廃線レポート 藤琴森林鉄道滝ノ沢支線 最終回

公開日 2019.11.16
探索日 2019.10.28
所在地 秋田県藤里町

第2ループ線の不思議な橋台と、廃レール群についての推理


2019/10/28 10:30 《現在地》

“第2ループ線”には、「滝の沢」を渡る2本の橋の痕跡がある。
前回見た【高い8の字橋脚】の「橋A」と、この奥に見えている低い橋台の「橋B」である。

狭くて急な峡谷を、林鉄に許された勾配の範囲内で遡るために、ループ線が企てられた。
ループの要である転回のスペースを、河川上に求めて、2本の橋が架けられた。
ループ線にはいろいろな形のものがあり、必ずどこかに橋かトンネルを用いて、自分自身と立体交差する必要がある。そしてその線形は、高速度で高規格なものほど、円に近くなる特徴がある。だが、林鉄には高規格も高速度も必要ないから、狭い谷の中に収まる、小さな長方形状の線形になっている。

「橋B」の存在を最初に私に気付かせてくれた、林道からよく見える対岸(左岸)の橋台へ、川を渡って近づいてみることにした。




なんだこれ?!

遠目には、ありきたりな四角いコンクリート橋台だと思っていたが、近づいて見ると、ずいぶんと変わった形をしていることに気付いた。

四角い橋台の上部から、まるで橋桁のように河中へ張り出した部分がある。
先細りになった先端は破損していて、内部に仕込まれた“廃レール”の束が露出していた。
鉄筋代わりに廃レールを用いた構造物は、たまに見るが、このような形の構造物は、初めて見る。



此岸側(林道がある側)の橋台も、林道直下の斜面に半ば埋もれた状態で、発見された。
そしてやはり、同じ奇妙な形をしていた。

違いは、先端部が破損しておらず、より本来の形を留めていること。
加えて、なんと! レールが存在した。
まるで、敷かれたままのような位置に見えたので、血圧が上がった!

レールについてはこの後に見るとして、この両岸の奇妙な橋台から、どのような形の橋を想定すべきかを、推理したい。

ずばり、ここにあったのは……




(→)こんな形の橋だったろう。

橋台に平らな橋桁を乗せたこの構造、型式としては、単なる「桁橋」というべきだが、敢えて橋台を突出させて、その先端に橋桁を乗せていたと見られるところが、特徴的である。

こうすることで、橋桁の長さを短くし、河中の橋脚を省略出来たなら、経済的といえそうだ。
だが、同じ形の橋が他にゴロゴロしている様子はなく、初めて見たくらいだから、成功は限定的だったか、或いは欠陥があって失敗作だったのか……。
いずれにしても、相当に実験的な型式だったのではないかと想像する。

ちなみに、両岸から短い部材を次第に張り出させながら重ねていき、両岸を結ぶ構造を、刎橋という。
アーチ構造が普及する以前は各地に架設され、特に大きなものは名橋とされた(猿橋、愛本橋などが有名)。
本橋は、細く張り出した橋台の先端に桁が乗っている部分が、いくらか刎橋的である。

奇妙な橋台を持つ本橋の発見も、今回の探索の大きな成果だった。



右岸の橋台上へ登ってみた。

そこには、苔生した丸太が敷かれており、その上にレールが一本敷かれていた。
位置的に、当時から敷かれていたもので間違いないと思うが、護輪軌条の可能性もある。
また、レールのサイズは9kg/mレールとみられ、機関車が入線する路線であったことを物語っていた。

レールの一方は路盤と一緒に林道下の斜面に埋没していて行方不明だが、他方は橋台末端の空中で切断していた。
切断面はレールの連結部であり、落橋によって支えを失ったことで、連結が外れて切れてしまったのだろう。
残っていたレールは1本だけで、残りは流失したのか、撤去されたのか、行方不明だ。



引き続き、右岸橋台から眺める対岸の橋台。

橋の長さを橋台の突端間で計測するとしたら、橋長5m程度となるが、橋台突端が1mくらいずつ突出しているので、外観としての橋長は7m前後あると思う。
かなり河床から低い橋であり、そのため出水時に流失してしまったと思われる。

この低さは、ループ区間の始まりに相応しい、設計上のギリギリさを感じさせるものである。
このまま上流へ進もうとすると、谷底に追いつかれてしまうから、ここで切り返して谷底との比高を稼ぐループ線に入る。

次の写真は、対岸の路盤の行方を撮したものだ。
(なお、対岸の路盤も少し歩いてみたが、特に何も残っていなかったので、レポートは省く)



