「写真集:藤里町」より
素波里峡を訪れた粕毛青年団一行
昔から景勝地、遊泳場として訪れる人が多かった
(大正時代)
今回の探索のきっかけとなったのが、『写真集:藤里町』に掲載されている【古写真】だったが、同書には素波里峡の写真が他に2枚掲載されていた。
そのうちの1枚が(←)これで、大正時代の写真だという。
素波里峡を軌道が初めて通過したのは大正10(1921)年(『藤里町誌(新)』は大正9年としている)であり、この写真はおそらく軌道敷設以前、川沿いの道がまだなく川舟で探勝されていた時代のものと思われる。
菅江真澄が享和2(1802)年6月1日(新暦7月14日)にここを訪れたときも、素波里神社(当時は素波里不動と呼ばれていた)から小舟に乗って峡内を探勝しており、「須波利といふ迫り立る巌のはざまに、つとこぎ入る。岩ごとにそばだちて高う、淵は、さおにふかけれど水の心はしずかなれば、みなそこのくまなう見やられて清し」
と、水静かな恐ろしく深い淵のことを書いているが、これは大正時代の写真とも、私がダムの直下で見た風景とも、同じ印象だ。
「写真集:藤里町」より
素波里は鱒、鮭、鮎の豊庫であり、舟を出して漁をする人も多かった
(昭和31年)
写真集にあるもう1枚がこれで、川舟が浮かぶ水面を見下ろす高みに、レールの敷かれた立派な路盤が写っている。
この写真の詳細な撮影地も従来は明らかでなかったが、今回の探索で判明した。
ポイントは奥に見えるカーブした部分で、小さく桟橋のようなものが見えている。そのすぐ奥は、写真では黒つぶれしているが、5号隧道があったのに違いなく、つまりこの撮影地点は……
←ここ!
背景に見える山の形からもこの位置で間違いないと思う。
そうなると改めて、路盤の荒廃や5号隧道があった岩尾根が消滅していることなど、大きな変化が目白押しだ。微妙に水位も上昇しているが、これも素波里ダムの一部である副ダムの効用によるものだろう。
ダムの完成から時間が経過し、一帯に緑が戻ってきているため、これがコンクリートで作り替えられた風景だという印象は薄いが、実際はこれほど変化していたのである。
それでも、我々が歩いたダム直下の平場が確かに軌道跡だったことが、この古写真から確かめられた。
左図は、昭和28(1953)年版の地形図で、在りし日の素波里峡を描いている。
しかし、「素波里峡」という地名はダムに呑み込まれる最後まで記載されたことがなく、地図上では恐ろしく狭い峡谷を軌道が恐る恐る通過している風景しか見えない。
昭和27年に秋田魁新報社の読者投票により「素波里」は観光秋田30景第17位に選ばれているなど、県民にはよく知られる観光地であったが、それでも県外から訪れる人は比較的少なかったようだ。軌道を歩く以外に探訪の術がなかったことも、都人士には恐れられたことだろう。
「観光の栞 二ツ井及び其の附近」より
素波里峡を写した写真の被写体として、5号隧道はしばしば選ばれている。
右の写真は『写真集:藤里町』の【例の古写真】とそっくりで、明らかに同じ隧道だが、昭和11(1936)年に成田先史学研究所が発行した『観光の栞 二ツ井及び其の附近』という古い観光ガイドに収められていたものだ。
同書には解説文もあり、林鉄に関する描写があるので、関係箇所を抜粋してみよう。
(略) 近年、秋田営林局の森林軌道が、この地方までも延長せられたので、藤琴よりは徒歩のほかなかった素破里も、頗る便利になった。二ツ井からは、二時間足らずで素破里に達するから、最近は、特に夏期の間遊覧の人々が絶えない。
森林軌道は二ツ井から大開まで直通し、太良本線とは藤琴から分岐して、粕毛川に沿うて走り、大開までの線沿、渓流の展開著しく、頗る勝景に富んでいる。素破里はその中間にある。(略)
軌道は、素破里神社の傍を通り、左手に瀧を樹間に隠見しながら進んで、やがて絶壁の間を縫うて、巧に開鑿されたトンネルを潜り、右手に深淵を見下ろしつつ進む。対岸の岩壁忽ち迫り来るかと思うと、俄に展開して、眼界に入り来るもの、樹と巌と流れ。淵が一転して瀬と成るあたり、さながら人生の縮図のようであるのは、興趣尽きない。
ここにあるとおり、素波里に観光地としての道を拓いたのは、森林鉄道であった。
車窓が詳細に記述されており、下線部が今回私が辿ったルートに相当する部分だ。
すなわち、「対岸の岩壁たちまち迫り来る」までが辿れた上限であり、その直上にダムが築造されているため、我々の探索は打ち切られた。
これより少し古い昭和3(1928)年に訪れた紀行も紹介しよう。
俳人の名和三幹竹(なわさんかんちく)が石井露月らと共に素波里吟行を行なった際の随筆「能代から素波里へ」(「懸葵」25巻12号所収)の一説だ。(石井露月(秋田県河辺郡の人)を藤里町では素波里観光の恩人として顕彰しており、素波里神社に句碑が建ててある)
当時は軌道敷設からまだ日が浅く、機関車入線以前だから、手押し軌道だったはずだ。粕毛支線に機関車が入るようになったのは昭和10(1935)年からである。
そして、立地からして無理からぬこととは思うが、水害には昔から弱かったらしく、彼らが吟行に訪れた際も運休していたらしい。
注目は、“秋田の耶馬溪”という表現がなされていることで、昔の日本人は峡谷といえばまず耶馬溪を頂点と考えていた節がある。
そのため、“秋田の耶馬溪”は随分と大きく出た表現のように思えるが、次にご覧いただく素波里峡“核心部”(現在は湖底)の写真を見れば、決して大袈裟でも無かったと納得されるのではないか。私はそうだった。
これが、在りし日の素波里峡核心部だ!
