廃線レポート  
玉川森林鉄道  その4
2004.3.11



 今回は、旧線と付け替え線の両方を、実際の行動の順に攻略していく。
似たような言葉が多く出てきてわかりにくいと思うのだが、ご勘弁願いたい。
以下の3つの道が、主に出てくる。

旧軌道、鎧畑ダムの工事によって付け替えられる以前の玉川森林鉄道の道。(下の拡大図2では黒の点線)
付け替え軌道、ダム工事によって昭和31年から新たに利用された玉川森林鉄道の道。(下図では黒の実線)
旧車道、現在の国道341号線の旧道だが、国道指定を受ける以前の道。



地獄の一キロ
2003.11.19 10:59


 汗にまみれ、枯れ葉にまみれ、擦り傷にまみれ、なおも前進した。
煉獄を越えると、救いがもたらされた。
不思議なほど荒れていない一角。
しかし、なおも予断は許さない。
次のカーブの向こうには、どんな景色が待っているのか。




 越えてきた道を振り返れば、もう二度と踏み込みたくはない。
越えてきた道が、往く道よりも容易に見えることは往々にしてあるが、ここは例外だ。
むしろ、押し出されるようにして、この極悪地帯から脱出した。

チャリごと走るような場所ではないのだ。
チャリのあるメリットは、ここを突破したときにだけ発揮される。
突破せねば、全ては無に帰するのだ。
いや、無どころではなく、大きな大きな体力的、時間的損失を生むことになる。


 その先も、深い藪がたびたび現れたが、過ぎてきた道に比べればマシだった。
そして、やっと水面から離れ、河原が現れた。
とはいっても、それは背丈よりも深い葦の原であり、まだまだ、軌道から迂回する道など無い。
逃げ出せる場所があれば、すぐにでも脱出を図るのだが…。

全身が、ひりひりする。


 この先、どうしても突破できない部分があり、私はここを葦原に降りてやり過ごした。
それは、ご覧の暗渠だ。
暗渠上は猛烈なススキの密生となり、徒歩ですら押し返されるような状況。
経験上、チャリなど通せないことは明らかだった。
しかし、ここまで来て引き返すなど、死にも等しい苦痛。

安易に「死」などと持ち出すなと、そう思われるかもしれないが、私は「死ぬより苦しい」という印象を、廃道に持つことが稀にある。
実際に死んだことがない私が言うのも軽々しいが、日常生活の安穏から考えれば、廃道の苦しみ、精神的な圧迫感を含め…、それは生きながらにして地獄だ。

廃道と戦うものは、皆そう感じているに違いない。
もしそうでないならば、それは本当の廃道ではなかったのだ。
しかし、一度廃道に突入することを覚えた者は、その愚を繰り返しがちだ。
理解に苦しむ…。

苦痛が好きなら、ここはオススメしたい。
私は、もう行きたくない…。




 植林地に達したとき、私がどれほど安堵したか。
全身の緊張が一気にほどけ、 ふにゃ っとなった。

ふにゃふにゃの私は、体とチャリにツタやら枯れ葉やら、得体の知れぬ種子達を絡ませたまま、そこに現れるだろう集落を待った。
次の築堤を過ぎれば、きっと。




耳除
11:24

 導水施設で廃道に突入してから、わずか1km足らずの道のりであったが、約40分間を要した。
それ以上に、体へのダメージは大きかった。
低い築堤を主体とした軌道跡は、杉林や荒れ地を、民家の裏庭に沿ってさらに続いている。
しかし、私は庭に降りられる場所を見付けるなり、軌道跡を捨て、脱出を図った。
そこは、目指す耳除集落の端だった。
 


 集落には細いながらもちゃんとした舗装路が国道から延びており、やっと私は生還を果たした。
奥に見える生コン工場の建物は国道の脇にあり、数年前から廃墟だが、よく目立ち目印になる。

国道に脱出し、体制を整えることにした。



 軍手に生々しく残る格闘の跡。
結局からみつきが取れなかったこの軍手は、棄てた。
リュックに入りきらない食料の入った手提げのピニール袋には穴が空き、中に入っていたはずの「新潟コシヒカリおにぎり鮭はらみ」一つが、行方不明になっていた。


