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道路レポート 富山県道54号福光上平線 ブナオ峠 最終回

所在地 富山県南砺市
探索日 2014.06.02
公開日 2024.06.12

 中河内にはまだ、人の温もりが感じられた


2014/6/2 11:48 《現在地》

振り返れば石仏群があり、チェーンゲートもぎりぎり見える位置に、2度目の広場が現れた。
【前回の広場】と同じような雰囲気の場所で、もう座る人も絶えて久しかろうという3つの擬木ベンチと、「富山の名水 小矢部川の長瀞橋」と書かれた疑木標柱が立っていた。
前の広場に案内があった遊歩道というのは、この辺りに続いているのかも知れないと思ったが、それらしい道はやはり見当らず、それよりも私の興味は、チェーンゲートを過ぎたこの場所がちゃんと封鎖区間を脱しているのかどうかということに向けられた。

ブナオ峠の封鎖区間を完遂出来たという確証が、欲しかった。
答えを確かめるべく早く進もう。



11:50

広場を出てまもなくの小さいが荒々しい切り通し。
ここから道は再び下り基調となる。それも進むほど勾配は増していった。

思えば、朝から5時間近く同じ峠道をたどり続けている。
そして、峠を越えた後だけでも、廃道に廃村、険しい峡谷、そんな様々な場面があった。そしてこの後にもまだ、ダム湖という新しい場面が現れるはずだ。
ブナオ峠、口にすればたったこれだけの名前だが、20kmを越える長い峠道を生身の体で通ろうとすれば、色々な記憶は乱暴に上書きされる。

私が何を言いたいか。
10年前のこの探索、その終盤に差し掛かったこの辺りの出来事については、あまり憶えていることが多くない。
そもそも、自転車で長い下り坂を走っている時の記憶が飛ぶのは、サイクリストあるあるなんだよ。
私が無茶な24時間サイクリングに没頭していた若い頃には、下り坂でハッと気付いた時に路傍の草地や側溝の中、或いは植え込みなんかに自転車と一緒に倒れていたことが何度もある。下り坂の運転中、極度の疲労で眠ってしまったのであろう。



11:53

したがって、撮影した写真を頼りに少ない記憶をたぐり寄せて書き進めるが、まず路面の状況については、チェーンゲートを境に確実に改善した。
峠以来まだ他車には一切遭遇していないが、いつ現れても不思議は無い感じ。
廃道状態は当然脱し、長く続いた荒廃状態も脱して、もう狭くて険しいだけの“普通の道路”になっている。

そして、これまた非常に長らくのご無沙汰だった、道路標識ではないタイプの注意看板が(振り返り方向に)設置されてるのを見た。
上平側の序盤でよく見たものと同じデザインで、設置者名も一緒だった。
確実に下界に近づいていることを感じられた。



写真サイズ的に分かりづらいが、実はめっちゃ手ぶれしている写真だ。
薄暗い樹林帯の急坂を爆走中、片手で撮影したせいだ。
長瀞峡を高みより見下ろしたその高度を、猛烈な勢いで清算していく。おおよそ900mで100m近く下るのである。



11:53 《現在地》

キィーーーーーーッ!!!

っぶねえ!

高速で侵入したヘアピンカーブの出口附近に予期せぬ交差点が!! 止まれないかと思った。

慌てて止まって地図を見ると、県道の順路は切り返す方向だ。つまり右。
左の道は支流の湯谷を遡るもので、地図では行き止まりの軽車道のように描かれているが、現地入口に【林道標識】が設置されており、林道奥孫線とあった。チェーンゲートが閉じられているものの関係者の出入りが多いのか、見える範囲の砂利道は随分踏み固められていた。
ちなみに、長瀞峡に林道が切り開かれる(昭和10年)以前に下小屋と中河内を結んでいた越戸峠の古道の入口は、この林道と重なっているようだ。



同じ場所で林道入口を背負って撮影した。私は右から下ってきて、今度は左へ下る。

ん?!

ヘキサ見っけ!



いや〜〜〜、ヘキサのない距離長かった!!
途中の見落としはまず無いと思うので、なんと上平側入口の封鎖ゲートの【これ】以来となる、実に19.8kmぶりのヘキサだった。

車道として開通している県道上で、こんなにヘキサの間隔が空いているのは珍しいと思うが、そもそも道路標識自体がほとんどなかったので、ヘキサなんて後回しだよな…。どこかへに通じている分かれ道というのも皆無だったし、県道を案内する必要性もなかったのだろう。

ほんと久々のヘキサで興奮したついでに、他愛のない話も聞いてくれ。
このヘキサの補助標識の「(主)福光上平線」っていう文字列の「(主)福光」って、なんか聖書を連想しない?
それだけです。下らないこと言ってゴメンネ。

ともかくも、入口と出口のヘキサが揃ったところで、ようやく峠越えの大仕事を終えたなって感じがしたのであった。
そして、ここからほんの200mばかり進んだ場所では……(↓)



11:55 《現在地》

富山県が設置した通行規制バリケードと遭遇!

