廃線レポート 藤琴森林鉄道粕毛支線 素波里ダム直下編 検証編

公開日 2020.06.21
探索日 2020.06.03
所在地 秋田県藤里町

素波里峡史(1) 〜ダム建設以前〜



「写真集:藤里町」より

素波里峡を訪れた粕毛青年団一行
昔から景勝地、遊泳場として訪れる人が多かった
(大正時代)

今回の探索のきっかけとなったのが、『写真集:藤里町』に掲載されている【古写真】だったが、同書には素波里峡の写真が他に2枚掲載されていた。
そのうちの1枚が(←)これで、大正時代の写真だという。

素波里峡を軌道が初めて通過したのは大正10(1921)年(『藤里町誌(新)』は大正9年としている)であり、この写真はおそらく軌道敷設以前、川沿いの道がまだなく川舟で探勝されていた時代のものと思われる。

菅江真澄が享和2(1802)年6月1日(新暦7月14日)にここを訪れたときも、素波里神社(当時は素波里不動と呼ばれていた)から小舟に乗って峡内を探勝しており、「須波利といふ迫り立る巌のはざまに、つとこぎ入る。岩ごとにそばだちて高う、淵は、さおにふかけれど水の心はしずかなれば、みなそこのくまなう見やられて清し」と、水静かな恐ろしく深い淵のことを書いているが、これは大正時代の写真とも、私がダムの直下で見た風景とも、同じ印象だ。



「写真集:藤里町」より

素波里は鱒、鮭、鮎の豊庫であり、舟を出して漁をする人も多かった
(昭和31年)

写真集にあるもう1枚がこれで、川舟が浮かぶ水面を見下ろす高みに、レールの敷かれた立派な路盤が写っている。

この写真の詳細な撮影地も従来は明らかでなかったが、今回の探索で判明した。
ポイントは奥に見えるカーブした部分で、小さく桟橋のようなものが見えている。そのすぐ奥は、写真では黒つぶれしているが、5号隧道があったのに違いなく、つまりこの撮影地点は……




←ここ!

背景に見える山の形からもこの位置で間違いないと思う。
そうなると改めて、路盤の荒廃や5号隧道があった岩尾根が消滅していることなど、大きな変化が目白押しだ。微妙に水位も上昇しているが、これも素波里ダムの一部である副ダムの効用によるものだろう。

ダムの完成から時間が経過し、一帯に緑が戻ってきているため、これがコンクリートで作り替えられた風景だという印象は薄いが、実際はこれほど変化していたのである。
それでも、我々が歩いたダム直下の平場が確かに軌道跡だったことが、この古写真から確かめられた。



左図は、昭和28(1953)年版の地形図で、在りし日の素波里峡を描いている。
しかし、「素波里峡」という地名はダムに呑み込まれる最後まで記載されたことがなく、地図上では恐ろしく狭い峡谷を軌道が恐る恐る通過している風景しか見えない。

昭和27年に秋田魁新報社の読者投票により「素波里」は観光秋田30景第17位に選ばれているなど、県民にはよく知られる観光地であったが、それでも県外から訪れる人は比較的少なかったようだ。軌道を歩く以外に探訪の術がなかったことも、都人士には恐れられたことだろう。


「観光の栞 二ツ井及び其の附近」より

素波里峡を写した写真の被写体として、5号隧道はしばしば選ばれている。
右の写真は『写真集:藤里町』の【例の古写真】とそっくりで、明らかに同じ隧道だが、昭和11(1936)年に成田先史学研究所が発行した『観光の栞 二ツ井及び其の附近』という古い観光ガイドに収められていたものだ。

