廃線レポート 祖谷川三縄堰堤軌道(仮称) 第1回

公開日 2026.04.08
探索日 2026.03.16
所在地 徳島県三好市


今回紹介するのは、古い地形図に描かれていた一本の軌道跡だ。

場所は、徳島県三好市。

これだと断言出来るような正式名称が見つかっていない軌道跡なので、表題のような仮称を付けているが、この名前の通り、祖谷(いや)川沿いにある軌道だ。
祖谷といえば、即座に“かずら橋”を連想する人は少なくないと思う。
四国の観光地としては有数の知名度を誇り、国の重要有形民俗文化財にも指定されている“祖谷のかずら橋”が架かっているのがこの川だが、今回の探索地はそれよりはずっと下流で、吉野川との合流地点の近くである。

右図は、吉野川と祖谷川の位置関係を示したものだ。
四国第一の大河にして、四国最高峰の石鎚山を源流に持つ吉野川(流長約200km)に対して、その最大の右支流であるのが、祖谷川(流長約60km)だ。
祖谷川は四国第二の高峰たる剣山を源流に持ち、流域に全くといっていいほど平地を持たない四国屈指の大峡谷河川であることから、吉野川と共に古くから水力発電の適地として開発されてきた歴史がある。四国電力が所有する水力発電所の配置図を見れば、吉野川や祖谷川にある発電所がいかに多いか分かると思う。

今回紹介する軌道は、祖谷川における最古の水力発電用ダムとなった三縄(みなわ)堰堤(三縄ダム)と深い関係を持っていた。
さっそく、私が探索をするきっかけとなった、“古い地形図”に描かれた軌道の姿を、見ていただくことにしよう。


右図は、昭和8(1933)年版の地形図と、最新の地理院地図の比較である。
祖谷川と吉野川が合流する三好市池田町大利(おおり)周辺の図であるが、昭和8年版の赤線でハイライトした部分に、祖谷川の左岸に沿った軌道が描かれている。

どちらが起点で終点かは不明だが、下流側にある「三縄発電所」(発電所の記号がある場所)と、上流側の「三縄堰堤」(“閘(こう)”という水門を表す記号がある)を結ぶ軌道で、太い府県道として描かれた「祖谷街道」の対岸にある。

描かれている全長は2.5〜3kmほどで、さほど長い路線ではないし、支線なども見当たらない1本道であるうえ、これといった構造物(橋やトンネル)も描かれていない、地味な感じがする路線だ。

しかし、色々な探索候補があるなかで、敢えてこの地味そうな路線を探索してみようと思った理由は、最新の地理院地図に跡地らしい道が全く描かれていないうえ、探索された記録も見つけられなかったからだ。
そればかりか、誰がどのような目的で、いつ敷設した軌道であるとか、名称といった基本的な素性についても最初は全く情報がなく、ぜひ調べてみたいと思ったのである。


とはいえ、現地へ赴く前に、せめて路線名くらいは知りたいと思い、机上調査を行った。
が、路線名の分からない状態で、検索して文献を見つけるのは簡単なことではなく、難航した。
最初は、いわゆる森林鉄道だろうという予測から、全国的な路線リストが公開されている国有林森林鉄道を調べたが、該当しそうな路線がないことが分かった。

正体を掴む突破口になったのは、堰堤と発電所を結んでいるという、この軌道のやや珍しい特徴である。
そこから発電所関係の軌道ではないかと当たりを付け、キーワードを変えて調べると、平成の合併まで祖谷川流域に存在した西祖谷山村の村誌(『西祖谷山村史』)に、次の記述を見つけることが出来たのだ。

発電所の建設によって古来行われていた祖谷川の流材は運送が困難となったため、三縄発電所の建設を機として三縄村出合に設置した堰堤から下流の祖谷川左岸に木材を輸送する軌道を敷設して三縄発電所の放水路から到らしめ、ここからまた祖谷川によって運材することになった。
そしてその輸送には、祖谷川運輸株式会社が当たることとなり、株主として当該電力会社はもとより民間株主坂本正五郎・田中正一等がこれに当たることとなった。

『西祖谷山村史』より

この記述を見つけるまでは、発電所の工事用軌道を予想していたが、実態は異なり、堰堤建設によって不可能となる木材流送の補償を目的に電力会社が敷設した軌道で、祖谷川運輸株式会社という民間企業が運行に当たったらしい。

このような正体には、少なからず既視感があった。
規模はここより遙かに大きいが、あの千頭森林鉄道も、これと同様の目的で整備された軌道に由来する(あちらは工事用軌道でもあったが)。

