廃線レポート 栗駒山地獄釜の硫黄鉱山軌道 机上調査編

公開日 2018.7.30
探索日 2018.6.24
所在地 岩手県一関市〜秋田県東成瀬村

(1) 探索成果の確認


今回の探索で見つけたもののうち、重要そうなものをピックアップしてみた。

  1. “地獄釜”の敷かれたままの木製(鉄板)レール
  2. “煉瓦の丘”の煉瓦群
  3. 登山道の傍にある石垣
  4. 秋田県側にある木製(鉄板)レールと思われる残骸
  5. 縦穴の周囲にある鉄レール廃材

これらのうち、ひとつでも多くの正体に決着を付けるべく、今回の机上調査に挑んだ。これもひとつの探索だ。
調査にあたって、有用な情報を多数見つけて下さったるくす氏に感謝します。



(2) 地獄釜に存在していた硫黄鉱山の記録

地獄釜には明治時代に稼働した硫黄鉱山があったということは、今回の探索以前から把握していたが、正確な稼働期間や鉱山名は判明していなかった。
『秋田県鉱山誌』や『新岩手県鉱山』といった休廃止鉱山を網羅的に紹介した資料にも目を通したが、どちらにも掲載がなかった。
未記載の原因は、鉱山として規模が小さかったからなのか、休山が早かったからなのか、おそらくその両方だろうと想像した。
木製レールなどという、とても高級とは思えないものが数少ない遺物だったこともあって、この鉱山の矮小性はほぼ間違いないと思っていたし、読者諸兄の印象もそうじゃないだろうか。一山狙いの山師の扇動によって山奥に一夜城の如く現われ、硫黄相場の変動に日和見な稼働と休山を繰り返す、泡沫的な硫黄鉱山。そのようなイメージが私の中には強かった。

だが、今回腰を据えて机上調査を進めたところ、本鉱山の規模は私が思っていたよりも遙かに巨大だったことが判明した。




(2-1) 明治期の須川温泉と硫黄山

いきなり鉱山の歴史に入るのは息が詰まりそうなので、当サイトらしく道路絡みの話から始めたい。
右図は、明治初期頃における須川温泉を中心とした道路網を示している。

巨視的には現在の道路網と変わらないが、微視的にはだいぶ位置がずれていたりもする。しかしともかく、近世には既に須川を頂上として、東北地方の二大縦線である陸羽街道(現在の国道4号)と羽州街道(現在の国道13号)を結ぶ間道が存在していた。現在の国道342号の祖先といえるこの道を、山ノ目(現在の岩手県一関市内)あたりの人は須川温泉道と、桧山(現在の秋田県東成瀬村内)あたりの人も温泉道などと呼んでいた記録がある。また、山ノ目と院内(現在の秋田県湯沢市内)を結ぶ全体を「院内道路」と称して、明治中頃に整備した記録も残っている。しかし、整備後であってもせいぜい牛馬が通れる程度の険阻な山道で、自動車が峠を越えたのは戦後のことである。

奥羽山脈を越える峠は古い時代からいくつもあり、この「須川越え」も相当に長い歴史を持っているようだが、少し異色な存在だと思う。
古くからある峠の多くは、周囲より標高の低い鞍部を狙い撃っているのが普通だ。人間が労力を厭うものであれば当然の帰着といえるが、須川は例外的に高い。周辺よりも頭ひとつ抜きん出た栗駒山の8合目にわざわざ道が付けられているのは、その秀麗な山姿に心惹かれたからではなく、温泉の存在に引っ張られているのだと思う。
古くは酢川温泉と書かれたこの山の温泉場は、平安時代の貞観15(873)年には既に記録があり、東北屈指の古湯である。古くから労働の疲れを癒す農閑期の農民や、種々の病に苦しむ人々が、湯治のために入山していたのであった。

明治25(1892)年に編まれた『須川温泉記』は、当時の須川温泉の素朴でありながらどこかユートピアめいた風景を今に伝える貴重な資料である。道路に関する記述を少し抜粋して紹介すると――本処(温泉場のこと)一関を距(さ)る十三里十五町水山(瑞山)温泉地を距る三里二十一町院内道を通行し山路を登り高所に至り該道より左に入る十二三町にして温泉場に達す――メインはこの岩手県の一関から登ってくる瑞山口ルートだったが、秋田県側にも桧山口小安口(東成瀬村と湯沢市)があり、須川温泉を結節地としてこれら3本の山道が結ばれていた。行く者の多くが温泉目的で、峠を乗り越えて行く者が少なかったせいなのだろう。須川に「峠」の名を与えた地図を見たことがない。

