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2023/6/7 9:42 《現在地》
国道392号の入口から約5km、自転車での所要時間約52分を費やして、白音林道分岐地点へ辿り着いた。
ここまで道は全体的に緩やかで、シュウトナイ川に沿って5kmも遡ったが、この間に標高は約70m上がっただけだった。現在地の標高は約170mである。
特に案内標識などのない分岐地点だが、道幅は直進する道道の方に分がある。
しかし、未舗装路においては道幅の大小よりも轍の濃さの方が遙かに有力な利用度のバロメータとなる。
その点で、明らかに左の林道に部があることを私は見逃さなかった。
もっとも、このことに意外性はない。
地図を見れば明らかに、直進の道道には行先がないから。
あと2km足らずで、ぶっつりと、地図上ではなんの注記もない地点で行き止まりになっている(そこが道道の起点)。
一方、左の林道はここから山を越えて行先がある。この差は大きい。
白音林道の入口の様子。
いろいろと注意書きの看板が立っているが、特に通行の規制はされていない。
約3kmほどの九十九折りで山を越え、音別川上流の里音別林道へ通じているようだ。
白音林道という名前も、白糠町と音別町を結んだことからの命名だろう。
平成20年代、里音別林道沿いに釧勝国境を横断する道東自動車道の建設が行われ、そのための工事用道路として、道道665号とともに白音林道が利用されたことが判明している。里音別林道を素直に海へ下るより遙かに短距離で国道に出られるので、白羽の矢が立ったものだろう。
この大きな出来事がなければ、今回ここまでの道道の様子は、だいぶ違っていたかも知れない。
この先の「工事用道路にはならなかった区間」との比較で、何かが見えるのだろうか。
白音林道については、入口のシュウトナイ川を渡る橋だけをチェックした。
写真は渡ったところから分岐を振り返って撮影。
橋の幅は道道のものよりも明らかに狭く、いかにも普通の林道にありがちな1車線の橋だった。
親柱の銘板は全て健在で、「白音橋」「はくおんばし」「昭和四十三年九月」「衆徒内川」とそれぞれ刻んであった。
竣工年が意外に古く、道道のもととなった産業道路の全通(昭和40年)からほとんど遅れていないことに注目したい。
当時は音別川沿いにも炭鉱があったようだから、林道とはいえ林産物輸送に限らない産業道路的な路線として整備されたのかもしれない。
ちなみに、シュウトナイ川という川の名前の漢字表記が初見であるが、もとはアイヌ語由来で「木の皮を漬ける川の意」(角川日本地名大辞典)らしいから、全くの当て字のようだ。
さて本題。
白音林道分岐地点を直進するのが道道の続きであるが、前述の通り、轍が急に薄くなる。
それだけならまだしも、分岐から50mほど先に、道道に入って初めて道を塞ぐ「通行止」のバリケードが現われたのだ。
おそらくこれが、探索前に見た道路情報提供システムにあった規制区間なのだろう。
サイトには、全長1.50kmの区間が災害を理由に通年規制中と出ていたが、現地には「通行止」の道路標識がバリケードに取り付けられているだけで、期間や区間、事由などの説明はない。
また、バリケードは杭で固定されており動かせないが、脇に4WD車が路外に逸脱して無理矢理突破したような痕跡があった。
封鎖中の区間に入ったが、道幅や道の構造自体はこれまでと変わるところはない。
急に狭くなるようなこともなく、依然として2車線幅の余裕がある。
ガードロープなどの道路付属物もこれまでと同様に設置されている。
雰囲気的には未成道っぽさもある。