今度こそ、通行規制区間を脱したのだと思う。

富山県が公表する県管理道路の通行規制状況にある「南砺市中河内」の封鎖起点は、この地点を指していると思う。
私の計測では峠からちょうど10km、そして上平側のゲートから数えてちょうど20kmという、偶然だがキリの良すぎる場所であった。

また、ゲートの脇には、これもスタート以来の遭遇となる建物があった。
ここはかつての中河内集落があった場所で、建物は現役の作業小屋のようであった。

ところで、これまで何度も引用している県管理道路の通行規制状況に記された封鎖区間の距離だが、誤りがあると思う。

2024年6月現在では、(↑)このように中河内〜ブナオ峠間「8.0km」と、ブナオ峠〜西赤尾間「12.3km」の2区間が記されていて、合計で20.3kmとされているが、正しくは、中河内〜ブナオ峠間「10.0km」とブナオ峠〜西赤尾間「10.3km」の合計20.3kmではないだろうか。

実際、西赤尾の【案内標識】には、峠まで10kmと書かれていたし、実測値もおおよそ10kmだった。そしてまた、峠からこの中河内バリケードまでの距離も10kmほどあって、先に通過した長瀞峡のチェーンゲートまででも9km近かった。
区間距離の一部を交換するような不思議な誤りがどうして起きているのかは不明だが、20.3kmという合計距離はおそらく正しい。



11:56

バリケードを越えるとまもなく、これまただいぶ久々な気がする“橋”と遭遇。
下を流れているのは小矢部川だ。源流の不動滝から長い付き合いとなったこの川をはじめて渡って、左岸から右岸へ。
長瀞峡では随分と威勢が良かったが、【橋から見た流れ】は静淑だった。川の変化ってのはまず読めないな。

そんな初本流渡河の記念すべき橋だが、銘板などが見当らず、現地には名前を知る手掛かりが無い。
というか、そもそもこの橋の高欄は近年増設されたものに見える。もとは地覆だけの板橋だったのだろう。

現地では分からなかった橋の名は、道路台帳によると、質素極まる「2号橋」である。
これは、不動滝谷の7号橋から、6号、5号と来て、4号の代わりに下小屋橋があって、3号はおそらく土石流に埋没していて、という流れの中の2号橋である。
全長17.8m(今までで一番長い)、幅3.1m(今までで一番狭い)、昭和39(1964)年竣功(下小屋橋よりは新しい)のスペックだった。

……あと、皆さんは気付いたかな?



対岸に人がいることに!

第一村人発見である。
ここ中河内も、下小屋同様、刀利ダム建設の影響で全戸離村し、無人化して久しいと聞いていた。
だから定住者はいないのだと思うが、現在でも人の出入りはある様子で、完全の無人境と化してしまった下小屋とは印象が違う。当たり前だが、辿り着ける道の状況が大きく影響しているのだろう。



11:57 《現在地》

2号橋を渡った右岸がかつての中河内集落の中心で、道も急に真っ当な県道らしい広さになった。
写真は来た道を振り返って撮影している。
ここには、私が約5時間ぶりに人の姿を見た作業場らしき建物のほか、石仏の安置された複数の石祠や、村の先達の頌徳碑とみられる碑、分校跡の碑などが点在している。

中河内の地形は、小矢部川と湯川の合流点にある小さな谷底平野で、長瀞峡から出て来た小矢部川がここで90度方向を変えるために、沖積作用が盛んに働き、定住しやすい平地が生まれたのかも知れない。
周囲はぐるりと山に囲まれているが、ブナオ峠の方向は近くの山陰で全く見通せないため、遠い峠からやってきたという感じがより深まる眺めであった。

刀利谷史話』によると、中河内も500年以上の歴史を有した古い集落で、始まりは近江の木地師の定住によるという。戦前16戸を数えた。山間地のため米はとれず、稗、粟、そばを自給自足した。主要産業は木炭生産で、県下一の生産量を誇った時期もあったというが、燃料革命によって衰退し、解村当時はなめこ造りが盛んであった。また、近世には五箇山同様に塩硝生産も盛んに行われた。

冬は4m近い雪に閉ざされる厳しい自然環境の中で、住人達の心の拠り所になっていたのが、蓮如上人ご巡杖のおりに建てられたという道場で、最後まで村の集会所として大切にされていたそうだ。