対岸に渡った路盤は、下流へ向かいながら、緩やかに高度を上げ、70mほど先にある「橋A」へ取り付いている。

だが、左岸の地形は険しく、路盤はほとんど原型を止めていない。
図中の破線は、原型を止めない路盤の推定位置である。
2本の橋の存在が、ループ線を強烈に物語っているものの、それがなかったら、ループ線を発見できなかっただろう。

なお、このような一周200m近いループ線を用いて稼ぎ出した高度差は、わずか5〜6mでしかないという現実がある。
そこに、険しい山地地形に対する鉄道の圧倒的不利性が、集約している。
自動車道なら、わずか50mほどの急坂だけで済むのに……。
自動車道の整備により、林鉄が淘汰されるのは、どう考えても、やむを得ないことだった。



橋台から上流を見ると、20mほど先の河床(矢印の位置)に、レールが何本かまとまって落ちているのが見えた。

ループ線を登った先の林鉄は、写真上部に見えるラインの位置を通っていた。
そこは現在の林道でもある。したがって、この河床との高度差が、ループ線が稼ぎ出した分だ。




ジャブジャブと川を遡って、レールが見えた所へ行ってみると、そこには数本どころではない膨大な数のレールが置かれていて、驚いた。
30本くらいはありそう。

なぜこんな場所にまとまっているのか、謎だ。
林鉄があるのは、反対側の岸の高い位置なのだから。

よく見ると、ここにあるのはおそらく全て6kgレールだった。橋台に敷かれていたもの(9kg)より規格が低い。
全国の国有林では、戦後間もなく労働安全の観点から、機関車が入る林鉄のレールを、全て9kg以上へと更新した経緯がある。
その際に不要となった膨大な6kgレールが、まとめて放置されていた可能性もあるが、現在の路盤との位置関係は不自然だ。上流の別の場所から流れてきて、偶然ここに集まった可能性もある。



この大量の6kgレールの由来を推理するとして、一つ考えられるのが、第2のループ線が作られる以前の“旧線”で使われていたレールではないかという説だ。

その“旧線”の擬定地は、廃レールの目の前の対岸、河床すれすれの同じ高さに存在する、“謎の平場”(図中の赤線)だ。
現在の林道(=ループ線の先の林鉄跡)は河床から7〜8mの高さだが、その下に並行する平場の痕跡が見つかった。




廃レール地点から見る、“謎の平場”のほぼ全景。

硬そうな河床の岩盤に、天然地形とは思えない水平なラインが刻まれている。
林鉄が作られる以前に使われていた歩道の可能性もあるが、幅が広く、かなり手がかかっている。
この先50mほどで、林道のコンクリート路肩擁壁に呑み込まれて行方不明になるが、これは林鉄の旧線跡ではないか……という説がある。



右図は、想定される旧線と新線の位置関係だ。

新線は第2ループ線を用いて緩やかに高度を上げて進むが、旧線はこのまま河床すれすれを進んでいたのではないか。
そして、200mほど上流で、両者は合流していたと思う。

旧線時代には、機関車によらない手押しによる単車乗り下げ運材が行われていたと想定すると、当然6kgレールを使っていただろうし、機関車より勾配には強いから、第2ループ線を使わず、このまま進むことも可能だったように思われる。
戦後に機関車を入線させることになり、それで第2ループ線の建設と、レールの交換が行われたのではないかという推理だ。

なお、『国有林森林鉄道全データ』(本編初回に内容を紹介した)に、旧線の存在を明確にする記述はないが、「昭和3年に開設され、27年に1030m延伸された」記述から、この1030mには付け替え分が含まれていると想像することは可能だ。
また、『昭和35年3月31日現在 全国森林鉄道一覧表』(『汽車・水車・渡し船』 (橋本正雄著)所収)によると、当路線は全線で9kgレールが用いられていたとのことで、現地に大量に残されている6kgレールは、これ以前に撤去されたものと考えられる。




ここまでで、第2ループ線に関する現地調査を終了し、さまざまな発見に彩られて約25分間停滞した前進を、再開することにした。

次回、終点へ。




風景が大きく変わる、終点のある上流部


第2ループ線を越えると、軌道跡は林道と同じ高さに至り、回廊状の谷底を見下ろすようになる。
林道の勾配も緩やかになり、いかにも軌道跡らしい、好ましいものだ。

依然として険しい谷地形ではあるが、路盤に日が射すようになったのは、この後の景色のダイナミックな変化を予期させるできごとだったと思う。




出口だ! 峡谷を突破するぞ!

溯行者の全員が、思わず感嘆符を付けて歓喜を叫びたくなる、そんな激なる景色の変化があった。
峨瓏峡と命名された、険悪なる「滝の沢」の峡谷は、源流に至るまで延々連なるものではなかったのである。 その源流部には……




2019/10/28 10:41 《現在地》

麗しの一小天地が!

