13:33 《現在地》
Aバリから先の道には、送電線の巡視路で見られるようなプレハブ的な階段があり、一気に高度を下げることになった。
そして辿りついたのが、このいかにも廃線跡らしい平場であった。
これは、もう間違いないだろう。
ナローゲージ時代の旧線跡が、第一号隧道跡から900mばかり高崎側のこの地にも、秘かに眠っていたのである。
しかも、規模は第一号隧道附近の区間よりも壮大で、現在線との距離も離れている。
あの立て札が無ければ、確実に見逃していたと思われるだけに、これは「足で稼ぐ」ことの大切さを感じた発見だった。
ところで、旧線跡は私が階段で降り立った地点の前後両方向へ続いているようだが、前方方向で谷を跨いでいそうである。
旧線跡と現在線の間にはかなり深い谷が横たわっていて、その進路は明らかに旧線跡と交差しているように見えた。
旧線路盤から見上げる、ここへ私を連れてきた階段(歩道)と、かなり上の山腹を横切る県道の姿(わずかに白いガードレールが見える)。
メインディッシュの「上野鉄道 大谷川鉄橋」は、私が背を向けている側にありそうだが、敢えて先にこっち側(正面)を探索してみよう。
ここの旧線跡は良い具合に下草が薄く、気持ちよく探索出来そうだった。
旧線跡からは、現在線の橋が間近に見えた。
特別な感想を述べることが難しい、単径間のプレートガーダーである。
元々の地形図には全く水線が描かれていないが(《現在地》の地図には私が書き加えた)、入口の立て札に「大谷川鉄橋」とあったので、ここで現在線と旧線が跨いでいる谷の名前は、大谷川というのだろう。
この谷は部分的に下仁田町と富岡市の境にあたっていて、いま私がいる場所は富岡市、橋の対岸は下仁田町に属している。
現在線の大谷川橋梁の向こう側に見える白い川原は鏑川で、大きく蛇行しながら両岸を深く抉るこの辺りは不通(とおらず)峡と呼ばれている。
現在線、旧線ともに、難工事が容易く想像出来る地形的条件を持っている。
これが、明治30年開業という本邦有数の歴史を誇る、上野鉄道時代の路盤か。
旧線跡となって90年を経過しているが、想像以上に保存状態がいい。
それに、思いのほか幅が広いな。ナローゲージだったら複線で敷けそうだ。
この路盤に、軌間762mmという林鉄と同じ幅のせまい線路(18ポンドレール)が敷かれ、
イギリスやドイツで作られた工芸品のような蒸気機関車の牽引する貨客混合列車が、
下仁田〜高崎の僅か30kmあまりを、2時間半もかけてゆったりと走っていた。
時代の最先端と、牧歌的風趣を兼ね備えた、鉄道黎明の風景がここにあったのだ。
『上信電鉄百年史』(平成7年発行)より転載。
↑こんなにもメルヘンな風景…。
上の写真の撮影地点は出典元でも明らかでないが、地形的に見て、現在地付近と推測される。
…ということは、この左端に見える橋というのは……。
岩場を削った水平の路盤を100mほど進むと、現在線が進路を奪ってしまった。
まだ高低差が残っているが、この先に旧線跡の路盤はなさそうだ。
ここで引き返す事にした。
大谷川渡河を巡る旧線跡の始まりと終わりを、この“終点”から見渡す事が出来た。
次回、明治の遺産を訪ねる。