同書には解説文もあり、林鉄に関する描写があるので、関係箇所を抜粋してみよう。

素 破 里
(略) 近年、秋田営林局の森林軌道が、この地方までも延長せられたので、藤琴よりは徒歩のほかなかった素破里も、頗る便利になった。二ツ井からは、二時間足らずで素破里に達するから、最近は、特に夏期の間遊覧の人々が絶えない。
森林軌道は二ツ井から大開まで直通し、太良本線とは藤琴から分岐して、粕毛川に沿うて走り、大開までの線沿、渓流の展開著しく、頗る勝景に富んでいる。素破里はその中間にある。(略)
軌道は、素破里神社の傍を通り、左手に瀧を樹間に隠見しながら進んで、やがて絶壁の間を縫うて、巧に開鑿されたトンネルを潜り、右手に深淵を見下ろしつつ進む。対岸の岩壁忽ち迫り来るかと思うと、俄に展開して、眼界に入り来るもの、樹と巌と流れ。淵が一転して瀬と成るあたり、さながら人生の縮図のようであるのは、興趣尽きない。
「観光の栞 二ツ井及び其の附近」より

ここにあるとおり、素波里に観光地としての道を拓いたのは、森林鉄道であった。
車窓が詳細に記述されており、下線部が今回私が辿ったルートに相当する部分だ。
すなわち、「対岸の岩壁たちまち迫り来る」までが辿れた上限であり、その直上にダムが築造されているため、我々の探索は打ち切られた。


これより少し古い昭和3(1928)年に訪れた紀行も紹介しよう。
俳人の名和三幹竹(なわさんかんちく)が石井露月らと共に素波里吟行を行なった際の随筆「能代から素波里へ」(「懸葵」25巻12号所収)の一説だ。(石井露月(秋田県河辺郡の人)を藤里町では素波里観光の恩人として顕彰しており、素波里神社に句碑が建ててある)

やがて一行は米田の校長穂波老の案内で秋田の耶馬溪だと誇ってゐる素波里の谿谷を見てこゝから奥に深くなってゐる運材のトロ道が大水の惨害で飴棒を折りまげたやうに破損してゐる岨(そば)の道を伝ひながら歩一歩に変化に富んでゐる峡谷の景を恣(ほしいまま)にした。峡中の巌石碧潭皆それぞれの名を冠して遊客の心を慰めてくれる。五空老はこの峡谷を天下に紹介するのはこの度の吟行を以て嚆矢とするなどと豪語して一同の句作に熱を付けたが、未だこの峡谷が世間に紹介されてゐないのは風景のためにも惜しいことである。
「能代から素波里へ」(「懸葵」25巻12号所収)より

当時は軌道敷設からまだ日が浅く、機関車入線以前だから、手押し軌道だったはずだ。粕毛支線に機関車が入るようになったのは昭和10(1935)年からである。
そして、立地からして無理からぬこととは思うが、水害には昔から弱かったらしく、彼らが吟行に訪れた際も運休していたらしい。

注目は、“秋田の耶馬溪”という表現がなされていることで、昔の日本人は峡谷といえばまず耶馬溪を頂点と考えていた節がある。
そのため、“秋田の耶馬溪”は随分と大きく出た表現のように思えるが、次にご覧いただく素波里峡“核心部”(現在は湖底)の写真を見れば、決して大袈裟でも無かったと納得されるのではないか。私はそうだった。


これが、在りし日の素波里峡核心部だ!
↓↓↓


「素波里ダムパンフレット」より

これは、秋田県が公開している素波里ダムパンフレットに掲載されていた写真で、
恐ろしく切り立った安山岩の絶壁が咬合するような狭い回峡部の側壁に、鑿で削ったような片洞門の道が付けられている!
この道こそ、素波里の景勝を世に広めた粕毛支線の路盤であり、“●●の耶馬溪”は各地にあるが、ガチで凄いとこだった!

惜しいッ! なぜ沈めてしまった……。

そして、この写真によく目をこらすと、奥に隧道が口を開けていることに気付く。
明らかに5号隧道とは立地が異なっており……、初めて見る 6号隧道の上流側坑口だ!