右図は大正2年測図の地形図だ。須川一帯を描いたこれより古い地形図は存在しないが、既に須川温泉が温泉マークと共にはっきりと描かれている。
現在の国道や県道の代わりに、温泉からは4本の道が麓へ向って延びている。うち2本は片破線の里道として描かれているが、これが明治期に整備された「院内道路」だ。自動車が通れる道が開通した今日、これらの古い歩きの道は、野に還るか、登山道の一部になっている。

図中の黄色い○のところが、今回探索した“地獄釜”だ。
鉱山の記号がありそうなものだが、ない。既に休止した後なのだろうか。

明治25年の『須川温泉記』には、硫黄鉱山のことも書かれている。

○硫黄山  常に気烟を発し散石赤黒にして錆鉄の如し手を触るれば最熱(?)し享保年中噴火して燃えし事ありき又天明三年近傍村落に灰土を雨し其の秋稔らず土人飢餓に及びし事もありき明治十二三年の頃硫黄掘採に従事せし者ありしかど一時にして休業後又工業家相継で行い今に及べり
『須川温泉記』より引用

なんでも、当時から見て150年ほど前にあたる享保年中に噴火した火口で明治12(1879)年頃から硫黄の採掘を行った者がおり、一時休止したが、他の経営者によってまた再開されたという。
この「硫黄山」というのが、今回探索した地獄釜やその周辺を指していることは、後述する他の文献により明らかになった。

次は、少し時代が下って大正2(1913)年に編まれた『須川温泉之栞 附・磐井名勝記』という、『須川温泉記』と同じ性格を持った文献を見てみると――

○硫黄山は大日岳の北剣山の北腹にあり、幾多の噴気孔を存して硫黄の堆積夥(おびただ)しく、傍に鉱業所を設けて盛んにそれを採掘し、鉄索によりて直にそれを東麓瑞山に転送す、明治四十一年休山す。
『須川温泉之栞 附・磐井名勝記』より引用

ここでは二つの重要な情報が手に入った。
硫黄山で採掘された硫黄は、鉄索(索道)によって岩手県側の瑞山に運ばれていたこと。そして、硫黄鉱山は明治41(1908)年に休山したことだ。

私は今回の現地探索において、秋田県側にも木製軌道が延びていたと判断したうえで、その終点から秋田県側に鉱石搬出用の索道が伸びていたのではないかと推測した。
しかし、この文献が語る内容は、鉱石の搬出に索道が用いられていたのは「正解」だが、索道は秋田県側ではなく岩手県側に存在したというのである。この点で私が見た遺構の解釈に「誤り」を突きつけられた。

なお、一関市厳美町の国道342号上に瑞山バス停があり、その周辺にある一関側の一番奥の集落が瑞山である。索道の終点が瑞山のどこにあったかは分からないが、須川から瑞山バス停は直線でも13km以上離れており、かなり大規模な索道施設だったと思う。

左の画像は、大正から昭和40年頃まで稼働していた群馬県の小串硫黄鉱山にある鉄索である。廃止後もほぼそのままの姿で残っている。須川にもこれと同じような風景があったのだろうか。

また、これまで判明していなかった硫黄鉱山の休止時期だが、明治41(1908)年だそうだ。
その後に一度も再開されなかったことが証明できれば、私が目にした木製軌道は明治時代の遺物だったと断定できる!
これは重要なことなので、後ほど解明を試みたい。



(2-2) 「三井剣山硫黄鉱山」の記録

平成3年に東成瀬村教育委員会が刊行した『東成瀬村郷土誌』により、これまで分からなかった本鉱山の名称が判明した。
次に引用するのは同書にある「昭和湖」の説明文だ。位置は右の地図を見て欲しい。

