廃線レポート 早川森林軌道(奈良田以奥) 導入

公開日 2022.08.14
探索日 2011.01.03
所在地 山梨県早川町

  ※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。


 偵察行 第1フェーズ 〜目視〜


2011/1/3 13:41 《現在地(マピオン)》

富士川と早川の合流地点にある身延町から、山梨県道37号南アルプス公園線に頼って早川をひたすら遡ること延々36km。
早川流域および早川町の最奥集落である奈良田(ならだ)を過ぎておおよそ2kmで、この写真の場面に突き当たる。

高い橋の先、左右並んで口を開ける壁のような2本のトンネル。
両方とも、鼠返しのようにオーバーハングした鉄槍が櫛比する、
槍衾のような鋼鉄の封鎖ゲートによって厳重に封鎖されていた。

打つ手なし。

まさしく……、禁地の門。




右隧。

光灯らぬ闇の隧。

黒御影の立派な扁額に掲げられた、彫り深い筆文字は……

「奈良田発電所」

……を刻む。
隧道自体には名がないものか、その唯一の目的地を扁額に刻んである。
もちろん、全国扁額登場率ナンバーワン(ヨッキれん調べ)の目立ちたがり屋、「山梨県知事 天野久」の揮毫も忘れず付いている。
すなわちこれ、山梨県営奈良田第一発電所の専用道路にして専用隧道だ。発電所は昭和36(1961)年の完成だから、隧道も同時期のものだろう。

まるで用事無し。



左隧。

「開運隧道」

もちろん、「天野久」も一緒である。
発電所専用隧道に勝らぬ程度の姿・形・大きさだが、こちらが正しい県道南アルプス公園線の続きである。竣工は昭和33(1958)年、全長217m。

県道だが、見ての通りの完全封鎖。
これは傍らの道路情報板が語る通り、冬季閉鎖中であるためだ。本日は平成23(2011)年の1月3日。

この県道の冬季閉鎖は全国有数の期間の長さを持っていて、例年11月10日から6月24日まで7ヶ月半も封鎖される。
しかもだ。残りの3ヶ月半は歩行者及びマイカーの通行が全面規制されていて、昼夜を問わずここに守衛が立つ場合がある。

何が開運だ。 用事無し。     ……のふりをして立ち去る。




13:45 《現在地》

高いゲートに跳ね返されて500mばかり県道を戻ったところへ、当時の愛車のエスクード(ワルクードという愛称が懐かしい)を移動させた。車を道路川側の空きスペースに留置し、カメラ片手に外へ。

道路のすぐ下に早川がある。
だが、川の流れそのものは余りよく見えない。見える川の景色の大部分は、そこいらのグラウンドよりも遙かに広い砂利河原だ。

富士川の河口から約50km遡ったところに始まる早川を、さらに40km近くも遡ったところが現在地。広い河原の景色に似合わず、ここの標高はもう860mくらいもある。
それどころか、直線距離で約7kmの至近距離に海抜3000mを越す頂が存在する。ここは日本の屋根の一翼担う、オブローダーに悪名高い“南アルプス”のただ中だ。

もっとも、川向こうの山脈は、恐ろしき3000m級を擁する南アの主脈ではなく、その前衛として富士川と早川を分水する、いわゆる櫛形山脈と呼ばれるところ。1500〜1800mの山々が連なっている。

唐突だが、向こうの川岸に、

線が見える。

それこそ、いつもの補助線は不用なくらい、鮮明に!



中央付近を、望遠で撮影した。
水面から20〜30mの高さに綺麗な水平のラインが見える。
ところどころに、石垣も、ありそうだ。

いかにも、いかにもすぎる、軌道跡だ!

発見には驚いたが、その驚きは、全く予期せぬものを見つけたというものではなく、「やっぱりあるのか!」という種類のものだった。
これは、この場所に “表題の” 軌道跡があったはずだというアタリを付けて行った、最初の探索である。
そして首尾良く、目当ての軌道跡と思われるラインを見つけたところだ。

こんなに目立つなら、もうとっくに既知の存在だろうと思えるが、少なくとも私はこの日を迎えるまで、このことを知らなかった。
“表題の”軌道跡自体は、こことは違う場所で少しだけ有名であり、私自身もその一部を探索したことがあったのだが……。
そういう既知の軌道跡の続きがここにあることは、この日初めて、実地的に確かめることになった。

見つけたなら、次は探索だ。
だが、時刻はもう午後2時に近づいている。日没まであと3時間くらい。
南アのような場所で新たな探索をはじめるには、いささか遅い時間だろう。
しかも、この日この直前までやっていたのは、これだ。身も心も、もうだいぶ疲れている。

