から観光立村を目標に掲げて大々的に整備した下北山スポーツ公園が、まさに池郷川口にある池原集落の現代の顔であるだけに、そこから遊歩しうる最寄りにあるこの景勝の渓谷を、ずっと寝かせておいただろうかという疑問が湧くのだ。ちょうど軌道跡という再生しうる道もあったわけで…。

まあ、この歩道の由来については、軌道跡そのものの正体からは外れてくるので深く追求はしないが、探索上は大いに関係の深いこの道だけに気になるところではある。そう古い話ではないので、手当たり次第村民に聞けば分かりそうな気がする。

ともかく、桟橋は曲がりくねりながら100m近く続き、わずか700mほどしかない軌道に占める一つの桟橋の割合としては、他の路線では例を見ないものかもしれない。
軌道時代にはこんな長い1本の桟橋ではなく、基本は石垣の崖道であって、所々の欠けた部分だけが桟橋だったのだと思うが。




15:22 《現在地》

再び地面に足が着くと、その先は一気に視界が開けていた。

そこには今まで以上に広い川原……   うん? 川原っていうのかなこれは? こういう基盤岩が川沿いに広く露出した平坦な場所を呼ぶ言葉が思いつかない。川原といえば普通は砂や川石が堆積しているような土地をイメージすると思うのだ。広さとか土地の明るさは川原と同じなのだけれど…、ともかく平らな一枚岩の川岸だ。海岸なら千畳敷なんて名前が付けられがちな平磯に近い。

で、この裸地的地形の存在も、過去の強烈な河川氾濫に起因するものだと思う。
そうでなければ、水面から一定の高さより上が植林されたスギ林であることや、水面周辺の堆積物が異様に少ないことの説明が付きづらい。
そして例によって、もとの軌道跡は氾濫で流失したらしく、低い位置を迂回するコンクリートの歩道が先ほど同様に付けられている。ただし今度は3倍くらい規模が大きい。ここから見える範囲の終わりまで迂回歩道が延びている。




だいぶ離れたところに立派な石垣が見えるが、あれが軌道跡の残骸だ。
上流からの取水によって、だいぶ水量を減じたと言われる池郷川であるから、
軌道があった当時は、もっと滔々とした流れが石垣の下に迫っていたであろう。

牙を抜かれた池郷川だが、今でもたまに大出水して川沿いの全てを壊す威力を見せる。
その証拠に、水害対策のはずの歩道が、石垣の下ではコンクリートが浮き上がって消滅していた。
原因として可能性が高いのは、氏の探索前年に猛威を振った平成23年紀伊半島大水害だろう。

多数の人命を損なったこの大きな水害は、氏の探索には、驚嘆すべき場面を作り出したと思う。
その場面はまだ少し先だが、もしかしたら逆に、水害のおかげで得られた成果も、あったかもしれない。
このことの真偽を今から確かめることは不可能だが、この写真の川原で、氏は“凄いもの”を見つけた。
それは彼にとっても相当予想外の発見だったようだが、読者である私にとってもそうだった。

氏はこの河原を、喜びの中で、次のように名付けている。

「遺物河原」




 “遺物河原”から、トチノキダイラ(軌道終点)


2023/3/16 15:24 《現在地》

小又谷橋詰めの墓所のそばにある車道終点から、歩道化された川べりの軌道跡を歩くこと(すっかり書き忘れていたが、自転車は最初の桟橋の入口に置いてきたんだった)約350m。これに要した時間は約7分。特に苦労を感じる場面もないままに、実はもう、この軌道の終点であると“証言”された地点の約100m手前まで来ている。

事前に永冨氏のレポートを読んで展開を把握していても、いざ自分で歩いてみると案外に大変というのが、後追い廃道探索ではありがちな感想だと思うが、今回ばかりはそういうこともなく、全く以て楽である。ここまで、川沿いの遊歩道のような道を歩いただけだ。

目の前に広がる露岩の川原では、上段の軌道跡も、下段の歩道も、どちらも水害で破壊されているが、それでも通過に苦労する要素は見当らない。
しかし、ここはオブローダーとして素通りの惜しい場所である。
なぜなら、氏はこの川原で、軌道との関わりを窺わせる数々の“遺物”を発見したことを、2012年のレポートに報告しているからである。
名付けて、“遺物河原”と。

私も、遺物を見たい! 探すぞー!



過去の洪水で表土や堆積した土砂を奪われ荒涼たる露岩の川原となった一帯を、もとの歩道の位置から左右にはみ出しながら、目を皿にして遺物とされるものを探した。
氏が見つけたアイテムたちのイメージを記憶してきたので、それと同じものがないかを探して歩いた。

すぐに最初の遺物と呼べるものを発見した。
チェンジ後の画像を見て欲しい。
瓦礫とは異なる色と形をした物体がある。
人工物の色と形だ。錆び付いているが、金属物体である。

全体としては円形をした金属物体。
ここは軌道跡…… 円形金属物体……  
こっ これはまさかっ?!



……なんだこれ?