昭 和 湖
 昭和湖は昭和19(1944)年の火山活動によってできた火口に水が溜り長径約80m、短径約30mの南西にのびた楕円形の火口湖である。(中略)火口湖の西南にそそりたつ山は剣(つるぎ)岳でまことに険阻で人間の登山を拒んでいるようである。明治時代相当長い間三井家で剣山鉱山として、山の直下で硫黄を採掘し、一時は三井家のドル箱鉱山であった。従業員千人をこえ、須川温泉〜瑞山間に鉄索を敷設し、専用電話が通じ精錬所もあった。本村椿台、大柳からも採掘鉱夫が出たことを聞いている。明治37年頃休山したといわれるが、今その跡を訪れると露天掘りのあとが生々しく、精錬所の昔を偲ぶ煙突が当時の面影をとどめている。付近は高山植物が豊富である。温泉入口に硫黄鉱山跡の標木があって、そこを300mほど進んだ所に前記の煙突が淋しく残っている。訪問する人が少ないのは残念である。
『東成瀬村郷土誌』より引用

まず、鉱山名は剣山鉱山と判明。名前が分かったことで、その後の調べに拍車が加わった。
さらに、現地で私が目にした遺物の一つにも、正体の判明があった。


“煉瓦の丘”に散乱していた大量の煉瓦の正体は、精錬所の煙突だったのだ!

『郷土誌』の説明文と状況が合致しているし、個々の煉瓦に欠けたり割れたりしているものが目立つのも、何らかの事情(天災?故意?)によって崩壊したためだったのだろう。
私が最初に訪れたのが平成17(2005)年だから、平成3(1991)年頃まで煙突が立っていたというのは俄に信じがたい大変化だが、可能性は高いはず。近年に撮影された写真でもあれば確信できるだろうが、残念ながら未発見である。

それはそれとして、「一時は三井家のドル箱鉱山であった。従業員千人をこえ」というのは、本当だろうか。
なぜ疑うのかと思われるかも知れないが、この手の鉱山盛衰物語には「○○千軒」みたいな言葉がしばしば出てくる。従業員家屋がそれくらいあった大鉱山という一種の比喩で、1000という数字に大きな意味はないが、大鉱山であればそれに近い従業員数をイメージする。いくら近くに須川温泉という著名な温泉があり、人の往来が皆無でなかったとしても、都会からの遠さと山脈頂上という環境の厳しさを考えれば、そんな大勢が暮らす鉱山街が、一時でも周辺に存在したとは信じられないのである。

続いて昭和50〜52年に一関市が刊行した『一関市史』(全7巻)を紐解いたところ、さらに詳細な情報が得られた。以下は『第3巻』の内容だ。

三井剣山硫黄山
 酢(須)川の硫黄採掘が公式に許可されたのは明治19(1886)年5月20日で、出願者は三井鉱山合名会社、鉱区は一応2万1410坪で、25年4月には剣山鉱山出張所が開設された、30年11月19日には鉱区を更に3万余坪を増し、35年1月にはさらに3万8千余坪を出願試掘するに至った。採鉱は剣下、八幡、一ノ散、二ノ散及び温泉前の5ヶ所で行われ、いずれも露天掘であった。鉱石運搬は剣下、八幡に通ずるトロリーを以てするが、人力を以てする所もあった。鉱石も最初は搗き砕いたのを一定の型に固めた程度だったが、後には焼取精錬によって硫黄を分離成型するようになった。物資の運搬には架空索道を以て麓の瑞山と往復せしめ、原動所は瑞山に設置し、原動機として60馬力のベルトン式水車を用いた。鉄索の長さ1万4千余間支柱90余。瑞山一関間の運搬には馬車を使用した。
『一関市史 第3巻』より引用

…云々とかなりの情報量であり、他にも技術的情報を中心に色々あるが、これ以上本鉱山の詳細を述べても本稿の目的を逸脱するので、ここまでとしたい。
上記の内容で重視したいのは、なんといっても、「鉱石運搬は剣下、八幡に通ずるトロリーを以てするが、人力を以てする所もあった」というところだろう。「トロリー」というワードはいくつかの意味で使われるが、ここではトロッコと解して良いと思う。

したがって、これは初めて、そして私が把握している限りでは現状唯一、剣山硫黄鉱山の軌道について直接の言及をした内容である。
あとこの文章にたった2文字「木製」のワードがあったら、私は飛び上がって喜んだだろうが、レールの材質と軌間という、現地の実物との整合を確かめられる情報は含まれていなかった。
逆説的にいえば、木製軌道が今も現場に残っているなんて情報は、この当時でも(地中に埋もれていたために)知られていなかったと考えられる。