でも、いいんだ。

今日の目的は、偵察だから。




「現在地」と、対岸に見えた軌道跡らしきラインの位置関係は、上記の通り。

最新の地理院地図には描かれていない“鮮明なライン”が、

浅い積雪の助けも得て、強調されるように見えていた。



対岸に見える軌道跡らしきラインは、そのまま上流と下流に繋がっているはずだった。

写真は下流側の眺め。

現在地の500mほど下流に、軽やかな曲弦トラスの奈良田橋が架かっている。

あの橋の袂の辺りで、軌道跡と県道は接しているものと想像していたが、
今回は、偵察を重視しているので、“順路”を辿ることの従順さを棄て、
探索対象の存在確認を優先すべく、先回りする形を取ったのだった。

結果論だが、時間の限りがある中でこの選択は正しかった。
奈良田橋の袂から軌道跡を辿ることは、きっと失敗しただろうから…。



これは反対に上流側の眺め。

櫛の歯のようだと表現したくなる……、見ているだけで怖気を感ずる鋭い峡壁に、
訥々という感じで、ラインの連なるさまが、見て取れた。
そして少なくとも、ここから視線が通る範囲……600mくらい上流にある蛇行の口までは、見える。

マジで、怖気がするんだが……。

今回の主題は偵察であるが、軌道跡へ取り付くアプローチを見出すことも、今回の仕事と考えていた。
どこへでもなんなりと……とはいかないことは、見るからに明らかだ。
切り立つ峡壁の緩みを見つけ出して、軌道跡へのアプローチを探らなければ。

ここから見る限り、いくらか希望を持てそうなのは、“谷”のところかな…?



あの“谷”をさかのぼって、軌道跡の高さまで辿り着けるかもしれない。

地形図を見ても、谷の入口は急であるが、そこさえ越えられれば、期待が持てそうだった。


よし! これより偵察の第2フェーズへ移行する!




 偵察行 第2フェーズ 〜接近〜


13:50 《現在地》

急ぎ探索の道具を身につけ、今回は自転車を車から降ろさず、身体一つで出発した。

適当な所から河原へ下りて、対岸にある“谷”の奥を見通せる位置まで移動。
そして撮影したのが、この写真だ。

とりあえず、ここから見る限り、谷の入口付近は登って行けそうな傾斜である。
ならばと、進路をここに決し、対岸へ向けた前進をスタートする。

重機の轍がそこかしこに刻まれた平らな河原を渡っていくと、やがて早川の流れにぶち当たる。




流れの畔に立って、身につけた長靴と、目の前の早瀬とを、何度もせわしく見較べた。だが最後は、えいやと足を踏み出した。
確実に長靴は浸水するだろうし、水も冷たかろうが、奈良田橋より上流には果てしなく先まで橋はないので、どこかで徒渉するしかないのである。
ならばここだ。

ここは、約2km下流にある西山ダムによって堰き止められた流れの範囲であり、河原の広さの原因もそこにある。
もしここが人手の加わる前の原始の峡谷だったら、この水量の川を渡るのは、もっと遙かに恐ろしかったろう。




ざぶざぶと、弾ける水を太腿まで浴びながら、20mからある川幅を強引に横断。

目指す“谷”の口の近くへ寄っていくと、先ほど右岸から見渡したときには見えなかった、さらに上流の地形が見通せた。

視界の終点にあるのは、約600m上流に控える、川の流れの大きな蛇行、いや、屈折と言うべきところ。
傍らには、例の隧道を抜けた先の奈良田第一発電所のクリーム色の建屋と、悪夢じみた鉄管路が見えた。
注目は谷の壁だ。
両岸相迫り、見るからに険悪な峡谷の口となっている、その谷間の30〜40mも高いところに、微かだが、横切るラインが見えた。
(チェンジ後の画像の矢印と矢印を結ぶ位置にラインが見えるはずだ)

ここに見えるということは、こんな感じでずっと上流まで、道は延びているということだろう。
皆様が知ればきっと驚く、あるいはもう知っている人ならば、知ったときにきっと驚いたはずの、“あの場所”(後述)まで、延々と……、蜿蜒と……。

……今日は偵察だからな、深入りはしないぞ……。



13:57 《現在地》

谷の口に到達。

地形的には、水の流れに沿って奥まで登って行けそうなので安心したが、意外に雪があることに焦る。日陰のせいだろうな。奈良田辺りは標高(850m以上ある)の割に冬でも積雪は少ないのだが、標高なりには寒いから、一度降るとなかなか消えない。

もう何度目か分からないが、またも意を決するような気持ちになってから、突入する。
一つ前進する度に決意を改めねばならないほど怖いのは、どう考えてもここが私にとって気軽な山ではないからだ。
常々この辺りの山で遊んでいる山人とは、技量も意識も違う。個人的に、廃道探索というのは、ここまで険しいところでやるものではないと思っているしな…。

まあ、たまには我慢しよう。
今回の調査対象は、少しくらい危ない目にあってでも己で解明したいと思えるだけの、大物だからな。少なくとも私にとっては。
かれこれ5年は探索を夢見てきた対象だ。



氷雪の小谷へ突入。

見える水量の割に、うるさい谷だ。
轟々としぶいている。
ちょうど谷の口の両側が門柱のように鋭い崖に挟まれていて、そこを抜けると写真のようにやや解放されるが、そんな地形のために渓声が籠もっている感じだ。