残念ながら、トロッコの車輪じゃないな。

中央に軸受けの穴がある直径20cmほどの金属円盤で、円周面に滑車を思わせる凹みがある。何かの器械のパーツだろうが、レール上を走る車輪ではない。

労せず見つけた遺物だが、永冨氏の報告に、このアイテムは上がっていない。
だから一応新発見ということになるのかも知れないが、誰か第三者が先に見つけて、目立つ場所へ置いたような気がする見つけ易さだった。
まあいい、遺物捜索の最先良しだ。

次の発見へ、どうぞ。



おっし! 少し離れた場所で、これを見つけた。

やはり錆び付いた金属物体である。
形状は一辺20cm程度の三角形。厚みが10cmくらいもあり、ギシッと重い。
これ単体で何かをする道具ではなく、もっと大きな器械のパーツと思われるものだ。

そして、これは永冨氏の報告にもあったアイテムである! 11年の歳月を経て、彼の眼から私の眼へと引き継がれたカタチ。
彼のオブローダーとしての知識量は私を遙かに上回っており、ここまで錆びきった金属物体の正体を、ずばり推測して見せている。
彼はこれを大胆にも、林鉄のトロッコの直接的に結びつけて、トロッコの車軸を車体に固定するための軸受けのパーツではないかと推測しているのである。




もっと説明しろと言われそうなんで、私なりに説明したい。
氏が言わんとしているトロッコの軸受けパーツとは、左の画像では矢印の位置にある、車体下部に取り付けられている逆三角形のパーツのことだろう。

この画像は、某所にあるトロッコだが、純粋な林鉄用のものではない。それに、運材トロッコは各地で自作された車輌が大量に使われており、部品の形状も千差万別だから、同じ軸受けを使っている車体を見つけるなどというのはまず無理だろう。だが、なるほど確かにトロッコのこの部分には、こういう逆三角形の軸受けパーツがある。
氏の推理が当たっているかを確認するのは困難でも、有力な説だと思っている。



え?

いくらここが軌道跡だったからって、こんなちっぽけな金属片を即座にトロッコのパーツと結びつけるのは、さすがに乱暴じゃないかって?

うんうん。

確かに、トロッコのパーツがこれだけだったら、ちょっと飛躍しすぎって感じがすると思う。

うんうんうん。

…………ニヤリ 

見てくれこれを(↓)

永冨氏がこの“遺物河原”で見つけたアイテムのリストを作ってみた。↓↓↓



『日本の廃道 vol.78』より

『日本の廃道 vol.78』より

『日本の廃道 vol.78』より

『日本の廃道 vol.78』より

『日本の廃道 vol.78』より
[遺物@]
トロッコの軸受けパーツと推測。
今回も現存を確認。
[遺物A]
トロッコの車輪!!!!!
今回確認できず。
[遺物B]
鋼鉄の棒。工具?
今回確認できず。
[遺物C]
正体不明の金属パーツ。
今回確認できず。
[遺物D]
木に穴を刳る工具?
今回確認できず。


『日本の廃道 vol.78』より

なんと永冨氏はここで、トロッコの車輪一つを発見している!

これぞ、「ここに軌道が通っていたことを証明してくれる、これ以上ない証拠」である。お見それ致したッ!
そして誠に残念だが、彼が11年前に見つけた遺物の大半は、今回の私の調査では発見出来なかった。
おそらく彼のことだから、発見したものを別の目立つ場所に移動させたりはせず、そのままに任せたのではないかと思う。(私も基本そうする)

私も結構念入りに探したので、それで見つけられなかったというのは、見つからなかった遺物は、最近の出水で改めて流失してしまった可能性があると思う。
こればかりは遅きに失したというよりないのであるが、幸いにして、氏の詳細な報告が残ったおかげで、ここにトロッコ車体の直接的な遺物があったこと。すなわち、歴代の地形図に描かれたことはないが、古老の記憶にはある軌道が実在した物的証拠が、記録されたのである。

以上が、魅惑の“遺物河原”での成果のとりまとめだ。
今回の私の調査は些か寂しい結果に終わったが、それでもまだいくらかの遺物の存在は確認できた。
しかしそれにしても、なぜこの川原の一角にだけ多くの遺物が残されていたのであろう。
氏も、何度も流れに洗われてきたに違いないこの川原の遺物の豊富さを、「意外や意外」と書いている。

残されているのがいずれも金属パーツであるのは、木材は長い年月で風化して失われたり、氾濫の度に容易く流失してしまったのだと想像できる。
金属物体だけが洪水に耐え、まるで沈殿するように、この場所に残ったのではないか。
このすぐ上流が、軌道の終点でであり、製材所があったと古老に語られる土地であるから、遺物も多く残っていたと想像できる。そこから洪水で短い距離を流されてきたのだと考えるのが自然な気がする。




“遺物河原”の次の場面は、軌道の終点とされる場所だ。

氏が聞き取りを行った97才の古老は、ここを「トチノキダイラ」と呼んでおり、彼が子供の頃はここに「製材所があり、そこから池郷橋の辺りまでトロッコが通っていた」という。
さらには、「こっそり乗って遊んだし、ひっくり返して怪我をしたこともある」と、想い出も語られていた。