『一関市史 第4巻』より転載。

『一関市史 第4巻』に掲載されていたこの「硫黄山と鉱山跡」と題された写真は、鉱山の規模の大きさを実感させた。

いつ撮影されたものかが書かれていないが、おそらく昭和であろう。市史の刊行時期を考えれば、昭和50年頃かもしれない。
撮影者がどこから撮影したのかも未解明で、そのため現状との比較写真を掲載できないのが恨めしいが、中央左に鮮明に写る煙突の突出した高さは明らかに弱小鉱山のそれではない。
この煙突がある場所が、現在の“煉瓦の丘”なのだろう。
煙突の周辺に広がる白っぽいエリアの中にも、自然地形ではなさそうな場所がいくつも見える。
現地で私がイメージしたよりも遙かに広い範囲に鉱山の区域は広がっていたらしい。

なお、同書は明治35(1902)年の『県内重要鉱山一覧表』を引用して、当時の三井剣山硫黄鉱山が、和賀仙人鉄山、釜石上郷鉄山を抑えて、釜石甲子鉄山に次ぐ県下第2位の採掘高(金額)を誇っていたとも記していた。マジで大鉱山じゃねーか!!


このあと調子づいてさらに調査を進めていくと、明治36(1903)年9月に農商務省地質調査所が発行した『地質要報 第三号』に、16ページにもわたって本鉱山が詳述されていることが判明した。次はこれを見ていこう。

二、沿革及産額
 本山ハ(略)明治29年鉄索ノ架設セラレシヨリ設備ヲ完クシ蒸気製錬ニヨリ産額増大シ日本第一等ノ硫黄山トナレリ(以下略)
『地質要報 第三号』より引用

ここに来て、弱小零細鉱山のイメージを払拭しただけでは飽き足らず、なんと私が知らぬ間に「日本第一等の硫黄山」を相手取っていたことが判明してしまった(笑)。 道理で、現地でも計りかねることばかりだったわけである。(←言い訳)

『地質要報』は鉱山技術者向けに書かれたものであり、相当部分は私にとって過剰に詳細だった。どこを引用しても長くなってしまいそうなので大雑把に成果を引っ張ってくると、まずこれ――


『地質要報 第三号』より転載。

詳細な鉱山内の地形図(縮尺2万分の1)を発見!

この地を描いた通常の地形図は大正2年に測図された5万図が最初だから、明治35年以前に書かれた2万図は極めて貴重。
原図はかなり縦に長く、それだけ鉱区が広がっていたことを示しているのだが、今回の探索と関係ない北部を削って南部だけを表示した。

「八幡山」の注記の近くに大きなすり鉢状の地形が描かれているが、今日“地獄釜”と呼ばれている木製レールの出土地点はここだ。
その南に「剣山下」があるが、八幡山と剣山下が本鉱山の2大採鉱場だったらしい。

前掲した『一関市史』に、八幡山と剣山下に通ずるトロッコがあったと書かれていたが、図中にもこれらの採鉱場と「製錬所」や「倉庫」を結ぶ実線が描かれている。図に凡例が付いていないので、実線が道路なのか軌道なのかは分からないが、私が現地で推定した木製軌道のルートと重なる部分が大きいのは、たぶん偶然ではなかろう。

【石垣】から伸びる秋田県の軌道跡(推定)も、それと近い位置に実線が描かれている。そしてそれは「旗鉾沢」に落ち込むようにして終わっている。
本文にもこのことに関する記述はないが、【旗鉾沢一帯】がズリ捨て場だったと考えると、妙に白茶けた斜面が広がっている現状と辻褄が合う気がする。

図中の「製錬所」の位置は、“煉瓦の丘”にかなり近い。煙突もここにあったと見て良いだろう。
「事務所」や「倉庫」や「鉄索」の盤台は、現在は登山道が通っているだけの【この平地】にあったようだが、目立つ遺構は残っていない。もしかしたら、つぶさに探せば何かあるかもしれないが。

この詳細な地形図の発見により、鉱山施設の配置を含む実態がより明らかになった。
しかし、一説には1000人を超えたという従業員が暮らした鉱山街のような場所が見当たらない。
やはりそこまでの従業員数はなかったのかもしれないが、それでも居住地が全く描かれていないのは不思議だ。とても麓から通えるような立地じゃないし。