ダムは、この6号隧道の上流側坑口付近、堅牢な安山岩で谷が究極に狭められた位置に中心線を与えられ、
隧道全体を包含する範囲に台形断面の重力式コンクリートダムとして建造された。
隧道ともども、この景色は未来永劫全て、【水の下】に消えているわけだ。





「藤里町史(新)」より

この峡谷核心部の写真をさらに見つけた。
これは平成25(2013)年に発行された『藤里町史』(昭和50年にも『藤里町誌』が刊行されている)に掲載されていた写真で、素波里峡の写真であることしか本文からは分からないが、前掲の写真と見較べると、峡谷核心部の片洞門地帯を写したものだとはっきり分かる。

よく見ると、路肩には低い石垣が構築されているようで、その下に安山岩の特徴的な節理のある岩盤が水面に落ちている。
おそらくこのような構造が、私が探索した【ダム直下の路盤】にもかつてあって、風化やダムの放流水によって石垣の部分が壊されたいまでも、基礎の岩盤だけが残っているのだろう。

これほどの片洞門の開鑿は、記録的な難工事であったと想像されるものの、建設した秋田大林区署側の著述は未発見であり、工事ぶりは不明である。
全国の森林鉄道の中でもきっと一級品に属したであろう土木構造物が、いまや数枚の写真が残るばかりというのは惜しいことだ。もし現存していたらと思わずにいられない。


「秋田魁新報昭和52年4月17日号」(朝刊14面)より

失われた6号隧道の近影が見たい!

私は秋田魁新報のバックナンバーを漁って、右の写真をついに見つけ出した。
これは昭和52年4月17日号に掲載された「観光30景その後」という記事に「25年前の素波里渓」のキャプションと共に紹介されていた写真で、記事が出た当時は既にダムの湖底となっていた風景だが、隧道の坑口が右に見切れながら写っている!

5号隧道とは立地が違うので、6号隧道の上流側坑口と見て間違いない。
観光客だろう数人の足元に玉石練積らしき石垣が見えており、在りし日の路盤を感じる。

なお、今回の冒頭で紹介した【大正時代の写真】とも同じ地点と思われる。
ここも5号隧道と同様に大定番の撮影地点だったようで、後にさらに別の写真も見つかるが、幽峡の最も狭まる白眉の地だったのだろう。


こうして、私は探し求めた2本の隧道たちの在りし日の風景をそれなりに知ることが出来た。
彼らは本当にすばらしい風景の住人たちであった。
これほどの風景を消し去ってしまうダム開発は、おそらく今日であれば社会に許容されないか、されるとしても実現には数十年の議論を要したことだろう。
だが、現実の素波里ダムは、建設省の調査開始(昭和28年)から20年もかからずに完成している。
次の章では、そのあたりの背景を探っていこう。




素波里峡史(2) 〜ダム建設前夜〜



「秋田魁新報昭和33年8月18日号」より

素波里にダム建設を
水害の藤里村で運動

垂直の崖が両岸相迫り、かつ上流に大開の盆地が存在する粕毛川の素波里一帯は、古くからダム建設の適地と考えられており、様々な事業者が計画を検討していた。
しかし、いろいろな理由から実現されずにいたのだが、その実現を最も強く求めたのは粕毛川流域に住む旧藤里村の住人たちであり、その大きな声がダムの実現をもたらした。
今日の多くのダム開発が、まずは近隣住人たちによる反対運動と対峙せねばならないこととは大きく異なる事情が、素波里ダムにはあった。

左図は、旧藤里村(現藤里町)の位置を示した地図だが、村役場がある中心集落の藤琴は、藤琴川と粕毛川の合流地点の低地にあり、他の集落もほとんどが両川沿いの低地にあった。

白神山地に降る雨はこれらの川に一度に集まって流下するうえ、藤琴より下流の米代川合流地点まではほとんど落差がなく、米代川もこの付近で激しく蛇行して水捌けが悪いため、一帯は県内でも有数の洪水多発地帯としての苦渋を生来舐め続けてきたのだ。

右は、藤里村の悲痛の訴えを見出しで語る記事である。
昭和33(1958)年8月11〜12日に藤里村を襲った局地的豪雨により、村内では1人が亡くなり、全農地の8割が冠水埋没、17箇所の橋が流れ、江戸時代から操業していた太良鉱山も閉山に追い込まれるなど、被害総額4億円に近い甚大な被害を受けた。

