廃線レポート 杉沢森林鉄道  第1回

公開日 2015.11.14
探索日 2005.11.6/2015.11.13
所在地 秋田県五城目町


【周辺図(マピオン)】

人口30万を数える県都秋田市の東部は、市民歌にも歌われている名峰太平山の懐に抱かれた山岳地帯であり、そこから天然秋田杉を伐出する目的で明治末に敷設された旭川沿いの仁別森林鉄道(正式名は仁別林道)は、珍しい県庁所在地の中心駅から出発する森林鉄道として、昭和40年の廃止まで健気な活躍を続けていた。

その最盛期であった昭和初期には路線網の拡張も旺盛で、昭和10年には秋田営林署管内の旭川流域だけに飽きたらず、大平山系の分水嶺を長さ550mもの隧道で貫通して、隣の五城目営林署管内である馬場目川水系に突入した。そして同15年には北ノ又辺りまで路線を延ばし、全国的にも珍しい峠越えのある林鉄となった。だが、峠越えの長い逆勾配区間(通常の林鉄は空荷の状態で山を上り、木材を乗せて山を下る。これを順勾配といい労力を削減できたが、これと逆になることを逆勾配という)を持つこの奥馬場目線は不便だったようで、昭和16年には杉沢に新たな拠点となる貯木場が設けられるとともに、杉沢〜北ノ又間の5kmに杉沢森林鉄道(正式名は杉沢林道)が建設されると、翌17年にこの路線は廃止され、五城目営林署管内の区間の大部分が前述の杉沢森林鉄道に組み込まれた。さらに昭和25年には銀ノ沢まで延伸され、そこに設けられた製品事業所が終点となった。これにより本線は杉沢〜銀ノ沢間の11.5kmとなった。前後にいくつかの支線も建設されたが、この本線は廃止まで変化しなかった。
なお、森林鉄道としての規格は本支線とも全て二級で、動力車には蒸気機関車ではなく内燃機関車(ガソリンカー)が使われた。

県都から山一つ隔てた渓流を舞台に働いていたこの中規模の森林鉄道には、特筆すべきことがひとつだけあった。
それは、運材列車が運行された最終日が昭和46年9月であり(書類上の正式な廃止日は昭和47年8月18日)、これは秋田営林局管内(秋田県・山形県)は無論のこと、東北地方全体で見ても国有林森林鉄道として最も遅く、本州でこれより後まで運行していた国有林森林鉄道は、おそらく木曽の王滝森林鉄道(昭和50年廃止)だけではないかと思われることである。

東北地方最後の林鉄、それが杉沢森林鉄道であった。




このように林鉄史上において希有な「新しさ」を持つ杉沢林鉄であるが、私というオブローダーとの関わりにおいては、むしろ「古さ」に特徴がある。
私が生まれる5〜6年前まで現役で活躍していたこの林鉄の跡地は、中学生となった私が秋田で山チャリに目覚め、その後数え切れないほど走り回った太平山地に、杉沢林道という名前の楽しい林道として待ち受けていたからである。

最初は林鉄跡という意識をまるで持っていなかったが、沿道に怪しげな廃隧道が見える事などを気にしてはいた。そこに意味も分からず立ち入ったこともあった。
その後、私が徐々に“山チャリスト”から“オブローダー”にジョブチェンジしていく中において、走ることから探索へと軸足を移しながら、繰り返し訪れている。
特に秋田から東京ヘ引っ越す2007年までは、2年と間を置かずに訪れ続けた。
ゆえに、杉沢林鉄と関わりがあるレポートは、「山行が」の初期にいくつか編まれている。
例えば、奥馬場目線の峰越しの隧道がある。→(2003年2004年2006年)。
また、レポートはしていないが、支線を含む大体の区間についても、この“秋田時代”に一通りの探索を済ませていた。

だが、あまりに古い探索は、当然のように今とは違った知識でなされ、記録のための機材も現在とは異なっていた。
灯台下暗しという言葉があるが、身近な所は初期に探索して満足を得てしまい、そのまま長らく放って置かれることがある。
そんなところにこそ、何か見逃されていた、大きな成果が潜んではおるまいか。
というような期待とともに、10年ぶり程度の定点観測の意味も込めて、杉沢林鉄の主だった遺構を、2015年(平成27年)11月に訪れてみた。

