廃線レポート 雲井林業軌道 第1回

公開日 2016.8.22
探索日 2010.6.06
所在地 青森県十和田市

十和田山中を往く深緑の軌道跡


2010/6/6 13:42

軌道跡と思われる道が始まった!

厳密に言えば、養蜂箱や小屋があった大きな広場が軌道の起点であったようだ。その裏手から始まる沢のような部分から、既に軌道跡は始まっていたのだ。国道から広場までの急坂道(右図のピンク線の部分)は、もともと自動車用の道だったのだろう。

全長7.4kmという記録がある雲井林業軌道であるが、隧道はおそらく中間付近に存在する。
隧道擬定地点までの推定ルート(右図の青破線)の長さは、約3.5km。この長い道のりで200m近い高度を稼ぎ出し、奥入瀬川と惣辺川を隔てる尾根を目指すのだ。



最序盤は、いかにも軌道跡らしい長い掘り割りで始まった。
我々のテンションも急上昇!

この写真は、掘り割りを通行するメンバーを、その外から見下ろして撮影した。
掘り割りは、あらゆる道(道路や鉄道)に存在するが、軌道跡のそれは独特な部分があり、、見馴れた者ならば大体は気づくことができる。
具体的には、一般の自動車道に比べれば幅が狭いが、徒歩道よりは広く、かつ勾配が全体に緩やかであること。
これらの条件が満たされれば、それは軌道跡の掘り割りである可能性が高い。(水路の掘り割りも特徴は同じであり、見間違いやすいが、今回は大丈夫だろう。)




等高線沿いに進み、途中には新しい空き缶なども落ちており、人が通っているようでした。

とりあえず空き缶は見つけていないが、軌道跡にはシェイキチ氏の情報通り、未だに人通りがあるようだった。
ここは地形図に全く描かれていない道であり、おそらく登山ルートでもない。いったい誰が歩いているのか不思議に思うかもしれないが、“東北人の山菜熱”という言葉だけで疑問は解決だ。
周囲は山菜が豊富そうな雑木林であり、かつ地形的にも自由に道を外れて採取出来そうな鷹揚さがある。杉の植林地ばかりの山が日本中に多い中で、ここは山菜天国だと思う。



13:49 《現在地》

途中には犬釘が付いたままの枕木が埋まっている箇所があり、軌道跡と確信しました。

広場を出発して10分、おそらく300mほどの地点で、早速その場面が現れた。

犬釘が付いた枕木!

ただし1本だけであり、しかもほとんど埋もれている。おそらく基本的には撤去されたのだと思うが、たまたま残ったようだ。



これぞ最高の森林浴!

思わずテキストまで緑色にしてしまいたくなるほど気持ち良い、森のプロムナードだ。
道は等高線にほとんど逆らわず、交互に現れる小さな沢と小さな尾根にお付き合いしつつ、極めて緩やかに上っていく。
橋を架けるような場面は全くなく、ときおり尾根の突端を少しショートカットする程度のささやかな切り通しが現れる。

はっきり言って遺構としては地味だ。この辺は、いかにもコスト最重視の民間の軌道っぽい。
しかも踏み跡のある路盤は歩きやすく、自転車も走れそうなほどだから、とても良いペースで進む。
我々は森林浴を満喫し、仲間と談笑を交わしつつ、静かさと賑やかが同居する明るい森を愉快に歩き続けた。



14:08 《現在地》

広場を出て30分が経過。
依然として光り輝くダイヤモンドのような緑の回廊が続く。この沿線に全く現れないものは、薄暗い植林地だ。広葉樹の自然林だけがある。

この探索ではGPSを使用していなかったので正確な現在地は不明だが、歩いた距離や周辺の地形、そして先ほどから車の音が聞こえていることなどから推測して、現在は起点より約1.3kmの馬門岩の尾根付近にいると思われる。
馬門岩は奥入瀬渓流を代表する岩石美の景勝地だが、国道のある河床から100m以上も高いこの辺りに岩の気配は全くない。穏やかな森があるばかりだった。

もしこの現在地の予測が正しければ、隧道擬定点までの3分の1強を進んでいる。
まだ先は長いが、全て順調だ。



ここはちょっとだけ要注意だ。
あと1m崩壊の先端が伸びてくると、道が分断されそうだ。
見下ろす谷はかなり深く、まだまだ崩れる伸びしろ(?)も大きそうである。
まあ、道が分断されたところで、まだまだ上に逃れる余地は大きいのであるが。

なお、ここでは路盤の断面を見る事が出来たが、そこに枕木が並んでいる様子はなかった。おそらくレールだけでなく、枕木も撤去済みなのだろう。
枕木と犬釘が残っていた場所は、ここまで2箇所(2本)だけだ(1箇所のみ紹介した)。