鎧畑橋
11:31

 さて、この先どうしようか。
探索の時点では、この林鉄に平行する付け替え線が存在することを知らなかったので、さらに軌道跡を辿ると言うことは、またあの地獄のような廃道に突入するを意味する。
しかし、ここ耳除や隣の集落である坂下には失った食料を補給できる箇所もなく、なによりも、連続であのような場所に挑む元気は無い。
一旦、何か軌道以外の対象を探索したいと、そう思った。

そう思って、国道沿いを見回すと…。
気になる物を、発見した。
そしてこの発見は、この日最大の発見の一つとなった。

 東北電力鎧畑発電所の建物が、耳除の隣の鎧畑集落の入り口付近の山間、玉川に沿って建っている。
ここからは、鎧畑ダムへと続く町道が国道と分岐しており、旧軌道(付け替えられる前の軌道)もまた、この町道に沿っているものと考えられる。
しかし、私は2階建ての大きな発電所の事務所の建物の裏手の山肌に、信じられないものを見た。
巨大な白い貯水槽のことではない。
その、丁度下のほうに、薄い緑色の橋のようなものが見えないだろうか。



 やはり、橋がある!
しかも、車道にはあまり見られない、ガーター橋のようである。
まさに、鉄道っぽい橋の姿だ。

だが、この段階ではまだ、まさか付け替え軌道などというものが存在したとは露知らず、不思議に思うことしきりだった。
とにかく、もっと傍で見たい。
しかし、どうみても、発電所の敷地内だ。
接近できるのか?!


 発電所の駐車場をスルリと通り抜け、野外で立ち話している制服の男たちの視線を掻い潜りながら、その奥の、人目に付かない建物の奥へと来た。

よし、ここまでくれば、橋はすぐ上だ。
しかも、そこにはお誂え向きな梯子や階段まで用意されているではないか。
チャリを放置すると、明らかに一般人用ではないだろう急な階段や、梯子を上り、謎のガーター橋を目指した。

この、上質なアクションゲームのようなワクワクが、たまらない。



 かなり接近してきた。
そこにあったのは、遠くから見た印象とは異なる、かなり痛んだ、しかし紛れもなくガーター橋である。
一般的に鉄道に利用されることが多いのが、通行位置が構造の上部となる「上路式ガーター橋」と呼ばれるものだが、これは欄干も一体化したような「下路式」のそれだ。
幅も一般的な鉄道のそれに等しいほどあり、とても森林鉄道のナローゲージ用とは思えない。
しかし、あえて車道にコストのかかるこの形式の橋を利用する意図は不明で、この発見をもって、付け替え軌道の存在を疑う端緒となった。

そして、実際にこれは、付け替え軌道に供された3本のガーター橋のうちの一つであった。
しかし残念ながら、名称は不明のため、仮に以降、「鎧畑1号橋」と称する。



 朽ちて錆付き、コンクリートに打接された部分もぐら付くような、怪しい梯子に体重を預け、慎重に慎重に、最後ののぼり。
橋は、地上から20mほどの高さにあり、もし墜落したら、下はコンクリートか岩肌なので、まず助からない。
当たり前だが、危険な行為ゆえ、推奨しない。


 上りきると、そこには軌道跡なのか、道路跡なのか、それともそのどちらでもないのか。あるいはその両方なのか。
なんとも判断のつかぬ廃道が、玉川沿いの急斜面に僅かな平坦部を穿ち、下流方向へと続いていた。
とりあえず、この道がどこから来て、この橋の先どこへ行くのか、見届けたいと思った。

しかし、まずは目の前(背後だが)にある橋を、解明したい。



 荒廃は非常に進んでおり、枕木のような角材から、落石、落ち葉に枯れ木など、廃道を演出するオブジェが橋の袂を埋め尽くしている。
しかし、その向こうには、妙にすっきりした橋が、まっすぐ対岸に続いている。





 その、奇妙なスッキリ感の正体は、本来あるべき道床がすっかりと抜け落ち、骨組み以外は存在しない為だ。
巨大な鉄骨の構造体自体の強度は未だ疑う必要のないものだが、隙間だらけのこの橋を、生身の人間が渡るのには、理由だけでは不十分だ。
渡るための勇気と、勇気を裏付ける渡り方のイメージが必要となる。