無人化は昭和45(1970)年のことで、刀利谷の5つの集落の中では一番後まで存続した。
経過としては、昭和37(1962)年に下流の3集落が刀利ダムによる水没で無人となり、次いで昭和41(1966)年に上流の下小屋も離村したため、陸の孤島となって過疎化が進行。最後に残った8戸37人の住人も当局の補償を受けて金沢や福光に移住したという。

掲載した地図は、昭和28(1953)年の地形図だ。
下小屋同様、徒歩道だけのように描かれているが、実際は木炭を満載した荷車の通れるくらいの林道が下小屋まで延びていたし、下流の福光方面への車道は、さらに早く大正末頃には開通していたたという。

このような地形図からのある種の冷遇は、塩硝街道としてブナオ峠が賑わった時代が遠い過去になっていた昭和の中頃に、刀利谷に着目する人はとても少なかったということなのかもしれない。




『刀利谷史話』より

この写真の出典元には、「在りし日の中河内集落」とのキャプションが打たれている。
正確な撮影年は不明だが、中央下寄りに小矢部川を渡る現在と同じ橋(2号橋)が見えるので、おそらくは解村直前頃の写真だろう。
川の両岸に大きな家屋がいくつも見える。いかにも平和そうな山村だ。
この地も水没は免れたものの、当時の建物は全て解体されたようで、現存しているものは無さそうだった。



11:56

そんなわけで、出発からほぼ5時間をかけ、2024年現在におけるブナオ峠の通年封鎖区間の完抜達成となったが、県道自体もあと6km強ほどで「起点」に至る。
探索の経路としても、このまま起点へ向かうこと一択なので、次回一気に残りの区間を紹介しよう。




 刀利ダムの明るい湖畔をひた走る


2014/6/2 11:57

南砺市西赤尾町の県道「終点」を出発したのが午前7時、10km地点のブナオ峠で封鎖されたバリケードを越えたのが午前10時、そしてまもなく正午というこの時間、遂に20km地点の中河内にて、出口側の封鎖バリケードを越えた。
この先、県道の「起点」である刀利ダムまでは6km強の道のりがあり、引き続きそこを目指し前進を続ける。

この区間は冬期間こそ積雪のため閉鎖されるが、他の時期は解放されている。
誰でも行ける場所ならレポートは不要なんて言わないで、最後までお付き合いくださいな。
私は封鎖区間に接する現役区間も大好きなのだ。特に封鎖区間を突破した後にウィニングラン的に走るのがたまらない。みんなもそうでしょ?



これは中河内から刀利ダムまでの最新の地理院地図と、(チェンジ後の画像は)昭和28(1953)年の地形図だ。

昭和37(1962)年に本体工事がスタートし、40年に試験貯水開始、42(1967)年に竣功をみた刀利ダムのために、この区間の古道・旧道の大部分は、72世帯169人が最後まで暮らしていた滝谷、上刀利、下刀利という3つの集落と共に湖底に沈んだ。
ダム工事に伴う公共補償として右岸の高所に付け替えられた道路が、現在の県道54号である。

それでは、刀利ダムを目指して県道最終区間へ出発!



中河内集落跡を外れても道は堅実な2車線幅を維持しており、そこは真っ当な県道らしいが、いかんせん路面のセンターラインや車道外側線がほとんど掠れていて見えなくなっている辺りに、交通量の少ないことが分かり切っている県道にあまり手間はかけられないという、そんな管理者の意識が透けて見えた。
とはいえ、中河内までは2車線道路として整備しようという意識も、かつてはあったように思う。

道は小矢部川が作り出した平和な河谷平野を穏やかに下っていく。
しかしいかにも集団離村地らしく、平らな土地の多くが盛大な草むらとなって放置されているのが物淋しい。耕地や屋敷地であったのだろう。対岸に見えた【スギが叢生】する一画なんかも、そんな名残であったと思う。



12:04

彦谷という小さな支流を全長7m幅7mの彦谷橋(写真は撮り忘れ)で渡った辺りから、小矢部川の広い河原が薄らと湖底っぽくなってくる。
それからの変化は早く(まあ、自転車で快走路を下っているからなんだが)、あれよあれよと川は湖に変った。
流路延長おおよそ3.5kmの刀利ダム湖(この人造湖には愛称のようなものは設定されていないようだ)の始まりであった。

湖が現れたと思った時点で、既に両岸は険しい斜面に変っており、湖底に沈んだ旧道が現道より離れていく場面を見出す暇がなかった。
おそらく水没前を知る人であれば「ここにあった」と示せるだろうが、私には断言できるような痕跡が見いだせなかった。
(答え合わせだが、この場所の旧道は既に湖面よりも下にあり、この日の水位ではもう見えなかった)



12:05 《現在地》 

トンネルせまっ!

