2021/1/18 15:10 《現在地(中域)》/《現在地(狭域)》
まどろむような春の陽に、明治の煉瓦を赤く照らされている深沢隧道を見る。
その坑門は、中央線にある明治隧道の大半を始めとして、全国の同時代の官設鉄道でひろく見られる標準的なデザインである。
すなわち、笠石、帯石、アーチリングの一式を各一列の石材とし、それ以外の全体はイギリス積みの煉瓦壁で埋めてある、とても落ち着いた姿。
場所に似つかわしくない重機が置かれているが、ここまで重機の進入路になりそうな経路は、おそらく深沢隧道しかない。
どのような目的があって持ち込まれているのかは分からないが、既に鉄道としての管理からは離れた存在と思われる。
(余談だが、この一連の笹子峠越えの区間に当初掘られたトンネルのうち、主トンネルである笹子隧道だけが、煉瓦の坑門ではなく、扁額や付け柱も携えた総石造りの坑門を有し、やはり完成当時日本一であったエポックメイキングな山岳トンネルは特別扱いだったことを感じる)
深沢隧道坑門近景。
坑門に鉄道トンネルの定番アイテムである銘板パネルが残ったままになっていた。
全長1105.7mとあるが、こうした数字を元に保線関係者はトンネルを歩いて通過するのに要する時間を計算していたらしい。
本トンネルの全長については、開業間もない明治36年6月に出版された『中央線鉄道旅行案内』という資料に3627呎(フィート)と記録があるが、これをメートルに換算すると約1105mとなるので、開業から廃止まで改修などによって長さが変化しなかったことが分かる。
チェンジ後の画像は、坑口を塞いでいる厳重な鉄扉の様子だ。
通気口らしきメッシュ部分はあるが、立ち入るどころか、中を覗くことも出来ない厳重な封鎖である。
廃止翌年の平成10年の記録である『鉄道廃線跡を歩くVI』でも既に鉄扉で封鎖されていたようだが、中を覗けないような扉ではなかった。近年ワインカーヴとして内部が利用されるようになって、より厳重になったものだろう。これはさすがに探索出来ないが、そもそも私のターゲットはこちらではない。
なお、遠目には気づかなかったが、投光器のようなナトリウム灯が坑門上部に設置されているのを見つけた。
これも現役時代や廃止直後にはなかったものだろう。
重機の存在といい、もしかしたら、この辺りも遊歩道として再整備する計画が動いていたりするのだろうか?
深沢隧道の坑前より東京方向へ向き直り、改めて今回の本題、横吹第二隧道の二連装坑口と対面する。
1本の深沢隧道から、2本の横吹第二隧道へ。
この変化は、新旧の改廃であり、排他的なものであった。
既に述べた通り、明治36年から大正6年までの14年の間は左の旧トンネルへ通じていたが、同年に右の新トンネルが開通し、以後線路はそちらに移されて廃止まで80年間を生きた。つまり、左は大正時代の廃線跡で、右は平成時代の廃線跡だ。
平成9年の廃止時点では、下り線用の単線線路が敷かれていたこの空間も、傍らにいる重機の仕事なのか、すっかりバラストなどの路盤の跡形はなくなっており、更地となっていた。
また、山手から谷に沿って土砂も押し出しており、特に旧線側の地面を嵩上げしていた。そこには相当太い樹木も生えていて、左のトンネルだけ大正時代からの年季が入った廃線跡だということを物語っていた。
15:15 《現在地》
横吹第二隧道の接近しすぎている二連装坑門。
こういう二連装坑門は一般的に“眼鏡トンネル”などと呼ばれ、明治22年に全通し、明治末までに全線の複線化が進められた(大正2年全線複線化)東海道線にはかなりの数が存在する。
対して明治44年に全通し、未だ一部に単線区間も残っている中央線の場合、都市部以外の複線化は昭和30年代以降のスタートであるから、煉瓦トンネルが二連装になるような場面は生まれなかった。
その(おそらく)唯一の例外が、この横吹第二隧道の西口だと思われる。
だがこれはあくまでも外観的な二連装で、複線のトンネルではない。右の新トンネルが開通して以降、左の旧トンネルを鉄道が通ったことはない。そしてよく見ると、左右のトンネルの進行方向も微妙に異なっており、一体化している両トンネルの坑門はツライチではなく、僅かに角度が付いている。
これらはどちらも古いトンネルである、かつ同じような煉瓦を主要な材料として採用したため、見た目からはどちらがより古いものであるかの区別が付きづらいが、右の新トンネルにのみ平成まで生きていた証しのように、深沢隧道と同形式の銘板プレートが設置されていた。