馬門岩以降の中盤は、この無名の谷を延々と回り込む行程である。だが、少しでも難所らしいのはこの場所だけで、基本的には穏やかだ。
おそらく警戒すべきは地形よりも野生動物――、熊の襲撃なのだろう。
さきほどから巨大な爪研ぎ痕のある木が散見される。今日は仲間の多さが普段よりも心強い。



14:19 《現在地》

広場から40分、この間ほとんど休みなく快調に進み、無名の谷を横断する場面に到達した。
これで隧道擬定地までの残りは、あと3分の1である。

無名の谷の横断は、橋ではなく、笹に覆われた築堤により行われた。
築堤から上流を望むと、怖ろしく澄んだ水が蓄えられた小さな泉があった。(→)
築堤により堰き止められた沢水なのだろうが、驚くほど深い。河童でも潜んでいそうだ。



隧道までの終盤3分の1も、終わりなき緑の回廊。
本当に歩きやすいうえに気持ちもよい。自転車で走っても気持ちよいと思う。
最初よりは微妙に標高は上がっているのだが、深い森は泰然としていて、少しばかりの環境の変化には動じる様子がない。
どこまで行っても緑が切れず、空を見ることもほとんどない。こういうのを樹海というのだろう。

写真は、標高522.2mの三角点から北西方向に延びる尾根を横断するところにあった切り通しだ。
この軌道跡にあるものとしては、規模の大きな切り通しである。
そしてこれをもって、長かった無名の谷を回り込む区間が終わり、いよいよ最後の――隧道擬定地のある谷へ移っていく。




14:26 《現在地》

広場からまもなく50分という地点で、不思議なものを見た。
道ばたの大木の幹に刻まれた、謎の文字である。

五十一年九月

他にも何かの文字か、あるいは熊の爪研ぎ痕のような傷がいくつか見られたが、解読不能。
木の幹の文字といえば、登山道などでは(あまりマナーの良くない)登山者が記念に名前や日付を刻んだものが散見されるが、これも単なる落書きの可能性は高い。
ただ別の可能性として期待したいのは、東北の山河を舞台に現代の始まり頃まで縦横無尽の活動をしていた熊狩りのマタギ衆。彼らもしばしば木の幹に文字を刻んで仲間の合図に用いたという。
果たしてこの文字はどのような由来を持つものなのか。「五十一年」が昭和ではなく西暦の方なら、かなり古いものになるが…。

このようなものにさえロマンを想像出来るくらいに、一帯は原始を感じさせる森なのである。




隧道擬定地点付近での、隧道捜索!


さあ、始まりだ!

隧道擬定エリア!!

昭和35(1960)年の地勢図“だけ”に描かれた軌道の隧道の推定所在地は、現在から数百メートル内外と思われる。

しかも探すための条件は整っている。
ここまで一度も見失うことなく路盤を辿って来られていることは、とても心強い。
このまま行けば間違いなく、現存する隧道の発見!! …ないしは隧道跡地の特定、そのどちらかが達成出来るはずだ――

――ったのだが、ここで突然のイレギュラーが発生!

ここに来て初めて、シェイキチ氏の情報になかったものが出現したのである。



これは、分岐…か、 たぶん……。

これまで立ち止まる場面が殆ど無いほど順調に進んできたこともあり、見過ごしそうになったが、たぶんこれは分岐している。
これまで続いてきた鮮明な踏み跡は、左の道へ。
しかし、右にも踏み跡のない道があるような気がする。

そして問題の隧道ですが、確認できませんでした(探す場所が違っている、堀割で改修した、などが考えられます)。

シェイキチ氏がこの分岐を把握しているかは分からないが、最終的に隧道を確認出来なかったと述べているのであるから、目立っている道をすんなり進んだのでは、同じ結論に至るのではないだろうか。前任者の成果を逆に利用した少しずるい方法ではあるけれど、ここはより目立たぬルート―右の道―に期待を込めたいと思う。



分岐直後の左の道から、同じく右の道を見下ろして撮影。
細田氏が立っているところが右の道だ。

このように左右の道は分岐直後からどんどん高低差を付けていく。
なぜなら、左の道がこれまでにはないほどに上るからだ。軌道跡としてはぎりぎりではないかと思えるくらいの上り方をしている。
対して、右の道はこれまでの調子をそのまま引き継いだように坦々としている。

この撮影直後、私も下の道に降り仲間と合流した。
一行四名は高まる興奮を隠すことなく、踏み跡の消えた道をばく進した。


そして――




このカーブは……

超えるべき尾根を、真っ正面に捉える方向に向いている。逃げていない。

しかも、同時に始まる掘り割り…… あ、怪しい、怪しすぎる!!

