やり残しの翌日再訪、今度は上流側から
2022/4/9 14:32 《現在地》
夕暮れとともに終わった前日の探索で、砂防ダムより上流側の軌道跡を探索出来なかったことが心残りだったので、翌日午後に時間を作って再訪することにした。
昨日最後に辿り着いた車道林道である林道神之谷線を、昨日歩いたところの東端からさらに800m上流へ進んだところが、今日のスタート地点だ。今日はここまで車で入った。
なお、永冨氏も1度目の探索をmasa氏と共に終えた後、2度目の探索を単独で行い、その際に砂防ダムの上流側へ行っていた。行程だけでなく、日を改めたことも、私は全く同じように追従することになった。
ただし、この上流側の探索に、あまり多くは期待していない。
こういうことを書くと、せっかくこれから読んでいただく読者諸兄の期待感を損なってしまうだろうが、この神之谷トロ道のハイライトは昨日探索した“白い崖”から砂防ダムまでの洞窟を行くような峡谷内であったのは間違いないらしく……
下流と同じかそれ以上の道幅が残っているが、朽ち木や岩屑で埋もれがちだ。岩切取りも随所で見られるものの、例の崖や石垣峡谷のインパクトが強過ぎ、物足りないというのが正直な感想。治山ダムまで行って早々に引き返した。
『日本の廃道』(平成22(2010)年2月号(第46号))より
……という短い文章と少ない写真で、私がこれから歩こうとしている区間を終えていた。
それゆえ、正直いえば私も、この再訪はしなくても良いのかもと少し悩んだのだが、やっぱり気持ち悪いので、やることに。
過去、こういうしつこい態度が功を奏して、いろいろ発見をしたこともあったしね。
というわけで、本日の再訪の目的は、昨日歩ききれなかった砂防ダムより上流側のトロ道跡の踏破である。
距離としては、「現在地」である神之谷林道から、砂防ダムまで片道500m弱である。往復1kmほどのミニ探索だ。
ほぼ全区間、林道神之谷線と川を挟んで並走している区間であり、林道からも概ね観察できるのかもしれないが、せっかく来たので歩いてみる。
それでは、スタート!!
林道が神之谷川を1回だけ渡る橋(銘板などが見当らず橋名や竣功年は不明)の袂から、林道と同じ高さをそのまま左岸伝いに進む道形がある。
これが、最新の地理院地図にも徒歩道として表記され続けているトロ道である。いかにも“それ”っぽい狭い道だった。
入口に、「燃やすまい 皆んなの暮しに 生きる山 北村林業(株)」と書かれた、古ぼけた看板があった。
北村林業(株)というのが、この山の所有者なのかもしれない。昔からそうだとすれば、トロ運材を行っていたのも、この事業者の可能性がある。
自転車をここに残したまま、歩きで突入した。
入ってすぐ50mほどのところに、川側へ膨らんだ土地を簡単に均しただけの小さな広場があった。
道の様子は、昨日歩いたトロ道の延長と言われても違和感は無い。
というか、どこにでもありそうな、軌道跡っぽい廃道だった。
残念ながら、枕木とかレールなんかも見当らない。もしそんなのがあったら、とっくに既報されているだろうしな。
ミニ広場へ。
14:34
レール有った。
え? え? レール有ったよ。
敷かれているものではなく、1本ただ置いてある。
永冨氏が見つけなかったはずはないと思えるくらい“あからさま”だったが、報告はされていなかった。
私と永冨氏の12年間に別の誰かがレールを見つけて、分かりやすいこの場所へ移動させた可能性もあるかもしれない。
なにはともあれ、敷かれているわけでもないレールを1本を見つけただけで騒ぎすぎと思われるかも知れないが、ここは私にとって、レールが見つかっても当然と思えるような“普通の軌道跡”ではなかった。
本編第1回の冒頭で述べたとおり、ここはこれまで一度も地形図に軌道として描かれたことがなく、永冨氏が古い文献からわずか一行の「トロ道」という記述を見つけ出して探索し、その成果を公表するまで、おそらく地元の限られた人にしか存在を知らなかった極めてマイナーな軌道である。
このように、ごく少ない文献の記述と、それらしい道形があるだけで、地図になく、写真もなく、直接の証言もないというのは、それを検証する立場としてはまず一歩引いて、軌道の実在性からして疑う余地がある路線といえた。
だからこそ、今回の永冨氏の後追い探索において私は、「軌道が存在していた何がしかの物的証拠を見つけたい」という、より具体的には、「レールであれば最良だが、せめて枕木、ないしは犬釘、もしくはペーシ、モール、なんでもいい……を見つけ出したい」という、そんな野望を持って臨んだことは既報の通りである。
……有ったよレール。
それも……
レールの片側端部に、レール継目板(ペーシ)がボルトナットで固定されたままの状態になっていた!