坑門が一体化している新旧トンネルだが、観察の結果、この図の色分けのように区別ができることが分かった。
接近して、より詳しくみてみよう。
明治と大正の坑門が“癒着”している状況は、なかなか他では見られないレアものだぞ(笑)。
まず、左の旧トンネルに注目してみよう。
石の笠石と帯石は深沢隧道と共通するが、アーチリングが石材ではなく坑道内と同じ煉瓦という違いがある。
また、付け柱(ピラスター)が存在していたことも分かる。
が、隣に増設された新トンネルによって、アーチリングの右端を含む坑門右側は外観から消滅しており、右側の付け柱も失われている。
右の新トンネルは、それが旧トンネルの予想外の劣化によるイレギュラーな増設であったためか、全体的により簡素化された意匠となっている。
すなわち、煉瓦を主要材としていることや笠石の存在は共通しているが、帯石も付け柱も略されているし、旧トンネルとの近接のため、左右非対称のデザインを余儀なくされている。
そもそも、坑口がこれだけ近接していると(最短で1mほどしか離れていない)、坑門に近い部分の坑道は、巻き立てられる前の大きな断面同士でほとんど接着していたのではないかと思う。ここにはかなりイレギュラーな難工事があったのではないだろうか。
チェンジ後の画像は、両トンネルの煉瓦アーチの様子を拡大している。
旧トンネルの巻厚が(標準的な)5枚であるのに対し、新トンネルは6枚と、多くなっていることに注目したい。
基本的に巻き厚が増えるほど材料費も工程も増えるので、敢えての6枚は、旧トンネルが変状に苦しんだことへの対策と見るべきだろう。
トンネルの断面の形や大きさは、見てあからさまに分かるほど大きく違うということはない。←フェンスの配置をよく見ると、新トンネルの高さが70〜80cm程度大きいようだ。
明治期と大正時代ではトンネルの建設限界(標準設計)も違っていたし、電化の絡みもあったかもしれない。当区間(浅川〜甲府間)の電化は昭和6(1931)年に行われており、大正6年時点で将来の電化を見据えていた可能性があるだろう。
唐突だが、坑口の前に小さな水路が横切っており、それを渡る小さな橋が新線側にだけ存在する。
坑門に夢中のあまり、存在を今までスルーしていたが、忘れずに附記しておく。
旧線側は橋台もないので、そもそもこの水路の護岸が作られたのが新線の建設時なのだろう。
私は写真奥の下流側から谷岸を辿ってここへ来た。
残念ながら、資料などから名称の判明いていない橋である。
うろ覚えなのだが、確か国鉄は2mよりも短い橋は橋梁としては命名せず、溝渠のようなカテゴリで管理していたようなことがなかっただろうか。ちょっとすぐに典拠を思い出せないが、もし当っていれば、この橋は橋ではないかもしれない。
今度は旧トンネル側に立って、二連装坑門を鑑賞。
ほんの少しだけ、新トンネルの坑門が手前に迫り出しているのが分かるだろう。
また、よく見ると新トンネルの上部斜面は間知石で広い範囲が治山されており、旧トンネルより万全な補強がなされている。旧トンネルは、ただ地山に坑門があるだけだ。
それはそうと、廃止時期が全く異なる2つの坑口が、全く同じ塞がれ方をしているな。
たぶん塞いだ時期が一緒なんだろうな。平成9年の新トンネル廃止直後に、まとめて塞いだっぽい感じがする。
それまでは、すんなり中に入れたんじゃないだろうか……。
旧トンネルの坑門を、このようなアングルから眺めると……
おわかりいただけただろうか?
旧トンネル本来の煉瓦と、新トンネルの煉瓦の境目が、分かる気がする。
明らかに目地の不連続になっている“直線”がある。
おそらくここが境目で、一部の煉瓦を橋渡しに使って、新旧の壁を接続したことが見て取れた。
放置された旧トンネルの老朽化が原因で、新トンネルの坑門が壊れてきたら困るし、旅客の目に留まる坑門だけに、不格好にならない程度に新旧の接合部を整えたことが読み取れた。
この辺さすがに緻密さと丁寧さには定評がある国鉄の仕事ぶりって感じだ。道路トンネルだと、こういう配慮まで行届いていないことが多い。
……といったところで、珍しい“癒着”坑門の観察も一通り済んだか。
旧トンネルの鉄格子に身を寄せると、ゆるゆるとした風の流れを感じた。
!