(チェンジ後の画像)また、入ってすぐのところに、起点から2km地点のキロポストが逆方向に設置されていた。
山から沁みだして来た人間でもない限り、このキロポストを逆方向から見るよりも先に正方向で見ることがないというのが地味に面白かった。
それはともかく、7kmからカウントダウンを見届けてきた数字も残り僅かだ。
しかし、キロポストのような昔の道路にはない設備があるくらいだから、上茶路炭鉱の閉山後もある程度の維持管理がなされてきたのは間違いない。工事用道路としての活用だけではなかったようだ。
分岐から300mほど進んだ地点。
ここでは右の山側に古い造林用作業路らしきものが分れていた。
この道道が持つ役割の一つとして、林業を支えてきたというのはあるだろう。
炭鉱の盛衰という出来事の印象に引っ張られがちだが、茶路川流域の林業にはさらに長い歴史があり、より安定的に地域の経済を下支えしてきたし、現にこの一帯は道有林として指定されている。
ところで、ここに来てある一種類の草花が存在感を猛烈に顕わしている。
道端のそこかしこに群生して一斉に紫色の花茎を延ばしているそれは――例によって今回興味を持って調べてみるまで全く意識の外にあったが――“サクラソウ”の一種らしい。私に興味を持って調べさせるとか、草にしてはやりおる。(自然を相手に何十年も活動しているのに草花を知らなすぎて草も生えないが)
600mほど進んだところに、山側の斜面が崩れているところがあった。
崩れていると言っても、見事な安息角の斜面になっていて、あまり危機は感じない。
それでも、現代の安全基準に照らせば、黙って解放してはおけない場面なのかもしれない。一応は道道だからね…。
周辺には他に災害原因の通行規制となりそうな場面が見当らず、多分ここが原因なんだと思う。
もしこの道路に普段から需要があれば、ちゃんと安全を確保して再解放するのだろうが、要望自体がほとんどないんだろうなぁ…。
地図上の行き止まりまで、あと1km少々か……。轍が乏しくなったので、寂しさが肌に沁みる感じが強くなってきた。
2車線の幅を持つ堂々たる道路が、ただ交通量が極端に少ないために、壊れるわけでもなく、ただ森へ還ろうとしているようだ。
傍らにはほとんど道と同じ高さに小川となったシュウトナイ川が流れているが、岸を壊すこともないようで、平和そのものである。
たくさんの山の廃道を目の当たりにしてきた私だが、ここまで穏やかなものは珍しいと思う。
廃道には、かつて道を造るときに無理矢理に切り開いた地形や植生から逆襲のような反撃を受け、酷く破壊されているものが多いが、ここはそういう角の立つ感じとは無縁だ。まるで、静かな湖の底に長い時間をかけて砂が溜まるように、使われなくなった道という場に森の気が積み重なっている感じ。どこからが廃道なのかの境界も曖昧だ。
カーブの先から現われるシーンのどれを取っても美しく、私を大いに喜ばせた。
例えばこれは、森に伸びる理想的な築堤のシーンではないか。
所々で倒木が邪魔しているが、自転車で走る分には問題は少ない。
次は何が現われるのか、楽しみで仕方がない。
景色の振れ幅は決して大きくないのだが、美しさが単調さを全て補って余りある。
こんな道道があって、それを独り占めにしている現状が、タマラナク嬉しい。
9:54 《現在地》
分岐からおおよそ900m進んだ地点には、久々に橋があった!
その名も、「第11号橋 Dai 11go Bridge」である。
シュウトナイ川を渡る橋としては「第2ボックス橋」以来の久々の登場で、連番としてはその前の「第10号橋」以来となるが、ちゃんとカウントが続いていた!