プンプン匂う隧道の気配!!

き、来たか?! これは…!



14:35 《現在地》

間違いない、ここだ!!

見つけたぞ! 地勢図の隧道。

GPSを使用していなかったのが悔やまれるが、現在地は谷のどん詰まりで、尾根のてっぺんまでは100mくらい離れていると思う。
したがって、隧道の全長は100mの倍の200m前後ではないかと思われた。20万分の1という小縮尺の地勢図に描かれるくらいだから、
それなりに長い隧道である可能性が高かったが、200mだとしたら記載されても不自然ではない。軌道用としては長い部類に入る。

…というふうに、地図から推定される全長の話を先にしたということは…



残念ながら、開口部は存在しなかったのである。
ここが坑口であった事は、状況証拠的にほぼ間違いないと思うが、残念無念、土砂に埋没していた。

写真は、我々の中で一番のパワーファイターである“ちぃ”氏が、アナグマよろしく土砂を掘って開口部を捜索している場面だが、さすがに人間の力では無理である。
少しでも洞内に通じる空洞が存在すれば、間違いなく冷気を頬に感じるはずなので、それさえないということは、相当に深く埋没してしまっていると推定できる。

シェイキチ氏がこの坑口跡の擬定地点を確認済みであるかは分からないが、いずれにせよ、西口はアウツという結論に終わった。
だが、落胆も諦めもまだ早い。早すぎる!
隧道には坑口が二つあるというのは、古今東西の常識。

これから自力で尾根を越えて、東口を新たな捜索の舞台に!
西口を見つけられた事実は、東口を捜索する上での大きな手がかりにもなるのである。



おそらく先ほど分岐した左の道を辿れば、尾根を越える事が出来るのだろう。
踏み跡の多さがいかにも、「隧道が潰れて通れなくなったから、こちらを通ります」みたいな感じがあった。

ここで一旦分岐まで戻っても良かったが、坑口跡地から直接左手の斜面をよじ登ってショートカットすることにした。
写真はその最中、斜面を登ってくる仲間を振り返って撮影したものだ。
見下ろす路盤の凹地が、とても鮮明だ。


14:41 《現在地》

案の定、少し登っていくと、見覚えがあるような踏み跡に出た。
ここを歩くのは初めてだが、さっき見送った“左の道”の続きとみて間違い有るまい。
我々はここで初めて休息らしい休息を採った。10分間休止。
広場から僅か1時間で3km近く歩けた事実が、如何に歩きやすかったかを物語っている。

ところで、“左の道”は相変わらずいいペースで上っているようだが、こちらも案外軌道跡だったりして…、旧線、もしくは新線的な…。
勾配があるといっても一線は越えていないし、なにより道幅が単なる歩道としては考えられないほど広いのである。
しかも、ここに至るまで軌道跡の広さからして、ブルドーザーや自動車が入り込んでいたとは考えにくかったりする(小型のブルやオート三輪は入れそうだが)。



そのまま道に従って上っていくと、まもなく尾根の空が見え始めた。
どうやら峠にはV字に切れ込んだ切り通しが存在するようだ。

それは予想通りで良いのだが、問題は、ここにきてラストスパートとでもいわんばかりに、
勾配がもの凄く急になってしまった! さすがにこれは軌道跡としては無理がある。

前言撤回が早すぎるが、こちらの道は軌道跡ではないと考えるべきだろう。



14:54  《現在地》

麓の広場から約3km、海抜500mを少しだけ超える峠の頂上に到達した。
もともとが平坦な感じの強い鞍部であり、仮に樹木がなかったとしても、あまり眺望に期待できる場所では無さそうだ。
しかし風の通りは道中とは段違いである。

頂上は短い切り通しであり、かつてそれなりに沢山の人や物が行き来した名残を感じさせたが、現在は地図からも完全に抹消されている。
その他の峠のシンボル的なもの、例えばお地蔵さまとか石碑とかは、見あたらなかった。
どのような人々がここを通行したのか、手掛かりになるようなものはない。軌道が開設される以前から存在した峠なのかどうかも、分からない。




一見して何の変哲もない、そして名前さえも私は知らない峠の下に、間違いなく隧道が眠っている。
立ち入る事が出来るかはまだ分からないが、隧道があったという事実は、それだけでロマンである。

ロマンがただのロマンで終わるか、それともリアル世界への干渉を見せるのか。
そのジャッジが下される瞬間は、もう遠くはないだろう。
一行の頭の中には、西口の跡地を発見した地点の空間イメージが、鮮明に残っている。
目には見えない地下の隧道がどの辺に出てくるのか。探すべき領域は既に絞られていた。




峠の切り通しを抜けて、惣辺川の流域へ。
特に山の様子に変わったところはないが、イメージで語らせてもらえば、万人の口に膾炙してきた奥入瀬川が“光”なら、その隣にある同じくらい大きな川なのに、山菜採りや渓流釣りくらいしか口にしてこなかった惣辺川は“影”である。
私がどちらを好むかは、言うまでもない。
まだ見ぬ惣辺川がどんな景色を見せてくれるのか、楽しみだった。

しかしその前に、隧道だ。

隧道の擬定地は、この左の斜面の下!
西口は峠の頂上から30mくらい低い位置にあったので、東口もきっとその高さにあるはず!

