廃線レポート 上信鉱業専用軽便線(未成線) 第2回

公開日 2015.4.30
探索日 2015.4.08
所在地 群馬県長野原町〜嬬恋村

【情報1: 羽根尾発電所付近の橋脚群】 


2015/4/8 6:42 《現在地》

橋脚群の目撃情報があった草木原へ向かう途中の道すがらで、こんなものに出会った。

高台の畑の中にポツンと、まるで一里塚か小さな古墳のように盛り上がった土饅頭で、一方にだけコンクリートのアーチ型の口が開いていた。
全くこれまでに見た憶えのない構造物で、気になったので近寄ってみたらば、案内板が設置されていたので正体が判明した。




曰わくこいつの正体は…

防空監視哨跡(聴音壕)
昭和16(1941)年第2次世界大戦が始まり、国内の防空体制が強化される中、全国に防空監視哨が作られました。この聴音壕は敵機の音や種類をいち早く見分けて、本部へ連絡することを仕事としていました。構造は、煉瓦の二重積みで壕の縁がラッパ状になって集音しやすくできています。勤務には、国民学校高等科を卒業した15〜16才の青年が、24時間体制であたっていました。県内に作られた約40ヶ所のうちのひとつで、状態が比較的よく保存され、戦争を知る重要な遺跡です。
(平成16年7月 長野原町教育委員会 町指定重要文化財)

私は知らなかったが、戦時中にはこんなものが日本各地にこしらえられていたのだそうだ。
そして今回探索している鉱山鉄道とは、ほぼ同じ時期に、同じ目的(戦争遂行)の為に建造された土木構造物の仲間ということになる。鉄道工事は昭和20年の終戦間際まで続けられていたようだから、この聴音壕の発令によって労務者の命が救われたこともあったかもしれない。




7:00 《現在地》

草木原集落がある河岸段丘の東の縁に近いところにやってきた。
写真奥に見えるのが吾妻線の草木原トンネルの西口で、直前の川縁での探索で見届けた最後の地点である。
ちなみに聴音壕や国道が通っているのは、これより一段上の段丘上で、右奥に見える坪井大橋がその高さを教えている。

さて、鉱山鉄道がこの草木原の平地のどこを通っていたのかは、不明である。
住民に問い合わせればヒントが得られたかも知れないが、残念ながらこの天気では、出歩いている人も無い。
まあ、仕方がない。
いずれ平坦地では、目を瞠るような遺構が残っていることはないだろうから、時間の限りもあることだし、ここはサラッと流して先へ進もう。




この後に目指す【情報1】の橋脚群遺構との位置関係を考えると、草木原の計画ルートは、この写真の畦道辺りではないかと思う。

つまり、吾妻線よりも川縁に近い河岸段丘の縁の辺りを通って、遅沢川架橋地点へ進んでいたものと考えている。
しかし畦道は途中までしか存在せず、段丘の縁の部分は深い笹原のため未探索である。
また、ちょうど擬定ラインに沿うように、高圧鉄塔が並んでいるのも興味深い。用地の転用があった?

いずれ、基本的に鉱山鉄道のような事業用の鉄道は、土地の買収費を圧縮するべく集落や耕地から離れた山際の未利用地を選んで通った可能性が高い。
そういった観点からも、計画ルートは集落寄りではなかったと考えられる。



7:07 《現在地》

今度は草木原の段丘地の西の端へやって来た。
段丘地の南は吾妻川に、西は支流の遅沢川によって画されており、ここは遅沢川のそばである。

読者さまからもたらされた【情報1: 羽根尾発電所付近の橋脚群】は、遅沢川対岸の羽根尾側から橋脚群へのアプローチ方法が述べられていたが、草木原側からはどう行けばいいのか分からない。
しかし事前に地図上であたりをつけてあるので、今回は直接そこを目指す事にする。

なお、右写真中の破線は、未成線の推定ルートである。
段丘の縁、高圧鉄塔線に沿っていたと仮定しているが、具体的な土工などの遺構は未発見である。




ということで、自転車をここに止めて、歩いて入山してみる。

写真奥の森の底を、右から左に遅沢川が流れている。
右端に見えるのは吾妻線を渡る町道の跨線橋で、下を吾妻線が通過している。
鉱山鉄道は吾妻線よりも向かって左、吾妻川沿いのより低い位置を通っていたと思われる。
だから、私もその方向へ向かって森の中を行こう。