本レポートは、変則的な構成をとっている。
この「第1回」は2005(平成17)年の探索をベースに、2015年の状況を追記の形で書き加えたが、「第2回」以降は2015年の探索をベースに、補足として2005年の状況を附記することにしたい。




本レポートにて紹介する杉沢林鉄の区間は全部で3箇所だが、このうち「第1回」と「第2回」では、右図の区間を採り上げる。
これは北ノ又地区にある約2.7kmの区間で、現在の地形図で川沿いに描かれている徒歩道が軌道跡である。
昭和38(1963)年の地形図と較べてみると、かつては川沿いを軌道が通っていたことが分かる。

現在の道路は、林鉄の廃止間際に整備された自動車道で、杉沢林道と呼ばれている。
杉沢林鉄の跡地の大部分はこの車道に呑み込まれてしまったが、この北ノ又付近にのみ、まとまった長さの“軌道跡”が取り残されており、探索し甲斐のある区間となっているのである。

なお、杉沢林道は後に県道の認定を受け、県道15号秋田八郎潟線となっているが、秋田市仁別に通じる山越え区間は改良が進んでおらず、昭和初期に林鉄が長大な隧道で貫いていた峠は、未だに自動車交通不能区間として取り残されている(林道は存在するが通年通行止め)。そのため、一帯は昭和初期よりも県都への交通の便が悪くなっているようにも思われる。

それでは、馬場目川沿いの最奥集落である北ノ又から、10年前の2005年の目線で、探索を開始しよう。




東北地方で一番最後まで働いた林鉄の廃線跡


2005/11/6 10:03 《現在地》

これが秋田の原風景だ!

なんて誇らしげに書きたくなるほど良い景色のここが、馬場目川最奥の北ノ又集落である。

ここと川を挟んだ向かいにある蛇喰(じゃばみ)集落の風景は、私にとって思い入れがとても深い。
1990年代、私が“チャリ馬鹿トリオ”の一員としてひたすら自転車を漕ぎ続けていたころ、大平山系を横断できるいくつかの林道は全て楽しいフィールドで、中でも日帰りに手頃だった仁別から五城目に抜けるこの道は定番中の定番だった。意味もなく深夜の峠越えをして、朝靄の中でこの集落に出て来たこともある。確かその時は自転車のサドルが突然もげて、棒が肛門に突き刺さるという大変な苦しみを味わった(それも帰宅までずっとだ)。

でも、この道の傍らにずっとあった林鉄跡へ本格的に目を向けるようになったのは2000年代に入ってからで、この2005年11月8日の探索も、その一環であった。

なんて思い出話だけでは、読者さまのお腹は膨れないだろう。
早速、林鉄跡のラインを画像に重ねて表示した。でもこの辺りには特に遺構らしいものはないので、さっそく山の中へと入ろう。

2015年11月現在では、ここに何軒もあった萱葺き民家のうち、中央辺りに見える1軒を除いてみな廃屋のようになってしまった。【写真】



上の写真の「赤矢印」の所に立っている、県道15号のヘキサ。

県道の中でも格上の主要地方道のくせに、この少し先から自動車交通不能区間になっていることもあって、昔から味わいのある傾き方をしている。

林鉄時代には峠なんて長いトンネルで超えていたのに、自動車全盛の今日にあってトンネルは無論、まともに通りぬけられる道自体無いって言うのが、「林鉄の時代は林業が盛んでイケイケだった秋田が、今ではしょぼくれちまったんだぜ…」って感じがして複雑だ。




10:05 《現在地》

さて、ここだな。
地形図に描かれている現県道と軌道跡の分岐地点。

ここに別れ道があること自体、今まで意識したことがなかったが、初めて右の道へ入ってみる。
自転車は足手まといになりそうなので、早速置いていこう。



うーーん、なかなか良い雰囲気!