って、初遭遇時なら誰もが思うだろうトンネルが現れた。中河内から約1.8kmの位置だ。
このトンネルの実際の幅員は4.0mで、一応乗用車同士ならばすれ違えなくもないが、普通それをしようとは思わない狭さであり、そもそも坑門に「トンネル内一方通行」と「赤回転灯点灯中進入禁止」の看板が設置されていて、対向車を感知すると点灯する赤色灯を合図とした、先入車優先の片側交互通行規制が行われている。

坑門上部に樹木に隠されつつある【扁額】があり、滝谷隧道という名前は分かったが、以下の諸元は文献による。
滝谷隧道、全長409m、幅4.0m、高さ4.9m、竣功昭和41(1966)年。
前述の片交規制のほか、道路標識による高さ3.0m規制も行われている。

実際狭いトンネルではあるが、せまっ!ってなる最大の理由は、2車線幅の道の先に突然このトンネルが現れるからだ。
立地的にも、完成年的にも、刀利ダム建設の公共補償で出来たトンネルなのは間違いないが、補償対象の道が県道昇格前の林道であったので、林道なりの規格で整備されてしまったようである。
おそらくトンネル外の道路も開通当初は同様の1車線整備だったのだろうが、県道への昇格後に拡幅が行われているようだ。



12:09

くらっ!まがっ!ながっ!

といった具合に、さらに三拍子揃ってしまい、最初の せまっ!と合わせて、現役県道らしからぬ四重苦トンネルが出現してしまった。
内部が曲がっているのは、入口から対向車が見えないので、確かに片側交互通行でないと厳しいですな。
あと、地味に内部が上り坂で、通過に少し時間を要した。

ちなみに刀利ダムは、洪水調節、灌漑、水道、発電など多くの目的を有する多目的ダムだが、少し珍しい農林省直轄ダムとして整備されている(完成後の管理は富山県が行っている)。これは、小矢部川が広大な射水平野の農村地帯を灌漑する使命を帯びつつも、急流であるため流量が安定せず、しばしば渇水を引き起こしていたこと。またその一方、暴れ川のため度々大きな洪水によって甚大な農地被害を引き起こしていたことなどから、土地改良法に基づく直轄事業としてダムを整備したものであった。

農林省直轄ダムだから付替“林道”の規格がショボかったんじゃないか(自前の国有林林道の付替だったらなおさら?)なんてことを少し邪推してしまったが、この辺りは資料的な裏付けが全くないことであるので、気にしないことにしよう。昭和40年代のダム付替道路なんて、他のダムでも結構カツカツの道は多いしな。



12:13

冷たい空気を肺一杯に取り入れてから、409m先の眩い地上へ脱出した。
福光側の坑口もデザインは一緒で、もちろんサイズも一緒。
トンネルを出ると直ちに道が広くなるのも一緒であった。



12:15

だが、外へ出てすぐに再開した湖面は、もうさっきまでの一緒ではなかった。
でかい。
↑あまり凡庸な表現で恐縮するが…。
さっきまで狭苦しい渓壑に閉じ込められていたせいで、余計に鮮烈な広さを憶えた。

で、基本的には明るい湖畔の道路だが、トンネル以外にも薄暗い場所も少しだけあって……、既にちょっと見えているが…



これまた超久々、福光側では初めての遭遇となる覆道だ。
現地に名称を知る手掛かりなどはないが、刀利3スノーシェッドというよう。
全長21mで、竣功年は不明。幅員的に県道昇格後に整備されたのはほぼ間違いないだろうが、結構古そうなタイプだった。

この後、湖面との高度をほぼ一定に保ちながら(すなわちほとんど平坦な)道を進んでいくと、ひときわ湾入した入江を巻く場面がある。



12:22 《現在地》

中河内から約3.3km進んだこの道路下の湾入した湖底、正面の滝谷が小矢部川に落ち合っていた周囲に、滝谷集落が沈んでいるという。
道路上や湖畔の景色には湖底に眠る集落に繋がるヒントは全く見当らず、私も特に意識せず通り過ぎたが。

そして、これも平凡な橋であったせいで写真も撮っていないが、道路台帳によると、滝谷に架かる小さな橋(長さ11.5m、幅5m)こそが、1号橋であった。
7号から10km以上にわたって続いたシンプル連番橋のシリーズも、この1号でようやく完結の運びとなったが、名前を順に並べると、7号、6号、5号、下小屋、3号、2号、彦谷、1号という風になっていて、彦谷の仲間はずれ感よ(笑)。その原因は(いろいろ想像してみることは出来るが)不明。あと、彦谷橋の写真を撮ってこなかった俺は0.5点減点。



12:25

滝谷を過ぎても湖畔の道路は坦々と伸び、相変わらずほとんど車も来ないので、思うがままに快走した。
進むほどダム湖は広くなってきて、そろそろ堰き止めるべき本体も見えてこようかという感じになった。
やはり県道上からは察するヒントもないのであるが、滝谷とは概ね一続きの地形にあったかつての刀利(上刀利とも)集落の水没地も横切っていく。
附近の路上には刀利2スノーシェッド(全長30m)があったようだが、あまり記憶にはないです。

そろそろ、まどろみがち?