…情報では、「橋脚が数本生えています」とのことだったが、
これまでのところ、橋に関する遺構は未発見であり、もしここで見られれば、
私にとっては初めての遭遇と言う事になる。どれほどのものか、本当に楽しみだった。




入山してみると、すぐに私と進行方向を同じくする1本の小径を見つける事が出来た。
地理院地図にも細く描かれている道で、車道ではないが、吾妻川と遅沢川が出合う谷底へ通じている気配だ。
しかし、雪がうっすらと積もった土道は滑りやすさがマックスで、なんどか手を付きながら慎重に下っていった。


橋は、それほど谷底に近い位置にはないだろうから、もうそろそろ現れてもいい気がするが…。



おわーっ!!!


やっべ
やっべやっべええ

これ……、思っていた以上に、でかい気配がある……!



今のところ、2本立っているのが見えている。
いずれも上部しか見えないが、もっと谷に下ろしている足が長そう。
そしてひと目で分かる、コンクリートではない石造の風合いだった。

やっべやっべ。 橋だけ妙に立派だ?!
掘りかけの素堀隧道やら、崩れかけた掘り割りとは、
段違いの存在感が感じられるぞ。

早く全景が見たい!

んで、焦ったせいでやっぱり転んだ…。つべたい…。


7:14 《現在地》

小径は極めて優秀で、最後まで道を離れなくてもそのまま目指す橋脚の袂、すなわち遅沢川左岸の橋台上へと私を導いてくれた。

未成橋が本当に存在していたのである。
そして、本日初めて出会う、明瞭な未成線の遺構でもあった。
残念ながら正式名不詳につき、遅沢川橋梁跡と命名しておきたい。

今回事前情報にあったのは数本の橋脚ということであったが、橋台もしっかり施工されていた。
さらにはその橋台に連なる石垣や築堤までもが、ちゃんと存在していたのである。
さすがに桁は架けられていなかったが、本橋についてはその直前の段階まで工事が進んでいたのかもしれない。
少なくとも、左岸ではそのように見えた。



さあ、もう一歩前へ!!



……すげぇ! こんな立派な物を人知れずに残していったのか、上信鉱山専用軽便線は。

にょっき、にょっき、にょっきと、3本の細長い橋脚が、一直線に連なっていた。
そしてやっぱり、遠目に見たよりも谷が深く、橋脚も高かった。
その上部の華奢さは、軌間762mmの軽便鉄道らしいものがあった。


左岸橋台上から、遅沢川と吾妻川の合流地点を俯瞰する。

路盤と吾妻川水面の比高は30mくらいだろうか。
現在の吾妻線が遅沢川を渡る地点は、ここから100mほど上流で、路盤の高さも20mくらい高いが、橋そのものの規模はむしろ川下で谷の幅が広い分、こちらの方が大きいと思われる。

これが草木原の平地を突っ切って、そのまま次の羽根尾の平地に入って駅を設けた吾妻線と、鉱石運搬という日影の任のために集落を外れて走った専用線の設計理念の違いのように思われる。
ただ、戦後になってかの草軽電鉄が、存亡のためにこの専用線の復活を目指した時期があるらしく、その場合には各駅が集落から遠いという不利を背負うことになったかもしれない。

物言わぬ橋脚達は、粘っこく纏わり付く雪の中で孤高に聳えていた。
この黒く沈んだ色をした橋脚達の姿を見ていると、、実はこいつには活躍の場面なんてはじめから用意されていなかった呪われた積み木だったのではないかと、そんな暗澹としたことを考えてしまう。
もちろん、戦局次第ではこいつにも活躍の機会はあったはずだが……、長くは続かなかったろう…。



橋台から降りて、新たな視座を手に入れた。
橋というのは大体が橋台から見るよりも、少し脇に逸れて見た方が立体的に見栄えがする。
だからこの行動は橋を鑑賞する目的の上では自然なことだったが、私はそこから期待以上の驚きと興奮を得る事になった。