同村の水害は22年から現在まで被害のこうむらなかった年は24年、29年の2ヶ年だけ。ほとんど毎年のように橋が流されたり堤防が決壊するうき目にあい、災害復旧に村財政は苦しくなるばかりで、根本的に河川の改修を考えねばならぬ時においこまれている。
今回の大水害で各方面の調査団の一致した見方は、多年懸案の粕毛川上流の素波里ダム工事を一刻も早く着手することが水害防止の根本策であるといっている。
(中略)
昭和24、5年ごろ同和鉱業が着手する予定でいたが、資金の関係で中止、また東北電力でも2、3年前調査をしたが、森林鉄道の補償費で保留、こんにちに至っている。
「秋田魁新報昭和33年8月18日号」より

「写真集:藤里町」より

林鉄の補償費が原因でダム建設が保留されているとは、思いがけないところで森林鉄道が悪者に仕立て上げられている記事だが、村の産業の中心が林業である以上、その輸送動脈である森林鉄道は村にとって欠かせないインフラだった。 とはいえ、こうした水害が起こる度に真っ先に破壊されるのも、川沿いを通る森林鉄道たちだった。

森林軌道のレールをおそるおそる
つたいながら進む調査団
(昭和33年)

右の写真は、この時の水害で壊滅的な被害を受けた藤琴森林鉄道の風景であり、おそらく素波里峡のどこかと思われる。
特に被害甚大だった藤琴川沿いの本線は、藤琴より上流については復旧を断念し、車道化することとなり、粕毛川沿いの粕毛支線を新たな本線として(名称を二ツ井林道に変更のうえ)当面利用することになったのだった。

ダムを早くという藤里村の願いは、この時点ではまだ結実を見なかった。
それでも実現に向けた調査が行なわれていたのは間違いなく、今回の探索の導入で大きな役割を果たした地質調査所による論文が『地質調査所月報 第12巻 第1號』に掲載されたのは昭和36年だった。この時点ではまだ事業者も決まっていない“調査”の段階だったが、技術的な可能性が確かめられた意義はあったはずだ。




「秋田魁新報昭和38年7月27日号」より

水害の村藤里を行く
惨状にぼう然の顔…顔
素波里ダム早期着工のぞむ

昭和38(1963)年7月25日、藤里村を再び局所的な大水害が襲った。
粕毛川が破堤し避難途中の親子が犠牲となったほか、橋の流失12本、森林鉄道流失20km(!)などの被害があり、被害総額約3億円と見積もられている。

なかでも営林署関係では(中略)素波里の手前の浅渡鉄橋(約100m)などが流失、被害は1億円近くに達するもよう。
「秋田魁新報昭和38年7月27日号」より

「秋田魁新報昭和38年7月31日号」より

早く“素波里”にダムを
藤里近く関係方面へ陳情

ここに写っているのが素波里の入口にあたる浅渡鉄橋で、現在もこの主塔だけが【残っている】が、粕毛川を渡るこの橋の落橋が、昭和33年の水害からは辛くも生還した林鉄に引導を渡すこととなったようで、昭和36年に二ツ井林道へ名前を変えていた粕毛支線は復旧されないまま、昭和38年10月18日付けで廃止となった。(村内では内川支線滝ノ沢支線だけが存続)

こうして、長らく素波里の足であった林鉄も失われ、図らずも軌道の水没補償問題は解決。
唯一の水没集落となるはずの大開(14戸)も、唯一の交通機関が失われたことで自主的に離村する人が続出し、こちらの水没補償の規模も縮小していった。
ほとんどの村民が素波里ダムの建設を願い、熱心な陳情活動を生んだ。



秋田県がここで男気を見せる。
昭和40年に秋田県は、1日でも早く素波里ダムを実現するべく、それまで建設省が10年来も調査を進めていた素波里ダムを急遽、県営事業として採択したのである。
秋田県では昭和41年に県営ダム第1弾となる萩形ダムを同じ米代川水系の小阿仁川に完成させており、やや上回る規模の素波里ダムも、県営第2弾として実現出来ると判断した。
ここからはもうダムの実現を妨げるものはなく、昭和42(1967)年9月に盛大な歓迎のもとに着工式を迎えた。


