上信電鉄旧線 (上野鉄道) 鬼ヶ沢編 (前)

公開日 2014.5.13
探索日 2014.4.02
所在地 群馬県下仁田町


上州の広大や沃野を舞台に、明治以来の鉄路を頑なに守り続ける上信電鉄。
この鉄道が上野(こうずけ)鉄道の名で開業した当時の遺構として、第一号隧道跡を紹介したが、その近くにもうひとつ別の遺構がある。

例によって、上野鉄道時代の明治40年と、上信電気鉄道として電化・改軌後の昭和26年の地形図を比較してみる。(←)

う〜ん。

……

微妙!

鬼ヶ沢橋梁と注記した辺りの線路の位置が、本当に微妙に変化している。
川との距離が、ほんの僅かに狭まっている。
とはいえ、これは線路の付替なのか、単に地形図を作成する際のずれなのかを、判断しがたい程度の差でしかない。

白状しよう。
探索前は、一号隧道の変化は見逃さなかったが、こちらは全く気付けなかった。
では、なぜ探索する事が出来たのかといえば、それは、現地に親切な案内板があったからである。
小坂坂隧道を擁する群馬県道196号南蛇井(なんじゃい)下仁田線を、下仁田から南蛇井へ向けて自転車で走っている時に、それを発見した。





古い“険道”の路傍で見つけた、“鉄橋”の案内板



2014/4/2 13:31 《現在地》

この(右の)道が、群馬県道195号である。
こんなガッチガチの1車線区間がある、いわゆる“険道”だ。(しかし通行量は結構ある)
だが、ここはかつて下仁田へのメインルート(縣道)だった富岡街道であり、峠に待ち受ける明治生まれの小坂坂隧道など、随所に繁栄の面影を留めている。

そして私は、隧道から南蛇井へしばらく下ってきたこの場所で、写真の道標を見つけた。

“上野鉄道 大谷川鉄橋 200m 左道下”

道案内の道標でありながら、最近の観光地にありがちな過保護さ(説明書きや写真の掲示など)はない。書いてある内容に少しでも興味があるならば、自らの足で来て確かめてみろというスタンスを感じる。
良かろう。予備知識が無ければ「上野鉄道?ほかーん」となりそうな、90年も昔に消えた名前をアピールしてくるところが気に入った。予定には無かったが、行ってみよう。




クレバーな私は、その入口の様子を見て、無言で自転車を乗り捨てた。

私が案内された道は、どうやら隧道が出来る前の小坂坂峠の古道のようだ。
つまり、明治以前近世以来の富岡街道ということだ。

だが、その探索はお預け…というか、私の狙いではない。
入口の立て札にも、「左道」とあったとおり、入ってすぐに「下」へ折れる。
ここは地味に分かりづらいが、上信鉄道の線路沿いに旧線跡があるわけで、そこを目指すということを考えれば、当然「下」へ行く必要があるわけだ。

それにしても、立て札に「鉄橋」と書いてあったのが気になるな。
正確には、鉄橋“跡”だと思うけどな。さすがに、残ってないだろ。
90年も前の廃線跡の鉄橋、そのものは。




自転車を置いてきて正解だったと断言出来る、急な下り坂が始まった。
地図を見ると、線路と県道の間には30mほどの高低差があるが、
距離は非常に近いので、その分両者を隔てる斜面は急である。

なお、この急な下り坂からは、鉄道と国道とが片岸ずつ分かれて下仁田を目指す、
鏑(かぶら)川の巨大な谷を望見することが出来、これがなかなかに良い景色だった。
あの正面に見える一際に険しい岩場の下が、第一号隧道跡である。
こう書けば、鉄道がどの辺に通っているかが、大体お分かりいただけるだろう。



気持ちよく小走り気味に下って行くと、間もなくボロボロのAバリ(A型バリケード)がポツンと道を塞いでいた。
塞ぎ切れてないが、塞ぎたい気持ちは伝わってきた。
そしてその辺りの地面に、右の写真の掲示物が落ちていた。

立入禁止 見学不適
橋梁付近には危険な箇所があり、見学不適のため整備が整うまでの期間立入禁止とさせていただきます。   下仁田町


……


望むところだぜ!!




しっかりと残っていた、上野鉄道時代の路盤跡



13:33 《現在地》

Aバリから先の道には、送電線の巡視路で見られるようなプレハブ的な階段があり、一気に高度を下げることになった。
そして辿りついたのが、このいかにも廃線跡らしい平場であった。

これは、もう間違いないだろう。
ナローゲージ時代の旧線跡が、第一号隧道跡から900mばかり高崎側のこの地にも、秘かに眠っていたのである。
しかも、規模は第一号隧道附近の区間よりも壮大で、現在線との距離も離れている。
あの立て札が無ければ、確実に見逃していたと思われるだけに、これは「足で稼ぐ」ことの大切さを感じた発見だった。

ところで、旧線跡は私が階段で降り立った地点の前後両方向へ続いているようだが、前方方向で谷を跨いでいそうである。
旧線跡と現在線の間にはかなり深い谷が横たわっていて、その進路は明らかに旧線跡と交差しているように見えた。




旧線路盤から見上げる、ここへ私を連れてきた階段(歩道)と、かなり上の山腹を横切る県道の姿(わずかに白いガードレールが見える)。

メインディッシュの「上野鉄道 大谷川鉄橋」は、私が背を向けている側にありそうだが、敢えて先にこっち側(正面)を探索してみよう。

ここの旧線跡は良い具合に下草が薄く、気持ちよく探索出来そうだった。




旧線跡からは、現在線の橋が間近に見えた。
特別な感想を述べることが難しい、単径間のプレートガーダーである。

元々の地形図には全く水線が描かれていないが《現在地》の地図には私が書き加えた)、入口の立て札に「大谷川鉄橋」とあったので、ここで現在線と旧線が跨いでいる谷の名前は、大谷川というのだろう。
この谷は部分的に下仁田町と富岡市の境にあたっていて、いま私がいる場所は富岡市、橋の対岸は下仁田町に属している。

現在線の大谷川橋梁の向こう側に見える白い川原は鏑川で、大きく蛇行しながら両岸を深く抉るこの辺りは不通(とおらず)峡と呼ばれている。
現在線、旧線ともに、難工事が容易く想像出来る地形的条件を持っている。



これが、明治30年開業という本邦有数の歴史を誇る、上野鉄道時代の路盤か。

旧線跡となって90年を経過しているが、想像以上に保存状態がいい。
それに、思いのほか幅が広いな。ナローゲージだったら複線で敷けそうだ。

この路盤に、軌間762mmという林鉄と同じ幅のせまい線路(18ポンドレール)が敷かれ、
イギリスやドイツで作られた工芸品のような蒸気機関車の牽引する貨客混合列車が、
下仁田〜高崎の僅か30kmあまりを、2時間半もかけてゆったりと走っていた。

時代の最先端と、牧歌的風趣を兼ね備えた、鉄道黎明の風景がここにあったのだ。




『上信電鉄百年史』(平成7年発行)より転載。

↑こんなにもメルヘンな風景…。

上の写真の撮影地点は出典元でも明らかでないが、地形的に見て、現在地付近と推測される。

…ということは、この左端に見える橋というのは……。




岩場を削った水平の路盤を100mほど進むと、現在線が進路を奪ってしまった。
まだ高低差が残っているが、この先に旧線跡の路盤はなさそうだ。

ここで引き返す事にした。




大谷川渡河を巡る旧線跡の始まりと終わりを、この“終点”から見渡す事が出来た。


次回、明治の遺産を訪ねる。