燦々と日の注ぐここは、滝の沢の浸食がまだ牙を剥かない、懸谷上流に残された平穏の地だ。
今までの熾烈な地形とは一転して、もうパラダイスである。

日本中の各地で、このような険しい谷の奥にある、隠れ里のような小天地を見ることがある。実際こういう土地には、平家落人の末裔と言われる人びとが住む集落があったりするが、ここに集落の記録はない。
村の代わりにあるのは、林道や林鉄を呼び寄せるだけの魅力を持った、潤沢な森である。

さっそく目の前に広がっている杉の植林地は、まさに林鉄時代に開発されたものだろう。
この土地が魅力的であったからこそ、あれほど険しく狭い谷に、無理矢理のダブルループを設えてまで、鉄路を到達させたのに違いない。
そのことがストンと納得される、なんとも豊かな山林だった。



この谷の沿川にあるダイナミックな変化は、このような立体地図だと、より鮮明である。
図の陰影が濃い部分は急峻な斜面で、滝の沢の入口から現在地までは、非常に険しい地形なのが分かる。
一方、現在地よりも上流は、全体的に緩やかだ。

滝の沢は、藤琴川合流地点の直前にある峨瓏大滝を筆頭に、そこから流長約1.2kmにわたって、深い回廊状の峡谷(懸谷地形)を発達させている。
いくつかの滝と連瀬を重ねる峡谷は、落差120mほどにも及ぶが、そこを抜け出すと、「現在地」に至る。
これより上流は、北秋田市と接する稜線に至るまで、比較的に穏やかな丘陵状の山地だ。

いま、滝の沢が1.2kmで120m上昇したと書いたが、ほぼ川沿いを遡る林道の起点から現在地までの距離も、ほぼ変わらぬ1.3kmだ。これらに対し、林鉄の場合、同じ高低差を克服するのに、起点から現在地まで、約2.5kmの距離を要している。単純計算で、林道と比べて約半分の勾配、おおよそ5%の平均勾配となり、これは機関車が入線可能な限界値といわれる数字だ。


かつてプロの林業家達は、この谷の奥地に秘蔵された潤沢な山林(“天然秋田杉”と呼ばれる極めて価値の高い山林)をいかにして伐出するか、いろいろ考えを巡らせたのに違いない。
谷に大きな滝があるため、“鉄砲出し”では材の損耗が激しく、陸路運搬の方法が求められたと思う。

試行錯誤もあったかもしれないが、彼らは次第に技術と確信を深め、ついにトンネル1本ループ線2本および付属する橋4本を連ねた、強烈にアクロバティックな路線を開通させることに成功した!
その路線のぐいぐいと高度を上げる力強さは、右図の赤線から存分に感じられるだろう。

こうして、関係者が誇るべき存在になったに違いない滝ノ沢支線は、昭和27年度に全線が完成し、機関車が入って盛大に運用された。
だが、昭和38年に発生した大洪水で、麓を走る本線が突如廃止されると、谷の奥に孤立する存在になってしまう。
それでも支線のみでの運用は続けられ、昭和41年度以降は下流側から急ピッチで自動車道化工事が進められる。

昭和43(1968)年度、最後まで残されていた約2kmが廃止され(おそらく、現在地こそが最終運用年の連絡土場の跡で、この奥が最終廃止区間だ)、記念のループ線と共に、藤里町内の林鉄は全て姿を消した。




10:54 《現在地》

さて、まとめじみた話をしたので、察せられたかも知れないが、平穏な上流部における林鉄探索の成果には、見るべきものがなかった。

だいたいどこもそうだが、地形の制約がない状況では、軌道跡をそのまま林道化するのが経済的で、線形も良いものになる。
また、そのような平穏な地形では、そもそも橋やトンネルのような“構造物”が作られにくいから、遺構も少ない。
だいたいの林鉄探索は、中盤に展開のピークがあって、終盤は比較的に成果不良となりがちである(苦笑)。
この滝ノ沢支線もまさにそれで、上流地帯に見るべき遺構は発見できなかった。

写真の地点は、滝の沢林道と明星院林道の分岐地点で、林鉄時代には、滝ノ沢支線と千本杉分線の分岐地点だったと考えられる。
千本杉分線(支線から分岐する枝線を「分線」という)も、なかなかアクロバティックな路線で、索道とインクラインを組み合わせた峰越しの運材を行っていた記録がある。
その探索も行ったが、残念ながらインクラインの斜路が辛うじて残っている程度であったから、レポートは省略する。



滝の沢という名前が嘘のように、上流部は徹底して穏やかだ。
谷底は広く、周囲の山肌もろとも、広大な植林地が展開している。
途中の林道沿いには、こんなに綺麗な名もない池があって、目を楽しませてくれた。観光名所の扱いではないが、時期によってはホタルの名所になっていそう。