右の2枚の写真は、「剣山下」の景色である。(今回の探索中に訪れたが本編では省略した)
ひときわ激しくそそり立っているのが剣山で、その根元に地獄釜を上回る規模の不毛地が広がっている。
『地質要報』によると、ここが三井剣山鉱山として最初に開発された採鉱場だったとのこと。
登山道がここを横断しているが、温泉成分で白く濁った旗鉾沢の源流に沿って、空積みの低い石垣が50mほど連なっていた。
ただの登山道にしては上等な造りだと思ったが、これも鉱山時代の遺物だったらしい。木製軌道だった可能性も大である。



『地質要報 第三号』より転載。

そしてもう一つ、『地質要報』から紹介したいのが、これ――

「八幡硫黄採鉱場」と題された絵図だ。

左の写真が、現在の同じ場所。
いまここは地獄釜と呼ばれているが、そんな不吉な場所で働きたくない従業員心理を解してか、当時は神仏の加護でもありそうな「八幡」と呼ばれていた。
この八幡採鉱場は、明治32年に本格的な採掘が開始され、『地質要報』が調べられた明治36年当時、最盛期を迎えていたという。
ここは享保年中に噴火した爆裂火口跡で、採鉱開始当初は分厚い灰砂で覆われていたらしいが、火口全体を10余尺(3m以上)も掘り下げて、ようやく硫黄の層が露出したとのこと。


つまり、私が自然の噴火口そのものだと思っていたこの地獄釜の景色は、明治時代の大規模な露天掘りによって旧来の火口が掘り下げられた、半分人造のものだったということになる。硫黄鉱山としての規模の大きさが理解できよう。だから、こんなあからさまな噴火口と火口湖を取り合わせた美景なのに、あまり観光地として案内されていないのだろうか。それは考えすぎか?

そして、この巨大な地獄釜全体を3m以上も掘り下げたことで発生した膨大な残土と、採掘した原石中の硫黄含有量が約3割だったというから、残り7割分の残土(ズリ)は、今回現存が確かめられた木製トロッコによって運ばれ、400m離れた旗鉾沢に捨てられたのだと考えられる。


自然地形としては妙に不自然なほど、緑と灰色の地面が綺麗に線引きされている、旗鉾沢のこのような景色は、この斜面の縁からズリを捨てていたという仮設を裏付けていると思う。
この辺りにたくさんある木造物の残骸も、ズリを高い位置から捨てるために作られた桟橋だったかも知れない。



右図は、ここまでの机上調査結果を踏まえて描いた、三井剣山硫黄鉱山内における鉱山軌道の全体像推定図だ。

剣山下と八幡から採鉱された原石は、まず製錬所に運ばれて製錬。精製された硫黄は一旦倉庫に貯留されたのち、索道で瑞山に搬出され出荷。ズリは旗鉾沢に運ばれて捨てられた。
なお、剣山下と製錬所の間は、道がかなりの急坂になっている個所があり、そこは通常の軌道輸送が不可能そうだ。インクラインや小規模索道、あるいは重力輸送(ようは斜面から落とす逆落とし)であったかもしれない。
このように鉱山内に張り巡らされた軌道の総延長は、1kmを超えていたと推定している。



以上見てきたとおり、明治期35年頃は全国屈指の生産高を誇った三井剣山硫黄鉱山であったが、衰退は思いのほかに早かった。
資料によって異なるが、明治37年か遅くとも41年には休山したとされている。
最大の原因は単純な資源の枯渇と鉱脈の深部化に伴う採掘費用の増大にあったようだ。
明治36年の『地質要報』は、「結論」の中で、「新方面ヲ開クニ非ザレハ大事業トシテ本山ハ当ニ一両年ヲ出ズシテ休止シ事業ノ大縮小ヲ来スベキヤ明カナリ」と、先行きに極めて悲観的な見通しを述べている。
休山のもうひとつの理由として、大正以降は三井家による硫黄鉱山経営が北海道に重点を移したこと(のちに三井家は硫黄鉱山から手を引き、有名な三池炭鉱などの炭鉱経営に専念する)も挙げられよう。



(2-3) 硫黄山のその後

三井剣山鉱山が休山したのち、この地に再起した鉱山があったかどうかは、私にとって重大な問題だ。
もしなければ、地中から出土した木製軌道の正体を、剣山鉱山に絞り込むことができるからだ。

そしてこの問題については、厳密に捜索する手段はある。
岩手県や秋田県に対して鉱業権者が申請した届出を確かめることである。こうした資料は公文書として残されているはず。
しかしそれはあまりに大変な作業であるから、私もそこまではしていない。これについても例によって市町村史などの文献に頼った。