三縄堰堤の建設が、軌道開設の主因であったことが判明したが、そもそも三縄堰堤がいつ完成したかといえば、大正元(1912)年である。
三縄堰堤は、“日本の水力発電の父”こと福澤桃介率いる四国水力電気(四国電力の前身の一つ)が、三縄発電所への導水を目的に建設したダムで、吉野川水系ではおそらく最初の発電用ダムだった。
軌道の完成も堰堤や発電所の完成と同時であったとすると、大正元年の開設ということになり、これは思いのほかに古い。

一方、軌道が廃止された年次については、今のところ明確な記録を見つけることが出来ていないが、昭和34(1959)年に新三縄ダム(現在ある三縄ダム)が旧三縄堰堤の70m下流に完成したことで、旧ダムは取り壊され水没している。
したがって、これと密接な関係にあった軌道も、この時点までには廃止されたと考えている。

なお歴代の地形図だと、昭和28(1953)年版までは軌道が描かれていたが、昭和32(1957)年版で消えていることを確認済みだ。

事前の机上調査は、おおむね以上である。




今回探索の軌道は、四国における水力発電の黎明期に活躍したものであるらしいが、前述の通り、最新の地理院地図には痕跡らしいものが全く描かれておらず、探索された記録も見当たらなかった。
規模という面ではあまり期待を持てないと理解しつつも、現状不明の軌道跡を探索するという私の大好きなシチュエーションに合致することから、大いに勇んで現地へと向かったのであった。

未知の軌道跡の実態や、いかに。



本編スタート!


 祖谷川の潜在的な水位の高さに恐れおののく、スタート


2026/3/16 9:54 

探索開始だ。

いま私は、上図の「現在地」の位置(三好市池田町大利込)にいる。
ここからまずは祖谷川に架かる橋を渡って、対岸の川崎地区へ行く。
旧地形図に描かれていた軌道の下流側末端は、この川崎地区の祖谷川べりであったから、そこを目指そうと思う。
たぶん集落の近くだろう。

なお、既に車(エクストレイル)のデポは済んでおり、軌道の上流側末端であった三縄ダム附近の県道上に置いてきている。
したがってそこがこの探索の目的地(ゴール)となる算段だ。
もし一切の迂回なく最短距離で軌道跡を踏破出来るのであれば、3.5kmくらいで到達出来ると思う。



そしてこれが「現在地」の風景だ。

中央に見える大きな赤い橋が川崎橋だ。対岸に川崎集落が見えている。
この架橋地点は、祖谷川と吉野川の合流地点から400mしか離れておらず、その合流地点の直上に架かる祖谷口橋が昭和48(1973)年に架かるまで、大正15(1926)年に初めて架設された川崎橋は、長らく祖谷川最下流の橋であった。
もっとも、今ある橋は代替わりしており、昭和45(1970)年完成の橋である。



全長118mという立派な長さに対し、幅がわずか3mしかない橋の上から、軌道が描かれていた上流の様子を観察する。



いきなりズームレンズで数百メートル先を撮影したので、橋の近くにある広い河原は完全にフレームアウトしているが、この写真の辺りから既に岨谷峡と総称される、祖谷川らしい峡谷風景が始まっている。
一般に観光の対象とされる祖谷峡は、今回探索する軌道の上端である三縄ダムや、その先にある出合集落よりも上流を指すと思うが、地形的にはここから……すなわち祖谷川の合流地点のそばから始まっているとみても間違いではあるまい。

とりあえず、橋の上から見た限りでは、軌道跡らしいものは見当たらなかった。
この見えている場所に実際に立って探してみることにしよう。
このズーム写真ではフレームアウトしてしまっている手前側数百メートルの範囲に、川岸に対する理想的なアプローチ地点がある。まずはそこを目指す。



祖谷川と吉野川に挟まれた岬のような地形に立地している、川崎集落の様子。
幹線道路からは外れた場所にあるが、傾斜地に人家が相当密集しており、賑わいを感じる。
集落内の道がことごとく狭い上、入り組んでいて、かつ交通量も意外にあるので、車で入る場合は困ったところで対向車が来ないことを祈りたい。

そして、私のように初訪問で集落内に探し物がある場合は、まずは(私のように)自転車や徒歩で偵察してからの方が無難だろう。



10:01 《現在地》

集落内をウロキョロしながらひとしきり走って、この場所へ。
地形図には描かれていないが、ここから河原へ降りられる車道が分岐している。
Googleマップによると、国交省が整備した川崎床固工という施設がこの先にあり、公園としても利用されているようだ。
前述した、「川岸に対する理想的なアプローチ地点がある」とは、ここのことである。