地形図の見立ての通り、どうにか登って行けそうな谷だ。
でも、凍った水を浴びる趣味はないから、向かって右側の斜面を覆っている暗いスギの人工林を登ることにした。
人工林があることも、ここまで来て知ったことであり、正直だいぶホッとした。
まだここは、人知らずの領域ではないということなのだから。




徒渉によって訪れるよりないスギの森は、案の定、荒れていた。
下枝は払われていたが、様々な太さのスギが混在していて、全般に痩せている印象。なんとも寒々とした森。

軌道跡は、早川の水面から20〜30mの高さを横切っていた。
現在地からならば、もうだいぶ近づいていると思う。
道なきスギの森を、直登ではなく、谷の上流を目指すように斜め方向へ登っていった。

そして、2分後――




14:03 《現在地》

石造りの橋台と遭遇!

えらく古ぼけたぼろっぼろの橋台には、もちろん橋桁はない。

自然と上流側の“続き”に目が向くが、“谷”を渡る橋は跡形もないようだ。

たまたま洪水を避けられる位置にあったから、スギ林の林床に小桟橋の橋台2基が残ったようである。


だがこれで改めてはっきりした。

対岸から見えたラインの正体は、間違いなく、目当ての軌道跡だ!

水路跡とかじゃ、ない。




これが、

日本最凶の林鉄

早川森林軌道の跡だ!


偵察は、第3フェーズへ進む。




 偵察行 第3フェーズ 〜実踏〜


14:05 

県道の路傍から、対岸に軌道跡らしきラインを初めて目視した、そのわずか20分後。
私は野生児の如き川の徒渉と凍てついた小谷の登攀を達成し、その軌道跡”らしき”ラインへ到達した。
そして、“らしき”の3文字を取っ払う確信を……証拠ではなくあくまでも確信だが……直ちに得ていた。

読者諸兄にとっては、まだピンときていない方が多いと思う。
いつものような探索のきっかけや事前情報を述べる「前説」もなく、ほとんど唐突に、私が表題の「早川森林軌道」の跡と確信する路盤へ到達したのを見ているわけだから。
同行の友人が、突然現われた“幼馴染み”であるという誰かとイチャイチャする姿を説明無く見せられているような気分かも知れない。たぶんそれは楽しくないだろう。(経験無いけど)

説明はする。ちゃんと。
だから、もう少しだけ待って欲しい。
まずはこれ、この足元の道を辿ってみたい。
思いのほかしっかりした道じゃあないか。(←私は、この道がいつのものかを知っていたので、そういう感想になった)



14:06 《現在地》

私が最初に軌道跡に到達した地点(“初到地点”と略す)は、早川からの登路として使った無名の小谷の南岸に見つかった小桟橋の橋台跡で、そこから北(早川上流方向)と南(同下流方向)へ路盤は伸びていた。

この路線全体の終点は上流側、起点は下流側にあるが、とりあえず下流側へ向かうことにした。
初到地点から下流へ向かえば、約600mで県道の奈良田橋へぶつかる計算であり、決着が近いのである。
上流へ向かうと果てしなくことになる恐れがあったので、偵察はまず下流側から!

歩き出して50mほどでスギの人工林が終わり、急傾斜の雑木林になった(ひとつ前の写真がそこ)。
さらに50mばかり進むと、浅い切り通しが現われた。左の写真(←)がそれだ。
完全に両側とも柔らかい土砂の安息角になっている切り通しは、廃止から経過した時間の長さを感じさせた。

この切り通しは、直前に登った小谷が早川へぶつかるところにあった鋭い岩崖の上にあり、見下ろすと、右写真(→)のように、凍り付いた崖が足元から一息に落ちていた。
眼下に見える小谷を利用することで上手に崖を避けてここまで来ることが出来たが、ほとんどの場所は入り込めば即座に転げ落ちそうな急斜面なので、質が悪い。そんなつもりは全く無いが、油断厳禁だ。


(←)
切り通しを回り込み早川本流に接する斜面へ入ると、少し前に感じた、「思ったより保存状態が良い」という感想は、一瞬で萎えてしまった。
考えてみれば、こんな立地、こんな歴史で、保存状態が良いわけなかった。

全体的に崩土によって埋め戻され、平らな所を残さない崖道が事もなげに伸びている。
しかも日陰であるため、満遍なく2〜3cmの積雪がある。
足元の状況次第では早くも前進を躊躇する場面だが、積雪の下の土の斜面は全体的に柔らかく、爪先が良く刺さったし、積雪も氷結はしていないため滑落を誘うものではなかった。
それを確認してから、前進した。


(→)
ここの路肩には、長い石垣の痕跡があった。
簡素な空積みの石垣だったろう。全体的に孕んだように膨らんでいて、劣化は著しい。
しかし、最初に対岸からこの路盤を遠望したときに見えた【とても鮮明なライン】は、この石垣だった。
間違いなくここに目指すものがあると教えてくれたという意味で、とてもありがたい(この探索のために命を落としでもしなければだが…)石垣であったといえよう。