追記 5号隧道前の橋は木橋からプレートガーダーに架け替えられていた

5号隧道前の入江には、いかにも墨絵的な風趣を添える木橋が架かっていた。
これは複数の【古写真】によって間違いのない事実と判明しているが、林鉄時代の末期にはより頑丈な橋に更新されていたことが判明した。
二ツ井・藤里の古い写真 矢作恭一氏アルバムから」で公開されている写真のうち、「粕毛分線素波里機道」というのがそれで、5号隧道前の木造桟橋が、昭和32(1957)年にプレートガーダー橋に更新されていたことが分かる。

こうした型式の橋は、故意に撤去されない限り、廃止後も長く原形を留めることが多いのだが、現存しない。
もしかしたら、完成翌年の水害(後述)を生き残れなかった可能性さえあり、遅くとも6年後には廃止されるわけだから、なんとも不運な橋であった。
逆に考えれば、橋の強化を行なった昭和32年時点では、残り数年で廃止するという意図は無かったということだろう。


次の章では着工後のストーリーをお伝えするが、その前に、在りし日の最後の素波里峡を見てもらいたいと思う。
昭和38年7月末の水害から2ヶ月あまり経過した10月初旬、浅渡には仮橋が設けられ、素波里峡一帯の軌道跡が牛馬道として再整備されたという記事がある。同記事によれば、粕毛川上流で砂防工事を行なうための処置とのことだが、おかげで紅葉シーズンには素波里峡を歩いて訪れることができると歓迎していた。

読者の藤の樹さまから、たいへん貴重な古写真を多数ご提供いただいたので、ご覧いただきたい。


お別れ前の素波里峡 天然色写真集  〜藤の樹氏のアルバムから〜


提供:藤の樹氏

撮影者は、藤の樹氏のご祖父さまである。
撮影時期は、昭和33年の水害から、昭和42年のダム着工までの間との見立てであるが、いろいろな特徴から、昭和38年10月の牛馬道化からダム着工までの期間だと判断した。

1枚目の写真は、浅渡橋だ。
カラー写真なのが嬉しい!……が、被写体を観察してみよう。

まず、主塔は林鉄時代のままであるものの、床板は華奢な木造であり、機関車が通れる状況ではない。
また、河中にはどこかから流れてきたようなコンクリート片や、対岸の荒れた様子などが、大洪水の跡を感じさせる。


提供:藤の樹氏



5号隧道の写真!!

これまでカラー写真は一度も見たことがなかったので、非常に興奮してしまった。

隧道の姿は、これまで見たどの時期の古写真でも変化が無く、さすが悠久の時を侵食に耐えていた巌だと思うわけだが、常に変化しているのは手前の桟橋だ。

【昭和11年】の本では木橋だったが、昭和32年にはプレートガーダー橋に架け替えられた。
しかし、それからたった数年後には、また木橋に逆戻り。それも、いままで見たなかで一番華奢な姿である。

おそらくだが、昭和32年にせっかく新設した鉄橋も、昭和38年の水害で流失してしまったのだろう。
だから再び前時代に逆戻りしたような木橋を架けねばならなかったのだ。


さて、5号隧道があるということは、当然その次の写真は……



提供:藤の樹氏

6号隧道の写真だー!!!

昼なお暗いという表現がかくも似合う幽玄の碧潭――。

この隧道が残っていたら…… ああっ ああーーっ!!

