光明電気鉄道 阿蔵隧道と大谷隧道 中編

所在地 静岡県浜松市天竜区
探索日 2009.1.23
公開日 2009.1.27

 阿蔵隧道 内部 


驚くべき短命に終わった光明電鉄の廃線跡を探索中。
私は今、阿蔵駅〜二俣町駅間のほぼ中央にあった阿蔵隧道の北口に来ている。

坑口は、栄林寺と山続きの墓地のある斜面と川べりに並ぶ民家の間の隙間に、窮屈そうに残っていた。




阿蔵隧道である。

いかにも鉄道隧道らしい馬蹄形の坑口が、コンクリートブロックのアーチ環によって画されている。

アーチ以外は場所打ちされた平板なコンクリートであり、トンネルの素材がコンクリートブロックから場所打ちコンクリートへと移り変わっていく昭和5年という時期に建設された事を裏付ける構造といえる。

ここからではまだ貫通しているのかどうかは分からないが、人目のないうちに洞内を確かめたい。

にゅっこいしょっと。




はい、ありがちなパターンね。

隧道内には、産廃というには生活臭の強すぎるものが所狭しと置かれている。
敢えてその品目を並び立てても仕方がないのでしないが、燃えた痕跡があるのが怖い。

今のところ隧道自体にはさほど痛んだ様子はないが、100m先にあるはずの出口が見えないことと風の感じられないことが、先行きを大いに不安視させた。

大丈夫かな、この隧道。




乾いた空気は微かに土臭く、洞床には枯れ枝が山と積まれている。
不安定な足場をフォローするように壁伝いに進んでいく。
そして冷たい壁に視線を這わせていくと、行く手の洞床があってはならない“盛り上がり”を見せつつある。

あってはならない…。




天井が破れ、そこから大量の土砂が溢れていた。
土砂は隧道の「道たるべき」部分を埋め、通行を難しいものにしている。
すなわちこれを閉塞という。

いつこうなったのかは分からないが、それが最近の事でないことは明らかだ。
崩れた土砂が乾ききっているし、とてもよく締まっている。
また、崩落斜面はなだらかで、もうこれ以上落ちて来られないだけ落ちてしまった様に見える。

光明電鉄には、同じ時期に開通した隧道があと4本あるが、その中の2本は「天竜浜名湖鉄道」の隧道として現役で使われている。
放置されると隧道もヘソを曲げるのだろう。




嬉しいけれど、見たくなかったような気もする…。

閉塞壁にポッカリ空いた、ひと一人が何とか通り抜けられるくらいの穴。

その向こう側には、大きな空洞が広がっている。
そして、ほっぺを撫でる清冽な風。
間違いなく、出口はこの向こうにある。

当然これを無視できなくなった私だが、潜ろうとすれば必ず体の前と後ろを擦る狭さだ。
踏ん張って貫通するにはしたものの、土にまみれ、朝っぱらからテンションが下がった。




穴を抜けると、隧道は続いていた。

そして、出口も!

隧道はいびつな光を見せる出口に向けて、緩やかに左へカーブしている。




この隧道のあゆみをもっとも象徴するものが残っていた。

天井に点々と取り付けられた金属の留め金である。
そこには、碍子を介して電車線(架線)が取り付けられていたに違いない。

ここに光明電鉄が開業した昭和5年当時、県内で電車といえば、東海道線の小田原〜熱海間が辛うじて電化されていたに過ぎなかった。
明治22年に開業していた同線の静岡〜浜松間が電化に浴したのは、昭和も24年になってからのことである。
そして、光明電鉄のあとを一部受け継いだ国鉄二俣線も、また同じ夢を追い求めた国鉄佐久間線も、いずれも非電化路線であった。
もちろん天竜浜名湖鉄道もしかりである。
いかに光明電鉄が時代の先を走っていたのかがお分かりいただけるだろう。

いまだに北遠のどんな鉄道も追いついていないのだから…。

なお、現在も元気にがんばっている「遠州鉄道」(新浜松〜西鹿島)が大正12年に電化開業しています。このうち、終点の西鹿島駅は北遠の南端にある駅ですから、光明電鉄は“南遠最初の電車”とはいえないかも知れません。



光明電鉄にとって電化はいかなる恩恵ももたらさなかったように思えるが、少なくとも隧道の天井には優しかった。
コンクリートブロックの乾いた部分の表面は、廃止後70年を経てもなお、新品同然の綺麗な色を留めている。

なお、内壁の構成だが、側壁は場所打ちで、アーチ部分がコンクリートブロックである。
ただし、両側の坑口付近ではブロックの模様が鮮明ではなく、或いは全面場所打ちとされている可能性もある。
また、使用されているブロックが一般的に大正期の隧道でよく見られるようなサイズではなくて、より小さな、むしろ煉瓦と同一のサイズと思われるものである点にも注目したい。
単純に煉瓦をコンクリートブロックに置き換えたような印象である。




側壁には待避坑も用意されていた。

しかしそのサイズは小さく、大人が完全に身を隠せるものではない様に思う。
もっとも光明電鉄に限らず、この時代の私鉄の隧道では小さすぎる待避坑を見ることは珍しくない。

なお、もうひとつ国鉄の標準と異なる点を見付けた。
それは、待避坑がカーブの内側に用意されている点だ。




全長100mほどの隧道の南口に近づく。
再び洞床に廃材が散乱し始め、生活感が漂ってきた。
こちらからなら外へ出ることも出来そうだが、それはしない方が良さそうだ。

電鉄の確かな痕跡を見つけ出したことに満足し、土の隙間へ撤収する。




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 阿蔵隧道 〜 二俣町駅跡 


7:43

このレポートのタイトルを単純に「光明電気鉄道跡」としなかったのは、残念ながら2本の隧道を除いてはあまり痕跡が残っていないからである。
阿蔵駅のホームが出てきたのは予想外の悦びであったが、阿蔵隧道から開業区間の終点である二俣町駅にかけては、期待以上のものはなかった。




ともかく先へ進もう。

阿蔵隧道を出た軌道跡は、二俣川に沿って右に曲がり、栄林寺の前を通る。
門前に線路しかなかったとは考えにくいので、線路と元々からあった狭い道とが川べりに平行していたのだろうが、現在は狭い道だけしかない。
スペース的にも線路を敷く余地はなく、おそらく川の方が改修によって幅を広げたのだろう。

そんなわけだから、線路の痕跡は全くない。




そして、2車線の市道に突き当たる。
前方には二俣高等学校の広いグラウンドと、秋野不矩美術館のある小高い山が見えてきた。

この市道の緩やかなカーブは鉄道らしく見えなくもないが、おそらく関係ないだろう。




7:50

そして、ここが終点…開業できた中での終点だが…二俣町駅があったとされる場所だ。

その位置は、各種資料によれば二俣高等学校の正門前でかつ秋野不矩美術館の下の山ということである。
その条件に当てはまるのが、この空き地…。

残念だが、駅跡と分かるようなものは何もない。
ここは二俣の街の中心地からは二俣川を挟んで500mほど離れており、「二俣口」駅のあった阿蔵地区よりも栄えている印象はない。むしろ山を背にした街の端っこである。


非業の鉄道光明電鉄の開業区間は、ここまでだ。
しかしこれより先の船明地区までさらに4kmほどの間でも、部分的ではあるが延伸工事が進められていたという。

次回は、未成区間内での唯一の遺構、「大谷隧道」を捜索する!