これは、このレールが隣のレールと接続されていた痕跡だ。
つまり、このレールが敷設以外の用途……たとえば建設資材……として持ち込まれたものである可能性を否定している。廃材であれば、ペーシやボルト類は取り外されるのが常である。
なお、メジャーで各所を測ってみたところ、このレールは6kg/mの規格品軽レールとみられ、ペーシは長さが22cmだった。レールの長さは計っていないが、3mくらいの短材だ。両端にペーシ取り付け用の穴があったので切断された端材ではないが、ペーシが取り付けられていたのは片側だけだった。
さらに!
広場内のすぐ近くの地べたに、単体のペーシが3枚まとまって落ちていた。
かつてこの場所には保線を司るような倉庫か何かがあって、保管していたペーシが地面に紛れ、そのまま放置されたのかもしれない。
あるいは、レール撤去作業時にまとめて置いたのを、回収し忘れたのかも。
ただ、このペーシは長さが32cmあり、四つ穴の位置も22cmのものとは違うから、前出のレールには使えないものだった。
ペーシの長さとレール規格の対応を把握していないが、9kg/mレール用の可能性がある。
またその場合(9km/mレール使用の場合)、手押し軌道ではなく、機関車が入線していた可能性が加算されるが、未使用かもしれないペーシが落ちていただけでそこまで行くのはさすがに想像を飛躍しすぎか。
広場から振り返る、現林道。
こんな近くで、拍子抜けするほど呆気なく、昨日あれだけ見つけられなかった軌道敷設の物的証拠を発見してしまった。
これだけで、日を跨いだ再訪を実行した甲斐があった!
繰り返す。
神之谷川沿いの廃道は、確かにかつて軌道運材を行っていた軌道跡と見て間違いない!
物的証拠ありだ!
なおも、路線名、事業者、開設及び廃止年など主だったデータは何一つ明らかでないが、このレポートを確かに「廃線レポート」に入れる根拠は得た。(木馬道だったら、「道路レポ」にしただろう)
14:36
嬉しい発見に力を得て、直前より10倍くらい冴え冴えとした目になって、残りの区間へ前進を再開した。
山側と谷側に石垣を有する模範的な軌道跡が河川勾配に準じた緩やかな下り坂として続いているが、そこにレールや枕木などは見られず、倒木のあまりの多さに辟易した。
すぐ下に歩き易そうな白い河原が連なる神之谷川があるのも、軌道跡への忠誠心を削いだ。昨日断念した砂防ダムがこの先にあるので、その影響で河床が堆砂に埋まって本来よりも広い河原になっている可能性が高い。
14:40 《現在地》
斜面が大きく抉れるように崩れていて、道が寸断されている場所に突き当たった。
崩壊の向こう側に石垣がある道の続きが見えているが、正面突破は不可能で、この写真の範囲外まで行く大きな高巻きを必要とする地形だ。
さすがに面倒だと思ったので、ここから下へ降りて、あとは河原伝いで追跡することにした。
なお、地図上だと右岸には林道があるが、実際は軌道跡よりかなり高い位置を通っていて、既に写真のフレーム外である。
14:43
少し苦労して谷底へ。
両岸とも岩場が切り立っているが、白い河床は明らかに堆砂で埋め立てられた地形である。
砂防ダムが出来るまでは、昨日見た終盤の峡谷と同じ様な極めて深く細いゴルジュの谷があったものと思う。
チェンジ後の画像は、谷底から見上げた軌道跡の石垣。
法面や路肩に石垣が使われていて、これも昨日見た軌道跡の延長らしい風景だ。
進むほど川幅が広くなっているのは、それだけ堆砂によって埋め立てられた嵩が増している証拠だと思った。
両岸が切り立った崖から、あまり河川の浸食を感じさせない山肌へ変わっていくのも、同じことを表していただろう。
いつでも左岸を見上げると軌道跡の石垣が見えたが、こちらから登って復帰するよりも前に、道の方から降りてくる兆候を見せた。
そろそろく、昨日突破出来なかった砂防ダムが見えてきてもおかしくない。
14:46
すっごい下ってくるよ! 軌道跡!
?! ちょっと思っていた以上に急で驚いている。
平坦な堆砂の谷底へ、急降下着陸を試みてくる軌道跡のラインが、この写真によく見えている。
ここまでの軌道跡や昨日見た軌道跡のどこにもこんなに急な場所はなかった気がするんだが……、インクライン…じゃないよね?
インクラインにするほどは急ではない気もするしな。むしろ木馬道だったらしっくりくるのだが、さっきレールも見てるしな。
まあ、短い距離だけ特別に急な区間があったということなんだろう。 ……たぶん。
で、この猛烈な下りの先は――
――昨日の砂防ダムと、堆砂の地中で衝突するような形で終わっていた!
早くも今日の再訪のゴールが見えた!
