道路レポート 島根県道319号 西ノ島海士線 後編

公開日 2016.7.03
探索日 2014.5.24
所在地 島根県海士町〜西ノ島町

インターバル: 内航船で知夫里島を経由して、西ノ島へ


2014/5/23 14:14 《現在地》

前編で紹介した探索に続いて、中ノ島を4時間ほど巡って遊んだ私は、再び菱浦港へ戻って来た。
今度は、内航船「いそかぜ」に乗って、知夫里島へ行ってみるのである。
知夫里島の港は来居(くりい)といい、内航船だけでも1日10回程度は移動のチャンスがある。この他、カーフェリーと大型客船も毎日運航しているから、かなり気軽に移動出来る。



島前三島に四方を取り囲まれた内海は、湖と区別が付かないほどに波静かであり、とても本土から50kmも沖合に浮かぶ離島の海とは思えないものがあった。
三島と内海は、巨大な火山の中央火口丘とカルデラと外輪山であるらしく、実際の景観も十和田湖を船上から眺めるのによく似ていると思った。たぶん内海の広さも十和田湖と同程度だろう。

内航船は自転車を乗せるのにも追加料金はかからないし、輪行袋に入れることも求められなかった。普通に客室に停めておける。しかも、三島間の運賃は一律300円と安い。船体は小さいが、その分スピード感があり、デッキに出て風を受けながら四方の風景や航跡を眺めるのは、とても爽快だった。実際の乗船時間も18分(菱浦〜来居間)と短い。




19:47 《現在地》

それからさらに3時間半後、すっかり日の暮れた海をもう一度内航船で渡り、今度は島前三島中最大の面積と人口を誇る西ノ島へとやって来た。
港の名は別府港といい、明治時代以前からの西ノ島の玄関口として島内に二つある大きな集落の一つを構成している。
県道319号西ノ島海士線の起点があるのもここであり、西ノ島側区間の探索をここから始めるつもりであったが、さすがにもう夜だ。探索は明日にしよう。

港のそばにある食堂で温かい定食を頂いてから、集落外れの海端に適当な場所を見つけた私は、一人用テントを設営し直ちに眠った。
こうして隠岐で過ごした3日目、島前での1日目が終わった。




西ノ島側の県道319号末端部へ行く


2014/5/24 4:06 《現在地》

……お おひゃょぅござ いまふ………。

さすがに眠い。
根が貧乏性だから、遠征では日のある時間は常に探索をするという状態を4日続けた後の5日目の朝だった。
体の節々が重く、出来の悪い繰り人形のような動きになっているのが自分でもよく分かる。
しかも、昨日の中ノ島のどこかの廃道探索中に、左の目蓋を毛虫に刺されたようで、途轍もなくはれぼったい。目を開けているつもりでも、視界の上半分は目蓋の裏にか見えない有様だった。外見的にも、これはひどい…。

だが、疲れに身を委ねて、のんびり日が明けるまで寝ているつもりは無かった。
今日は隠岐で過ごせる最終日であり、朝10時の大型客船で本土へ旅立つ計画だったから、私はわずか半日という短い時間で、この西ノ島を出来るだけ沢山味わいたかった。
それで、まともな写真など撮影出来ないことも覚悟の上で、昨日の続きである県道319号西ノ島海士線の西ノ島側区間の探索を、日が明けきる前からスタートしたのであった。



同じ1本の県道であっても、西ノ島海士線の西ノ島と中ノ島での様子は、全く違っている。
中ノ島側の全区間(1.4km)は2車線の真新しい道路で、いかにも架橋計画のためだけに一から建設したと分かるものであったが、こちら西ノ島側の路線(約3.5km)は未だに1.5車線の区間が大半で、海岸沿いにあるいくつもの集落を結ぶ、昔からあっただろう何の変哲もない道だった。

説明文と写真が噛み合っていないが、まだ陸が暗すぎて撮影が上手く出来なかったせいである。
代わりに黒から青へグラデーションを次第に濃くしていく波静かな内海と、その向こうに浮かぶ焼火(たくひ)山の富士山じみたシルエットを、ご覧下さい。
焼火山は島前三島の中央火口丘であるらしい。