結局、慎重に(何でもこの言葉で片付けがちだが、慎重でいても無理なことをすればにっちもさっちもいかなくなるし、落ちもする…)、レールのように欄干に平行に渡された細めの鉄筋を渡ることにした。
巨大な欄干がだいぶ恐怖を和らげてくれるのと、幸いにして、橋の直下の大部分には発電所のコンクリートの設備があって、墜落した場合の落下も3mほどと思われる。
運よく、コンクリートの屋根に落ちた場合だが…。



 裸のままの橋と、橋脚ではなく、橋の下の空間を制限高一杯一杯まで利用している、巨大なコンクリート構造物。
発電所の設備が先なのか、橋が先なのか?
たぶん、この両者の建設には繋がりがあるはずだ。
鎧畑ダムの建設に伴って造られた付け替え軌道と、ダムによる発電を担う発電所。
同時進行だったと考えるのが、自然だろう。

とすれば、昭和20年代後半以前の道について考えたとき、ある仮説が成り立つ。

その仮説とは、この橋梁が建設される以前は、この前後の道は、車道ではなかったかという仮説だ。
いや、昭和初期までの地形図では、軌道が付け替え以前の経路で描かれている一方で、確かに車道はこの急斜面に張り付くように描かれているのだ。
現在は、この区間の国道は、駒草橋と山崎橋の二本の橋で二度玉川を渡る直線的な経路を取っているが、これらの2橋を供する現道の開通以前は、確かにこの斜面に道があったらしい。
その痕跡は、この先のレポートでも辿るが。
仮説の続きだが、ダムによる軌道付け替えの前に、まずは車道が現在の道に切り替えられ、次に軌道が、従来の旧車道上に発電所の建設に伴って生じた本ガーター橋を設け、そこを通るように切り替えられたのではないだろうか?
どう見ても、このガーター橋の幅では、軌道と車道の併用は出来ない。




 橋の対岸側は、まだ枕木と思われる角材が多く残っていた。
しかし、これらは踏むと乾いた音を立てて真っ二つに砕ける物が多く、足元の障害物にしかなっていない。
林鉄付け替え軌道の橋梁で間違いないと思うが、他の林鉄では未だ見たことがないほどの、立派なものである。
ガーター橋というのは、経年変化に強いといわれるが、その力を見せつけられる。

あの森吉でも、人為的に撤去されたと思われる物を除けば、ガーター橋は健在である。
一方で、コンクリート橋は相当に腐食が進んでおり、木橋なとうに落橋している。



 橋を渡りきって、振り返る。
なぜ振り返るかと言えば、その先にあった道が、あまりのツタと、崖崩れと、その他諸々の障害によって、徒歩であっても侵入する気になれなかったためだ。
まあ、この先は間もなく現国道にぶつかるはずであり、そのことを、現道側から確認すれば済むだろうという妥協でもあった。


 橋から見上げると、そこには貯水槽というか、正確には分からないのだが、地中の発電用送水パイプを制御しているだろう巨大な塔状の施設が、立ちつくしている。
あそこまでは、一応地表にも梯子などで行ける痕跡はあるが、全く利用されている気配はなく…多分、地中に通路があるのではないだろうか?
ここは、発電施設に挟まれた、微妙な位置なのだ。
今だったら、こんな場所に鉄道を通そうなどという発想は生まれないだろう。
トンネルにして迂回するか…
ここの場合は、地中にも設備がありそうなので、それも出来なかったのか。



 見下ろすと、発電所の他に国道の駒草橋や、耳除集落傍の杉林(旧軌道はあの中を通っている)まで見渡せる。
右の方を見ると、写真では切れているが、今では玉川沿い最奥の集落となった鎧畑の家並みも見えた。

「鎧畑1号橋」の探索を一応完了し、国道へと戻る。
当然、来た梯子を伝って降りるのだが、降りる方が怖いのは、猫も人も一緒。




 次回は、少し生保内方向に戻るが、付け替え軌道跡であり旧車道(旧国道という表現は正しくない)でもあっただろう、山崎橋付近から本「鎧畑1号橋」までの道のりを案内しよう。

またまた、酷い道だった…。




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