しかしここ、ほんとにせっかちな急さで、見ているとなんだか可笑しくなってくる。
何か人間くさくて微笑ましいと感じるのだ。
さすがに理由は分からないが、たぶん設計した当時には何か事情があったのだろう。
堆砂に沈んだ部分に秘密がありそう。たとえば、そこに大きな滝があって、前後の地形との兼ね合いからここで一気に高巻きをするしかなかったとか。全線の計画を先に決めずに、事業の進展に合わせて場当たり的に延伸するようなやり方をしていると、こういうミスマッチな勾配区間が生じやすいとも思う。
左岸トロ道の砂防ダムによる切断は、このようにほんの一瞬の杜絶である。
しかし、これを歩行によって克服することは思いのほか難しい地形であり、私は達成しなかった。
昨日行った以上に大きな高巻きをすれば、杉林を伝って突破は出来るとは思うが、上流側も大きく巻く必要があるので、面倒である。
そしてここまで来たらもう一つ、これは今回の私にとっては数少ない事前情報がない部分である、砂防ダム右岸の木馬道も気になる存在だ。
このあとの復路では、この“未知の木馬道”を辿ってみようと思う。
すぐに終わりでなければ、どこかで林道とぶつかるはずだ。
14:49
神之谷の上と下を厳しく隔てる、地図に無い砂防ダムの天端に迫る。
昨日のやり残しを平らげる瞬間の得も言われぬ征服感が、私をにやりとさせていた。
そして… 見下ろす……
14:50 《現在地》
よっし! “昨日の地獄”を、転生後の天界から、優越の心で見下ろすことが出来た。
……この行為、来世はまた地獄落ちだと気付けないのが、卑しいオブローダーである……。
本当に、たった一基の砂防ダムが、神之谷の風景を180度変えたことを実感する。
それほど、私の前後の景色は違っていた。
再訪の目的は無事果たした。レールという、期待以上の土産を貰って。
あとは、唯一探索の済んでいない右岸上流側の木馬道を使って帰ることにしよう。
最後は林道化した区間を辿って、終点へ
2022/4/9 14:51 《現在地》
さあ、撤収だ。
だが、来た道(軌道跡)をただ戻るのは芸が無いので、まだ歩いたことのない、そして永冨氏の探索報告もない(彼が歩いてないかは分からないが)道を通って、車へ帰ろうと思う。
その道とは、神之谷側の右岸にある“木馬道とみられる道”の上流側だ。
昨日の最終盤に死闘を繰り広げたのは、同じ木馬道の下流側だったが、砂防ダムに分断されながら上流側へ登っていく道形もある。
その行先を、足元にある砂防ダムを起点に確かめたい。
もっとも、右岸を上っていけば遠からず林道にぶつかるはずである。
ぶつかった時点で木馬道の追跡を終えるつもりだ。
これが、砂防ダムの右岸天端附近より明確な道形が始まる右岸の“木馬道らしき道”だ。
そして今までは“木馬道らしき”であったが、昨日歩いた道を木馬道と断定するならば、それとの繋がりや、同様の急勾配、同様な道幅などの多くの要素から、ここもまた木馬道の跡であると断定して良いと思う。
左岸のトロ道とは比較にならないような急勾配を持つ、昨日最後に登った道と瓜二つの道。違いは向かう方向だけである。
14:52
激しく登る道は、険しい岩場に土工の跡を刻みながら、砂防ダムのすぐ上で神之谷川へ注ぎ込む、地理院地図上では無名の支谷へ進路を向ける。谷を渡る様子はなく、そのまま支流の右岸を高い高度を維持しながら登っていく。
なお、この谷の名称は東の谷というらしく(永冨氏の報告や『川上村民俗調査報告書』など複数の資料にこの名がある)、本稿も以後それに倣う。
写真右上の斜面高所に白っぽく見えるのは、早くも現われた林道の路肩擁壁だ。
この擁壁の上を、神之谷川の上流と、神之谷集落や国道169号を結ぶ、林道神之谷線が通じている。
昨日のゴールとなったあの林道の続きだが、見えている擁壁の下は絶壁で、とても直接登って辿り着ける感じではない。
引続き、木馬道の助けを借りよう。
少し進むと、対岸のそそり立つ岩崖は谷底まで波及して、細い滝を作り出していたが、この日は水量がほとんどなく、水で濡れた崖があるだけだった。
道は滝の縁をとても危うく掠めて登る。
路肩に石垣があったが大半は崩れており、狭い道全体が滝へ向かって撫で肩に落ち込んでいた。
壮大という感じではないが、地味に恐さを感じる場面だった。
ただ、ここさえ乗り切れば一気に谷底が近くなり、滑落の危険から解放されると思う。緊張のしどころである。
14:54
滝を突破し、落ち口側から滝壺を見下ろし撮影。
全く水量のない滝だが、その下には黒く底知れぬ滝壺が、怪しく水を湛えて静まりかえっていた。
水面が揺らめいて見えるのは、私が直前にいたずらで大きな石を投げ入れたからだ。
正面の奥に見える空間が本流で、その向こう岸にさっきまで辿っていたトロ道がある。
木馬道が本流へ背を向けて支流の谷をよじ登ってきているのが分かると思う。
滝壺を回り込むように崩れ残っている石垣もいくらか見える。
14:56
滝を越えた時点で道は一度谷底にタッチするが、なおも勾配を緩めることなく上り続け、すぐにまた底からは離れていく。
と同時に、いかにも林道直下らしい若いスギ植林地に進路が取り込まれ、道形は不鮮明になった。