閉塞ではないらしい。
今から100年以上も昔に、変状のため廃止されたトンネルだけに、とっくに内部は閉塞しているというのでも不思議ではなかったが、風が抜けている。
なお、『中央線鉄道旅行案内』によると、この横吹第二隧道の長さは1403呎(≒428m)であったらしく、新トンネル(254m)よりも持って生まれた闇はだいぶ深い。
そして、内部が曲がっているのか、風は抜けていても、出口の光は見通せなかった。
100年分の澱のように濃い闇が、私を挑発した。
……(無説明意味深画像)……
にゃ!(あれは!)
にゃおーんと叫べばスピード収監!
2021/1/18 15:21
なんてこった! 入口を塞ぐフェンスがあったが、自分の身体の形をいろいろ変えているうちに、中へ入っちまった!!
しかたねぇな。こいつは先へ進んでみるしかあるめぇ。
というわけで……白々しくも、 洞内探索開始!
この(初代の)横吹第二隧道は、明治36年6月11月の初鹿野(現:甲斐大和)〜甲府間の延伸開業時に、隣接する深沢隧道などと共に造られたトンネルで、当時の記録では全長1403呎(≒428m)とある。
しかし再三述べているように、「建設時から地質脆弱による地盤亀裂により初鹿野方で崩壊を起こしていたため」に、わずか14年目の大正6(1917)年中に、隣に新設された新トンネルに線路を譲って廃止されたものである。
したがって、探索日(2021年1月18日)は廃止から104年目の“ある日”である。
これまで多くの廃トンネルを探索してきたが、104年というのは相当上位の長時間経過の廃トンネルであり、特に鉄道用トンネルとしては極めて稀なレベルである。このように廃止が早い遺構では、後年の改築による影響を受けていない可能性が高いために、より建設当初に近い古い姿を観察できる期待が持てるだろう。
そんなトンネルが、どんな“地中の貌(かお)”を、隠し持っているのか。
廃線ファンの行動の手本となった良書『鉄道廃線跡を歩く』シリーズが、暴露を自重した“闇”を、これからこの目でしっかりと確認したい。
入洞直後の洞内の様子は、まだ穏当なものであった。
それどころか、思いのほかに新しいアイテムが設置されていて、驚いた。
まるでそれの展示場でもあるかのように、いろいろな種類の防水パネル?が、少しずつ天井部に取り付けられているのだが、別に漏水している感じはなく、なんのためのパネルなのか謎である。
仮に漏水を防ぐ目的だとしても、大正時代に廃止されたトンネルにあるようなアイテムでは絶対になく、実は思いのほか最近まで、このトンネルは鉄道事業者の管理下にあって(あるいは今も?)、何かの役目を果たしていたようだ。
いろいろなモノが少しずつ取り付けられているという状態は、廃トンネルを利用した物品の試験目的という感じもするが、はたして……。
廃止百余年後の廃トンネルらしからぬ、何らかの管理下を感じさせる洞内は、入洞直後から緩やかな左カーブになっていた。
相変わらず洞内には風が感じられ、貫通をしているようであるが、入口から出口の光を見通せなかった理由は、まずこの左カーブの存在が第一であろう。
鉄道トンネルらしく、とても緩やかな曲がり方をしているから、進んでもなかなか曲がりの終わりが現われなかった。
曲がりの途中で、ヘッドライトを点灯させた。
照らし出された煉瓦の内壁はとても綺麗で、亀裂や欠けのようなものは見当らない。建設当初から崩壊を起こしていたというほどの不良地盤にいるとは思えないほどだ。不良地盤は何かの間違いではないかと思うほどの平和さだが、だとしたらなぜ廃止されたかの説明が付かない。
洞床に、百余年前に敷かれていたはずのバラストはなかった。
鉄道黎明期のバラスト(この辺だと関東地方の河原で採取していたのだろうか?)を手に取って確かめる貴重なチャンスだと思ったのだが、見当らず少々残念。
もちろんレールや枕木も見当らず、洞床には砂に近い細かい砂利が敷いてあった。
また理由は分からないが、向かって右側の壁に沿って茶色い土の山が並び、そこには樹脂製のやや太いパイプが這わされていた。これもかなり近年のモノっぽい。
それでも、このトンネルの大元の古さを感じさせる要素も残っていた。
この煉瓦製の待避坑の浅さを見て欲しい。
大人が完全に身体を入れることが難しいほど浅い造りの待避坑は、特に古い鉄道トンネルの特徴である。
保線作業の安全基準が段々厳しくなっていった後年は、このような浅すぎる待避坑の使用が禁止され、代わりにもう少し深い待避坑に掘り直されるケースが多かった。
だが、廃止の早いこのトンネルに、そうした改築の形跡は当然見当らないのである。
また、待避坑として使われた時間の短さからか、その内部の煉瓦の壁は煤煙による汚れ方が本坑内の壁より著しく少なく、煉瓦本来の鮮やかな赤い色が残っていた。