そうそう、私はそれを「当然のこと」として受け入れていたので、すっかり書き忘れていたが、軌道跡であることの動かぬ証拠である2大アイテムことレールと枕木は、初到地点からここまで全く見当らない。
ありそうな気配もないというのが、正直なところだな…(苦笑)。


険しい崖を切り崩して、細い道が延びている。
目には目をではないが、険しい山岳を克服するには、相応の覚悟を持って鑿や鎚を振うべきは当然だ。

昔人の本気度を物語るような岩場の道が、ここにはよく残っていた。
この写真1枚だけであれば、廃道とは思われないかも知れない。

後ほど、この軌道が使われたとされる時期や期間を知れば、きっと皆様は驚くはずだ。
まあそれについては、誰よりも私が驚いた自負はあるが…。




14:10 《現在地》

初到地点から徒歩約5分。
大した時間は経過していないが、300mほど下流方向へ軌道跡を辿ることが出来た。
ここに小さな尾根を回り込む、日差しと見晴らしが良い場所があった。

ここからは、300mほど下流に架かる奈良田橋の銀色のトラスが。よく見えた。
しかし、依然として早川水面と軌道跡の高度差は大きいままで、これから300mばかり進んだところで、県道の高さまで降りる感じがしない。

だから、おそらく奈良田橋あたりでも、軌道跡は県道より高い位置にあったと思われるが、2022年現在、このあたりではリニア新幹線の残土処分場が盛んに造成されており、未だ再探索を果たせていない。




14:11 

さて、再び下流へ向けて歩き出したわけだが、50歩も往かぬうちに、この写真の景色をお出しされた。

一言で済む。

無理。

この路盤の欠壊は、正面からはとても渡れないし、この場所から上や下に迂回するルートを切り開くことも無理だ。
出来るとしたら、一度完全に早川の谷底まで下りてから、この一連の欠壊を見上げながら通り過ぎ、その先で改めて登れる場所を見つけ出して……という流れしかないだろう。

それ自体は正当法で、もし時間があるならば当然やったのだろうが、今日の探索の目的はあくまでも将来に向けた偵察であり、その偵察の対象は、下流側だけでなく、上流側にも少し進めておきたいという心積もりがあった。
なので、この大きな決壊との遭遇をきりが良いと判断し、下流側への偵察はここ――奈良田橋の300m上流付近――で終えることにした。
そして2022年の現在、ここが本編で語りうる軌道跡の最下流になっている。
本当であれば、表題の「奈良田以奥」という通り、奈良田集落の辺りから紹介すべき軌道跡だと思うが、それが果たせていないのは、新幹線工事などの影響で満足な現地探索ができていないためだ。


奈良田橋に背を向け、今度は上流、偉大な終点に近づいていく踏破をスタートする。



14:20 《現在地》

5分で往った道を、同じ時間で戻ってきた。
スギ林の中の初到地点、ささやかな石の橋台を乗り越えて、“小谷”の縁へ。

終点へ向かう軌道跡は、この小谷を横断し対岸へ伸びているが、どのように横断していたのかについては、全く何も残っていないので、見当が付かない。
普通に考えれば木橋だろうが、両岸とも、橋台を形作っていた礎石の一欠片もない。

この軌道跡があと何回谷を横断するのか知らないが、先が思いやられるの一言だ。
この有様では、遅かれ早かれ横断困難な谷に遭遇するだろう…。




対岸の様子。

谷を挟んだ向こう側、自分と同じ高さで、路盤が再開している。
どうやっていたのか知らないが、あそこに通じていたのは確かだろう。

凍てついた谷の両岸を、疲れた足に鞭をくれながら上り下りするのは恐ろしかったが、上手い具合に岩場の中に土の斜面が紛れていたので、そこを使って無事に目的を達することができた。




14:23

谷の横断に3分ほど要し、対岸の路盤へ到達。

しかし全く気は抜けない。
遠目には路盤と見えたところも、近づいてみれば、ほとんど斜面と変わらなかった。
そのくせ、路肩側は切り立つ垂壁なのだから始末に負えない。積雪の一欠片でも凍っていたら、進むことを断念しただろう。

これでも今日は、偵察ゆえの気楽さがあった。難しければ引き返すということを簡単に決断できた。
だが、より撤退を決断しにくい状況が想像される“本戦”において、こんな緊張の場面を、どれほど連続して継続せねばらないかと思うと……。気が重い。




14:27

ヒヤヒヤする斜面を越えて、浅い切り通しを抜けると、路盤は早川の本流沿いに復帰し、ようやく一息付けそうな場面となった。
ここからしばらく谷はないので、大人しく路盤が残っていてくれることを期待している。

だが、足元の雪面には、小動物の足跡さえ見当らない。
もはや獣道としてさえ見放されたというのだろうか。
そして私がその理由を知るまで、50歩を要さなかった。




14:28 《現在地》

乾いた笑いしか出なかった。

次のカーブを何気なく回り込むと、(その直前から、遠望に良くない気配は感じたが…)

道がないどころか、

地面そのものがなかった。

もともと桟橋が架かっていたとしても驚異的な悪地形で、もはや往時の姿など想像もできない。
何も知らなければ、普通にここが終点と判断しそうな、伸びしろを感じさせない地獄だった。





なのにッ!