おかげで、個人的に道路橋で見た中では最大の連番ネーム記録を更新したと思う。それ自体は喜ぶべきことなんだけど…。
……チェンジ後の画像のように、やっぱりこの橋の親柱の銘板も全て取り外されていた。
おそらくという前置きを入れるまでもなく、本来は「第十三号橋」の銘板があったと思うのだが、「第2ボックス橋」を命名したことの煽りを受ける形で、道路管理者の手で銘板が処分されたものと思う。
なお、資料によると、この第11号橋の全長は10.2m、幅6mで、昭和40(1965)年の竣工である。
第11号橋を渡った先の浅い切り通しに、ついにラストナンバーとみられる、1kmキロポストを捉えた。
ここは道道だけど、これまで何人がこのキロポストを目にしたんだろうとか考えると楽しい。最近は特に少ないだろう。
それはともかく、ここから1km先が道道の起点ということだから、GPSでこの地点をちゃんとポイントしておこう。
仮に、表面的な道路が終わっている地点までの距離が1kmで足りなければ、“表面的ではない道”が存在することの示唆になるので、こういうのは探索する上での重要な情報だ。もちろん、キロポストがどれだけ厳密な位置に設置されているかも疑うべきことだろうが。
さらに間髪入れずに現われた、「第12号橋 Dai 12go Bridge」。
2025年6月1日現在、これより数字の大きな連番ネームの道路橋を私は知らないのである。もしご存知の方がいたら、ぜひ教えて欲しい。
12号というのも十分すごいが、開通当時は「第十四号橋」という名前で銘板が取り付けられていたに違いない。しかしやはり4枚の銘板は全て取り外されていた…。
資料によると、全長10.4m、幅6m、昭和40(1965)年竣工とのことであった。
ラスト1kmに入っても、道の風景に取り立てて変化はなく、緑陰に溶けるような道が淡々と続いている。
随所にサクラソウの群落があって、微かな轍の傍らに彩りを添えていた。
起点にはかつて一世を風靡した炭鉱があると思われたのだが、未だそれらしい気配はないのである。
確かに、歴代のどの地形図を見ても、この道路の終点には何もないように描かれていた。
また、逆にそれはそれで都道府県道の起点としては面白いかもしれないので、見てみたい気がする。
まあ、どっちに転んでも、決着は近いぞ。
ヒグマたちがスクラムを組んで道路封鎖でもしていない限り、もう辿り着けないという展開は考えられないところまで来ている。
9:58
広場に突き当たったぞ。
道の終点か?
いや、ちょっと1kmポストからの進みが足りない気がする……
改めて地図を確かめてみると……
やっぱりだ!
ここはまだ道道の途中であるはず。
もう700mくらいは距離があっていいはずだ。
ここまで来たら、真の終点を逃すつもりはないぞ!!
2023/6/7 9:58
入口から6.3kmの地点で、道は唐突な広場に突き当たって終わった
……ように見えた。
が、これは明らかにおかしい。
ここまで1km刻みで現われているキロポストがあったが、残り1kmの標柱を見てから、まだ300mしか進んでいない。
道路管理者は、この道道の起点からの距離を測って、1km刻みで標柱を設置したはずであるから、これはさすがに誤差が大きすぎる。
ただ、外見的にいかにも終点らしい場所であることも確かであった。
少なくとも、車で進めるのは現状、この地点までであろう。
広場の一角に水源かん養保安林であることを示す平成13(2001)年設置の標柱があったが、他には情報となるようなものはなく、この道道が誕生した経緯からして、起点は上茶路炭鉱の跡地であると思われるが、それっぽい遺構も見当らない。
やはりまだ道道には先があると考えるべきだろう。
そして事実、道を求めて探し始めた私の目は、この先へ道が続いていた名残と考えられる遺物を発見した。
一見終点のように見える広場の奥側は、シュウトナイ川の流れで無造作に切り取られた地形になっているのであるが、その崩れた末端の位置に埋設されたコルゲートパイプが露出していたのである。
すなわち、この先へ真っ直ぐ道が続いていた名残ではないかと考えた。
写真右にガードレールの支柱のような鋼管が1本地面に突き刺さっているのも、ロープゲートのようなものがあった名残ではないかと思った。
が、道が川で崩れたにしては、その全体像が掴めないのも事実。
なにせ、末端に立って先を眺めても、続きの路面のようなものがどこにも見当らない。