目覚めよ! 重要アイテム来たぞ!



12:25 《現在地》

半開した、常設型道路ゲートと遭遇。
常設の道路ゲートは、スタート地点の上平側入口以来、実に25km以上ぶりだ!

しかしこの半分だけ開いているのはなんなのか。
上平側のゲートもそうだったが、ほんとなんなんだ。通っていいのか駄目なのか、はっきりしろ。
苦笑しながら、正面に回り込むと……

「冬季閉鎖 通行止 区間:中河内からブナオ峠まで 期間:当分の間」という看板と、
「この先3km先(中河内)から通行止」という、合計2枚の看板が設置されていた。
ここは通してあげるけど、3km先の中河内からは本当に通行止なんだからね! っていう感じのツンデレ構文なのか。
それはいいけど、「冬季閉鎖」が「当分の間」って、それ本当に冬季閉鎖なのかっていう…。

……ツンデレゲートを潜りますと、直ちに……




 県道の起点周辺は道マニア的にとても濃密な空間


2014/6/2 12:27 《現在地》

福光側では初めての遭遇となる常設型ゲートがあったのは、県道「終点」より25km(中河内から約5km)、「起点」まで残り1.5kmという地点だった。
その半開きのゲートを抜けると、直ちに丁字路がある。
県道上に案内標識などはないが、県道は普通に直進だ。

県道ではない方の右の道についても、ぜひ言及したいのだが、その前に、“矢印”の位置にある石碑についても説明したい。
この石碑、オブローダーなら絶対気になる存在だと思う。



なにせ、碑一杯にでっかでかと、「修路記念碑」と刻んであるのだ。
これこそがブナオ峠の開通記念碑なのではないかと、色めきだった。

が、側面に「大正十三年六月建之 刀利三ヶ村」と刻まれているのを見て、年代的にちょっと早過ぎることを知った。
また、正面の「修路記念碑」という大きな文字の隣に小さく、「太美山村長陸軍歩兵少尉正八位勲六等功六級松本豊蔵書」とあるが、太美山村は昭和27(1952)年まで当地にあった村名だ。
昭和43(1968)年にようやく車道が全通したブナオ峠の記念碑としては、いささか古すぎるだろう。

とはいえ、大きさも構えもとても立派なこの石碑、一体どんな道路の開通を記念したものだったのか。
これについては、『刀利谷史話』に記述があったので紹介しよう。



この碑は、刀利ダム湖に沈む旧県道に関連した記念碑だった。

掲載した地図は昭和28(1953)年板だが、ここには既に現在の県道10号金沢湯涌福光線にあたる県道が描かれている。
刀利谷の人々にとって、この県道は村役場への所用や、村の主産物である木炭を福光や金沢へ運び出すのに使う、まさに村の生命線というべき大切な道だった(ブナオ峠は裏玄関だ)。

しかし道は悪く、大量の木炭も人の背によって少しずつ運び出さねばならなかった。
特に下刀利のすぐ下流に“ノゾキ”と呼ばれた絶壁の難所では、人一人がやっと通れる細い道が危うげに通じているだけで、痛ましい事故も起きていた。

大正10年頃、金沢の陸軍工兵隊が演習を兼ねて、この県道の板ヶ谷から立野脇までの改修を行った。
このとき、下刀利、上刀利、滝谷の3ヶ村の住民達は、自宅を宿泊所として開放するなど村を挙げて協力した。
さらにこの出来事に刺激を受けた人々は、県道をさらに整備して刀利まで馬車が入れるようにしようと考えた。

村長である松本豊蔵氏が中心になって、上刀利の小矢部川に架かる横谷橋から下刀利を経てノゾキまで(地図で赤く塗った辺りか)の整備計画が建てられた。
工事は請負人や村人達の総出で行われ、大正13(1924)年に無事開通した。そして福光や金沢から初めて馬車が通じた。

刀利谷における近代化の曙光となったこの工事を記念して、碑は建てられた。
当初は旧道沿いに設置されたのだろうが、ダム工事の際に付替道路沿いの現在地へ移転したようだ。

なお、このように刀利谷の交通を阻害して近代化を阻んでいた“ノゾキ”の大岩盤は、水一滴通さぬ堅牢さによって、現在は刀利ダムという巨大な人工物を支えている。
刀利ダムが一般的な重力式ダムより経済性に勝るアーチ式ダムで建設されたのは、この岩盤条件の良さに起因する所が大きいという。


……ってね、なかなか濃厚な由来だったでしょ。
痕跡もなく沈んでしまった道の開通記念碑が、こうして湖畔の目立つ場所に移設されてあるのは、なかなか珍しい気がする。
それだけ最後まで大切にされていた道だったのだろう。

さて次はお待ちかね、分岐の右の道についてだ。



でたー!! 香ばしき“大規模林道”の末裔だ!!!