50m以上先に続きの路盤が見えることなど、もはや意味不明ッ!!

当然、ここから先へ進むことは出来ない。
思わず仏神に縋り付きたくなるような景色だが、この「偵察」の“未来”で辿り着いた景色を、1枚だけ、先回りでご覧に入れようと思う。




次にご覧いただくのは、この地点の推定約11km先にある、

「観音経」という場所だ。

それは、主に登山者らの間で少なからず有名な眺めだった。(2022年現在はこれも見られなくなっている)




この軌道は、推定11km先で、

この写真中央に見える○印の坑口へ、

“向こう側(隧道内)”から、辿り着く。


このことは2011年当時も、偉大な先達によって推測されていたことだが、

実踏によって確かめた人は、(私が知る限り、)一人も無かった。

私の「偵察」の先にある「本探索」の目標は、その“実踏による証明”だった。


“最凶の林鉄”に挑む!!





 解説 早川森林軌道 〜日本最凶の林鉄〜


今回のターゲット、早川森林軌道について解説しよう。

早川森林軌道は、山梨県林務部がかつて運用していた、いわば山梨県営の森林鉄道である。

我が国の森林管理の基本法である森林法において、森林は大きく国有林と民有林に二分される。
そしていわゆる森林鉄道の大半が、国有林経営を目的とした国有林森林鉄道であった。
民有林での林業を目的とした森林鉄道も、民間企業や個人、森林組合などが管理する路線として各地に存在したが、多くは国有林森林鉄道の払い下げであったり、そうでなくとも小規模な路線が多かった。
だが、全国の都道府県の中で、山梨県だけが特異に多くの民有林森林鉄道を有していた。


『全国森林鉄道』巻末リストより

都道府県有林や市町村有林は、民有林に含まれる。
そして、山梨県には際立って県有林が多い。(代わりに国有林は全国で一番少なく県土の1%しかない)
これは明治44年に、県内の御料林(皇室財産である山林)の大部分を、相次ぐ水害への復興財源として、明治天皇が県へ下賜したことに由来しており、山梨県では県土の3分の1にも及ぶ広大な山林を恩賜林(おんしりん)と呼んで、今日まで大切に育んでいる。

そしてこの広大な恩賜林を管理すべく山梨県は林務部県有林課を設置し、その下部組織として国有林の営林署に相当する6つの林務事務所を設置した。そのうち5つの林務事務所が独自の軌道を開設し、運材に用いていた。

これらの総称が山梨県営軌道であり、『全国森林鉄道』(西裕之著/2001年)巻末のリスト(右図)には本線支線を合わせて24の路線が掲載されている。

このうち廃線ファンや林鉄ファンに比較的よく知られているのは、塩山林務事務所が管轄していた三塩森林軌道と、その奥部を構成していた西沢森林軌道だろう。
他の路線の知名度は高くなかったと思うが、今回取り上げる早川森林軌道が、1本の路線の長さとしては最長を誇った。
右図の赤枠で囲ったところに記載があるが、延長は39.0kmと記載されている。言うまでもなく、リスト中のナンバーワンだ。



『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より

右図は、昭和11(1936)年に発行された『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』に掲載された「山梨県恩賜林之位置図」の一部である。図の緑網の部分が恩賜林で、奥地や高山が占めている。そして、早川に沿って鉄道の記号が描かれているのが分かるだろう。
これが広義に捉えた早川森林軌道の姿だが、厳密には異なる路線であって(後述する)、今回探索する区間(奈良田以奥)には、まだ伸びていない。

早川森林軌道は、これまでの「山さ行がねが」の中でも、度々、少しずつ、登場している。
(路線名は「早川林用軌道」と呼ばれることもあり、当サイトも主にこれも用いてきたが、本稿では、より一般的と思われる「早川森林軌道」の呼称で統一する。)
当サイトの全レポート地図で早川の一帯を見てもらえると良いが、早川流域のレポートがいくつもある。そしてその多くで、「現在の県道より古い、早川沿いで最初に通じた車道」というような扱いで、軌道が存在したことを語っていると思う。

例えば、早川流域での最初の探索となった2011年1月2日の探索(そしてこれは今回の偵察探索の前日である)を描いたこのレポートでも、「工事用軌道」という名目で、軌道跡の存在や貴重なレールの発見を言及している。(それは右図の赤枠の辺りのレポートだ)
ただ、奈良田より下流に関しては、廃線跡として残っている部分はほとんどない。
なぜなら、早川森林軌道の跡地が、(奈良田より下流の)県道の元になっているからだ。
県道になったあとでさらに新道へ切り替わっている部分も多いが、そんなところに残っているのは旧県道(あるいは廃道)であり、純粋な廃線跡として残されている部分はほとんどないのである。