左折する。



10:03

下って行くと、その先にはコンクリートでガチガチに固められた、広大かつ、巨大な高低差を持った、壮大な護岸が待ち受けていた。
この施設は川崎床固工を名乗っているが、一般に床固工とは川底を横断するように設けられた護岸ならぬ“護底”のための構造物で、これにより河床の洗掘を防ごうとするものだ。
しかし、この場所で実際に目立っている構造物は、川崎集落のある左岸側の川岸を水流から30m近い高さまでガチガチに守るコンクリートの護岸である。その巨大な護岸の随所に階段やベンチなどが設けられていて、平時は親水公園として機能するようになっている。それが川崎床固工の実態であった。

チェンジ後の画像は、広大な護岸の上流に望遠レンズで除いた祖谷川の様子。
先ほど川崎橋の上から望遠で覗いた同じ辺りが見えており、やはり軌道跡らしいものは見当たらない。
引き続き、あの辺りを目指して進んでいく。



10:08 《現在地》

護岸の下から見上げた川崎集落の様子。
茶色のガードレールが見えているところが、1枚前の写真の撮影現場で、車道の終点である。
私もそこに自転車を停めて、徒歩に切り替えて、階段を降りてきたところだ。

この時点で人家の下から20m以上は護岸であるコンクリート擁壁の落差を下っているが、これでもまだ水辺ではなく、チェンジ後の画像のように、まだこの下にも護岸の落差が10mほどあるのが凄まじい。
この一連の護岸の高さ(約30m)こそが、河川管理者が想定している洪水時の最大水位を物語っているのだろう。
過去の洪水における祖谷川の最大水位については、記録が乏しく明確な数字を見つけられなかったが、このすぐ下流で合流している吉野川本流の大歩危(おおぼけ)では、昭和43(1968)年に23.58mという最高水位が記録されており、祖谷川についても同程度の最大水位が想定されているのだろう。

そしてこのことは、今の私にとって、単に「洪水すげー」で終わる話ではない。
私が今恐れているのは、このような護岸を必要とするほどの洪水が、過去にどれくらいの頻度で起こっていて、またそのような洪水が、祖谷川の川縁にあった軌道跡を、どれほど荒廃させてしまったかということだ。

最悪の想定は、遺構が一切何も残っていないということだろう。
そしてそのために、探索を試みた誰もが空振りを喫し、それゆえに探索記録がないのだという可能性だ。
仮に、私が今からそんな目に遭ったとしたら、たぶんレポートは没にするし、本当にありそうな説に思え……、
この護岸の異常な高さが、私は怖かった。



10:12

護岸の上流端から、本来の河床へと降り立った。

……が、これは正直、理想的な展開とは言えなかった。
確かに私はここを目指すように行動してきたが、本当の目的は、ここに至る過程で軌道跡を発見し、それを辿るようにシフトすることだった。
軌道跡を見つけられないまま、河床まで降りてきてしまったことは、理想的ではないのである。

とはいえ、見つからなかったのには理由があるのだろう。
つまりは、まだ軌道跡がある位置まで達していないか、あるいは…、
30mの高さの護岸を必要とするほどの大洪水で、跡形もなく失われてしまっているのか……。



10:17 

護岸を離れて5分ほど上流で河床を歩いてきた。
遠目には歩きやすそうに見えた乾いた河原だが、実際は至るところに自動車ほどの大岩が散らばる“巨石河原”で、起伏が激しく、体力と時間を消耗させられた。
少し進むたび、近い川岸を見上げて路盤らしいものが見えないか探したが、未だ成果なし。

そうしているうちに、遂に前方には山のような……というか地山そのものである、白亜の岩壁がそそり立ってきたのである。
水面も迫っており、これを乗り越えなければ上流には進めない情勢だが、これを本当に進んでいってもよいものか……。
このまま軌道跡が見つからなければ、ここまでも、これからも、全てが徒労に終わる恐れが……。

チェンジ後の画像は、同じ場面で振り返って撮影した。
先ほどまで私がいた“高すぎる護岸”が、離れて見える。
護岸が尽きてからここまで200mくらいだが、この間一切、人工物を見つけられていないのは、大変良くない展開だ…。



ここで一旦足を停め、地図を見て、現在地を確認した。
そして現状を整理する。

私は、旧地形図に描かれていた軌道の位置や、『西祖谷山村史』にあった「堰堤から下流の祖谷川左岸に木材を輸送する軌道を敷設して三縄発電所の放水路から到らしめ」という文章から、軌道の終点を「三縄発電所の対岸附近」と想定して行動している。
上の地図に示した点線が、軌道跡の予想位置である。