この先の地形は、全体に道よりも一段低い河原の高さにあって、築堤のようなものは見当たらない。
地形的にはなおも平坦で、歩いて行くことは容易いだろうが、逆にとっかかりがないという印象が強かった。
さすがにこれだけでは道の続きを川の中に追い求める気にはなれず、これから述べる“もう一つの目に見える道”が優先されることになった。
もう一つの道とは、この終点に見える広場の山側から始まる、非常に急な勾配を有する道のことである。
これまでの平坦だった道道とは全く毛色が異なっており、ここまで来る途中でも何度か分岐するのを見た、いわゆる造林用作業路のようなもののうに見えたから、道道の続きと考えるには無理があったが、道があるかも分からない川の中を進むよりは、道形自体は明確であるこの坂道を選ぶ方が精神的ハードルは低かった。
というわけで、この広場から先へ続きうる“川の道”と“山の道”を見出した私は、後者を選んで進むことにしたのであった。
皆さまだったらこの場面、どちらを選んだだろうか。 もちろん、引き返すという選択肢もある。
う〜ん。 やはり普通の道ではなさそうな急勾配。
流水に洗掘されたせいか、路面も普通車で出入りできるような凹凸ではなくなっている。
ただ、道形自体はとても鮮明であり、例えばだけど、こんなことが考えることも出来るとは思った。
……川ベリの低地にあった道路(道道)が流されたから、迂回するために無理矢理整備した作業路ではないか……なんて。
自転車を押しながら、とりあえず道の先がどうなっているかを確かめようとすること―― 1分後。
なにやら、前方の様子がおかしいことに気付く。
前方だけでなく、この道もなんだか変だ。
上手く言えないが、自然の地形ではない気がする。
こんな大量の砂利が積み上げられたような安息角を持つ広い斜面には、見覚えがあった。
ここはもしや、鉱山の採掘によって発生したズリ(鉱滓)を積んだズリ山なのでは?
10:00 《現在地》
登り切ると、広大な平坦地がシュウトナイ川左岸の高所に“造られて”いた!
山の中に忽然と現われた広い平地の違和感は物凄かった。とても空が広く感じられる。
しかし、地形図にもこの平坦な地形は描かれている。自然地形ではないのではないかという疑いは持っていたが、予感は的中した。
明らかに、鉱山には付き物の地形であるズリ山、あるいはズリダムのような、鉱滓を堆積するための人工的地形に違いないのではないか!
閉山から相当時間を経過しているにもかかわらず、この平坦な地形に樹木がほとんど育っていないことも、そもそも木の実が混入していない地中深くのズリを堆積させたことに起因しているように思う。
今のところ、ズリに関連する地形が出て来たというだけだが、間違いなく上茶路炭鉱跡は近い?!
土留めで谷を堰き止めて造ったズリダムとみられるこの広い土地だが、経年によって谷側の法面が大きく崩れ、巨大なガリーとなった新谷を生み出していた。
写真は端に立ってガリー(右)とシュウトナイ川の谷底(左)を見下ろしている。
谷底との比高が20mくらいあり、上り下りは不可能ではないが面倒そうだ。
しかし、まだ道道の続きが谷底にあった可能性は捨てきれていない。
果たして、ズリの堆積場が道道であったなんてことがあり得るだろうか。
普通に考えて、そこは鉱山の私有地であった可能性が高い気がする。
レール発見!!!
現在進行形で激しく崩れが進んでいるガリーの底に、コンクリートの土管(ヒューム管)や木片(廃材?)などと共に、1本の真っ直ぐな軽レールが転がっているのが見えた。
遠目にも、それがいわゆる軽レール(おそらく6kg/mか9kg/mレール)であることは明らかだった。
近づいて確かめることはもちろん考えたが、どうせ最終的には行き止まりで戻ってくることがあるだろうから、今は見るだけにして先へ進むことに。(降りたら登ってくるのが大変そう)
炭鉱跡地であれば、レールが敷かれていたのは珍しくない。というかむしろあって当然だ。
しかし、そのレールが残っているとしたら、レアである。
まだ敷かれたものが出て来たわけではないと思うが、これは急速に熱くなってきたかも!!
険しいガリーの先端を辛くも山際に迂回して、ガリーで二つの部分に分れているズリ平の後半部分へ向かう。
なお、この直前で自転車は乗り捨てた。邪魔なデカリュックも一緒にデポ。
身軽な体制で、真の終点探しを続行する!