↓↓↓
「素波里ダムパンフレット」より
これは、秋田県が公開している素波里ダムパンフレットに掲載されていた写真で、
恐ろしく切り立った安山岩の絶壁が咬合するような狭い回峡部の側壁に、鑿で削ったような片洞門の道が付けられている!
この道こそ、素波里の景勝を世に広めた粕毛支線の路盤であり、“●●の耶馬溪”は各地にあるが、ガチで凄いとこだった!
惜しいッ! なぜ沈めてしまった……。
そして、この写真によく目をこらすと、奥に隧道が口を開けていることに気付く。
明らかに5号隧道とは立地が異なっており……、初めて見る 6号隧道の上流側坑口だ!
ダムは、この6号隧道の上流側坑口付近、堅牢な安山岩で谷が究極に狭められた位置に中心線を与えられ、
隧道全体を包含する範囲に台形断面の重力式コンクリートダムとして建造された。
隧道ともども、この景色は未来永劫全て、【水の下】に消えているわけだ。
「藤里町史(新)」より
この峡谷核心部の写真をさらに見つけた。
これは平成25(2013)年に発行された『藤里町史』(昭和50年にも『藤里町誌』が刊行されている)に掲載されていた写真で、素波里峡の写真であることしか本文からは分からないが、前掲の写真と見較べると、峡谷核心部の片洞門地帯を写したものだとはっきり分かる。
よく見ると、路肩には低い石垣が構築されているようで、その下に安山岩の特徴的な節理のある岩盤が水面に落ちている。
おそらくこのような構造が、私が探索した【ダム直下の路盤】にもかつてあって、風化やダムの放流水によって石垣の部分が壊されたいまでも、基礎の岩盤だけが残っているのだろう。
これほどの片洞門の開鑿は、記録的な難工事であったと想像されるものの、建設した秋田大林区署側の著述は未発見であり、工事ぶりは不明である。
全国の森林鉄道の中でもきっと一級品に属したであろう土木構造物が、いまや数枚の写真が残るばかりというのは惜しいことだ。もし現存していたらと思わずにいられない。
「秋田魁新報昭和52年4月17日号」(朝刊14面)より
失われた6号隧道の近影が見たい!
私は秋田魁新報のバックナンバーを漁って、右の写真をついに見つけ出した。
これは昭和52年4月17日号に掲載された「観光30景その後」という記事に「25年前の素波里渓
」のキャプションと共に紹介されていた写真で、記事が出た当時は既にダムの湖底となっていた風景だが、隧道の坑口が右に見切れながら写っている!
5号隧道とは立地が違うので、6号隧道の上流側坑口と見て間違いない。
観光客だろう数人の足元に玉石練積らしき石垣が見えており、在りし日の路盤を感じる。
なお、今回の冒頭で紹介した【大正時代の写真】とも同じ地点と思われる。
ここも5号隧道と同様に大定番の撮影地点だったようで、後にさらに別の写真も見つかるが、幽峡の最も狭まる白眉の地だったのだろう。
こうして、私は探し求めた2本の隧道たちの在りし日の風景をそれなりに知ることが出来た。
彼らは本当にすばらしい風景の住人たちであった。
これほどの風景を消し去ってしまうダム開発は、おそらく今日であれば社会に許容されないか、されるとしても実現には数十年の議論を要したことだろう。
だが、現実の素波里ダムは、建設省の調査開始(昭和28年)から20年もかからずに完成している。
次の章では、そのあたりの背景を探っていこう。