…が、まずは、まずはその前に、橋台の観察だ。
戦時中に拵えられた橋台は、時代的にはオールコンクリートでも不思議ではなかったが、ふんだんに石材を用いていた。
地域的に石の産出に恵まれていたのかは未確認だが、緻密に積み上げられたそれは、戦時中にありがちな粗雑な土木構造物のイメージではなかった。
あり得ないが、今でも工事を再開して使おうと思えば使えそうに見える。

また、橋台の橋桁を載せる部分の形状からして、第1径間に計画していた桁の形式は、厚みの小さい上路PGと思われる。さすがに木造桁ではない。



続く第2径間には、どんな桁が予定されていたのだろうか。
これも橋脚上部の形状を見れば、自ずから絞り込む事が出来る。

P1の上面には前後に40cmくらいの段差が設けられていた。
そしてP2、P3の上面は、平坦であるように見える。
ということは、第2径間(P1〜P2間)、第3径間(P2〜P3間)は、共に第1径間よりも厚みの大きい、それなりに肉厚な感じの上路PGを計画していたのだと考えられる。
形状的には下路トラスの可能性もあるが、規模的に考えて、おそらく上路PGで間違いないだろう。

…といったところで、

驚く準備はできたかな?

次の写真が、ここでの最大の見せ場だったと思う。

こうして並んでいるP1〜P3の3本の高橋脚の中でも、圧倒的に存在感が大きかったのは――




P2の高さ!

遅沢川の谷の一番深いところに堂々と突き立てられたP2。

よほど深く地盤に打ち込まれているのだろうか。
未だ倒れていないところを見れば、きっとそうなのだろうが、
なんというか、石造橋脚としては稀に見る高さ(もっといえば高さと太さの比)に、

心を掻き乱されるような不安定さを感じた。

あと、ヘビの鱗みたいな外見の気持ち悪さも…。




続いては、ここまで私を運んでくれた小径を更に辿って、遅沢川と吾妻側の出合へ降りてきた。
急な斜面に電光型の線形で刻み付けられた小径は、(雪の場合特に)滑落注意である。

この遅沢川は、有名な草津温泉の南のあたりから流れ出ている川。
温泉の成分や硫黄分が沢山含まれていそうだ。赤茶けた河床からそんな気がする。
そして、わざわざここまで降りてきた理由は、もちろん――



遅沢川橋梁跡を横から眺める為!

一際高いが故に四角錐のように見えるP2が際立っている。
しかし、両隣にあるP1、P3も相当に大きなものである。
この渓声の渦巻く場所で、少しも温もらない温泉水を浴びながら、
男たちが報われない仕事に命をかけたのは、今からおおよそ70年前のことだ。

聴音壕が町指定文化財であるように、この橋脚も指定したら良いと思う。
いろいろな遺構を目にしてきたが、戦時中の工作物で
この規模の橋脚というのは、現存例が少ないのではないか。




ちなみに小径の行き先だが、遅沢川出合から吾妻川沿いを20mほど下流へ進んだところに辿りついて終わった。
そしてそこには、写真のように数段の立派な石垣で画された広い平場が存在しており、「尾瀬林業(株)管理地 羽根尾発電所」と書かれた標柱が立っていた。

羽根尾発電所は、このすぐそばにある現在東京電力が稼動させている現役の発電施設だが、尾瀬林業との関わりは分からない。
稼動開始の時期も大正14(1925)年と、今回探索している未成線よりも遙かに古く、直接の関わりは無いと思われるので、深入りはしない。
ちなみに、未成線は向かって左の段丘崖上の縁を通っていた模様。




「深入りしない」というか、出来ないのだが、同じ敷地内にこんな年季の入った感じの横穴が口を開けていた。(これ以外の建物や施設のようなものは見あたらなかった)
横穴ではなく、斜坑か。
内部からは激しく水が迸る音が聞こえていたから、こいつの正体は羽根尾発電所関連の地下水路へ通じる通路だろう。