10:03
ズリ平の後半部分もだだっ広い矮草の地面が広がっていて、まるで草刈りを欠かさずに行っている庭園のような有様だが、人為的な手入れはもう長らく行われていないだろう。
これが、ズリの堆積場に独特の植生なのである。
逆に言えば、この周囲の普通に樹木や下草が生えている部分は、そうではないということだ。くっきりしていて分かり易すぎる。
平和を絵に描いたような明るい草地だったが、これ見よがし、あるいは警告のように、牡鹿の遺物があった。
ツノだけなら平和な由来もあり得たのだけど、人間のものみたいに太い白骨が周りに散乱しているのは…………、大型肉食獣のえさ場である証しか……。
空気が、いやにぴりつきやがる……。
ところで、私はやはり道道からは外れて歩いてしまっているようだ。
GPSの画面で現在地や、ここに至る軌跡を確認すると、明らかに地図上の道道からは北に外れていることが分かった。
このことから、やはり先ほどの【広場】以降の本来の道道は、やはり“川の道”であるということがいえると思う。
ただ、そこに道が実在するかは今のところ分からない。
とりあえず、このまま進んでも地図上の道道の起点(道の末端)には行けそうなので、帰りに谷底を歩いてみることにする。
“白骨”に戦々恐々たるものを感じながら、道道の起点を目指してなおも前進を続ける私。
地形に沿って進むと、自然とズリ平を出て、再び狭まったシュウトナイ川沿いの森へ入った。
ほのかに草分けの踏み跡があるが、人間のものではない気がする。人間が最近ここを訪れている気配がない。例えば空き缶とか、ピンクテープとか、そういうものが見当らない。
チェンジ後の画像は、相変わらず高低差があるシュウトナイ川の谷底を見下ろしているが、比高は徐々に減っている。
地図上では、あの谷底に道道が平然と描かれていて、それが間もなく地図上の末端、すなわち道道の起点とみられる地点に達するのであるが、ここから見ている限り、全く道路っぽい構造は見当らない。ただ、平らではあるので、道があっても不思議はないという、なんとも微妙な感じ。
10:06 《現在地》
そうこうしているうちに、私は辿り着いてしまう。
地理院地図上に描かれた道道の起点は、ここである。
GPSで何度も確認したので、間違いない。
この場所、道っぽい感じはあるのだが、ここに至る経過は明らかに道道と異なる北側への迂回経路を採っているし、谷底に描かれている道道との繋がりは未だ見えないままだ。
それに、地図上で距離の計測を行うと、【1kmポスト】が設置されている地点から、まだ700mしか来ていない。あと300mほど足りない。これは1kmに対する誤差としてし大きすぎる気がする。
このことから、本当の道道の起点は、地図上の道路の末端から、さらに300mくらい先ではないかという推測が成り立つ。
このようなことも踏まえ、ここでは地図を鵜呑みにせずに、引続き存在する道形を辿って先を確かめることに。
こっ これはペーシ!(レール継目版)
レールの切れ端もあった!
あくまでも切れ端のレールで、長さは数十センチしかなかったから、敷かれたままのそれではなかったが、再びのレールの出現である。
この道の正体は、まだ見ぬ坑道とズリ捨場を結ぶ、坑外軌道の軌道跡なのかも。
ナローゲージであれば余裕で複線以上を敷設できる幅だが、平坦な道なので可能性は十分ある。
10:08 《現在地》
軌道跡かもしれない川沿いの道を進むと、再びズリ捨て場を思わせる植生のない川岸が現われた。
というか、いよいよ地形的に道は長くなさそうに見える。
この先は両岸が迫っていて、今までのようにゆるゆると川沿いを歩ける感じではなさそうだ。
そして距離の上でも、1kmポストから数えた1km先は、この辺りではないかと思う。
なんだあれ?!
恐竜の肋骨を思わせるような構造物が、眼下の川底に横たわっている!
これが道道の起点、上茶路の炭鉱跡か?!