道路用の煉瓦トンネルではこういう色は良く見られるが、蒸気機関車を経験している鉄道用の煉瓦トンネルでは稀にしか見られない、本来の煉瓦の色だった。
カーブのために既に入口は振り返っても見えなくなっており、これは目測というか体感測だが、坑口から130〜140m進んだと思われるあたりである。相変わらず進行方向にも光が無く、闇の中にいる。だが入洞直後からの左カーブはここで終わっていて、この先は直線のようだった。
奥へ進んできた結果、内壁の煤煙による汚れ方が強くなっている。トンネルの闇を壁の黒さが増強している状態だ。
中央線を驀進した初期の蒸気機関車の釜にくべられていた石炭は、どの地方のものだったのだろう。慣れると壁にこびり付いた煤の濃さから(不純物の多い)常磐炭を見極められるなんて話をミリンダ細田氏から聞いたことがあるが、私にはちょっと見分けがつかない。しかしいずれにしても国内のどこかで産出された石炭だろう。この時代の鉄道トンネルは、石炭を焼く釜そのものといっても良い。それくらい煤で汚れている。
そんな黒く汚れた壁に、ポツンと1つだけ、碍子が残されているのを見つけた。
固定金具の激しい錆び方を見るに、現役当時の遺物ではないかと思う。
鉄道電話用の碍子だろうか。年代的に貴重なものかもしれない。
15:24 (入洞3分後)
出口の光、発見!
やっぱり貫通していた!! 直線になったところで、初めて見通せるようになった!
しかも、この出口の見え方的に、この先に大きな崩壊があるという感じもしない。
これは、ちょっとばかり意外な展開だった。
…………、
……もしかしてだけど、あの変状云々というのは、明治の頃の技術不足が見せた過剰な反応だったりしたのか……?
そこまで必要性がなかった線路の付替を、やってしまった?
そんなことが実際にあったという事例は他でも聞いたことがなかったが、ここまでおそらく全体の3分の1以上は進んで来たと思われるところでいまだヒビの一つも見ていないというのは、悪名高い“不良トンネル”のイメージからは少し離れ過ぎている気が……。
まあ、廃線探索としては、予想以上に荒れて“いない”というのは逆に珍しいので、なかなか新鮮な経験をしている気がする。
真っ正面にまだ200m以上は離れていそうな小さな出口の光を見つめながら、ガラガラという砂利を踏む音だけが響くまっ黒い洞内を進んでいく。
間もなく、右側の壁面に「270」という数字が白いペンキで描かれているのに気づいた。
そしてこのような数字は、この先もときおり現われて、徐々に減数していった。
これは出口からの距離であると判断できた。
この時点で、残り270m。逆算して、入口からは約158m進んでいたということだ。
そして、私が壁の数字に「220」を見た直後に、変化は起った。
出口の光は、相変わらずちょこなんと中央に灯っていたが……
15:25 (入洞4分後) 《現在地》
これは残り220m、すなわち入口から208m進んだとみられる地点の風景。
なんだこれ。
道路トンネルだったら絶対許されないレベルの極端な断面の縮小が起った。
……マジか。
やっぱりこれは、地盤の不良というのがホンモノだったか。
何が何でもトンネルの圧壊を回避するための補強を目的とした、極端な断面の縮小ではないかと推定した。
しかも
門門門門門門
明治生まれ、大正廃止の煉瓦トンネルには、絶対場違いなツルンとした光沢のコンクリート造りの狭門が、とりあえず見通せる限りにおいては際限なく繰り返されていた。
トンネルとしてはイレギュラーであることは間違いのない光景。
この状況を見るに、どうもこのトンネル、大正時代に早々と廃止されるも、そのまま放置というワケにはいかなかったらしい。
おそらくその理由は、トンネルからそう離れていない右側の地上崖面に沿って現在線が存在し続けたためだろう。
(さらにいえば、その現在線の直下に国道20号も通じている)
この廃トンネルを放置し、それが大規模に圧壊することで、ますます岩盤全体が不安定になり、やがては地表の現在線の破壊へと波及することを警戒して、廃トンネルを守り続けるという、一見無駄に思えるような裏方の仕事を、国鉄やJRは人知れず100年近くも続けてきたのではなかったか。
アチィじゃねーか!
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新の回の「この位置」に、レポートへのご感想など自由にコメントを入力していただける欄と、いただいたコメントの紹介ページを用意しております。あなたの評価、感想、体験談など、ぜひお寄せください。 【トップページに戻る】 |
|