路盤にはレールは見あたらず、枕木も消え失せている。
でも、秋田の林鉄跡でレールの現存を期待するのは、基本的に無茶な話しだと分かっているので、その事への落胆はない。
それでも、このいかにも林鉄跡らしい道の狭さと平坦さは、私の心を動かすものがあった。

それに、今回は探索の時期が良かった。
盛りを迎えた紅葉が、静かな水音を響かせる晩秋の川縁に映えていた。
これから先、2.5kmくらいあるという道のりが、少しも心に重くない。
仮に遺構を見つけられなかったとしても、こんな路盤を歩けるだけで満足だと思った。

…ちょっと、欲張らなすぎカナ?(笑)



10:08 《現在地》

軌道跡を200mほど進んでいくと、広い場所に出た。
地形図では水田の記号が広がっている場所だが、なんとなく予想していたとおり、既に耕作はされていない。
だが、その代わりに北ノ又の印象的な集落景観である茅葺き屋根を維持する為の萱場として利用されているようである。
ここまで軽トラの轍が続いていたのも、おそらくそのせいだろう。

この休耕田は川沿いに300mほど細長く続いており、その間の軌道跡は行方不明である。
最初は川側の畦がそうかとも思ったが、さすがに狭すぎる。
ということで、林鉄の廃止後に路盤を削り取って、水田を広げたものと思われる。

私はのんびりと畦を歩いて、再び谷が狭くなるところまで進んだ。

2015年11月の再訪では、この明るい休耕田に驚くべき変化が起きていた。
なんとこの【写真】のように、休耕田一帯は若い杉の植林地へと変貌を遂げていたのである。
2005年当時は茅葺き屋根のための萱場であったが、茅葺き屋根は廃墟となり、萱場も消失していたことになる。
10年という時間は、山村にも予想以上の変化をもたらすのだと、序盤から思い知った。




よしよし! 

細長い休耕田を抜けると、案の定、再び路盤が現れた。
地形図には、破線とはいえ道が描かれているわけだから、一応現役の道と認識しているが、膝丈の浅い笹藪が路上全体を覆っており、見るからに廃道だ。
相変わらず枕木もレールも見あたらないものの、低い築堤の上に路盤が続いており、この「軌道跡らしさ」という言葉で何でも片付けるのは良くない癖と思うが、そうとしか言えないんだよな実際。

なお、この場所の川側は低い石垣になっていた。
地味ながらも、今回の路盤以外の最初の遺構発見である。

といった感じで、なんとなくこういう静かな展開がしばらく続くのだろうと思っていた私の前に次に現れた遺構は、予想外のものだった。




川に降ろされました。

おそらくここには木の桟橋が架かっていたのだと思うが、既に橋台すら残っておらず、先へ進むためには斜面を伝って馬場目川の流れに入り、そのまま強引に遡行していくよりなかったのである。

川の水量はあまり多くなく、流れも比較的穏やかなのでこの行為自体には余り苦痛や危険を感じなかったが、幾ら廃止が遅いとはいっても放置されていた路盤の荒廃は如何ともしがたいか。

落ちてしまった桟橋に想いを馳せつつ、再び路盤が現れる場所を求めて進んでいく。

その最中にふと見上げたら、

あるはずのないものが、あった。






10:19 《現在地》

芸術品が、あった。

朽ちた木橋という、人と自然が合作した、至上の体験型アート。


俺の一番好きなやつがコレ。

林鉄探索で一番テンション上がるやつもコレ。



水面から見上げると、こんな感じの比高感。

さほど大きくもなければ、高くもない橋だが、

木造であること、

架かっていること、

この二つの美点だけで、もう満点を上げたくなる。

架かっていてくれて、 あ り が と う 。

見つけさせてくれて、 あ り が と う 。



私が迂回した落ちている木橋と、いま見上げている木橋は、極めて近くに近接している。
両者は一連の橋ではないが、片方は完全に落ちて、片方は完全な形で架かっていることの奇遇に心が躍った。

そして私は興奮の余り思わず、この濡れた岩場をほとんどシャワークライムのような感じでよじ登っていた。
少しでも近くからこの橋を眺めたかったのと、余りにも美し過ぎて、有無を言わせず呼ばれてしまったっぽい。

本当に、良くぞ残っていたものだ。
常に水が流れている濡れた岩場に架かっていて、橋そのものもしとどに濡れて、随所にエメラルド色のコケを纏っていた。
傍目には木橋が現存し続けるにはまるで有利さを見出せない地形なのに、何か神秘の保護力でも働いているのかと思うような状況だった。