混じりっけなしの なんだあれ? である。
さすがにこれだけ探索歴が長くなると、廃道で出会うほとんどの構造物は、どこかで見たことがあるものとの再会になるのはやむを得ない。それでも、何がどこにあるかは知らないのであるから、探索は楽しく、未知を識る興奮も満たされる。
だが、やはり心のどこかでは、正体の掴めない“真に未知の構造物”に巡り会いたい気持ちはあった。
ここで出会ったものは、この時の私にとって、そんな夢を叶えるもののように思われた。
すぐには、これがなんなのか、なぜこの場所にあるのか、正体を掴めなかった。
第一印象が、“まるで恐竜の肋骨のよう”であったそれは、眼下のシュウトナイ川の河原に未知の巨大な姿を横たえていた。
肋骨のように見えた連続するリング状の構造物の材質が廃レールであることは、人一倍ナローの廃レールをたくさん見てきた私にはすぐに分かったが、いったい何を造ってあるのかは、掴めなかった。
そもそもそこ(河床)は、普通に考えて、道の在処としては有り難い立地だった。
だが、この場所から視線を右(上流方向)へずらしていくと……(↓)
廃レールアーチの連続体は、押しつぶされるような変形と共に次第に見えなくなり……
見えなくなったさらに先の“赤矢印の位置”に……(↓)
坑門が地上に孤立していた!
…………これで分かった。
坑門の現状こそ普通ではない状態になっているが、シュウトナイ川の河床に残された一連の遺物の正体は、坑口だ。
こんな川底に坑口があるなんてことは、道路や鉄道のトンネルでは普通ではないが、鉱山の世界観は、“普通ではない”。
謎めくアーチの連続体も、坑口に連なる雪崩避けか落石避けの構造物と解釈でき、そう考えれば、それ自体は未知ではなかった。
が、そんなものが川の中に溺れるように存在するとは考えもせず、しかもここまで辿ってきた道との繋がりの見えなさもあって、冒頭の「なんだあれ」となった。
ともかく、これでいよいよ確信を得た。
トンネルとは考えにくい位置に坑口がある。
すなわち、ここが上茶路炭鉱跡だ!
上茶路駅跡から自転車メインで約90分、道道上茶路上茶路停車場線の名に二つ重なるもう一つの上茶路へ。
この上茶路、地図上に広がる広大な上茶路の中にあって、ただの上茶路ではない。
かつて道内中堅の鉱山企業としてその名を知られた雄別炭礦株式会社が稼働した、上茶路炭鉱の地である。
地上というか…、川の中というか……、とにかく現状では奇抜な位置に孤立してしまった坑門を撮影している。
トンネルでは見慣れた普通のコンクリート造りの坑口で、特に扁額などが掲げられている様子はなかった。
ものの見事に、それだけになってしまっている。
この坑門の右側は坑道の内部であったはずだが、もはや地形にその面影は全くない。
土被りごと、坑道は失われていた。周囲にこの坑門に代わる開口部が残っている様子もなかった。
大人しそうなシュウトナイ川だが、相当の暴力を隠している。
河床の坑口を見下ろした道は、まだ奥へと続いている。
現状、この道よりも下には川しかなく、上に別の道がある様子もない。
そのような一本道であるから、これが終わったら、シュウトナイ川を遡る道は終わりである。
河床の坑口から20mほど上流へ進んだ対岸に、今度は、様々な形をしたコンクリート製の土台が残る平場があった。
今いる道からは川を横断しなければ近づけないが、かつて橋が架かっていたのか。
それなりに規模の大きな建物の跡に見えるから、鉱山事務所かもしれない。
稼行期間が短かった上茶路炭鉱(昭和38年開坑、同45年閉山)の施設配置やその規模は、そもそも写真や情報が少なく不明な点が多い。しかし、炭住といわれた就業者家族社宅は100軒以上の全てが全て上茶路駅周辺の平地に集約されており、山元へは会社が運行する鉱山バスによる通勤であったとされる。したがって、山中の施設は採掘に関わる最小限度のものであったとみられる。
具体的に現地にあった地上施設として最低限のものとしては、鉱山事務所のほか、鉱石の貯留および積込みを行う施設とズリの堆積場くらいだろうか。
対岸の建物跡も見送ってさらに20mほど進んだところで、道は広い泥濘みへ変わった。