軌道跡の下流側末端は、川崎床固工の護岸に呑み込まれていると考えたので、護岸が尽きる上流へと歩いてきたわけだが、これまでのところ、地図上に「黒い破線」で示した部分は全くの空振りであった。
この範囲にはそもそも軌道がなかったか、過去の洪水で岸ごと完全に破壊されてしまったか、そのどちらかであろう。

引き続き上流へ進むことで、軌道跡を発見できる可能性はあるが……



先へ進むためには、この岩肌を攀じ登らねばならない。

これだけなら登れはするだろうが、こんなことを何キロも続けるのは無理があるし、軌道跡が見つからなければ探索として不毛過ぎるという恐れが、私の足を引き留めにかかっていた。


……どうしようね。




10:19

登ってはみた。

これを最後に……、といった心持ちで。

登ってみたが、案の定、そこから見える範囲に軌道跡らしいものは見えず、そればかりか、この上流には、道に頼らず川岸を辿ることが自殺行為と思えるような、切り立った岸があった。
もし進むにしても、この高さを進むことは明らかに無謀であろう。

ただ、この先の川岸が全くの人跡未踏の地でないことも、見た目に明らかだった。
少し遠くの山肌には、岸に近い高さから山の上まで、青々とした植林の杉林が広がっている。
当然、人が出入りして管理をしているはずである。
道はあるのだ。 なんらかの道は……。




10:24 

決断。

私が最後に攀じ登った川縁の大岩から、そのまま地続きの尾根を直登しはじめた。

目的は、捜索エリアの河岸替えだ。
これまでは、川底から見上げて見つけられるくらいの低い高度を軌道が通っていたという想定で捜索をしていたが(旧地形図も低めの位置に軌道を描いていたし)、この想定が間違っていた可能性に賭けて、川岸から離れた高高度の山林内を捜索してみようということだ。

が、おそらく過去誰も歩いたことがなさそうな、密生した雑木林の急な尾根を攀じ登るのは、身体に堪えた。
ここまで成果が全く上がっていないうえ、成果の目途も立っていないので、心も疲れた。
ただ一応、“どこ”まで登ろうという宛てはあった。
そこを目指して、汗をかいた。



10:30 《現在地》

河床から、強引に落差50mほど攀じ登ったところに、明確な(思った以上に明確!)な道があった。
これが、登り着こうとしていた“宛て”である。
最新の地図だと徒歩道として表現されている道だったが、一応車道であるらしく、古びたコンクリート舗装があり、道幅も軽トラなら通れそう。
軌道が描かれていた旧地形図にも「小径(=徒歩道)」として存在している道で、おそらく左岸の集落を結ぶ古い生活道路だと思う。
先ほど見た上流の杉林も、この道なら通じているだろう。

この道が目指す軌道跡である可能性は極めて低いと思っているが、川岸を遡ることに希望を持てなくなったいま、上流へ進むためには、この道に縋るよりないと判断した。



 思い違い


2026/3/16 10:30 《現在地》

苦しい直登に耐えて、川底から50m上を通る道に出た。
路線名は不明だが、現在は市道であるとみられる、昔の生活道路だ。
地図上では、この道を4kmほど進むと、軌道の終点である三縄ダム周辺へ行くことができるようだ。

全体として、私の探索目標である軌道に並行している路線ではあるのだが、軌道とこの道の両方が描かれている昭和8(1933)年の地形図では、軌道より上にこの道があり、この道自体は軌道跡ではないと思う。



10:32

上流へ進むという目的のために、この道を前進する。
願わくは、この道から軌道跡が分岐していてくれ……!
だったら発見できるはずだから!!

そんな都合のいいことを願いながら上流方向へ歩き出すと、これが思いのほか私好みの道でして……。
この岩場を巻き取る先の見えないカーブの感じとか、最高ジャマイカ? 今にも炭木を満載した荷車を引く馬の鼻面がにょっこりと現れそうな感じ。
思わず、一旦川崎集落まで自転車を取りに戻って、この道の探索に予定を変更しようかと考えてしまったほどに、雰囲気が私好み。



10:36

この道を歩き始めて6分後、歩きの速度ではあるが、順調に距離を伸ばしている。
しかし、未だに軌道跡の手掛かりは掴めていない。
しかも、地図で見たとおり、緩やかではあるが登り坂が続いており、川との比高は着実に増えている。
もはや完全に軌道のゴールである三縄ダムの標高も超えてしまっていて、これより上に軌道がある可能性は、全くないと考えていいだろう。

……この先ではないと思いつつも、この道を離れて軌道跡の擬定地であり続ける谷底へと再び下り込むことは、空振りに終わったときの辛さを想像してしまって、なかなかに選びがたかった。
先ほど川底から50m攀じ登ったシーン、特に面白みがないから簡単に済ませたが、実際は足がもつれるほどにきつかったのである。それをもう一度やることを想像してしまうと、どうにも…。

そんな訳で、惰弱にも、私はこの居心地の良い道から離れがたくなってしまった。
この道を延々と歩いていれば、ちゃんとゴールへと連れて行ってくれそうだし、途中にはおそらく廃村もありそうで、その辺がどうなっているかも興味深いだろう……。
最初の計画とは全く違ってきてしまうけど……。



10:44 《現在地》

これじゃない!