昨日もそうだったが、なぜかこの木馬道は植林地に入ると形跡が乏しくなる。
しかし、杉林の中はどこでも歩けるので、木馬道の追跡を中断して、手近な斜面を適当に登って林道を目指す。ここは脱出優先である。
14:58 《現在地》
案の定、木馬道を見失った地点のすぐ上を林道が横断していた。
脱出地点からほんの少し林道を前進すると、林道が東の谷を渡る地点にコンクリート橋が架かっていた。やはり銘板などはない。
また、この橋の袂で分岐して谷の上流へ続く支線がある。おそらくこの支林道が木馬道の続きであろう。
永冨氏はこの先をレポートしており、なんでも少し進んだ植林地には石垣が残された複数の人家の跡があるそうだ。
木馬道はこの東の谷から本流沿いのトロ道まで出材するためのものであったようだ。林道の建設によって役目を終えて久しいのだろう。
以上で、昨日に引き続いての“神之谷木馬道”の探索を終える。
15:04 《現在地》
下り坂の林道を足早に進んで、本日の探索開始地点へ約35分ぶりに帰還した。路肩に私のデポ車がある。ここへ来る途中で自転車も回収済だ。
終わってみれば、わざわざ日を改めて再訪したのが勿体ないくらいの短時間で済んだが、昨日出会うことが出来なかった廃レールを見出した成果は、再訪の価値として十分のものであった。もちろん、昨日の探索をあと1時間早くに始めていれば、この二度手間を避けられたという反省はあるが、タラレバはキリが無いので止めておこう。
そして、昨日とは逆に今日は少しばかり時間に余裕があるので……、ここから(当初は予定していなかった)探索を少しだけ追加することにした。
何をするかというと、このまま林道の奥へ、トロ道の終点を探しに行ってみよう。
神之谷トロ道の上流部は、林道神之谷線の路盤として再利用されている。
地理院地図を見ると、トロ道の起点である「カラッタニ」から「現在地」までの軌道跡は約2kmの「徒歩道」として表現されている一方、ここから1.8km先まで「軽車道」の記号が川沿いに描かれている。これがトロ道の林道化区間と思われる。
トロ道の終点がどこにあったのかを確定させる情報(例えば路線の全長の数字)はないが、現在の林道の終点と同一位置であった可能性があるし、あるいは林道の終点からさらに奥へ軌道跡が続いているという可能性もあった。
ちなみに永冨氏は地図上の「清谷神社」の少し先まで確認したそうだが、その奥は「(林道歩きに)途中で飽きてしまい、.どこが終点だったかわからずじまいのまま引き返した」とレポート中で表明している。幸い私は自転車で進むつもりなので、退屈には強いはずだ。
永冨氏が言うように、神之谷の上流部は変化に乏しい穏やかな谷であり、昨日の探索区間がハイライトなのは間違いないが、その対照的な変化も含めての神之谷トロ道であろうから、あと少し、終点までお付き合い下さい。
車の前を素通りし、そのまま自転車で林道を東へ、上流へ向けて走る。
川のすれすれまで両岸ともスギが密集して植えられており、いかにも軌道跡らしい緩やかな勾配の林道が、その片岸に陣取っている。道幅は軌道時代よりも広げられているだろうが、いかにも、いかにも、いかにもな道だ。
昨日歩いた下流部は全体的に険しく、石灰岩の峡谷が幽玄の趣を形作っていたが、林道化している上流部については一転して、このような穏やかな風景が続いている。
15:14 《現在地》
全く何事もなく800mほど進むと、唐突な感じで1本の人道用鉄橋が架けられている場面に出会った。
車を止められる広場もある。
現地には、この橋や対岸にあるものについての案内は何もないが、地図を見ると橋の先に清谷神社がある。
本編はあくまでも神之谷川の運材路に焦点を当てたものであるから、私は敢えてここまで全く触れてこなかったが、おそらく神之谷という地名を歴史家に知らしめているのは、中世の南北朝時代の後に南朝の遺臣たちが立てこもった後南朝の拠点としてその名を刻まれているためである。現在の神之谷集落には宮内庁が王墓として公認する史蹟があるほか、地域一帯に様々な遺跡や伝承、行事などが伝わっている。
この清谷神社もその一つで、周辺は河野御所(こうのごしょ)跡地として比定されている。
中世初期以降暫くの間、神之谷の在所(集落のこと)は、この神之谷川の流域にあったらしい。東の谷で永冨氏が目にしたのも、その遺跡の一部であった。
だが、やがて隠れ住む必要がなくなったのだろう、より便利な吉野川沿いの現在地へ山を越えて集落は移った。
神之谷川と呼ばれる流れが、神之谷の在所から山を越えた所にある理由は、このような移転と関わりがあるのだろう。
橋を渡って、神社の境内へ寄り道。
全く無人ではあるが、そこには一般的な神社にあるものが一通り揃っていた。
だが驚いたのは、その参道や本殿を隠してしまうほどに太く育った巨杉の林立する姿であった。
この土地が、何かやんごとなき由来を秘めていると、生えた木の太さが黙って伝えてくるようだった。
これには私も圧倒されて、全く黙らざるを得なかった。
昨日は自然の地形の威容に随分と圧倒されたが、今日は人が居た証しに圧倒されている。