当サイト的には常連である、林道界の未成道キングの登場だ。
昭和から平成まで、日本各地のいわゆる未開発林野に、全長2800km余りが「国道並みの林道」という触れ込みで盛大に計画されるも、50年かけても6割くらいしか完成できず、挙げ句に最後は官製談合事件で事業主体ごと打ち切られた、大規模林道→緑資源幹線林道の末裔がここにもいた。
(大規模林道や緑資源幹線林道についての真面目な解説は、以前書いたこのレポートがオヌヌメです)

で、面白いというか、闇深いというか……、とにかく注目したいのが、入口の(大規模林道特有の)青い林道標識に書かれた路線名というか区間名だ。
「上平・福光区間」って書いてあるとおり、実はこの林道の目的地も、旧上平村なのである。

私がいま5時間以上かけて、上平からブナオ峠をやっと越えてきた県道福光・上平線であるが、そのゴール1.5km手前から、今度は大規模林道の上平・福光区間が始まっていたというのは……。無限ループ(?)って怖い。

しかも、見たところしっかりとした2車線道路である。
ここを右折すれば、一部廃道化していたブナオ峠よりも真っ当な道で、スタート地点の上平に、戻れない。

これは大規模林道大山福光線の末裔だ。
同林道は、昭和56(1981)年に森林開発公団が整備を決定した全長70kmオーバーの路線で、その7つあった区間の西端が上平・福光区間だった。この交差点は林道全体の終点にあたる。
地図にピンクの破線で描いたのが、この上平・福光区間の計画ルートであり、全長22km前後と見込まれていた。

平成11(1999)年に大規模林道は緑資源幹線林道に名前を変えたが、事業は引き継がれた。
しかし、平成20(2008)年に事業主体の緑資源機構が不祥事で解体されたことで、事業終了となった。
そしてその時点でも、上平・福光区間は未完成であった。

その後、他の未完成路線と同じく、工事続行の希望の有無が国から都道府県に照会され、継続を希望する場合は(地元の負担率はこれまでより高いものの)国庫補助事業で整備を継続する道が示された。
それが、写真左側の工事看板に小さな文字で書いてある「山のみち交付金」である。

富山県では上平・福光区間の継続を希望したようで、やはり看板にあるように、「山のみち交付金林道上平・福光線」へと名前を変えた林道が、2014年の探索当時は「舗装工事中」になっていたわけだ。
しかーし、悲しいかな、あれから10年が経った2024年の執筆現在、未完成のまま事業は終息している。

だから、この道では戻れない。(奥の方で他の林道に繋がっているので、それらをいろいろ経由すれば戻れないことはないが…)

……よもや終盤に、こんなきな臭い道の出迎えを受けようとは。
路線名が酷似するこの県道と林道だが、もしちゃんと林道も完成していれば、実質的に県道のバイパスというか新道のように利用されたのでは。
ブナオ峠や長瀞峡が2車線に整備される感じは全くなかったが、ゼロから作る大規模林道ならば、そもそも幅7mの2車線道路が前提だったので、そういう道になったことだろう。
しかし、昭和56年の事業スタート時点では昭和65年が完成予定年だったこの区間は、2024年現在でも3分の1くらいしか開通していない…。



12:38 《現在地》

旧大規模林道との分岐から300mほど県道を進むと、ちょっとした岬の一帯が親水公園として整備されている。
ここには駐車場や公園広場、トイレ、湧き水、「懐郷」と刻まれた水没3集落の移転記念碑、刀利ダム建設の中心的推進者で当初苛烈なダム反対運動を繰り広げた刀利谷の人々と粘り強い交渉に当った政治家・松村謙三氏の胸像のほか、以前は飲食店だったような展望台のある建物などが存在。少し離れているが、以前は大規模林道を上った山の上には「刀利青年の山」という富山県の施設もあった。
富山県や福光町が中心となって、刀利ダムの一帯を上流の長瀞峡やブナオ峠の登山とともに行楽地として売り出していた時期がある。