4:40 《現在地》

眠いことと目が開かないことを除けば特に何事も無く進み、倉ノ谷集落までやって来た。

地図上では西ノ島側の県道はここまでで、続きは中ノ島に現れる。道自体は1本道で、このまま海岸に沿って1km先の宇賀(うか)集落に達しているように描かれている。
だが、実際には地図に無い分岐が存在し、しかも小さな青看が左折する別れ道を指して「宇賀」と行き先表示をしていたのである。



しかも、その地図に無い道を覗いてみると、入口から20mほどの位置に、県道319号のヘキサが設置されていた!
つまり、この分岐から20mの地点までは間違いなく県道として扱われている!
さらに道は続いているようだが、これは帰路で確かめる事にしよう。

西ノ島側ではじめて目にした、県道319号の真新しい部分だった。
地図に描かれていないことから、相当新しいのだと思うが、その正体については予想されるものがある。
いうまでもなく、島前大橋絡みだと思った。

(なお、この倉ノ谷集落で撮影した2枚の写真も、帰路に撮影したものだ。往路で目撃はしたが、薄暗いため撮影は帰路にしたのだった)



本来の時系列順に写真を使えば、まだこの薄暗さ。
倉ノ谷集落の地図にない分岐を無視して直進すると、海岸は俄に険しい崖となり、その下の波打ち際に付けられた道は1.5→1車線に狭まった。
ここから宇賀集落までは常にこの状態だが、ブラインドカーブが多くあり、元より交通量は少ないのだろうが、自動車だったら神経を使いそうな道だ。
特に海が荒れている時には、波をもろに被ってしまうこともありそうだった。

なお、ここまで来れば島前大橋の架橋予定地点は間近だ。対岸に見える陸地は中ノ島(遠くの大きな島影は島後)である。
きのう中ノ島から遠望したとおり、西ノ島の架橋予定地点の海岸には、大きな看板が海に向かって設置されていたはずだ。それが現れるところまで進む。



4:45 《現在地》

あったー!!

ここが、二つの島を結ぶ夢の在処、“仮称島前大橋架橋地点”

うっすらと朝靄が掛かった海の向こうに、私と同じくまだ半分眠ったような島影が横たわって見える。
彼我の距離は約750mで、ちょうどここは中井口と呼ばれる二島を隔てる海峡の最短部だ。
あまりに波が穏やかで、大きな河川の河口附近を見ているような感じ。

平成15年度に架橋工事の中止が決定してから、探索時点で既に11年が経過していたが、看板は取り外されずにあった。
このことに籠められた想いを想像するなというのは無理な話である。
そもそも、両島の看板が共に海の方を向いているのは、なぜなのかを考える必要がある。
すなわち、隠岐汽船の大型客船が島前と島後を行き来するとき、この海峡を必ず通る。
看板は、中断してしまった計画の存在を島内外に風化させまいとする、そんな地元の意志の現れだ思う。



なお、中ノ島側は架橋地点まで道が作られていたが、西ノ島側は海岸沿いに狭い道があるだけで、実際に橋台が置かれるだろう地点は、ご覧のような高く険しい崖がそそり立っているばかりで、まだ全く道は作られていない。
橋の本体もさることながら、西ノ島の取付道路もかなりの規模の工事を要するものになるだろう。大変そうだ。




4:55 《現在地》

架橋地点から300mほど進むと、海岸沿いを走るバスの終着地である、宇賀集落に到着した。
西ノ島の陸地自体はまだしばらく東に延びているが、集落も道も存在しないので、私にとっての西ノ島の版図もここまでということだ。



バス停の時刻表を見ると、バスは1日わずか3往復とかなり少なく、行き止まりを感じさせる小さな集落だ。
もっとも、自転車程度の乗り物でもあれば、別府までは4kmほどだから簡単に行き来出来るのだが。

集落の大きさの割に、そこにある宇賀漁港は規模が大きく、停泊している漁船の数も多かった。
写真は宇賀漁港から振り返って撮影した架橋地点の小さな山だ。
あの山の高さを上手く利用して橋を架けることが計画されたのだろう。



同じ漁港から少しアングルを変えて中井口の海峡部を眺望する。
中央左に見える市街地は中ノ島の菱浦港中央右に見える雲を頂いた山が西ノ島の焼火山である。

そしてこの写真を利用して、これ系の未成道路ネタで必ずやりたくなる自己満足を、今回もやってみた。(あまり出来は良くないが…)