川原より見るトチノキダイラは、その名に反して、トチノキではなくスギの純林になっている。
おそらく植林されたのであろうが、既に十分に成木しているから、製材所が廃止されてから(≒軌道の廃止か)植林されたと考えると、軽く半世紀は経過していると見える。

左側に見える古びた石垣は、本来の軌道跡の路肩擁壁である。
その上はほとんど山側からの崩土で埋れているか、ブッシュに覆われており、そのうえ古びた鹿避けネットが雑然と張られていて、とても歩けなかった。
この石垣を延長していった同じ高さに、トチノキダイラがある。
このことも、軌道跡とトチノキダイラの密接な関わりを窺わせる。

しかも、トチノキダイラの川側は、わざわざ軌道の路肩と同じような高さの石垣で補強されていた。
チェンジ後の画像がその部分を遠望で覗いている。
一見、軌道跡が川べりに続いているようにも見えるが、おそらくはトチノキダイラの平地を拡張し、水害からそこを守るために設けられた護岸であると思う。




トチノキダイラの入口で、しばらく川原に迂回していた歩道が、再び軌道跡の高さに復帰する。
そこに、軌道跡として明確に辿りうる最後の道があった。
写真の場面がそれだ。

いかにも軌道跡らしき平場が、奥のトチノキダイラへ真っ直ぐ伸びている。
軌道の終点といえば複線がありそうだが、ここがまさにそのような広さである。
複線部分の山側半分には鹿避けネットが張られていて入れないが、無理矢理入りたくなる要素もない。




15:30 《現在地》

本当に複線だったかは分からないが、広い軌道跡を進むと、また道は狭まり、さらに二手に分かれる。
明らかに左の道は軌道跡ではない勾配があり、直進の水平の道が軌道跡ということになろう。そしてまもなく終点である。

左の道は、ここまでも度々存在感を示してきた歩道の続きである。
ここではプラスチック製の階段がわざわざ施工されていた。やはり単なる山仕事の歩道にしてはオーバースペックである。

ここまで行先を案内するような表示は何もないが、それでも歩道は何か明確な目的地を持っていると感じられる確かな足取りでいずこかへ向かっている。それは軌道の終点を越えてなお、上流へ進む意思を見せている。


……まあ、私は先に読んで知っているわけだが……  

この階段の行先に待ち受ける阿鼻叫喚、永冨氏の「のわーっ!!!」な結末を!!



引き続き、氏の足取りを辿る。
初見のオブローダーならば皆そうするだろうが、彼もプラスチックの階段には心を動かされず、そのまま軌道跡を辿る低いラインを進んだ。
最初はこの場所が終点などとは考えておらず、この300m上流の不動滝にあるという“軌道跡の隧道”を越えて上流に向かうつもりであったのだから当然だ。

ここが、トチノキダイラである。
おそらく漢字で書けば栃平なのだろうが、この地名は『下北山村史』にも出てこないし、土地の人だけに通用するような小地名、小字(あざ)、通称かもしれない。地図に載らない地名はそれこそ無数に存在している。人との関わりが薄れてしまった山林内の地名は、その大半が古老とともに失われつつある。

ここでは川の蛇行に囲まれた30〜40m四方の土地が、四周を石垣で囲むことで最大化されている。
土地の中央には石垣で画された幅1m程度の浅い溝があり、全体を二つの区画に分けているようだ。
かつて製材所があり、軌道の終点であったと証言されているが、直接それと分かるような痕跡は見当らない。取り囲む石垣の多さが、かつて重要な施設があったことを想像させるだけの、今はただの古い植林地である。



軌道の終点を連想させるものは特にないまま、軌道跡が入ってきたのとは反対側、すなわち上流側の川原まで突き抜けると、そこで初めて、「あれ? 道(軌道跡)無くね?!」となる。

とはいえ、軌道跡はこれまでもあったように川に流されて消失しただけで、少し進めばまた痕跡が現れるだろうと考えるのが普通だろう。永冨氏だけでなく、私も初見ならそう考えるに違いない。


(→)

だが、もう二度とこの川べりに軌道跡は見つからない。

地形的には、特別ここで何かが変わる感じはないし、確かに川口から見れば徐々に両岸の切り立ち方は増しているのだけれど、物理的に軌道を敷設できないほど険しくなっているわけではない。
(写真奥の高みに見える道路は白谷池郷林道だ。ここで既に水面より100mも高い所を通っている)

この先に軌道跡が現れないのは、単純に、終点を過ぎたからだ。
そんな単純なことも、古老の証言がなければ決定しがたいものである。無いという証拠は、在ることの証拠を示すより遙かに困難だから。

そして、私が最終目的地としている隧道が“在る”のは、この先だ。
軌道用の隧道ではないから、この先に存在する。


というわけで、ここまでで本レポートの表題の半分である、池郷川口軌道跡の探索は終わりである。
なんか凄い景色があるような書き出しだったのに、えらく地味な軌道跡だったと思われただろう。

……こっからだぞ。