親水公園のフェンス越しに、はじめて刀利ダムの堤体を視認した。この県道の起点も間近だ。
ダムは背景の山の感じと合わせ、深い峡谷を堰き止めている様子がよく分かる。
ダムの管理施設の背後にある尾根の先端が、かつてノゾキと言われた小矢部峡に落ち込む大岩壁で、今は堤高101mの大アーチダムを支えている。
旧道は、もちろん遙かな湖底である。



こちら、同じ場所から対岸を望む。
ちょうどこの辺りの湖底に下刀利集落があった。
対岸の険しい斜面を横切る道のラインが見えるが、背後の県境稜線を越えて湯涌・金沢へ通じる県道10号だ。
ダム工事では向こうの県道も付け替えられている。

あと、トッシーいた。



12:42

県道福光上平線、ラストスパートである。
幅5.5mから6mの2車線にもできるが、微妙に狭い感じもする道が、坦々と湖畔をゆく。
中河内以降は何回か車とすれ違った気はするが、それでも交通量は激少の一言といっていい。



12:43

谷を堰するアーチの偉容を正面に!
あの天端上を県道10号が通っている。
アーチダム上に県道以上の道があるのは、長野県の奈川渡ダム(国道158号)を思い出す。
ただ、夏冬問わず交通量の多いあちらと違って、県道10号は狭隘であるため冬期間(12月〜4月中旬)はダムから県境の先までが封鎖される。
県道54号から塩硝街道のバトンを継いで金沢を目指す県道10号だが、実はあちらも険道の気がある。



こちらは反対に今来た方向、ダム上流を振り返って撮影した。
まもなく終わろうとしている今回の峠旅を締め括るに相応しい、壮大な景観に興奮した。
刀利谷の“全て”を平らげてしまった湖があくまでも美しい。
ずっと遠くに見える山の肩くらいの高さを超えてきたイメージだが、どうやってもブナオ峠は見えない。複雑な谷の地形ゆえ遠くからは見通せぬ峠であった。



12:44 《現在地》

出発から約5時間半、遂にやって来た、標高350mにある刀利ダム!!
管理施設の建物の裏に堤体が見えるが、県道はダムサイトの岩盤を短い最後のトンネルで潜って向こう側へ。
ここに反対向きのヘキサが設置されており、かつてはブナオ峠を目指すドライバーを励ましていた(はず)。



26.5kmもあった県道上で見たヘキサは、これでようやく4枚目。
うち、私の進行方向を向いていたのは【スタート地点の1枚】だけだった。
そしてこのヘキサも随分と痛みが進んでいて、道路以上に満身創痍感がある。町村合併時に補助標識の市名を張り直したのが目立つのも汚れのせいだ。



12:45

トンネルは短いスノーシェッド(刀利1スノーシェッド、全長21m)と接続していて、そのために北口の坑門は確認できない。
トンネル内の壁の一部は、ダムを支える地盤の良さを誇るかのように、素掘りにコンクリートを吹付けただけの簡単な処理である。

道路台帳によると、このトンネルの名称は下刀利隧道で、全長83m、幅4.5mである。
道路ファンにはお馴染みの『道路トンネル大鑑』のトンネルリストにも同名のトンネルが記載されていて、全長77.6m、幅4m、高さ4.5m、竣功は昭和38(1963)年となっている。改築された様子もないが、なぜか長さが少しだけ違う。それに大鑑では県道金沢湯涌福光線上のトンネルとなっている。謎だ。

細かいことはともかく、刀利谷の咽頭となったこのトンネルを潜り終えた瞬間に――



瞬間に!!



12:46 《現在地》

県道福光上平線の「起点」に到達!

全線走破、達成!!

いや〜〜、やっと辿り着きましたよ。出発から26.5km(県道の全長と同じ距離)を走破した。所要時間は5時間36分だった。
やっと、南砺市から南砺市に……って、市さえ変わってないというね。笑。ブナオ峠井の中の蛙説。

道路台帳によると、トンネル外の路面は全て県道10号で、県道54号は最初の1cm目からトンネル内である。
そんな県道も珍しい気がするが、そのトンネルの重厚な坑門が、そのまま通行規制の門戸のように様々な表示物に護られていることは、もはや通行止の申し子たる存在と化してしまった県道に相応しい景色だと思った! マジ、イカつくて、サイコーです!