↓↓↓


島前大橋(仮称)セルフ完成予想図。

計画では全長800mとされる橋梁部の構造については、情報が見つからないので私が勝手に描いた。

長大橋の花形ともいえる離島架橋らしく、シンボリックな吊橋(瀬戸大橋)タイプをまず考えたのだが、
近年の技術革新と、派手な見た目より建設費の抑制を重視するのではないかという妄想のストーリーを背景に、
最近の径間長の伸びが著しいPC橋の新工法「ディビダーク工法」を用いた、7径間のシンプルな橋を描いてみた。

橋の名前も仮称の「島前大橋」は武骨なので、近年の風潮からすれば、「島前ゆめの大橋」とかになるかもね。


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地図に無い“謎の新道”をチェック!


5:04 

ところで、宇賀集落の入口にも、地図に描かれていない分岐路があった。
これは倉ノ谷集落で見た「←宇賀」と行き先が書かれた分岐路の続きであろう。

後は戻るだけなので、帰りはこの道を使ってみることにした。
多分これは波打ち際の細い道を通らず、尾根を越えてショートカットする新道と予想される。
向こうの入口には“ヘキサ”があったが、ここには見あたらなかった。



“新道”が越えていく尾根は、島前大橋の西ノ島側架橋地点の傍らにある小さな山そのものである。
したがって尾根を上っていく途中には、海峡を挟んで中ノ島側の架橋地点である半島がよく見える場所があった。

あいにく、木や草が多く茂っているために、中ノ島側の鋪装道路や、その終点にあった架橋地点の看板などは見えなかったが、その位置関係は画像に重ねて表示したとおりである。




新道は1.5車線で、特に面白味を感じない直線的な山道だ。
距離は短いが勾配は厳しく、自転車だったら間違いなく海岸ルートの方が楽だろう。
深い切り通しの峠を越えると、同じような下り坂になった。

ここまで、島前大橋の架橋地点に分岐する道や、その準備施設のようなものは特に見あたらな――



――かったのだが、これは!

倉ノ谷側に3分の1くらい下ったところで、突如道の左側に広大な空き地が現れた。
空き地は道に沿って帯状であり、明らかに人工的に整地されている。
しかも、田畑として使われているようにも見えなかった。

やはりこいつは……怪しいと思ったが、現地に島前大橋との関わりを示す具体的な証拠はなかった。




5:10 《現在地》

そしてそのまま、ようやく朝日が照らし始めた倉ノ谷集落に到着。案の定、例の分岐地点に出た。

結局、山越えの新道で見たヘキサは、この分岐地点から20m入ったの所の1本だけだった。宇賀集落まで全部県道に認定されているわけでは無いようだ。

といったところまでで、県道西ノ島海士線の末端部の探索は完了である。
この後に私は県道を別府港まで戻り、それから国道485号を走って、西ノ島の西側にある島内のもう一つの大きな集落、浦郷を目ざした。




机上調査編: 夢の系譜を辿って



島前大橋については、このレポートの冒頭でも一部を転載した「平成15年度の島根県再評価委員会の事業評価結果」が、事業の始めから終わりまでの経緯をまとめた良い資料である。同資料は2枚のPDFからなっていて、右はその1枚目だ。
ここに書かれている内容をベースに、事業の経緯を時系列順に文章化すれば、以下のようになるだろうか。

西ノ島と中ノ島を結ぶ島前大橋の計画は、島前三島の首長らが構成する「島前大橋建設促進既成同盟会」等から早期実現の要望が有り、これを受けた島根県により、昭和54(1979)年度に事業化された。事業内容は、一般県道西ノ島海士線を新たに認定し、その一部として2.8kmの道路を新設する(うち0.8kmが離島架橋である島前大橋(仮称))というもので、総事業費179億円、開通後の計画交通量は450台/日を見込んでいた。

昭和57(1982)年度に、用地の取得と中ノ島側取付道路建設に着手し、平成11(1999)年にそのうちの1.4kmを供用した。
こうして距離の上では全体の半分が完成したが、それでも事業費ベースでは僅か3%の進捗率に留まっており、残事業として架橋本体と西ノ島側取付道路の建設がある。

さらなる事業の進捗のためには、長期間にわたって大量の離島予算を集中的に投入する必要があるが、県財政の悪化による公共事業費の縮減や、内航船の充実強化による両島間のアクセス向上が図られたこと、本事業以外にも島内には緊急を要する他の箇所が多く存在する事などから、平成15年度の事業再評価をもって、「事業中止」の判断が下された。

