2016/2/21 11:58 《現在地》
石切場跡を離れ、軌道跡であるはずの路盤を熱海方向へと前進再開する。
周辺は伸びやかな高木の森で、左の海側から太陽が注ぎ込む今の時間は、太陽光に恵まれている。
そして頭上に広がる高木の半分くらいは常緑である照葉樹で、2月だというのに青々としている。さらに下草もまた緑である。
辺りの地表から樹木の幹までが、先ほどの石垣をほとんど覆い隠してしまっていたのと同種のツタ植物に飾られており、ジャングル然とした印象を与えている。
それでも歩行に不快を感じないのは、木々の間隔が広く空いていることや、ツタ以上に背丈のある下草がほとんど生えていないせいだろう。
歩行に支障は無い容易な区間ではあるが、ここに小さな“穴”を見つけた。
先ほど目にした“穴”(便槽)とは違い、周囲に石材の囲いも無ければ、水も溜まっていない。
しかし深さや大きさは、だいたい似通っている。
この穴の正体はなんだろうか?
そもそも、これが人工物であるのかどうかも不明である。
単に地中の水脈の動きとかの影響で自然に陥没した穴のようにも見えるが、周辺に同じようなものはない。
獣の巣穴か、あるいは人間の山芋掘りとかの跡という可能性もある。
いずれ、特に重要なものとは考えなかった。
少し、藪がうるさくなってきた。
まだ進行の問題になるほどではないのだが、このまま軌道跡が平穏に国道と合流するいう可能性はほとんど無く、どこかで切断されていると思われるので(そう思う根拠は色々あった)、突然藪が深くなるのは結構怖い感じがした。
ここも地形は緩やかで、特に大きな土木工事を要さなそうな場面だが、その割には明瞭に道幅の分かる路盤が残っていた。
しかもこの両側の路肩のうち、山側(右側)には――
“あれ” が、あったよ〜〜!
こんなに背の低い、可愛らしい石垣が!
これは嬉しい!
べつに小さいから嬉しいというわけでは無く、大きければもっと嬉しかったけど(笑)、ほぼ間違いなく廃線跡の石垣であろうものに出会えたことが嬉しかったし(先ほど見た石垣は、もしかしたら石切場のためだけに作られたものかも知れない)、この程度の高低差にわざわざ石垣を設けたのは、道路道路よりも勾配については遙かにデリケートな鉄道路盤「ならでは」と思えたことも嬉しかった。
こうして私はここで「石垣」という、単なる「路盤」や単純な「土工」(築堤や切り通し)よりも一段階進歩的な遺構を発見した。(この上となると、いよいよ「橋」や「隧道」であるが…)
低い石垣は20mくらい続いていたと思うが、今はそれも無くなった。
そして今、前方に大きな“地形の動き”が見えてきた。
私が最初、この路盤の一角に下り立った場所は、海岸に突き出た小さな尾根筋であった。
そこから100mほど水平移動してきた現在、尾根と尾根の間にある小さな谷筋に迫りつつある。
そのため、進行方向をぐるりと囲むように山の高まりが見えてきているというのが、ここで言う“地形の動き”である。
一つの谷を越え、次の尾根を目指すというのが、次のステップになるだろう。
石切場にいた頃はほとんど聞こえなかった車の音が、山側からはっきりと聞こえてきた。
音のする方を見上げてみると、30°くらいの斜面の先、100mと離れていなさそうな位置に、ガードレールが見えた。
自転車を置き去りにしてきた国道の続きが、徐々に近付いてきている。
旧版地形図から予想される今後の展開は、ここから500m内外で道路(国道)と合流して、専用軌道から併用軌道に戻るというもの。
そして私の目的は、可能な限り長く専用軌道の路盤を踏破することだが、経験上、国道が上から近付いてくるにつれ、廃線跡は劣悪な状況になることが予測出来る。
少なくとも、穏便かつ明瞭な形で両者が接合する事は無いはずだ。(もしそうなら、この廃線跡の存在は、もっともっと知られていたはず)
12:03 《現在地》
さらに谷に近付くと、藪がいよいようざったく視界を遮るようになってきた。
踏み分けなどは見あたらないので、両手を使って藪を掻き分け、そのまま直進していく。
足元に平坦な場所があるので、それが路盤だと信じて進む。
そのまま入っていくと、どうやら道が二手に分かれたようだ。
左に緩くカーブしていく道が平坦なので、これが軌道跡だろう。
右の道は、いきなり急な上り坂になっており、軌道跡ではあり得ない。試しに少し入り込んでみたが、30mほど国道の方へ急な登り坂が続いた末、さらに藪が濃くなったので撤退した。
引き返す間際には国道を走る車の音が間近に聞こえたので、この坂道は国道と石切場を結ぶための作業道だったのではないかと考えている。
軌道跡に戻って、藪の掻き分け作業を再開すると、まもなく左カーブが現れた。
ここも藪のため写真ではとてもラインが分かりづらく、補助線頼みになるのが悲しいところだが、実際に歩いてみると、案外よく見えていた。
いよいよ、この小さな谷を渡って、次の尾根へ向かう時期が来ているようだ。
谷を渡るのだ…
私は、期待せずにいられなかった。
ここに100年前の鉄道廃橋の痕跡が、残っているかも知れない!!