次の図で、大正時代から昭和20年代までを駆け足で生きた早川森林軌道の複雑な経過を解説したい。


@
大正13(1924)年
A
昭和16(1941)年
B
昭和18(1943)年
C
昭和20(1945)年
D
昭和28(1953)年
E
昭和38(1963)年
F
現在

早川沿いに存在した期間762mmナローゲージ鉄道の最大版図は、富士川合流地点に近い早川橋から、早川およびその上流部呼称である野呂川を遡って、白鳳渓谷を遙か下に見る終点の深沢へ達する、総延長50kmを超える非常に長大なものだった。支線の記録はなく、現在の身延町から早川町を通過して南アルプス市(旧芦安村)に達する長い長い一本道だった。早川橋(海抜240m)と深沢尾根(海抜1460m)の高低差の大きさも特筆すべき点だ。ただし、全線が同時に存在したことはなく、次に述べるような経過で区間や路線名が変化している。

早川流域に敷設された最初の軌道は、この川の豊富な水量と大きな落差に目を付けた東京電灯株式会社が、発電所工事のための資材運搬と、木材の流送補償目的で、早川橋から新倉まで敷設した全長20kmの工事用軌道であった。これは大正11年に着工され、13年に完成している。軌間762mmで、動力は馬だった。《図@》


『早川町誌』より

この軌道は、工事終了後の昭和3年に、地元が設立した早川沿岸軌道組合に譲渡されると、トロ馬車と呼ばれ、沿岸住民の足として活躍した。だが輸送量の増大とともにすぐに自動車道への改築が目論まれ、昭和8年に山梨県に移譲されると、速やかに車道化され県営早川林道となった。
同時に、終点の新倉から上流へ向けて延伸工事が進められ、そこに車道化した区間からの撤去レールが敷設された。昭和12年に西山温泉、16年に終点の奈良田まで開通し、県営早川林用軌道(=早川森林軌道)と呼ばれた。《図A》
軌道は沿線の木材や木炭などの林産物輸送に活躍したほか、沿線住民の日常の足としても利用され、また湯治場として西山温泉が大きな賑わいを見せたのもこの時期だ。旅客専用のトロ馬車も運行されていた。


『早川町誌』より

昭和18年、奈良田からさらに上流へ向けて、観音経を経て、終点の深沢尾根まで、おおよそ20kmの延伸工事が完了した。《図B》
当時、新倉〜深沢間の全長が約39kmと記録されており、これが早川森林軌道としての最長期だった。
だが、奈良田以奥は極めて短命に終わり、昭和20年に廃止されたという。《図C》

残された新倉〜奈良田間も、昭和28年に軌道が撤去されて自動車道となり、早川森林軌道はここに全廃となった。《図D》
昭和29年から野呂川総合開発計画が山梨県の主導でスタートし、芦安と奈良田からそれぞれ広河原へ通じる道路が昭和38年に開通した。《図E》

以上が、「早川町誌」の記述から簡単にまとめた軌道の歴史である。
なんといっても驚くべきは、今回探索を目論んでいる奈良田以奥の非常な短命ぶりだろう。
町誌によれば、僅か2年で廃止されたことになっている。歴代の地形図に一度も描かれていないのも納得だが、2年はさすがにひどい……。戦時中の開通だったことも印象的だし…。どことなく、千頭林鉄の大根沢以奥の経緯に通じるものを感じる。


次は、今回の本題である「奈良田以奥」に焦点を当てて、この区間の建設や廃止にまつわる記録を紹介しよう。
町誌には、年表的な簡潔さで開設年や廃止年が書かれているが、詳細については別の資料を探す必要があった。



『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より

風景協会刊『風景』の昭和18年11月号に、奈良田以奥の林道開通を伝える記事がある。
この本文を読んでもらう前に、添えられている水墨画のようなイラストを見て欲しい(→)。

絵に描いたような絶壁の道路風景だ! 俺が考えた最強の道かよ!
普通なら誇張を疑いたくなるほど“絵的”に過ぎる景色だが、これが少しの誇張も含んでいないことは、観音経へ行けば分かることだ。
まあ、絵のなかの人物みたいに歩けるかどうかは、また別の問題だが………。

 早川林道     ―絵と文― 望月春江


山梨県南アルプス山麓野呂川奥地一帯の恩賜県有林は昔から斧を入れた事がない大深林で、天然の古木は倒れたままに朽ちているといわれ、それは全くすばらしいものであった。其の面積1万2883ヘクタール、総蓄積174万5千立方米、之が開発を眼ざして林道設置の工事に着手したのが昭和14年3月難工事全く言語に絶するものあり、幾度か中止のやむなきに至った。しかし全県民のひるまざる熱誠と近村住民の涙ぐましき努力とにより遂に本年6月目出度竣工を見るに至った。総工費80万円、車道は早川右岸より三里村新倉まで2万米、軌道新倉より芦安村芦倉まで5万4千米、中でも奥地である表観音・裏観音・猿なかせ等は最難所として幾多の犠牲者をも出している。風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。
本村に対する国家の要求が今日程切なのは我国開闢以来ない事であり、此無尽蔵の宝庫から此林道を通じて供出さるる木材こそ実に意義深いものというべく、今日に備えて必死挺身して来た甲州人士の意気は激賞してあまりあると言い得よう。