この道は魅力的だが、これでは本懐は遂げられない!!

まだ遅くはない!!

引き返そう!



……実はこの1分前に、この道から降りられそうな場所を見つけていた。
目を背けるように、写真も撮らずスルーしてきたが……。
通り過ぎた後になって、やはりこれではないと足が止まった。

“オブローダー四十八手”の第48手――最終奥義 “必殺!踵がえし” 発動!



10:45

50mほど引き返した地点。

ここに降りていく道があった。

地形図には描かれていない道で、先に何があるのか不明だ。
右の本道と比べると明らかに脇道で、しかも物凄い急坂である。
雰囲気としては、周囲の杉林の造林用作業道とか、そんな感じか。

川縁近くまで降りられるのか分からないが、これを軌道跡への最終アプローチとしよう。
これが駄目なら、とりあえず今回は縁がなかったねで、撤退しよう。
左折。



すげー下ってく!

あと、一応この道も舗装されている。
ボロボロのコンクリート舗装で、路肩が崩れて、薄っぺらな鋪装が宙に浮いている場所もある。
状況としては、廃道だと思う。ほとんど使われている様子がない。
とはいえ、道があるだけで御の字だ。ハイペースで下っていける。

そして、下り始めから2分足らずで杉林を抜け、眼下の祖谷川の谷を見渡せるようになった。



10:47

なんかある!なんかある!なんかある!

煉瓦造りの廃墟?がある! 対岸に!


これ、地形図には全く描かれていない建物だが……  

…………

…………ああっ。

思い違いをしてた…。



三縄発電所の位置も、動いてる!

今回、探索前の机上調査で、三縄ダムが昭和34年に(たった70mだが)移設されていたことは把握していたのだが、三縄発電所も移設がされていたことは見逃していた。
というか、建物を作り替えたことまでは知っていたが、場所も(ダム以上に)移動していることは見逃していたのだ。
そしてこの認識の誤りが、軌道跡の想定位置を見誤らせた!

私は、旧地形図や『西祖谷山村史』の記述から、三縄発電所の対岸まで軌道が延びていたと想定していたが、その三縄発電所とは当然、移設前の旧三縄発電所のことであろう!
その肝心の位置を見誤っていたのである!!

いま初めて目の当たりにした、対岸の林間に佇む煉瓦の廃墟が、その旧発電所の建物である。
明治末年に建造された貴重な産業遺産であり、廃墟ファンのレポートも検索すると複数見つかった。
この認識の誤りが、これまで軌道跡に出会えなかった原因であるのなら、いま下っている道の先こそが“正解”である希望は、一気に高まったといえる!

ミスは痛いが、気付いたタイミングは、まだ遅すぎないはず!



10:50

さらに下ると、道は急に切り返していた。
周囲は陽当たりのよい灌木帯で、茶葉らしき低木の照葉樹が大量のススキやワラビなどの枯れ草に悶えながら疎らに生えていた。ここは茶畑の跡かもしれない。
下り方が強烈なので、もうだいぶ川に近い高さまで下っている。
軌道跡を想定していた高さは、そろそろである。

切り返し進む。



あっ!!

平場がある感じする……。

切り返した道の下、川側に並行するように……。

これは、やったか?!



10:51 《現在地》

来てる来てる!!

ここで私が下ってきた道と、いま眼下に見つけたばかりの平場の道が、平面交差している!!
というか、平場を坂道が上書きしてしまっているといった方が正しいか。
注目していなければ見逃しそうな感じだが、私の目はごまかせないぞ!!

この平場が軌道跡であるかどうか、実際に踏み込んで確かめてみよう。

まずは奥方向(下流方向)へ!



キタワァ――!

これはいよいよ間違いないだろ!!

いかにも軌道跡っぽい平坦な道が、軌道跡っぽいカーブを描きながら、軌道跡っぽく続いている!
路面に敷かれた砂利も、バラストっぽい。
これは今度こそ、目指すべき軌道跡にたどり着いたと思う!!! 






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