考えただけで悶えが出る。

いまも湖底に沈んでいるのならば、まだ現存を想像する余地もあるといえるが、ちょうどここが堤体の直下であり、その厚みに完全に呑み込まれているから始末に悪い。
せめて、この隧道を利用した感想を聞いてみたいが、唯一私が知っているそれは、『地質調査所月報 第12巻 第1號』の調査者が記した、こんな柱状節理みたいなコメントだけだ。

この地点は輝石安山岩およびその集塊岩・凝灰角礫岩・凝灰岩質泥岩の卓越するところであって、ダム中心線付近を占める溶岩流は相当に堅硬・緻密で黒灰色ないし濃緑色を呈し、谷斜面はほとんど直立に近い壁面をなしている。しかも溶岩流特有の板状節理(まれに柱状節理)がよく発達しているので、岩質の緻密の割りに岩体としては漏水の恐れがないとはいえない。中心線の約40m下流に位する軌道の隧道に雨宿りをした際に、激しい雨漏りを体験したくらいであるから、溶岩のダムサイトの締切りには、よほどの注意が必要である。
「地質調査所月報 第12巻 第1號」より

雨宿りの最中、俺だったらずっと勃●してると思う。




藤の樹氏からは、これまで見たことがなかったアングルの写真もいただいた。

6号隧道の上流側坑口に立って、上流方向を眺めたものだ。

【パンフレットの写真】の逆アングルとも言えるもので、いまは湖の一番深い湖底となった景色である。




提供:藤の樹氏

【ここから】70mほど沈降すると、こういう場所があったのだ。

本当によくぞ、軌道を開削したと思う…… 圧巻だ。

路盤が狭いし、本当凄い……。



素波里峡史(3) 〜ダム建設中 と 完成後〜


林鉄の開通が素波里峡を世に開き、林鉄の廃止と共に素波里峡は世を去ることになった。
昭和42年10月に県営素波里ダムの工事が始まると、素波里峡一帯は危険防止のため一般人立入禁止となり、完成する3年後の昭和45年まで、報道以外で峡内の風景を見る機会もなくなった。

この期間における私の興味は、2本の隧道たちの末路である。

素波里ダムは工事誌が刊行されていないので、『秋田県企業局五十年史』や、秋田県の古い広報誌『あきた』、建設業界紙(例、『開発往来 1969年7月号/70年11月号』『ダム日本 278号/298号/313号』など)に記事を漁ったものの、そこにあった林鉄隧道をどう“処理した”かなんていう些末なことの具体的記述はなかった。
ただ、最末期の軌道跡を撮影した写真はいくつもあったので、この章で紹介していこう。


← 古い                (歴代航空写真)                → 新しい
昭和40(1965)年 昭和45(1970)年 昭和50(1975)年

まずは着工前、工事中、完成後の3枚の航空写真を比較してみよう。

この工事中の写真に見える一帯の白さが、工事の盛大さを何より物語っていると思う。
あの大絶壁の上も下も、手を付けられていない場所はないと思えるほどで、いまは再び樹木を取り戻した一帯だが、工事中はかくも伐採されていた。
堤体に呑み込まれた6号隧道は当然としても、5号隧道も周囲は真っ白であり、早々に取り壊されてしまったのだろうという気がする眺めだ。



「ダム日本 278号」より

左の写真は、『ダム日本 278号(昭和42年12月号)』に掲載されていた、着工直前の建設予定地を上流側から撮影したものだ。

素波里峡の最も狭く、最も美しい峡谷部に、白書きの線が入っている。
風景の中で唯一人工を感じさせる直線は、もちろん軌道跡だ。
この頃が、軌道跡を通行できた最後だったろう。





「秋田魁新報昭和43年5月26日号」より

県民の注目度の高さを裏付けるように大きな魁の全面記事は、昭和43年5月26日号のもの。

一番大きな右の写真は、ダム建設予定地付近を下流側から撮影したものであるようだが、残念ながら6号隧道の下流側坑口は見えていない。
左上の写真は、現在の県道である天端へ通じる工事用道路の架橋工事風景で、左下は私も潜った【仮排水路】の活躍している姿だ。いくらか形が違うように見えるが、後述する完成後の洪水の影響かと思われる。
そして中央の縦長写真が、私にとって特に重要だ。

この近くにダムサイトが造られる。岩が削り取られ、資材運搬用の道路工事が進められている。かつては素波里峡で最も景色のよいところだった
「秋田魁新報昭和43年5月26日号」より