『一関市史』によると、瑞山と須川の中間あたりの横根山周辺で、大正時代から戦前にかけて横根金山が稼働していたようだ。
剣山鉱山の鉄索を譲り受けて物資輸送に用いていたともいわれる。
長谷川末尾氏の著書『汽車が好き、山は友だち』(草思社/1992年)に、彼が昭和14年に瑞山から須川へ登った際のレポートがあるが、そこに索道や鉱山街が登場している。(著者の実子であられる長谷川好文氏のブログ『旅と山登りと買い出しと』で、この草稿と原稿の両方を読むことができる。余談だが、長谷川好文氏は、以前のこのレポートに登場した「もっきりや」のご主人である)
しかし、横根金山は須川からは遠く、地獄釜に木製レールを敷設する理由はないだろう。

また、いくつかの資料によって、須川温泉の西1kmほどに位置する須川湖周辺に、昭和初期から戦時中にかけて褐鉄鉱の鉱山があったことも明らかになった。
この鉱山を経営していたのは宍戸鉱業という会社で、東成瀬村の仁郷から須川湖(当時は朱沼と呼ばれていた)周辺の採鉱場まで、トラックの通れる道路を開削している。これが現在の国道342号の秋田県側区間の前身になった。
この褐鉄鉱山に鉱山軌道が使われていたかは不明だが、今回の探索で縦穴を囲むのに使われていた廃レールの出所としては可能性があると思っている。
しかし、地獄釜の木製軌道とは無関係だろう。

昭和11(1936)年に須川公園期成同盟会がまとめた『須川公園計画ノ概要』や、昭和14年に須川を訪れた前出『汽車が好き、山は友だち』の記述、さらに昭和37(1962)年頃からしばしば栗駒山の観光情報を取り上げた秋田県の広報誌『あきた』のバックナンバーを通覧してみても、硫黄鉱山が再開していた様子は見て取れない。
全国的に硫黄鉱山には硫黄の価格を背景とした興廃の波があり、天然硫黄が“黄色いダイヤ”と呼ばれて高騰を見せた朝鮮戦争のような場面で、ごく短期間に稼働が再開されたようなことがなかったかと問われると、悪魔の証明にも近く「絶対ない」とは言いきれないが、私の机上調査の結論としては、大正以降の再興はなかったと判断する。

イコール↓↓

木製軌道は明治時代の遺構である!

……と、判断する。


(3) 木製レールの希少性について

前章の結論として、地獄釜の木製レールは明治時代の遺物であるとしたが、最後に少し視野を広くとって、全国的全時代的なスケールで見た時に木製レールがどの程度「ありふれていない」ものだったかについて、考察を試みたい。

まず、木製レールを使用したという記録は、国内に限っても、各地で見つけることができる。
本邦最古の鉄道とされる明治2(1869)年の茅沼炭鉱鉄道(北海道)は軌間1050mmの鉄板レールを用いたというし、森林鉄道の最古といわれる明治29年頃に丹沢山(神奈川県)で稼働した民営の林用軌道も木製レールだったという。

左図は、地獄釜の軌道と茅沼炭鉱軌道のサイズを模式図に再現して比較した。
各部分のサイズは、前者については私の実測値、後者についてはウィキペディアの記述による。
ひとことで「木製軌道」といっても、一様ではない姿を持っていたことが分かると思う。


『全国鉱山鉄道』より転載。

茅沼炭鉱軌道や初期の森林鉄道での木レールの採用は、鉄レールの入手が困難だった鉄道黎明期ゆえの特殊事情によるかもしれないが、比較的近年でも木レールの使用例を見つけることは可能だ。
小規模な銅鉱山であった明賀鉱山(愛媛県)に関して昭和32(1957)年にまとめられた資料(pdf)に、「運搬は切羽においては箱そりを使用し、漏斗までは木レール使用の手押鉱車による」と、坑内輸送に木製軌道を用いたことが出ている。
もっと新しい例では、岡本憲之氏の『全国鉱山鉄道』(JTBキャンブックス/2001年)に紹介されている、静岡県の小規模な金・亜鉛鉱山である加増野(かぞの)鉱山は、昭和52年から1年足らずの短い操業に終わったが、木材に鉄板を貼り付けた右写真のような鉄板レールを用いていたそうだ。
カーブ部分の雑な作りよ!!(苦笑) 脱線しないのか〜?