軌道跡である林道は、こんな感じの平穏な風景が続く。

実は、上流部も全線が林道化しているわけではなく、微妙にずれている部分があるのだが、そうした箇所も遺構が期待できる地形ではないし、写真に見えるような濃いクマザサの藪に覆われていて、丁寧に辿ってみようとは思えない感じだ。

まあ、林鉄の支線をしらみつぶしに探索すると、7割くらいは、全線こんな感じですよ(苦笑)。



13:32 《現在地》

明星院林道(千本杉分線)分岐地点から800mほど進むと、峡谷脱出直後にあった広場と同程度の大きな広場が現われた。

海抜約200m、現在の林道起点から約3km地点にあたるこの明るい広場は、昭和28年の地形図で軌道の記号が終わっている地点であり、滝ノ沢支線の終点土場の跡だと思われる。
特に何の遺物も残っていないことを確認し、前進を終了した。
(ちなみに、上記「現在時刻」が3時間ほど進んでいるのは、千本杉分線と格闘した結果である)

ただ、帰宅後に林鉄の起点からここまでのループ線を考慮した延長を精査すると、起点から約3.8km地点であり、記録にある全長4105mからは300mほど不足する。
そのため、もう少し奥まで線路が敷かれていた可能性がある。 ……いや、もしかしたら、もう一つくらいどこかにループ線があったのか……などと妄想もしてみたが、誤差の範囲とも言えるので、追加調査はしていない。




13:33 撤収開始!



帰り道のおまけ探索、滝の沢集落内の軌道跡


13:53 《現在地》

帰り道は簡単で、私のような自転車の場合、ブレーキとハンドルだけを操作していれば、ものの10分ほどでスタート地点まで辿り着けるのであるが、最後に一つだけ寄り道をした。
それは、往路のスタート直後(第1回の8:39)の地点で林道と分かれている、滝ノ沢集落裏手にある軌道跡である。

滝ノ沢集落裏手の軌道跡とは、もちろん滝ノ沢支線の一部である。
この区間は、藤琴川に架かっていた橋の袂から峨瓏峡隧道の手前までで、集落裏手の山沿いを緩やかに昇降するスロープだった。区間の長さは約700mで、奥地よりも少し早い昭和41年度に廃止されたものとみられる。

特に何の期待もせずに突入した区間だったが、これが思いのほか良かったので、最後に紹介する。
この区間、レールや枕木こそ残っていないが、林道化を免れた林鉄時代のままの幅の道が、綺麗に刈り払われた状態で残っていて、しかも通行規制もないなど、いわゆる掘り出し物だった。
なかでも、この先の風景が、特に素敵!




素敵だわぁ……

おそらく国土調査かなにかの理由があってのことだろうが、日常的に使われている様子はないのに、路上は刈り払われていた。

集落の屋根の少し高い山腹に据え付けられたスロープを、のたのた降りていくと、藤琴川の長閑な景色が“車窓”の全面に展開する。

昔から集落は変わっていないから、これは林鉄の運転士が、朝夕に見送られ、また胸をなで下ろした景色に違いない。

そんな景色が探索の最後に出迎えてくれたことに、感情が高ぶった。



短い区間とはいえ、自転車で走り抜けられるのも、ポイントが高い。
最近はあまり表明しなくなったが、私の探索は、車道跡には自転車という車両を使いたいのが本音。
草の土道をユルユル下る自転車の速度は、往時の林鉄における景色の流れる速度と、あまり変わらない。

そこに理想的な追体験の感覚が生まれるのだ。




300mほど進むと、だいぶ降りてきた。

そんなところで、集落内にある一つの小屋のこちら側からしか見えない壁に、
まったく場違いな首都圏の駅名標が飾られてあるのを発見。懐かしいブリキ板だ。
これが林鉄時代からあったかは分からないが、こっちも鉄道なんだと、妙なシンパシー(笑)。



さらに進むと、沿線で一番眺めの良い所があった。
ここから、藤琴川を渡る町道の橋と、対岸にある寺屋布の集落と、集落を横切って走る町道が見えた。

町道の橋は、滝ノ沢支線も同じ位置を渡っていたが、洪水と河川改修の結果、橋台も橋脚も何も残っていない。
寺屋布集落を横切る町道は、本線の跡。しかしこちらも当然、林鉄時代の景色は残っていない。
集落内に本線と滝ノ沢支線の分岐があったが、そこも圃場整備で何も残っていない。

滝ノ沢支線の探索は、ここが最後の見所だった。
この先少し行くと、最近に整備された急傾斜地対策の【治山工事現場】で、路盤はなくなる。
自転車ならば現場の作業路を通って下の県道へ抜けられるが、紹介するほどのものはなかった。