5号隧道と6号隧道の末路は、この写真とキャプションに答えがあるということだろう。
この写真の撮影地点は、おそらく【この辺り】である。
ダム下部にアプローチする唯一の通路となった軌道跡は、最後に資材運搬用道路となる程度まで切り広げられたのだろう。
その際に短かった5号隧道は山ごと切り崩され、全長3〜40mはあった6号隧道も、ダム建設のための地均しや、地表付近の風化層を除去する過程で失われたのだろう。

この写真には沢山の丸太が写っているが、これはなんだろう? 現在も残る【謎の木材】と関係があるのだろうか。




「ダム日本 298号」より

これは『ダム日本 298号(昭和44年8月号)』に掲載されていた写真で、建設初期のダムサイトを下流側から写したものだ。

仮排水路の位置から見て、(チェンジ後の拡大画像の)黄破線の位置までかつては岩尾根が出っ張っていて、赤破線の位置に5号隧道があったと思われるが、比較的工事初期のこの風景から既に隧道は失われているようだ。

私の知りたかったことは、ここまででだいたい分かってしまったので、少し脱線するが、現地探索で強烈な印象を私に与えた……【何かが潜んでいそうな深淵】……の底について、普段は絶対にすることができないこの場所についての、工事中ならではの“暴露情報”をリークしたい。


「開発往来 vol.13 no.7」より


この得体の知れない写真は、『開発往来 vol.13 no.7(昭和44年7月号)』に掲載されていたもので、完全に水を抜いた川底だそうだ。

なんでも、一番深い所は水面下15mもあったということで、この写真は全て淵の水面下に隠されていたという。
水が何万年もかけて、真っ暗な谷底を、人知れずこんな異形に彫り続けてきたのだと思うと、なんだか気持ちが悪い。

……工事関係者だってそう感じたと思うのだが、彼らがすべき事は他にあった。

河床堆積砂礫の掘削は通常の場合は簡単な作業である、しかしここの場合は漏水と狭窄部のために最大の難工事であった。この狭窄部の規模は幅2〜5m、深さ7〜15mで上部締切りから下部締切りまで続いておりブルドーザー、バックホー、クラムシエルと手を代え品を代えても思うにまかせずほとんど人力に頼らざるを得ない状態で約5000立方メートルの掘削に2ヶ月の日数と岩掘削以上の工費を要した。
「開発往来 vol.13 no.7」より

ここに軌道を敷設した男どもも、水を抜いてダムを造った男どもも、ほんとすげぇ…。



「ダム日本 313号」より

これは『ダム日本 313号(昭和45年11月号)』に掲載されていた写真で、完成間際のダムサイトを上流側から写している。湛水開始直前とみられる。

6号隧道の上流側坑口は、(チェンジ後の画像の)○印のあたりにあったはずだが、もう見えない。
それでも、上流に連なる岩壁の裾部には、片洞門だった軌道の名残がまだ見える気がする。

……おそらくこの姿のまま水没していったとは思うが、長年の湛水によって湖底に分厚い土砂が堆積しているだろうから、仮にいまのダムの水位をゼロにしても、地表に現われはしないんだろう…たぶん。



「開発往来 vol.14 no.11」より

昭和45(1970)年10月19日、県営素波里ダムと県営素波里発電所は完成した。
現地で行なわれた式典は盛大なもので、秋田県の小畑知事をはじめ、石田博英衆議院議員(秋田県二ツ井町出身)などの政界人や、建設にあたった鹿島建設の幹部が勢揃いした。

当時、日本一の貯水効率を誇るダムと盛んに宣伝されたこともあり、県内の注目度は非常に高く、素波里は湖のある観光地として新たなスタートを切った。
そして、このダムを誰よりも渇望してきた人々…、ダム建設のきっかけとなった水害の年の11月に町制施行していた藤里町の住人もようやく、当然の平和を手にすることが出来たのだった。


素波里ダム 生まれたままの姿の写真集  〜藤の樹氏のアルバムから〜


提供:藤の樹氏

藤の樹氏ご提供の写真第2弾は、ダム完成当時の風景である。

これは素波里発電所の放流口付近からダムを遠望した風景だが、現在と大きく違う部分がある。
当時は、放流口の対岸には広い地面があって、そこに赤い屋根の建物があった。
その土地が現在どうなっているかといえば、【こんなんで】、全く面影がないではないか!