たくさんの足跡が泥濘の一面にあって、それゆえに泥濘であるという状況なのだが、もちろん足跡の主はヒトではない。
ここまでの草地に草分けを付けていた野生のケモノたちだ。
途中で見た白骨のことが脳裏にあるから、居心地は良くない。
そして、ここにひときわ多くの獣が集まっている理由は、間もなく判明した。
綺麗な水がこんこんと大量に噴き出すパイプがあった。
水が広場を潤し、獣たちを集めていたのである。
そんな赤茶けたパイプの出所を、首をもたげて確かめると、そこには――
廃レールをアーチ形に組んだ物体が二つ埋没した、崩れた斜面があった。
この状況、もはやいうまでもなく、崩れた坑道の入口である。
トンネルを想定できる地形ではないので、坑道確定だ。パイプから出ているのは、坑内排水である。
上茶路炭鉱の坑口は、一つではなかった。
あるいは、河床のそれとは別の用途を持った坑口かもしれない。
道との位置関係を見る限りは、こちらが採掘用の坑道であって、河床のそれは疎水坑(排水を主な目的とした坑道)だった可能性もある。
10:11
発見の連続に、ちょっとばかり前のめりで進んだせいで写真が前後したが、この埋れた坑口は、道の終点だった。
そして、この場所が形ある道の終わりということであるから、道道665号上茶路上茶路停車場線の「起点」の依然として不明であるものの、その“最奥の擬定地”はここである。これより奥にあるとは考えにくい。
仮にここが道道の「起点」だとしたら、目の前に鉱山の坑口が開いていて、そのまま地下世界へ通じるような立地というのは面白い。
こんなあからさまに都道府県道の道端に坑道があるなんてのは見たことがない。
上茶路炭鉱の生産物は全て道道が受け取り、そのまま上茶路駅へ運び出すという、そんな単機能特化型道路の究極形のようである。
もっとも、そのような一企業の鉱山専用道路と機能的に大差のない道が、市町村道ならまだしも、道路法による都道府県道認定の観念である「地方的な幹線道路網を構成」する道と言えるのかというモヤモヤも感じる。
改めて、山奥の行き止まりにたった一つあった炭鉱と、その積出し駅を結ぶ“だけ”の道道というのは、数ある都道府県道の中にあっても変わり種だと思う。これで道道の認定が先ならともかく、雄別炭礦による開発(昭和38年)→町による産業道路整備(昭和40年)→道道の認定(昭和44年)→閉山(昭和45年)という順序である。私はここまで一社の企業活動に特化した都道府県道を他に見た憶えがない。
とはいえ、炭鉱を単なる一企業活動と考えるのも、正しくはないのだろう。
燃料革命以前の日本では、石炭資源の開発は重要なファクターであり、特に戦後復興期においては「産業のコメ」「黒いダイヤ」と呼ばれるほど、国内経済や雇用全般に大きな影響力を持っていた。したがってその採掘が民間企業の事業であったとしても、様々な国策的な支配と支援の枠組みがあり、炭鉱全般が公共性の高い事業と見なされていたようである。
埋れた坑口を背に、ここへ至るたった一本の道を振り返る。
かつて出炭やズリ運搬のためにレールが敷かれていたこともありそうなこの道の“どこ”が、厳密な意味で、道道の起点となっているのか。
現地に起点を明確にする物が見当らず(そもそも起点に0kmポストが設置されているようなことは稀)、資料的な裏付けも得られていないので、はっきりしない。
これを明確にするには、道路管理者が保管する道路台帳を行政文書公開請求によって確認する必要があるだろう。
ただ、決定的な厳密さを求めるのでなければ、私がここに来るまでに出会ってきた2kmポストや1kmポストからの距離を測った成果を根拠に、現在地の周辺が起点だと判断することが可能だ。数十メートルの誤差はあっても、百メートルはずれてはいないと思う。
現地に明確な起点という目印がないからピンポイントに特定は出来ないが、この辺りが起点だというのは確かで、それが地理院地図に描かれている道の終点よりもいくらか奥であるというのも、確かであると思う。
奥は究めたので、引き返す。
来た道を引き返し始めたところで、往路では気付かなかった分岐があることに気付く。