今後の見通しについては…「緊急に整備を必要とする他の箇所の整備の進捗状況等を勘案しながら、本格的な整備着手時期を見定める」というもので、完全な計画の放棄ではなく、時期が来るまでの休止と考えられているようである。



以上の内容について、個人的には納得出来るものがある。
特に、「内航船の充実強化による両島間のアクセス向上が図られた」という部分については、私もたった1日ではあるが島前三島を巡ってみて、各島の人口がそれぞれ600〜3000人程度であるわりには結構な頻度で内航船が運航されている(1日13往復以上、夜は10時台まで)のを体験したし、私は乗ることはなかったが、カーフェリーも各島間を毎日複数回往復していて、橋の便利さには敵わないとはいえ、各島間の移動がひどく不便なようには感じなかった。

個人の感想ついでに述べれば、架橋による移動時間の短縮という面についても、現状の内航船が中ノ島と西ノ島間を12分という短時間で結んでおり、架橋ルートが両島の市街地を迂回することもあって、さほどの大きな効果はなさそうに思う。また、内航船の運賃は一律300円(小人100円)であるから、架橋時には自動車の燃料代の方が安くは済むだろうが、バスに乗って移動するならばコストは余り変わらないだろう。
架橋による最大の安心は、海況の悪化による不通が余り起こらなそうだという点だが、これも波穏やかな内海を運航する内航船については平成16年時点で就航率96%を超えており、元からかなり高い。
こうした事を考えてみると、県サイドが、「架橋は緊急を要さない」と判断したのは、納得出来る気がする。

(観光客目線では、架橋よりは現状の内航船での移動の方が一層旅情を掻き立てられ、隠岐全体への好感度を高めることもあると思う。私はそうだった。無論、船に乗るのが苦手な人は真逆な感想を持つであろうし、難しいところではあるが。また、私個人としては人類の英知を見せ付ける離島架橋が大好きなので、実現を期待しているが。)





「平成15年度の島根県再評価委員会の事業評価結果」の2枚目のPDFは、右に転載した「事業概要図」となっており、これによって計画ルートの全貌が判明した。

ここで注目すべきは、西ノ島側の取付道路の位置であろう。
先ほどの現地レポートで見たとおり、西ノ島町の倉ノ谷集落から宇賀集落にかけては海岸沿いと山越えという2本の道が存在し、このうち山越えの道は最新の地形図にもなぜか描かれていないが、入口に県道の標識が立っているなど、島前大橋の取付道路として整備されたのではないかと、疑われる要素を持っていた。

そしてこの「事業概要図」を見ると、確かに倉ノ谷から宇賀への山越えの道と重なるようにして、取付道路の計画ルートが描かれている。
しかし、話は単純では無いのである。
ここは事業再評価の時点では未開通として表現されており、かつ事業再評価で「事業中止」となったのだから、現状で開通済みである山越え道が、それそのものであるのはおかしいことになる。
つまり、実際は別の道であるか、仮に同じ道であるとしても、島前大橋とは別の事業で整備されたはずである。

この点については、西ノ島町議会が公表している「議会だより」を調べる事で、だいぶ解決した。
議会内での町長と議員のやり取りをまとめると、西ノ島町倉ノ谷付近では、島前大橋の事業前後で、概ね次の地図で示したような道路整備が行われていたようだ。



  1. 県道西ノ島海士線は、島前大橋が事業化した翌年の昭和55(1980)年に一般県道として認定された。
  2. 県道西ノ島海士線の認定以前にも、西ノ島島内で完結する県道が認定されており(路線名は不明)、その終点は宇賀集落であった。
  3. 県道西ノ島海士線の認定により県道から除外された倉ノ谷〜宇賀間は西ノ島町に払い下げられ、町道倉ノ谷宇賀線(町道320号線)に認定された。
  4. 町道倉ノ谷宇賀線(町道473号線)は、平成18年度に農業集落道(農道)として県が整備し、町で維持管理を行っていたが、平成22年度に町道として認定した。
  5. 町道倉ノ谷宇賀線(町道473号線)は、島前大橋の取り付けルートとは重ならない。(←町長の回答)