なんで?!



提供:藤の樹氏


こちらは反対に堤上から見下ろした風景(現在の写真は【こちら】)で、まだ一部完成前らしく、例えば前述の“広場の赤い屋根の建物”もないのだが、既に広場自体は明確に存在していて、そこに数台の車が駐まっている。
間違いなく、現在とはこの辺りの地形が変っているのである。

そして、この写真はこれまで見たもので最も明瞭に、5号隧道の末路を見せてくれた。
それがあった場所は確かに切り崩され、上記の広場から河原への車両進入路となっていることが明らかだ。
工事中、車両はここを通って、ダム直下へ入っていたようだ。

現在は往昔を彷彿とさせる【入江】になっている辺りも、当時は完全に路面化していて、全く様子が違う。
なぜ、これほどの変化が起きたのだろう。単に時間の経過によって緑化したのとは明らかに違っている。

この最後の疑問の答えも、魁の記事が教えてくれた。




「秋田魁新報昭和47年7月11日号」より

素波里発電所こわれる
ダムの放水で
復旧に6ヶ月

今月7日からの記録的な豪雨で、山本郡藤里町の粕毛川上流に建設した県営素波里発電所が一瞬のうちに破壊、1億2000万円余りの被害を出した。素波里ダムが、毎秒最大740トンにものぼる水を放水したため、そのしぶきがかかったというのが県の説明。
「秋田魁新報昭和47年7月11日号」より

どこまで行っても完全に克服できることはないのが、自然災害の恐ろしさだ。
ダム完成の2年後には、再び藤里町をはじめとする秋田県全域を水災が襲った。
これは気象庁によって昭和47年7月豪雨と命名されており、全国で死者行方不明1056人に上った。秋田県内でも広い範囲で堤防の決壊による洪水が発生し、1万戸以上の家屋被害があったが、死者も負傷者もなかった。この時の被害は上流の藤里町より、下流の二ツ井町(現能代市の一部)や能代市でより重かったが、藤里町の被害がこれまでより軽度で済んだのは、素波里ダムによって藤琴川と粕毛川の流量にいくらか時差を持たせられたためとみられる。

しかし、この時の放水の勢いが強すぎた(毎秒740トンは約28分で東京ドームを満タンにする放水量)ために、ダムの下流に置いていた自らの発電所を壊したというのだから、なんとも恐ろしい。
写真には水没してしまった発電所が写っているが、低地にあった広場や附属建物も失われたのである。

最後に、この時の放流の模様をご覧いただこう。



「写真集:藤里町」より



マジかよ(笑)。

私とHAMAMIの首が仮に超合金で出来ていたとしても、これには耐えられなかったと思う。

高さ72mのダムの天端よりも高く水煙が上がっているのも凄いし、発電所の附属建物(←これがこの後流失する)の背後に見える巨大な白い塊は、現在もあるスキージャンプ式放流路を流れる毎秒740トンの瀑布だ。
撮影した人物も、良く撮ろうと思ったな。素波里神社辺りから撮ったと思われるが、命知らずすぎる。
当然、発電所の所員も避難していたというのに。

おそらく、この日の出来事によって、ダム下流にあった工事残滓物を全て流失し、本当に必要な発電所だけが再建により残される形になったのだ。
素波里峡が少なからず峡谷の威厳を取り戻したのは、この出来事によるものだったのだ。




いかがだっただろうか。
今回の現地探索は、たった300mを一往復しただけの小さなものだったし、そこで見つけた遺構もごく少なかった。
しかし、私はそのことで余計に5号隧道と6号隧道を暴きたい気持ちに火がついた感じがあった。

藤琴森林鉄道の歴史は、洪水と決して切り離して考えることが出来ない。
その最も象徴的な場面が、素波里峡であったといえる。
そこを探索してしまったのだから、簡単で済むはずがなかったのである。