神之谷川の恐ろしく険しく人を寄せ付けない下流部と、その奥にある穏やかな上流部の対比は、潜住せざるを得なかった人々にひとときの安らぎを与えたのだろう。いわゆる隠れ里の典型的な立地だと思った。
なお、『川上村民俗調査報告書』には、この清谷神社前の道(現在の林道)が、かつては木馬やトロが通る道であったことを物語る次のような記述がある。
昔は、現在のように道路がなく、在所(現在の神之谷集落)から山道を歩いて神社まで行った。山道の途中は、キンマ道(木馬道)やトロ道(トロッコ道)になっていて怖かったという。白屋から嫁いで来た女性は、そのような山道を行かねばならないとは知らず、初めて祭りに行ったとき、着物に羽織姿で行って、着物が汚れたと苦笑した。
『川上村民俗調査報告書 上巻』より
神社の傍の林道上から北を見ると川上村の最高峰である白鬚岳の岩がちな山並みがよく見えた。
頂上の辺りはともかく、周囲は見渡す限りの杉の美林だ。
険しい下流部に運材路を貫通させるのは大変な難事だっただろうが、その先に大きな収穫があったことがよく分かる。
ある程度の機械力が備わるまでは、山を越えて木を運び出す方法はなく、険しい下流部を切り開いて川沿いに運材を行った。それが流材や木馬道やトロ道の時代だった。
この地形と重力の重い縛りが架線運材によって解消され、さらには峠を自動車で自在に乗り越える林道運材となった結果、下流部を通る古い道は顧みられなくなったのだ。
15:25
さらに進むと、林道沿いにモノレールのプラットホームが設置されていた。
この手のモノレールは、今日の林業シーンに唯一残る“鉄道”といえる存在だ。国有林における最新の林道規程には、林道の種類として「単線軌道」というのがあるが、それはこのようなモノレールを指している。
林道や林鉄のように地形図に描かれることが決してない点で不遇な存在だが、必ずしも短期利用で小規模なものばかりではないのかもしれない。個々の路線を一つも辿りきったことがないから、その規模をイメージできないが。
こういう駅の姿を見ていると、ムクムクと興味が湧いてくるな。なんか見たことのない長い車両もあるし。
モノレール駅の前は林道も広場になっており、土場として利用されている様子があった。
そしてなぜか、広場の一角には一台の男児向け自転車が。
捨てられているものではなく、ちゃんとメンテナンスされた現役の車両であった。なぜ男児向け?
15:29
さらに、男児向け自転車から200mほど進んだ道端には、「Funky Girls」のロゴも鮮やかな女児向け自転車が停車していたのである!!!!
ななな、何が起きてるんだ?! 山の仕事場での小移動に自転車が利用されている場面というのはたまに目にするが、児童向け自転車を使っているのは初めて見たし、ましてや女児向けとは?!?!
え? 別に気にすることじゃない? 好きなのを使えばいいっじゃないって?
……失礼しました。仰るとおりです。Funky Girls!(個性的で魅力的な女の子たち)
どこまで行っても変化のない杉林。
徒歩の探索だと飽きるのも分かる気がする。
特に軌道時代の痕跡のようなものも見当たらない。大型の運材トラックも問題なく通れそうな立派な幅の林道となっている。
改めて、先ほどピンポイントに廃レールを見つけた出来事は、とても幸運なことだったのだと理解する。
道にも景色にも変化がないが、地図上での林道の終点は、もうそろそろだ。
15:30 《現在地》
車を止めた地点から林道を進むこと約1.8kmで、地理院地図上での行き止まりに到達した。
が、道はそこで終わっておらず、神之谷川を「14t制限」のあるコンクリート橋で渡ってさらに上流へ伸びていた。
橋の周辺に軌道時代の痕跡が無いか探したが、やはり見当らない。
そもそも、ここまで軌道が来ていたという根拠もないのである。地形的には、来ていても不思議は無いが。
15:31 《現在地》
橋を渡ったからには、まだしばらく道は続くことを覚悟したが、意外や意外、渡って100m足らずで大きな広場に突き当たって、綺麗さっぱり道は終わっていた。典型的な林道の終点風景だが、奥側には古そうな石垣があり、軌道時代からの終点としても違和感はないだろう。
ドンツキに小さな小屋と【モノレール駅】
あった。
神之谷川は小屋の裏へ続いているが、明らかに谷は狭くなっており、沿う道は見当らなかった。
林道の終点がここなのは間違いないが、軌道時代の終点もこの場所だった可能性は高そうだ。通常、林道に上書きされた軌道の終点を遺構頼りで特定することは難しい。今回も断定は不可能だった。ただ、仮にこの場所が軌道の終点だったとすると、吉野川出合の“カラッタニ”の起点からこの終点まで全長4kmの路線となる。この間で標高330mから550mまで220mほど登っていた。距離で割ると平均勾配は5.5%となり、なんだかんだ理想的な軌道の勾配だった、いろいろ凄い場所を通ってきたつもりだが、勾配は裏切っていなかった。
そう。
終わってみれば確かにここは、軌道跡として矛盾のない1本の道。
とはいえ、そのような条件をたまたま満たす道路は無限にあり、永冨氏の発見と報告がなかったら、未だ軌道跡としては気付かれていなかった可能性は高いだろう。
探索完了!