『風景』(昭和18年11月号)より

これによって、戦時中の大工事の大要を知る事が出来る。
すなわち、着工は昭和14年3月、何度か中断を挟みながら、昭和18年6月に竣工。総工費80万円。
ただし、記載の距離には明らかな誤りがあり、新倉から芦倉(終点)まで54kmというのは、実際は既に車道化済みであった20kmを含めた数字である。
そして、戦時中の物資供出を念頭に置いた緊急的な工事でもあったらしいことが、全体に滲み出ている。

しかしなんと言っても特筆したいのが、途中のこの一文だ。

「風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。

これ…、他人事なら全然いいんだけど、開通直後でも既に身の毛がよだつ処の沙汰ではなかった道を、廃止から半世紀以上も過ぎてから自分で探索するのは……。

ともかく、昭和8年に新倉よりスタートした山梨県による早川森林軌道の建設の目的は、当初から早川上流部の野呂川流域に広がる恩賜県有林の開発にあった。
大戦が始まると、この未利用奥地林からの木材供出を急ぐべく、最も困難な奈良田以奥の峡谷に突貫工事で挑み、昭和18年に完成を見た。
だが、長くは保たなかった。
東京営林局刊『東京林友 第19巻第2号』(昭和41年7月号)の特集記事、「南アルプスと野呂川けい谷」に、この苦闘に満ちた軌道の結末が述べられている。

森林軌道を敷設して、早川方面から、この地域の森林資源の開発に着手しましたが、沿線の立木約3万石を伐採搬出したのみで、ぜい弱な地盤と、相次ぐ災害のため、軌道のいたるところに大被害を受けて、この復旧に困難をきわめ、ついに廃道として放置しなければならなくなってしまいました。この廃道は今でもその形跡が観音経トンネル付近から深沢にかけて切れ切れに散見されますが、当時の困難を極めた開発事業の苦労が偲ばれます。したがって、この地域の森林資源は、下流の一部を炭材として利用したのみで、嶮岨な地形と搬出困難のため、全く天然林のまま近年まで死蔵されてきたのであります。

『東京林友 第19巻第2号』(昭和41年7月号)より

ここに廃止年は明記されていないが、早川町誌には、昭和20年に奈良田〜深沢間の軌道を廃止して軌条を撤去したと、ただ1行書かれている。
戦争遂行のために、無理を圧して軌道を敷設したのだろうが、現実的には全く継続的な利用に堪えないものだったのだろう。
軌道が極めて短期間で廃止された原因は、開設直後から大きな崩壊が相次ぎ、復旧が困難であったためだとはっきり書かれている。
それでも辛うじて運び出された3万石(=8340㎥)の木材は、総蓄積として先の記事に数字が出ていた174万㎥に対して、わずか0.5%に過ぎない。

苦労して開設した軌道だったのだろうが、間違いなく、大失敗ファンブルだったな……。まったく気の毒ではあるが…。


以上が、山梨県営早川森林軌道の全体史と、その奈良田以奥区間の余りにも短命すぎた顛末である。




 早川森林軌道に関する既知の探索情報について 2022/8/15 追記


早川森林軌道について紹介している文献自体が多くないが、その廃線跡の現状を取り上げた記録はさらに少ない。
それでも、今回私が探索を計画するきっかけは、そうした文献の一つであったので、紹介しておきたい。

廃線探索のバイブルといえば、皆様はなにを連想されるだろう。
私の場合、宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(全10巻)だ。
そして平成10(1998)年6月に刊行されたシリーズ第5作『鉄道廃線跡を歩くV』に、「東京電力早川発電工事用軌道」として、この路線が取り上げられている。

刊行当時私はまだ10代で、秋田在住のチャリ馬鹿少年であったが、これはリアルタイムで読んだ記憶がある。
ただ、廃線跡の風景が紹介されているのは奈良田より下流に限定されており、それより上流部の風景を知る機会とはならなかった。
だから、その段階では、この路線に特別な印象を持たなかった。

さて、廃線探索の“裏”バイブルというものがもしあるとしたら、皆様はなにを連想されるだろう。
私は間違いなく、『トワイライトゾ〜ンマニュアル』シリーズを想う。
“裏”などというのは完全に個人の感想であるが、1992年から2009年にわたって16作を重ねたこの本は、良い意味で極めて雑多、この本以外では読んだ事のない廃線の情報がゴロゴロしていたお宝本だ。