ここは、チェンジ後の画像に示した地点で、すなわち地理院地図に描かれている道道の末端と、私が辿ったズリ堆積場を経由する道が接するところ。
往路では気付かなかったのだが、確かに道道として描かれている川側の道が、浅い切り通しを伴って存在していることを確認できた。
これにより、私が直前に引き返した末端は、道道を辿っても到達が出来る末端であったことがはっきりした。
あの場所が道道の「起点」であると考える根拠は、より補強されたと思う。
が、あるいはこの分岐が道道の「起点」であるという可能性もありそうだ。特に標柱などは見られないが…。
今度は、この道道とみられる道を辿ってみよう。
川へ近づいたついでに、もう一つだけ寄り道。
この分岐の直下の河中に、先ほど見つけた廃レール連続アーチの構造物があるで、そこへ立ち寄った。
飛石伝いに川を渡って簡単に辿り着けたが、近くで見ると遠目の印象より激しく崩れていて、道としてはほとんど原形を留めていなかった。
連続アーチの構造物の一部だけが残っている感じで、そもそもどのような性質の坑道であったのかも、はっきりしないのである。
内部の様子を全天球カメラで撮影。
軽レール加工品による覆道で、本来は板張りがされて雪崩覆いか落石覆いとして機能していたとみられる。しかし、シュウトナイ川の河床に飲まれているため、道床が堆積物によって隠されて観察出来ず、道の素性がよく分からない。
川との位置関係を見る限りは、疎水坑っぽい気がするが…。
このあと、引き返して道道へ戻った。
10:15 《現在地》
わ〜〜 道がお花畑だ〜〜〜♪
そして、状況的にも、地図的にも、ここは道道665号の路上である。
終点間際の【森に溶けるヘキサ】も美しいと思ったが、起点間際のこのサクラソウのお花畑もも負けじと美しく、まさに完全踏破のご褒美と思った。ちょうど満開なのが、いつ来るかも分からない私を全力で歓迎してくれているようだった。
この後、少し申し訳なくなりながら、ここは道道だからと自分に言い聞かせながら、涅槃路の如き満開の花畑を跋渉し、やがて……
見覚えのある安息角の斜面が前方に見えてきた。
地図上の道道は斜面の下を直進しているが、この直後に蛇行するシュウトナイ川に切り取られ、河原と同化してしまう。
その河原を突っ切った先が、【例の広場】である。
というわけで、川側の道の全貌も把握できたので、チェンジ後の画像のガリー谷をよじ登って、ズリ平に停めたままの自転車を回収しに向かう。
その過程では……
10:19
これも発見済みだが往路では近づかなかった廃レールを間近で確かめることが出来た。
最後はガレた斜面をよじ登り、自転車のもとへ復帰。
こうして、起点にも、終点にも何もないという、そんなヘンテコな道道の探索を無事に終えた。(このあと自走で下山したが、その模様は省略)
最後に路線の総評だが、克服している地形や、そこにある構造物といった技術的な面では、特筆すべきものを持たない地味な路線である。
だが、沿道全体を通して交通量を誘引する現役施設が全くなく、廃駅と廃坑を結ぶという、今からでは都道府県道としての認定要件を絶対に満たさないような「終わった」存在であるということが、最大の特徴だ。
しかも、路線認定翌年に鉱山が廃止され、13年後には駅も廃止されるという、もはや完膚なきまでに「終わりきった」路線が、その後も40年以上何食わぬ顔で存在し続けているというね……、生き馬の目を抜くような現代社会の中にあって、まるでエアポケットに取り残されたみたいな路線。
数年前、高速道路の工事に、“たまたま”役立ったらしいが、そのことを見越して維持してきたなんて事ではなかったと思うしな。
そして、全線を実際に辿ることで、この路線の特徴的な……終わっている感……を実感できるのも、魅力だと思う。なんか癒やされる気がする。
あと、こんな特徴のせいで外界の目に曝される機会が少なかったからではないかと思うが、途中にたくさんある橋の命名の中に、あからさまにミスを疑われるところがあるにも関わらず、そのまま強引に押し通されていることも楽しかった。なんというか、沿道に全く人の気配がない路線であるにも関わらず、妙なところで人間味が感じられるのが面白かった。