岩瀬秋町線 (御母衣湖右岸道路) 序

公開日 2009.11.29
探索日 2009.11.22


右の地形図を見て欲しい。

これは最新の2万5千分の1図であるが、幅の広い水域を渡る一本の橋が描かれている。

橋には「六厩橋」という注記がなされ、西側の岸辺には三角点がある。

「六厩」は地名で、これで「むまい」と読む。


橋を中心に3本の道が存在する。

一本は南西へ、一本は北へ、一本は東へ放射状に伸びているが、いずれの道も橋の周辺は「破線」で描かれている。

これらの道は、かつてトラックも通る林道だったが、現在は廃道になっているとのことである。
3本が、3本とも廃道になっているとのことである。

現在この橋がどうなっているかを知っている人は、かなり少ないらしい。

だが、そこには大変雄大な、訪れた誰もが息を呑まずにはいられないような巨大吊り橋が架かっているのだという。



この橋が存在する場所は、岐阜県高山市(旧荘川村)と白川村との境を流れる六厩川河口部である。
そこは、巨大な御母衣(みぼろ)ダム湖右岸の、かなり山へ入り込んだ峡谷である。
一見するとダム湖の左岸を通行している幹線道路(国道156号)から離れていないのだが、実際は湖を渡る橋が少ないために、近くはない。

橋から伸びる3本の道は、それぞれが別の終点を持っている。
最も短距離である「右岸ルート」でさえ約13km、次ぐ「森茂ルート」で約14km、「六厩ルート」が約15kmもあるのである。

この橋の情報提供者は過去に二人いた。
一人(原付3種氏)は約10年前にバイクで右岸ルートから橋を目指し、果たせずに途中で断念をしたという。
もう一人(パンダ使い氏)は約4年前に自転車で六厩ルートから橋を目指し、見事に達成した。
だが惜しくもそこで時間切れとなり、来た道を引き返したのだという。
(お二人がその後再挑戦されていたとしたら申し訳ないです。その場合ご連絡下さい。)

原付3種氏はさらに、この橋を紹介した数少ない(恐らく最初の)サイトとして、『冒険伝説』というサイトを教えてくれた。

その管理人のt.s氏は、今から約11前にバイクで森茂ルートに進入し、途中から廃道を徒歩に切り替え橋に到達。
それを渡って、さらに右岸ルートの秋町隧道まで到達して、引き返した模様である。
時期が古いせいもあり、決して豊富な画像で綴られているわけではないのであるが、橋の姿をモニタ越しに見た私は、トリハダがたった。


そして、強く思った。


自分もいつか、六厩川橋を目指してみたい!


そして、出来ることならそこで終わらず、橋と隧道の通り抜けを果たしたい。








2009年11月22日(日)。

よごれん氏との初めての合同調査を翌日に控えたその日、

私に宿願を果たす挑戦の機会が巡ってきた。


3本あるルートはいずれも興味深かったが、その距離を考えると、1日で辿りきれるのは2本が限度であろう。
そのような読みから、泣く泣く六厩ルートを削った。
そこは4年前にパンダ使い氏が苦労しつつも自転車で乗り越えたルートだから、私としては自転車による踏破の記録が無い右岸ルートと森茂ルートの連続攻略を目指すこととし、六厩ルートは緊急時の脱出ルートと位置づけることにしたのである。

そして、渡橋用の秘密兵器として「安全帯」をいつもの荷物に加えた私は、日が昇るとほぼ同時に「道の駅荘川」を発ち、秋町隧道と六厩川橋を経て一周する探索を開始したのであった。

それは、長く苦しい戦いの始まりだった。





出発から、御母衣湖まで


2009/11/22 6:29 《現在地》

前日は昼前に約3週間滞在した秋田を出発し、約660km運転して深夜0時前にここ「道の駅荘川」へ着いた。
車中泊で睡眠を補給し、明るくなるのを待ってすぐに自転車を組み立てた。
そして細田氏が出発の前の晩に持たせてくれたカップラーメンを一つ食べ、昨日のうちに買っておいたおにぎりなどもリュックに突っ込んで、午前6時30分に出発。
今日の行程はきっと長くなるはずで、1分だって明るい時間を無駄にしたくはなかった。
ただでさえ今は一番昼の短いシーズンなのである。


道の駅の前を通っている国道は、去年の永冨氏との想い出も鮮明な、国道158号線。
もっとも、この辺りの区間を走るのは全く初めてだ。

旧荘川村の中心部で、いまも高山市の出張所などが立ち並ぶ猿丸地区を、やや下り気味に通過。
路上の電光掲示板が指し示す気温はちょうど0度だった。
秋田に滞在していたとはいえ、その間向こうはなぜか暖かい日が多かったので、久々にホッペに来る寒さを感じる。
でも、このくらいはちゃんと着るものを着てさえいれば、チャリ漕ぎには快適な気温だったりもする。