森林鉄道関係でも、竹内昭氏などの優れた先達による先進性の高いレポートが満載で、私がこのシリーズを知り、収集し始めたのは2005年頃からだったが、ネットショップや古書店などでバックナンバーを手に入れる度に嬉しくて仕方がなかった事をよく覚えている。(全て集めるのにとても苦労した記憶も)


『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』

『鉄道廃線跡を歩くV』の約5ヶ月後、平成10(1998)年11月に刊行された『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』に、真に驚くべき探索レポートが掲載された。
それは竹内昭氏が書かれた「続・関東周辺林鉄行脚」という記事で、一連の「林鉄行脚」シリーズの1作だ。私にとっては、このシリーズを読むことが、『トワイライトゾ〜ンマニュアル』を集める最大の目的にもなっていたわけだが、同記事に「野呂川林用軌道」という名で掲載されていたのが、早川森林軌道の奈良田以奥の中でも核心部であろう、観音経から終点深沢にかけての実踏レポートだったのだ。

そしてそこに掲載されていたのが、皆様に先回りして1枚だけご覧いただいた【観音経の絶壁と坑門】を写した、モノクロの写真だった。
私が同記事を読んだのはたしか2005年で、ちょうど森吉林鉄との度重なる死闘を制した頃だったと思うが、東北の嫋やかな山並みとは余りにも印象を異にする、峻険を絵に描いたような南アルプスに挑む林鉄のレベチ(レベル違い)な破天荒ぶりに、頭をぶん殴られた感じがした。
そして、いつか行きたいという自然な思いを抱きつつ、2007年の関東移住から、2010年には同じ南アルプスにある千頭林鉄の踏破を体験し、遂に満を持した気分で……しかしまずは偵察をと……挑んだのが、いまご覧いただいている2011年1月3日の探索であった。


『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』より

当時、ネット上の探索記録もリサーチしている。
だが、強烈極まる廃線跡風景の割に、この路線の奈良田以奥を紹介する記録は稀だった。
登山の途中で「見えた」という記録は少なくなかったが、軌道跡を歩いてみたという記録は本当に稀だった。
ただ皆無ではなく、とある(今も読む事が出来る。そして後に著者との直接のやり取りを経験する)サイトのレポートが燦然と存在した。

そのレポートも、探索のきっかけとしては『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』を挙げていて、私と同じ衝撃を受けていた探索者の存在にシンパシーを感じた。
彼(いずれご登場いただく)も観音経に挑み、そして、『トワイラ〜』より確実に深く侵入していた。
その時は、彼の胆力、技量、行動力、その全てが羨ましいと思った。
ただ、彼のレポートの途中で、同行した仲間が滑落しかかって探索を終了された所の記述は、本当に怖かった。 ……それこそ我がことのように。


今回の私の探索に繋がる、最後のピースを埋めていこう。

右の画像は、『トワイラ〜』に掲載されていた地図である。
『トワイラ〜』の探索は、この図に太い実線で描かれている区間が対象だった。
具体的には、観音経(アザミ沢)から深沢の終点までで、この区間は軌道跡の大部分が南アルプス林道に転用されているので、林道を歩くことでいろいろな遺構を見つける事が出来るのである。

一方、図に太い破線で描かれている部分は、著者(竹内氏)が軌道跡の存在を推測しつつも、実踏はなされなかった区間である。

奈良田の北の外れの道路脇にはなんとなく土場跡らしい広場も残っています。ただこの土場から先、林道が早川の右岸に渡って(注:奈良田橋のこと)軌道跡がはじまるはずの沢がいきなり土石流で崩落してしまっており、その先アザミ沢までは道がないのでどうなっているのかは確認できませんでした。当時の地図によれば、軌道はドノコヤ沢までは河床近くを行き、その先からどんどん山の中腹へ登っていたようです。たぶんこの区間もあちらこちら崩れながらも道床が残っているのではないでしょうか。残念ながら対岸の林道(注:現在の県道南アルプス公園線のこと)からも森が深くて判りません。

再び軌道跡が現われるのは南アルプス林道観音経トンネル北口すぐ左で、軌道のトンネルがぽっかりと口を開け、中には何と軌道そのものが残されています。その先は断崖絶壁のオーバーハングで近づけないものの(注:これが例の断崖絶壁の坑門写真の場面)、素掘りのトンネルと道床が延々と続いているのが遠望出来ます。

『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』より

『トワイラ〜』の未探索区間の長さは、
この地図にある点線の長さから推測して、約12kmある。

これこそが、私の踏査目標だ。

(ここまでの「偵察」で皆様にご覧いただいた区間も、右図に示した。それはたった0.5kmに過ぎない。)

なお、前掲した“あるサイト”に掲載された探索は、右図のアザミ沢からカレイ沢の間で行われていた。

そこもまた、私の探索の対象に入る。







あの千頭林鉄と同じ南アルプスで、
昭和18年から2年しか使われず、
以来60年以上も放置されている林鉄跡とか、

身の毛のよだつ処の沙汰ではないが



……まだ、偵察の途中であったな。 


探索再開だ。