ミニ机上調査編 〜神之谷川の軌道の正体を探る〜
今回の探索によって、“神之谷トロ道”(軌道跡)の全容(上図)が確認できた。ただし終点の位置について明確な証拠はない。おそらく現在の林道の終点と同一地点だと思うが。その場合、全長は約4kmである。
このうち、探索的な面白さは、林道化せず廃線跡として放置されている下流側約2kmに集中していた。幽玄な石灰岩峡谷に切り開かれた膨大な石垣を有する軌道跡は素晴らしく、加えて自然の地形を上手に利用して道を通した“白い崖”や、絶壁の両岸に縦横に道が走る立体的な木馬道との接続など、多くの見どころがあったほか、たった一箇所だけだが廃レールも発見され(→)、確かに軌道が敷設された時期があったことを物語っていた。
先行する永冨氏のレポートに倣った“神之谷トロ道”の仮称はあるものの、正式な路線名をはじめ、誰がいつ敷設したのかなど多くの情報が分かっていないこの路線について、文献的な情報としてレポートの執筆前に把握できていたのは、導入で紹介している次の2件だけであった。いずれも再掲する。
柏木から二十分ばかり行くと、対岸に神之谷の出合を見る。左岸にトロ道が通じ小屋がある。ずっと奥まで左岸沿いに道があり、白髪岳まで三時間位で登攀できるそうだ。
『近畿の山と谷 訂補再版』(昭和16(1941)年)より
(神之谷の)集落内では、清谷神社へ行くのに昭和20年ごろまではキンマ道(木馬道)を歩いて行っていたものが、トロッコ道になり、やがて林道になってからは車で行けるようになった。出材は、キンマ(木馬)やスラ(修羅)で山から材木を出して、筏に組んだ。昭和20年頃まではキンマで出していたのが、トロ(トロッコ)になり、セン(架線)になった。キンマ道(トロ道)は、現在は通れないがミチカタ(道の形)は残っている。神之谷川と吉野川が合流するカラッタニ(地名、大迫ダムの下流300mほどのあたり)まで、神之谷川に沿ってキンマで曳いてきて、吉野川と合流するところでマクッテ(転がして)、筏に絡んだ。キンマやトロを使っていたころは、カラッタニへ木を出し、センを使うようになってからは、舞場垣内の下へ出すようになった。
『川上村民俗調査報告書 上巻』(平成20(2008)年)より
昭和20年頃(あるいは昭和16年)より以前は、神之谷川に沿って木馬道による運材が行われていた。
〃 以降、木馬道がトロ道になって、軌道運材が行われるようになった。
だが、架線運材やトラック運材が開始されると、軌道は廃止された。
以上のような大まかな経過が読み取れる。
本稿では、本レポート執筆中からるくす氏(Twitter:@lux_0)が自主的に調べを進めて報告して下さった内容と、自身の調査の成果をまとめて、本路線や神之谷周辺の運材について新たに判明した文献的な情報を紹介したい。
まず紹介したいのは、奈良県立図書情報館ITサポーターズサイトのコンテンツ「奈良の今昔写真WEB」に掲載されている古写真だ。このページには奈良県内で撮影された様々な古写真が地区ごとに収集・公開されており、県の経済に大きな影響力を有していた吉野地域での林業風景を撮影したものは、かなりの点数に及んでいる。
まずは、川上村のページを見て欲しい。
その下の方に「北村林業」という項目がある。
この名前には見覚えがある。探索中、レールを発見する直前に、林道の【路傍の看板】
で、この名前を見た。
「北村林業」関連としてまとめられている6点の写真は、いずれも昭和8(1933)年以降に同社が発行した絵葉書であるようだが、特に次に転載した2点は興味深い内容だ。

「奈良の今昔写真WEB」>川上村>北村林業 より転載
左の写真のキャプションは「森林軌道(伯母谷事業分區)」、右の写真のキャプションは「森林軌道終点及土場(伯母谷事業分區)」とあり、いずれも川上村内に存在していた森林軌道の風景を撮影している。
今回の神之谷に限らず、歴代地形図では一度も川上村の区域内に森林軌道が描かれたことはないが、かつての村内に森林軌道が存在していたことをはっきり証明する写真の内容である。
これらはいずれも北村林業が作成した絵葉書であるから、同社が開設したいわゆる民有林軌道であったと思うが、その外観は一般的な国有林森林鉄道との遜色を感じない。正直、このような立派な路線が建設されていたことに私は驚いた。
私が国有林の力が非常に強い東北地方の出身者であることからの先入観も多少はあるとは思うが、国有林という国の事業に比べれば圧倒的に零細な存在でしかない民間の林業家が、莫大な土地と投資を要する軌道の敷設を自らの事業として行うことは稀であり、その稀さを超えてさらに、これほど本格的に見える路線を所有していたことに驚いたのである。

「奈良の今昔写真WEB」>川上村>北村林業 より転載
次は、さらにインパクト抜群の運材風景が描かれている。特に左の写真には怖気が走ったほどだが、キャプションには「雑木丸太木馬搬出状況(奥入之波事業区)」とある。また右の写真は「樅(もみ)栂(つが)及雑木丸太ノ管流(奥入之波事業区)」とある。
前者は木馬運材、後者は流送(管流し)の運材風景を写したものである。
左の写真の場所、マジでやべえな……。
黒部峡谷もかくやいう垂壁の中腹を、どうやって開削したのか想像も付かない片洞門と長大木桟橋のコンボで渡っていやがるうえ、奥は隧道になっているようだ!!!