残念だが、橋はなかった。
橋が落ちていたとかでは無く、橋が存在した形跡が無い。
その代わりにあったのは、谷を塞ぐように築かれた、規模の大きな石垣だった。
路肩に積まれた石の列を見つけた私は、すぐさまその下に飛び降りた。
無名の谷を軌道が跨ぐ地点にあったのは、橋では無くて、築堤だった。
そして築堤の上部には、石垣が築かれていた。
石垣は中央部分が崩れて2箇所に分断されていたが、一辺50cmくらいの大きな石材を空積みにしたもので、現存部の規模は高さ3m、横幅10m程度(2箇所の合計)だ。
この軌道跡で見た石垣の中では最大だが、非凡では無く平凡な規模である。
――文化財。
だが、私にとってこれは、久々に公益性のある「文化財」を見つけたのではないかと息巻くレベルの逸材だった。
この石垣(築堤も)は、日本最古の人車鉄道の開業当時の遺構(明治28年開業)である可能性が大だ。(明治40年の軽便鉄道改築時に改築された可能性もある)
明治時代の建造後、手を加えられた可能性が極めて低い。中央部分の崩壊なども、関東大震災の“被災”ではないかと思え、だとすればこれも立派な“遺構”だが、それを確認する術は無さそうだ。
そもそも明治の石垣自体は珍しくないが、当時でさえニッチな存在だった人車鉄道(これまで全国で20路線ほどが存在した)の遺構となれば、貴重である。貴重とは探索における光である。
10年以上前から私はこの路線の廃線跡の実在を夢想していたが、諦めの雰囲気があって、なかなか探しに来なかったし、当然、見つかりもしなかった。
でも、発見してみれば、全然難しくなんてなかった。もし予め情報があったとしたら、国道から最短5分で済んだっぽい。
発見は、探索の最初に通過する岐れ道、すなわちその探索をするかしないかという分岐の決まった一方にのみ、存在する可能性があるのだ。
谷を塞ぐ築堤には、通水をするための暗渠やヒューム管が見あたらなかった。
しかしそれもそのはずで、築堤の上流側は完全に路盤と同じ高さまで谷が埋め立てられていた。
そこも路盤も等しく深い笹藪になっていたため地形を詳しく調べてはいないが、一帯の地表に洪水の痕跡が見られないので、かつての技術者達が思いのほか巧みに水を操っているということだ。
藪を掻き払いながら、谷を越えて先へ進む。
専用軌道の残りは、あと300〜400mくらいか。
こうしている最中にも、だんだんと国道は近付いてきている。どこまでこの路盤を辿れるのかは未知数だ。
…この笹藪、早く終わんないかなー。
12:14 《現在地》
築堤上を騒がしくしていた笹藪を突破すると、そこは今渡ったばかりの谷を左に見下ろす斜面の途中で、少し先には次の尾根を回り込むカーブが見えた。
そのカーブはここから見ても明るく、“最初の地点”の再来を思わせる“いい”カーブだった。
すぐにでもその“いい”場所へ向かおうと、即決で体を動かしかけたが、直進進路から右に少しだけ視線を傾けた位置に、ちょっと気になる気配があった。(それは写真にも写っている)
それはおそらくほんの一瞥をくれてやるだけで、終わるものだと思った。
例えば、地面のちょっとした影を見たとき、それを一瞥して「ああ、自然の窪みね」みたいなことは良くあるだろう。
通常、そんなことまで誰がレポートに書くだろうかという次元の話だ。
だが、今回それを書いたということは ――
井戸、ですかね…。
…ゾクッとした。
貞●とか、そういうんじゃ無くて、深い藪を掻き分けて進んだ先、
何気なく出たところの足元のすぐ近く、柵も注意書きも何も無いところに、