さあ、覚悟を決めて覗こうじゃないか……。





ほぅら、平場あったゼ……。




でも、なんかちょっと……近 す ぎ る 気 が 。

峠との高低差が、西口に較べて小さすぎないかな……?



細けぇことはイインダヨ!! というわけで、

道を外れ、転げるように平場を目指す私。



次の瞬間!



赤オーラをまとった細田氏が何かを絶叫!!(←聞き取れず)

なぜか平場を目指していたのは私だけで、他のメンバーは全員、
直接その“窪み”へと向かっていやがった! 勿体ぶる気ゼロだこいつら。
仕方ないので、私も絶叫の現場へと遅ればせながら向かったのであった。


そして――




あった…。

あったけれど、これは……。


(この発見こそ、目眩(めくるめ)く異常な探索の始まりだった)



悲劇! 完全に騙されていた、ヨッキれん。
2016/8/23追記

レポートを途中までお読みいただき、ありがとうございます。
ここで皆さまに重大な修正のお知らせがございます。

当レポートの既に公開した2回(導入回および第1回)で使用した、「現在地」を表示した全ての地図に、重大な誤りがありました。
正直、私もあまりの壮大な勘違いに唖然となった、その経緯を以下に説明致します。

レポート公開当日の夜、情報提供者のシェイキチ氏より新たなメールをいただきました。
2004年に一度目の探索を行ったシェイキチ氏は、私の探索の3年後の2013年10月に再訪し、その際初めてGPSを利用して正確な軌道跡の位置を記録したとのことでした。
そして、それにより明らかになった“現実の軌道跡の位置”が、例の地勢図に描かれていたルートとは、全く似ても似つかないものだったというのです。

右の地図の赤線が、シェイキチ氏のGPSログを元に私が地形図に描いた、“現実の軌道跡の位置”です。
青い破線が、地勢図の表記を元に私が予想していたルートですから、峠の位置も含めて極めて大きな誤差が認められます。


しかし、念のため確認すると、私とシェイキチ氏が探索した軌道も峠も同一のものであり、また地勢図のような別の軌道が存在したという事実もないようです。
これはあくまで、地勢図の表記が極めて“いい加減”だったというオチです。
あと、出来れば忘れたい事実ですが、もう一つ“いい加減”だったものがありますね。それは、我々一行四人の感覚……。
実際に現地を歩いてみた印象として、今考えてみると、確かに予想より妙に早く峠についたような印象はあったのですが、それもそのはずで、3kmと踏んでいた行程が実際は2kmもなかったのですから!(広場から峠までの正しい距離はおおよそ1.8kmでした。苦笑)

今さらですが言い訳をしますと、余りにも順調に路盤を辿れていたことと、そもそも地形図に描かれていない道を辿っているという前提から、道中で地形図と現地を照らし合わせて現在地を確かめることが、ほぼなかったのです。
唯一それをしたのは、出発後しばらくは聞こえなかった国道の車の音が再び聞こえるようになった時に、自分たちは馬門岩上部の尾根にいるのだろうと考えた時くらいでした。それで困ることが全くないほどに順調だったのです。幸か不幸かは分かりませんが…。

(現実の軌道跡は馬門岩の上など通っていないので、途中で国道の音が近付く体験自体が不自然なのだが、どういう訳か2013年のシェイキチ氏も、探索の途中でその体験をしたという。つまり、何らかの要因により国道から遠い地点で車の音が近くに聞こえる場所が、確かに存在するようだ。このこともまた、巧妙な騙しの手口であった…。)

というわけで、ここまでのレポート本文の内容や地図には大幅な勘違いが含まれていた事になるわけですが、地図を修正しても本文と矛盾してしまいますし、本文も修正するとなると、現地で自分たちが感じた事や考えたことを上書きするようで気持ちよくありません。
なので、次回更新以降で地図だけをしれっと正しいものにする予定です。
探索中の我々は最後まで…それどころかついさっきまで、ずっと勘違いしたままだったのですが、まあそれは「馬鹿め」と笑ってやって下さい。(私も2011年からGPSを装備してるので、もうさすがにこれほどの勘違いはしないと思いますが…)