だが、本橋現存の最大の理由は、もちろん奇蹟なんかではなく、私がこれまで目にしてきたどの林鉄よりも廃止が遅いという、極めて現実的なものだと思う。
多くの林鉄に当てはまる昭和40年頃の廃止と、この林鉄の昭和47年廃止との間にある“数年”という差は、本来の耐用年数が短い木橋にとって大きな差になる。

だから、2015年の執筆時点では、もうこの橋は残ってないだろうなぁと思う…。



これが、私たちの父や、そのまた父の世代が、連綿と受け継いできた木造橋の技術の粋だ。

古写真なんかでは見慣れた「普通の」作りであるが、この「普通の」作りの木橋が新たに作られる事は、もう極めて稀である。
当然、技術を継承している職人も、ほとんど残っていないのだと思う。

この橋が朽ち、人知れず落ちて無くなってしまうことを私にはどうすることもできないが、せめて在りし日の姿を写真にとどめて、皆さまのお目に掛けたいと思う。




この橋の味わいは、桟橋という立地にもある。
それはこの橋が、この地形のためだけに設(しつら)えられたオンリーワンの橋であることから来る評価だ。
もちろん、地形に対するオンリーワンというのは大抵の橋にいえることなのだが、より手作り感(もっと言えば職人芸の手作り感)の強い木橋であるだけに、余計そう思う。

具体的には、この著しく傾斜した斜面に突き立てられた橋脚は、相当に複雑な形をしている。
ベースとなる標準の形を模しているが、各部材の長さや傾斜には地形に対する高度な適応が見られる。
こういうのが職人芸だと思うのだ。
だからこそ、装飾も何もない実用一辺倒の橋なのに、ずっと見ていても飽きない。

それにこの橋は、東北地方で一番最後まで現役だった林鉄用木橋という、ある種の記念すべき存在でもある。(今日、この探索でさらに木橋を見つければ、全てタイ記録となる)




そしてこの異様にモフモフしてるのは、橋の部材の一部である。

守りたい、このモフモフ。

そして、とんでもなく綺麗な清流。

この橋と、それを取り囲む景観は、完全に完成された芸術品だった。



いやはや、本当にいいものを見た!


次回は、この先へ。



【追記】

2015年11月13日(10年ぶり)の木製桟橋

10年ぶりの再訪の大きな目的となったのが、この感動的だった木製桟橋の現状確認であった。
早速その最新の状況を紹介しようと思う。



2015/11/13 9:40 《現在地》

まだ、架かっていた!

が、

だいぶ壊れていた。




覚悟はしていた。

おそらく、全くの無事ではないだろうと、思っていた。

だが、待望の橋は、まさに現在進行形で崩れようとしていた。
それを目の当たりにして、しばし言葉を失う。

その蕩けるようにあらゆる部材が沈みつつある姿は、本橋のみならず、林鉄に属するあらゆる木橋の限界を迎える時期が、既にこの10年を無視できないほどに差し迫っているということを感じさせた。
本橋の10年前は、まだなかなかに堅牢さを感じさせたのだが…。

見たところ、地形には崩れたような様子は無い。10年前と同じように、緑と黒の岩盤は、淑やかな水垂れに濡れていた。
地形は崩れなくとも、橋は崩れたのである。
もちろん、当地の気候を考えると雪害の影響も大きいと思うが、昭和47年の廃止から30年は耐えることが出来た橋が、40年は耐え難かったという事実は重い。



10年前の写(→)と比較して見ても、具体的な崩壊の原因として、特にこれだという一点は特定しがたい。
中央の木造橋脚は依然として立ってはいるが、主桁はこの橋脚に支えられる中央部を大きく撓ませるようにして崩壊しつつあり、これは大半の部材が著しく腐朽したために、もはや全体的に強度を失い、自立困難になっていることを感じさせた。



もちろん橋上にも登ってみたが、もはや10年前の“面”としての橋桁は失われ、無惨に中央部が陥没した大破橋梁の姿である。

このことにより、主桁の太さを間近に見る事が出来るようになっているが、その主桁の表面が新たなモフモフと化している。
10年前には枕木の下にあって、モフモフしていなったはずの場所が、モフモフ…。
こうして太い木材も養分として分解され、加速度的に腐朽していくに違いない。


結論。

10年ぶりに訪れた木製桟橋は、まだ辛うじて橋梁としての体裁を残しているが、大破の状態にあり、完全落橋も間近の状況に思われた。