多少スキューしている坑口の左右に控える、上平側入口でも見た看板類。
いずれも表示内容は、「通行止」。
この県道について語れることは他にないと言わんばかりだ。
ただ、「道路災害のため」と理由を書いてくれているだけ、上平側よりは誠実である。

で、ここで予告されている規制区間の実際の起点が、約6.2km先の【中河内バリケード】だったのだ。
1.5km先には【常設のゲート】もあったが、そこが規制の起点となることはないらしい。あのゲートは、大規模林道の完成を見越していたのかも知れない。
また、例年、冬期(だいたい11月15日頃から5月15日頃まで…年の半分!)は、この坑口から冬季閉鎖となり、全長26.5kmの県道54号は全面封鎖となる。それ用のA型バリケードが一つ、坑口脇にスタンバっていた。



坑口に掲げられた、大きく立派な扁額。
刻まれたトンネル名は、「刀利隧道」
台帳や大鑑が「下刀利隧道」としているトンネルに堂々掲げられた扁額が「刀利隧道」。いったいどうしてと思うが、誰か理由を知っているだろうか。秘話があったりするのかなぁ…。

たぶんだけど、「下刀利隧道」は工事中の仮称のようなものだったのではないか。というのも、同じような経歴を持つ「滝谷隧道」も、当初は「中河内隧道」と呼ばれていたらしいことが、『刀利谷史話』にはナチュラルにその名前だけが出ていることから窺えるのだ。



こちらは、県道10号の金沢方面である。
県境まであと1.6kmほどで、奥のカーブを曲がれば刀利ダム堤上路である。
ダムから先は冬季閉鎖区間なので、裏返すことで(県道54号と同じように)通行止の看板へ変化する、「この先カーブ多し 速度落とせ!!」という当たり障りのない(?)看板が設置されていた。



県道10号の福光方面。
県道54号を無事に終えたが、ここから先も小矢部峡の急斜面をぐねぐね蛇行しながら下っていく1.5車線未満の狭隘な道路が、3km先の立野脇集落付近まで続く。
そして私もこの道を行く。ブナオ峠を越えて来た私を誰かが回収してくれるような手筈はなく、このあとスタート地点まで40km近い自走が待っていた。



立派な青看が前述の分岐地点を案内していた。
直進する県道54号の太く確かな矢印の先に、「上平 Kamitaira」の行先が堂々と表示されている。
道は確かに通じていたと、残念ながらこう過去形で表現せねばなるまい。

探索から既に10年、一度も再開通はしていない。
既に廃道化が顕著であった峠から2kmほどの区間が特に心配だ。あそこは管理が放棄されている気配が特に濃厚だった。道の消失が懸念される。

以上、現地からのレポートを終了する!!




現地のオマケ!!

12:57 《現在地》

刀利谷から集落がなくなった現在、小矢部川の最上流集落となった立野脇の様子。
刀利ダムから3km下ったここで来た道を振り返ると……(↓)



……県道54号の通行止を告知する看板類が、起点に先駆けて2枚設置されていた。
これが私の目撃した、県道54号について言及した最も遠くの表示物であった。
右の看板は、ずっとこの表示面が表になっているようで随分と汚れていたが、その上にもっと古そうな小さな“標識”がある。

この“標識”は看板ではなく正式な道路標識(規制標識)の一種で、「規制予告」という。
内容は県道10号に関するもので、刀利ダム堤上路に敷かれた最大重量14t規制が、「通行出きません」という、何かが出てこなさそうな独特の漢字遣いで予告されていた。



最後のオマケ!!!

13:06

刀利ダムから5km下った吉見地区にある、【福光温泉】といういかにも年季の入った施設の敷地に、内容もりもり盛りだくさんの「福光自然休養村総合案内図」が設置されていた。

齧り付くように鑑賞したが、ブナオ峠の県道は、平野部の様々な施設に圧迫され隅っこにぎゅっとなってはいたものの、ちゃんと五箇山へ抜けるように太く描かれており、刀利ダムの湖畔には今はなき「青年の山」や、どこにあったかも知らぬ「刀利ケビン」なる山小屋(キャビン)風の建物も描かれていた。道のりの中間付近にあるはずのブナオ峠は、ほとんど国道156号沿いに書かれていて、この地図の目的を考えれば妥当とは思うが、福光欲張りすぎ(笑)。




以上、今度こそ現地レポ終わり!

ヨッキれんお前廃道より現役の道の方がよく喋るじゃねーかと言われそうだが、これはその通りである((^_^))。
自然に呑まれた廃道って、多くを語ることが難しいのよね。
私は根っからの人工物好きなので、自然美を魅力的に伝える語彙をあまり持たないし。
でも、ブナオ峠の県道は凄く好みだったよ。山チャリに抜群のシチュエーションだった。

今回は長い路線の各所に語りたいスポットが点在していたため、廃村やダム、大規模林道に関することなど、机上調査的な内容も本編に適宜入れ込みながらレポートを進めたが、本編冒頭の前説で意味深に予告したとおり、このブナオ峠の秘史というか、ifに関する、なかなか興味深い資料を発見しているので、最後にそれを紹介して終わりたい。








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