そして、木製レールの所在地をいろいろと追いかけていくと、やはり目立つのが、硫黄鉱山の姿だった。

栗駒山と同じ奥羽山脈に属する八幡平周辺にも、有名な松尾鉱山をはじめとする多くの硫黄鉱山が稼行したが、そのひとつに石假戸(いしげど)硫黄鉱山があった。
明治26(1893)年に農商務省地質調査所がまとめた『秋田圖幅地質説明書』は、同鉱山の鉱石輸送について、「製錬所は(中略)石假戸ヲ距ル一里半余其間木道ノ設アリテ運搬ニ供ス又製錬所ヨリ陸中鹿角郡花輪ニ至ルノ途上凡三里半ハ亦木道ヲ設ケテ運搬ニ供スルモ其余ハ牛馬ニ頼リテ花輪ニ達シ花輪ヨリハ舟便ニ頼リ能代ニ輸送ス」と述べているように、合わせて5里(20km)もの木道(=木製レール軌道)が敷設されていたとしている。
他に、栗駒山に近い川原毛硫黄鉱山(現在は川原毛地獄という有名な観光地になっている)でも鉱石輸送に木道が用いられていたという。
剣山鉱山を上回る規模の木製軌道が、全国各地の硫黄鉱山に存在していた可能性がある。
しかし、現存が発見されたという話は、今のところ他には把握していない。

このように、硫黄鉱山が木製軌道をしばしば用いたことには、複数の原因があったと思う。
そのひとつは、輸送距離とコストの問題だ。
火山生成物を採取するという硫黄鉱山の性格上、他のあらゆる種類の鉱山の中でも高所僻地に所在する場合が多かった。そのような場所に予め大量輸送手段が用意されている可能性は低く、鉱業者自らが自前で索道や軌道を作設する必要があったが、硫黄鉱山は鉄山や銅山に比べて一般に経営規模が小さく零細であったから、鉄レールのような高額な設備投資には不利があった。加えて硫黄は比較的に重量が小さいので、さほど頑丈ではない木道でも輸送が可能であったとも考えられる。


『阿寒硫黄鉱山に関するノート』より転載。

『阿寒硫黄鉱山に関するノート』より転載。

そしてもうひとつ、化学的な理由が考えられる。
鉱山技師青山祐一氏の証言を綴った『阿寒硫黄鉱山に関するノート』(pdf)には、昭和30年頃の阿寒硫黄鉱山(北海道)内での鉱石輸送について、「鉱車の軌道は初め6kgレールを使用していた。しかし硫気でレール腹部がやられるため、後に9kgに変わった、角材で代用したこともある。木材は亜硫酸ガスに強いという証言が出てくる。
なるほどと思わせるものがある。

右に掲載した2枚の写真は、この阿寒硫黄鉱山の光景だ。
昭和30年代だというが、明治の剣山鉱山とどれほどの違いがあっただろう。
これらの写真に写っている妙にひょろひょろとしたレールが鉄なのか木なのかはちょっと判断できないが、どちらであったとしても、地獄釜を100年巻き戻したら、このような景色が現われると思える。
これには凄く興奮した。


ここで1件、剣山鉱山の木製レールについて、匿名の読者さまよりいただいた新情報を紹介しよう。
内容について文献の裏付けはとれていないが、木製レールが用いられていた理由付けとしてあり得る説だと思う。情報ありがとうございます。

この鉱山は三井財閥系となる以前(?)に採掘していた場所だそうです。
当時は全国的な建設ラッシュだったそうで、レール資材の調達が難しく、鉄のレールが調達出来なかったそうです。なので、株主の了承を得た上で(うろ覚え)、ひとまず木道を敷設し、調達次第鉄のレールへ置き換える予定としたそうです。そのためなのか、木道の割には枕木が立派です。結局、交換される前にこの採掘場は閉鎖(又は解散)されたようです。



この黄色い石の輝きが、毒ガスくすぶる地獄釜に三井を誘い、文明の一夜城を築かせた。

彼らが去った後は、ふたたび長い秘境の時を過ごし、そのイメージが現代の栗駒山を支配した。

残されたレールは、厚い灰砂に隠れて、永遠に忘れられるはずのものだったのかもしれない。

しかし、なぜか今になって出て来た。そして発見された。

そこに何かの意図があるとしたら、それはひとつしか考えられない。

みんなに見て欲しいから、出て来たんだぞ。