今回探索した神之谷にも、絶壁のテイストを感じさせる場面はあったが、さすがにここまで険しくはなかったし、隧道も無かった。木馬だから当然なのだが、人が桟橋をスタスタと歩いてるし…。
この片洞門の現状は不明だが、その場所を見つけさえすれば、跡形もないってことはない気がする構造だ……。桟橋の部分は無くなっているだろうが…………ひゅえっ。
……とまあ、このように脅威的な運材を、北村林業という会社は昭和8年以前の川上村内で実行していた記録があった。
ただ、本編との関わりで言えば、今見ていただいた2点(4枚)の写真は、いずれも神之谷で撮影したものではない。
該当する風景が見当らないというのもあるし、最初の2枚は「伯母谷事業分区」、あとの2枚は「奥入之波事業区」で撮影されたとキャプションにある。
【この地図】
の下の方を見て欲しいが、伯母谷(おばだに)も入之波(しおのは)も神之谷よりも吉野川の上流に位置する地名だ。おそらく前者は伯母谷峠直下の伯母谷川沿い、後者は入之波の奥に広がる吉野川源流山域の運材風景と考えられる。
したがって、川上村には神之谷川以外にも、林用軌道が存在していたことになる。
これらの跡地調査はもちろん興味深いテーマだが、本稿は神之谷に関する調べに引続き専念する。
今度は、同じ「奈良の今昔写真WEB」から、「吉野・林業の写真帖」の欄に列記されている項目のうち、「吉野山林写真帖」を見て欲しい。
この資料から、神之谷で撮された古い運材風景の写真を3点も発見できた。
現在は「神之谷」と表記される地名だが、この写真集に手書きされたキャプションではいずれも「神の谷」という一層字面の圧が強い表記がされている。
1枚目は、伐採地の斜面を男たちが肩に材木を負って下る場面が写っている。早くも超人的労働強度を見せつけられたが、明治30年代当時、後述する修羅や木馬道を造るまでもないような小規模な集材輸送において、このような人背輸送が行われていた。「肩ゲ引」というらしい。
2枚目は、修羅という方法で出材している場面である。修羅も古くから全国で伝統的に用いられた運材方法であり、斜面に丸太を組んで作った樋の中を滑走させて木材を運ぶものである。この樋の中に水を流して利用することもあった。運材が終わると修羅は回収されるので、基本的に遺構が残らない道だった。

(上記の3枚目の画像の拡大再掲)
そして3枚目の右の画像(→)が、遂に見つけた、今回探索した道を撮したに違いない1枚である!