それから間もなく牧戸地区で国道156号に移る。
この道は、今年で二度目の舞台となる。



7:00 《現在地》

出発から30分。
午前7時ちょうどに「入り口」に着いた。

岩瀬地区にあるこの三差路を右に行く道が、間もなく現れる御母衣湖の右岸を辿る道である。
特に行き先を示す標識もないが、また通行止めを予告するようなものもない。
どこにでもありそうな国道と脇道の分岐地点である。
しかし、ここから11km先には「秋町隧道」があり、さらにそれから2km弱で「六厩川橋」に辿り着くはずである。

…問題は、どこから廃道になっているのかということだが、情報が少なく、分からない。




道は1.5車線の平凡な舗装道路として始まった。
入って最初の100mほどのうちは沿道に木工所か何かの建物があったが、すぐに森に入り、またいくらも経たないうちに青灰色の湖面が見えてきた。

まったく行き交う車はないのが不気味といえば不気味だが、地図を見る限りはこの先に一つの集落もないのだから、不思議ではない。




左手に大きく現れた湖面は、非常に水位が低いようだった。
おかげで、半世紀以上も昔に沈んだ集落の区画が、広々とした泥の地面に鮮明に現れているのを見ることが出来た。

御母衣ダムは、昭和25年に計画決定された発電専用のダムであり、ロックフィル形式が採用されたダム高は131mと、日本屈指の規模を誇っている。
本体工事は昭和32年に始まり完成が同36年であるが、これに先立って行われた水没補償や集落移転が大きな問題となったことでも知られている。

ダム湖によって水没した地域は当時の白川村と荘川村に跨り、合わせて174世帯1200人が補償の対象となった。
特に荘川村では村役場や学校、水田などの大部分が水没域にかかり、全人口の30%が移転を余儀なくされたという。

当然、この対岸に見える国道も、今走っている右岸の道も、ともにダム水没によって付け替えられた道である。




巨大な湖面を遠くまで見渡せる場所が現れた。

雲が低い。

そういえば、前夜も遅くまで雨が降っていた。
今日の予報は曇りで、降水確率は40パーセントだったが、降ってもおかしくはない確率である。
一応は雨用の備えもあるとは言え、この気温では出来るだけ濡れるような事は避けたい…。

雲におののきながら、ファインダーを望遠にして覗く。
すると、低い水面のせいでひときわ険しく見える湖岸の一角に、ほぼ水平に連なる道らしいラインを見ることが出来た。
地図で確かめると、あの見えている辺りは約5kmくらい先なのだが、まだまだゴールにはほど遠いのである。
…あの辺りは、廃道なのか、そうでないのか…。

ここからでは、ちょっと見当が付かない…。




先行きに不安はあれど、さしあたって足元の道は舗装も整っていて快調である。
ペース良く進み、湖畔の様子に大きな変化が訪れた。

道は湖の太い本流部分から右手に逸れて、落部(おちべ)川の凹みへ連れ込まれていく。
その対岸にピョコンと丸い頭を出しているのは、その名の通り「丸山」というらしい。
地形図には名前のない山だが、この丸山を取り囲むようにして、かつてはいくつもの集落が存在していたそうである。




これが道から見渡した落部川の流域(上流)であり、水位が低いために赤茶けた水没域が不気味に露出している。
ここにも落部という集落があって、中世から近世にかけて白川街道の経由地として栄えたのだという。
今は見ての通り一面の泥沼である。

道はこの湖腕をグルリと大きく回り込み、左にある丸山の後背を「落部峠」で乗り越えてから、再び本流の湖畔に戻るルートを取る。




大字が赤谷に変わって少し進むと、右手に立入禁止の採石場が現れた。
そして、そのすぐ先の左手に旧村営の最終処分場があった。

ここまでは車の出入りする明確な理由があったわけである。




その一角に「岩瀬特別保護地域見取図」というタイトルの地図が掲示されていた。
そして、この図によってこの「右岸ルート」の正式な名称が判明した。

 村道岩瀬秋町線

岩瀬はこの道の入口があった大字で、秋町という地名は今はなくなってしまったが、それこそ「秋町隧道」の南口付近の湖底にその集落はあったらしい。

もっとも、現在は荘川村ではなく高山市荘川町になったので、村道もそのまま引き継がれたとしたら、高山市道であるはずだ。




7:14 《現在地》

そして、最終処分場入口を過ぎると橋があり、その橋の対岸の道は、未舗装になっていた。

相変わらず立入禁止とも通行止めとも書かれていないものの、確実に道路状況は悪化しつつあるようだ。

現在地は起点から2.2km。


まだまだ、先は長い。