こんなものが、無造作に口を開けてるなんて……。
これは、土地の監理者さえ把握していない危険かも知れない。
これに落ちたら人間は一巻のおしまいだ。(私のauスマホは電波ナシだった)
……底が見えないもの…。
ぞくぞくだけじゃなく、びくびくもしながら、慎重に慎重にその縁に立って、
(縁といっても穴の周りに角が無く、すり鉢状に落ち葉の斜面が入っているから、近付くのも怖い)
近くにあった石を一つ手に持って、それを底へと自由落下させてみた。
その模様を収録したのが上の動画だが、ボリュームを上げて観て欲しい。
石が底に辿り着くまでの音の長さ………
うっ…。
正直言って、早く立ち去りたかったが、
…底が、気になるのである。
井戸の直径は7〜80cmだが、さっきも書いたように、ぎりぎり縁まで近づくことは出来ない。
したがって、肉眼ではどうやっても井戸の底を見下ろす事は出来ないが、代わりにカメラが覗けるよう、
私は井戸に頭を向けた姿勢で俯せに寝転がって、その状態でレンズを下に向けたカメラを
井戸へ突き出すことで、どうにかこの写真を撮影したのだった。
綺麗な丸い形をした井戸だが、周囲はコンクリートではなく、土のように見える。
フラッシュを焚いても、やはり底までは届かないようだった。
最後の手段は…
デジタル補正で、上の画像では黒つぶれしている底の部分を強引に表示させたのが、この画像だ。
これでようやく底がある事が分かったが、深さは10mできかないかも知れない。思いのほか深い井戸だ。
そして底にはもう水は溜まっておらず、泥が堆積しているようだが、
この泥の中には、憐れな転落動物たちの末路も混ざっていそうだ。
この場所が管理されていない(危険な)廃線跡だということが、思いがけない形で実感されることになった、予想外の井戸(らしき縦穴)という発見。
今考えても、結構ゾクゾクする。
例えば、私には良くある事だが、もっと薄暗い時間に探索していたとしたら…。
正直、こんな崖地でも無い藪の周囲では、足元への注意もだいぶ疎かになっている。
廃道や廃線跡に唐突な縦穴というのが滅多に無い為だ。
だが、この廃線跡は怖い。
こんな所に井戸とは、予想できなかった。
これまで歩いた区間にも、倒木や色々なもので隠されているだけで、別の井戸が埋もれていないとも限らない。(さっきも、陥没穴らしいのを見てるけど…)
もし今後歩く人がいたら、穴にはくれぐれも注意して欲しい。
それにしても、この縦穴の正体は本当に井戸なのだろうか。
これまでも度々紹介している明治29年の地形図で附近りを見ると、荒れ地や闊葉樹林の古い記号に混ざって、「家屋(小)」が描かれている気もするが、ちょっと汚れとの判別がつかない。
また仮に家屋があったとしても、井戸の位置は随分と線路に近い。
ここでは、鉄道と関係した井戸というのが最もロマンある想像になるが、ここに駅があったという記録は無い。最寄り駅は300mほど離れた稲村集落内の稲村駅だが、これも人車時代には無く、軽便鉄道になってから開設されたそうだ。
嶮しい山道の途中で、かつ谷に面したシチュエーション。
その谷を築堤をもって堰き止めることで地下水位を上昇させ、そこに井戸を設置して人車車夫の給水に用いた。
あるいは、軽便鉄道の蒸気機関車給水用の井戸だった。
前者の説なんて案外あり得そうでワクワクするが…、残念ながら、この井戸の正体も明らかではない。
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