「倉ノ谷宇賀線」という同じ路線名の町道(路線番号のみ異なる)が、平然と2本指定されている事に驚きを覚えるが、それらが今回探索した「海岸の道」と「山越の道」なのである。
そして町長の答弁に拠れば、「山越の道」は平成18年に県が農道として整備したもので、「島前大橋の一部ではない」とのことだ。

おそらくこの発言に嘘はない。
だが、全く無関係だとは、到底思えない。
現地で撮影したこの「山越の道」の写真を、もう一度見てもらいたい。
1車線の町道の隣にある、帯状の広い空き地。
しかもこれは、山越の倉ノ谷側にだけ存在する。
現地でも予想したとおり、この空き地が島前大橋の取付道路予定地であることは、間違いないだろう。
農道として整備されたというこの町道も、いずれ島前大橋の事業が再開すれば、工事用道路として活用されることだろう。
公式には事業が休止された後であっても、農道整備事業の名を借りて、島前大橋という遠大な野望の達成へ少しでもにじり寄ろうとする、狡猾なヤマビルのようなスタイル……、嫌いじゃない。(ヤマビルは大嫌いですが)




本稿の最後に、隠岐諸島における離島架橋計画の起源にまつわる面白い情報を入手しているので、紹介しよう。

島前の中ノ島と西ノ島を結ぶ架橋計画は、島前三島の首長らが構成する「島前大橋建設促進既成同盟会」等の要望を受けて、昭和54(1979)度年に島根県の事業としてはじめて採択されことは、既に述べた。
だが、“彼ら”の夢は、中ノ島と西ノ島を結ぶことだけではなかったようだ。

以下に掲載する写真は、昭和53(1978)年に西ノ島町が発行した「隠岐西ノ島アルバム運河のある町」という写真帖からの転載である。

明日をめざして
島前を結ぶ夢のかけはし
 昭和二十八年、離島振興法が制定されてから隠岐島は著しい発展をとげたが、しかし島前地区の島民にとって最大のゆめは何といっても島前内海架橋である。
 昭和四十八年六月九日、島前三町村で構成している島前広域行政推進協議会では島前内海架橋期成同盟会をつくり、積極的に運動を展開することになった。
 その直後、オイルショックによって一時中断の止むなきに至ったものの、昭和五十一年、再びこの問題をとりあげ、県に対して陳情、昭和五十二年には国土庁による架橋問題をとりあげた生活圏拡大調査も実施され史上最大のゆめを目ざして胎動しつつある。

そして、一緒に掲載された2枚の写真を見ると…


1枚は、今回取り上げた、「島前大橋(仮)」こと、

西ノ島と中ノ島を結ぶ橋の完成予想図。

(ただし、実際に計画された位置とは、だいぶ違っている。)




もう1枚は、ちぃッ!!!

西ノ島と、知夫里島を、結んじゃおうという橋だった!



島前にある全ての有人島を一つの陸地にまとめ上げるという、まさに出雲の「国引き神話」を現実にするような国(島)土改造プロジェクトだ!
確かにこれは、過去累代の島前に暮らしてきた人々にとって「最大のゆめ」と呼ぶに相応しい、それだけインパクトのある計画だと思う。

…この“夢のような計画”が町の本に掲載されてから、既に40年近くが経過しているわけだが、曲がりなりにも事業として県に採択された西ノ島〜中ノ島の架橋は別として、この西ノ島〜知夫里島の架橋は、現在も島民の話題として口の端に上ることはあるのだろうか。

素人目に見て、単純な架橋の規模や難度は、どちらもそう大差ないとは思うが、知夫里島は残り二島より遙かに人口も少ないし、採算性は悪そう…。
でもやっぱり、「島前大橋」と言うからには、島前の三つの橋が結ばれているのが本物だって気がするよね! 私も大好きだよ、こういう構想ぶち上げるの!やっぱり夢は大きくなくちゃね!



写真は、もうひとつの夢の舞台、

知夫里島より眺めた、赤灘ノ瀬戸と西ノ島。

ちなみに海峡の最短幅は750mほどだが、どちらも市街地から遠いし、まずは陸路の整備が先決だろうな。



最後は、これまた知夫里島から眺めた、

島前内海のパラダイスのように美しい景観。

左は西ノ島、右は中ノ島、遙か遠くに見える山影は島後。四つの島で一つの国。

橋があっても、なくても、素敵だ。