今回探索した道は、トロ道となる以前、木馬道であったそうだが、その時代の写真だろう。
川との落差がかなり小さいので、おそらく現在は林道化している上流部で撮影されたものだと思う。
石垣の立派さが目を惹く木馬道だ。明治36年以前から、これほどの石垣を有する本格的な木馬道が、神之谷の奥深くまで作設されていたことに驚かされる。
しかも、その路上には木材を山盛りにした木馬が、まるで軌道による列車運材のように陸続と下ってきている。事業の盛大さを感じさせるし、木馬と言われなければ手押し軌道の風景と見間違いそうだ。
神之谷上流の林道沿いに広がる杉の美林は現在でも素晴らしいものがあるが、明治以前から連綿と行われてきた伐採と植林の輪廻する成果であるのだろう。
ところで、この明治36年の『吉野山林写真帖』を撮影したのは、北村太一という人物である。そして『大和百年の歩み 政経編』(昭和50年刊)によると、彼は北村林業の創業者である北村又左衛門氏の依頼で吉野の山林写真を数多く撮影したそうである。
そこから、この写真帖の被写体も、当時の北村林業の事業地だった可能性が高くなる。
このことは、現在の神之谷林道沿いに北村林業の看板が設置されていることとも整合する。
ひいては、神之谷川沿いにかつて木馬道やトロ道を作設して事業を行ったのも北村林業である蓋然性が高くなってくるように思われる。
なにせ北村林業には、昭和8年以前には近隣の伯母谷周辺で軌道運材を行っていたという写真の証拠があるのである。
「奈良の今昔写真WEB」の貴重な古写真により、軌道の事業者として、北村林業という存在に当りを付けた私は、『川上村史 通史編』(平成元(1989)年刊)を全文検索して同社に関連する記述を追ってみたところ、最盛期には村の木材生産量の3割を一手に集めた同社の壮大な足跡を知ることが出来た。
例えば……、
北村林業部(社長は北村又左衛門)は、入之波の自己所有山林(原生林)を開発するために森林軌道を敷設し、昭和15年までこの軌道によって出材事業を継続した。
『川上村史 通史編』より
北村林業が軌道運材を行っていたことは、このように村誌にもはっきりと記述があった。
入之波の自己所有林で昭和15年まで軌道運材を行ったとあるが、これが先ほど見た古写真にあった伯母谷事業分區の森林軌道だったのか、それとも奥入之波事業区の木馬道に後に軌道を敷設したものだったのかは不明だが、おそらくそのどちらかだろう。
しかも、昭和15年までとあるのも意味深で、同地での軌道運材の終息後、撤去したレールを神之谷の木馬道に敷設したとすると、いろいろと合致するのである。
なお、村誌にある軌道運材に関する記述はこれだけだが、日本林業技術協会が昭和47年に発行した『林業技術史 1 (1 地方林業編 上)』には、吉野地方の林道開発について、「大正3年に大山林所有者である北村氏が個人所有の森林軌道を所有原生林の伐採のために敷設するが、その長さは延べ3000mに及んだ。原生林の伐採が終わる昭和15年頃にはその役目を終わり、それ以後は使用していない
」とあるのを見つけた。同一の軌道を指していると思われる。
戦後初期の素材生産をになった事業体は、村内業者・村外業者・北村林業(株)に大別され、出材量に占めるそれぞれの割合は、ほぼ4割・3割・3割だった。
川上村は豊富な森林資源を持っているから、戦前から村外の素材業者による伐出事業も活発だったし、戦後も同様の事例が少なくない。(中略) 北村林業は、入之波を根拠地として労働者約50人を直傭し、業者を介することなく伐出・販売一切を直営した。これは同社独特の方式である。
『川上村史 通史編』より

『資本主義的林業経営の成立過程 吉野林業の展開と現状』より転載
戦後間もない頃が北村林業の最盛期であり、村全体の出材量の3割を、他の業者を間に入れない完全な直営によって一手に扱っていた。それだけ膨大な量の運材を自力によって行っていたことを物語っている。
入之波に本拠地を持つ同社は、明治以降、吉野地域最大の林業事業者へ成長しただけでなく、その事業は九州、四国、遠く樺太にまで拡大した。さらに、大正3(1914)年に『吉野林業概要』を出版するなど、吉野地方を全国有数の林業地域として高名たらしめた「吉野林業」のシステムを体系的に発展させた林学家としての側面もあった。
こうした一林家を遙かに超える事業規模の大きさが、稀な存在である民営による林用軌道の運用を支えたのだろう。
残念ながら神之谷川に軌道を開設したのが誰であったのかについて、直接の言及を文献から見つけることは出来なかったが、明治期から北村林業が神之谷に木馬道を開設し大々的に事業を行ったとみられることや、大正3年から昭和15年にかけて同社が近隣の入之波周辺で軌道運材を行った記録があり、そのノウハウや資材を有していたことが明らかであることなど、諸々の事情を総合的に判断して、神之谷での軌道運材を行った事業者は、北村林業であったと結論づけたい。
今回の路線にもっともらしい路線名を与えるなら、「北村林業軌道神之谷線」といったところ。
最後になるが、神之谷の軌道が廃止された時期についても。
これもはっきりとした記録は見当らないのだが、昭和41年の『資本主義的林業経営の成立過程 吉野林業の展開と現状』という文献に、川上村における各林道の開設時期をまとめた右の地図を見つけた。
現在の林道神之谷線が開設されたのは、昭和34(1959)年から昭和38(1963)年であった。
したがって、遅くともこれが完成した昭和38年の時点で、軌道は全廃されたと考えられるだろう。
正直に告白すると、最初に気軽な後追いのスキマ時間探索として現地の門をくぐったときも、同じように気軽な短編のつもりでこの執筆を始めたときも、これほど労を費やすことになるとは思わなかった。
神之谷の軌道は、既存の文献情報の少なさゆえに、一度深入りを始めると、どんな些細なことでも書き残しておきたいという衝動が強く起り、適度に切り上げることが難しかった。
そして、このようにまだ知られざる路線の多いことが、様々な林業家が群雄割拠して森へ分け入っていた吉野地方で林業の遺構を訪ねる大きな魅力であり、また魔力であると思う。
したがって当然のように、この物語にはまたいつか描かれるだろう続篇も想定される。
ほら……、聞こえないか…………、おそろしい滝の音がどこかから……。