いずれにせよ、私を誘った小径は未成線目当ての道ではなく、これらの一連の発電関連施設へのものだったと理解する。撤収。




再び橋台に戻って来た。
写真の間知石の石垣は橋台付近の築堤の裾を支えるもので、実際の路盤はもう3mほど上部にある。

折角なので、ここの橋台を起点に、未成線の路盤跡を、東側へ行けるところまで辿ってみようと思う。




進行方向にあるのは河岸段丘の縁にある凹凸の少ない地形で、谷や尾根の出っぱりが無いので、橋やトンネルといった遺構との遭遇期待度は非常に低い。
そのうえ最初からこの猛烈な笹藪で、雪が無ければまだしも、これではカメラも濡れるしで、すぐに悲しくなってくる。
何か引き返すきっかけがほしいなと、内心考えながら進んでいくと…。




7:28 《現在地》

これはもう、だ。

頭上には高圧送電線が進行方向を一緒にしており、木が伐られている帯状の領域が続く。
また、あまりに笹藪が深いために、地上に路盤を作る土工があるかも判然としない。
これ以上進んでも異常なびしょ濡れを得るだけだろうと畏れ、ここで引き返した。
橋頭から100mほど東へ進んだ地点であった。



スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。




7:49 《現在地》

【情報1: 羽根尾発電所付近の橋脚群】の仕上げとして、今度は羽根尾発電所側から西側の橋頭へアプローチしてみた。
この間、一旦草木原に置いていた自転車を回収し、国道の遅沢橋から遅沢川を渡っている。

既にGPSの画面には私の行動の軌跡として、橋脚群の位置が表示されているので、その対岸へ行くのは難しくなかった。
国道から羽根尾発電所へ下る車道の途中、ご覧の鉄塔のところが最短の入口である。鉄塔の向こうに小さく見えるのが羽根尾発電所の建屋(の屋根)。ここから手前の方向へ入る。




こちらには小径のような踏み跡が無く、橋頭に至るまでの100mほど、深い笹藪と格闘する必要があった。

だが、藪の中には築堤らしき玉石の空積石垣が断続的に存在しているほか、少し進むと前方の疎林の向こうに、はっきりとP3のてっぺんあたりが黒く見え始めたので、さほど苦痛ではなかった。




7:51 《現在地》

現れた、遅沢川橋梁の右岸側橋台。

初っ端から振り返って見上げているのは、築堤の上の藪が特に濃かったために、その下を歩いてきたせいである。
造りとしては普通の石造橋台であるが、不思議だったのは、この橋台の前に並ぶ橋脚であった。

そこには、対岸からは窺い知れなかったものが存在していた。




これはいったい、どういう事だろうか。

対岸からは見えなかったP4とP5の2本の橋脚がP3と右岸橋台の間に存在していた。
それ自体は間隔から見ても不自然なことではないが、このP4とP5は未完成のまま工事を終えたらしかったのである。

石組みではないコンクリートの柱が高さ2mくらいまで作られているが、その上面の高さはP4P5間でも揃っておらず、統一されているP1〜P3とは大きな較差がある。
一応、林鉄の橋のように、この上に木造の橋脚を立てて高さを揃えた可能性も考えたが、重量物を扱う鉱山鉄道では木橋は考えにくいし、ましてや国鉄の専用線でもあったわけだから、その可能性は低いだろう。




これを見るまで、本橋は桁を載せる直前の段階まで完成していたのだと考えていたが、実際はそうではなかったようだ。

おそらく全線の中でも3本の指に入る大規模橋だったと思われる遅沢川橋梁の工事は、相当力を入れて進められていたと思う。それでも完成させる事が出来なかった。
しかも、一番大変なP2は、しっかり完成させているのに……。
関係者の無念を容易く想像出来る、なんとも中途半端な有り様は、前回の探索で遭遇した掘りかけの隧道の再現であった。
まさに、戦争の非情さ(そして非常さ)を示す、心の通わぬ光景。




あまり可哀想だったんで、最後に余計なお世話をしてみた。

やっつけ仕事で申し訳ない。橋の上に列車も書きたかったが、技術不足で断念。

上路PG6径間よりなる遅沢川橋梁の探索は、これで終わり!


それにしても、この橋は匿名読者さまのタレコミがなければ、
ずっと気付かなかった位置かもしれない。ほんとうにありがとうございます。



次回は、
【情報2: 半出来集落付近の橋台他】 へ向かう!