道路レポート 福井県道209号五幡新保停車場線 後編

公開日 2016.1.28
探索日 2015.9.14
所在地 福井県敦賀市

路地から始まる県道のしぶとさ。


2015/9/14 16:15 《現在地》

起点から約1.6km、配水池からはおおよそ200m、峠までは残り500mまで迫ったところ。
序盤の状況や、地図上の破線という表記具合を見れば、ここまで予想以上に頑張ってくれたとは思う。だが、ついにここで軽トラですらも通行を躊躇うような状況が現れてしまった。

大きく崩れている訳では無いので、どうしても通行したいという人ならば、多少の地均し作業をして先に行けると思うが、この直前で全ての軽トラの轍が途絶えており、そこまでして通っている車も無いようである。
もちろん、オフロードバイクとかなら、まだ問題は無い。
だが、一応は供用済みの県道を、県道として評価するなら、やはり乗用車程度は通れなければ、「通行可」と言うことは出来ないだろう。
不整地に強い特定の車種(自転車含む)や徒歩で通れるだけでは、廃道状態だと言われてもやむを得ない。



轍が途絶えたこの地点がどういう場所なのかと言えば、山間部に入ってから今までずっと道の右側にあった小さな沢を渡って、これからは左側に谷を見るようになる遷移の地点である。

とはいえ、地形図に水線が表現されていないほどの小さな沢の源流付近であり、渡るといっても橋はおろか暗渠さえないのだ。
ただ無造作に交差するだけで事足りているのだが、稀には出水があるせいで、この場所の路面が特に荒れているのだろう。

また、もしかしたら昔はこの場所にも狭い水田があったのかも知れない。
なぜかここだけ木が生えておらず、小さな草地が広がっていた。



今までとは反対に右山左谷となった道は、廃道と断言するほど悪くはないが、さりとて現役と言うにも心許ない微妙な荒れ方&草むし方で、続いていた。
序盤と明らかに違っているのは、かなりの急坂であるという事だ。

私は今日ここまでの長い走行で、もう出尽くしたのではないかというくらい汗を掻いており、夕暮れ近いこの時間になって、ようやく暑さと一緒に発汗も落ち着いていたのであるが、風の全くない鬱蒼とした谷をほとんど直登するに等しい急坂にしごかれては、たちまちのうちに汗を吹き出すのもやむを得ないことだった。
まあ、夏の峠越えをしているのだから、汗が出ない方が不健全だよな。

あと数百メートルで峠のはず。
辿り着きさえすれば、あとはもう自動的に休憩時間となる。それでも旅を進められるのは、自転車の特権だ。
となれば、この中途半端な場所で休んでいる時間は惜しいということになる。
初めての土地での探索は、少しでも長く多く、日中の風景を目にしたかった。だから力走を続けた。




両腕で掻き分けないと進めない激藪や、自転車を越えさせるのに手間取るレベルの倒木が、今にも行く手を阻むのではないかと予感する場面があるのだが、恐る恐る進んでみると毎回悪いようにならず、なんとか保っている。

なんというか、これはフィーリングに属するものなので論理的な説明が難しいが、“道の地力が高い”ような感じである。
ようは、しぶといのである。
多分古道なんだろうとは思って探索しているが、古道は大抵しぶとい。しぶといから古道なのだと言われれば、確かにそうだろう。
古道が県道としてちゃっかり生きていたり、地図では明らかに破線道なのに、なんだかんだ言って軽トラが頑張れば通れるくらい車道を保っているのは、しぶとさ故である。
これがポッと出の林道なんかだと、使わないとあっという間に崩れまくり生えまくりとなって、完全に「終わる」。そーいうものだ。



大荒れの展開を期待していた人には申し訳ないが、たまには悪い方じゃなく、良い方に予想外というのもありだろう。
まだ峠に至らずとも、この辺で私は勝利を確信した。県道は私を目的地へ行かせてくれる。立派な仕事をしてくれる。

鬱蒼としていて空は見えないが、地形図によれば、ちょうどこの辺りで送電線の下を横切っている。
となればいつもあるのが、鉄塔の管理用通路である。
お馴染みの小径が分岐し、そこに刻まれた真新しい踏み跡が、どうやら峠側から入ったものだと判断するに至って、一足早く安堵の時が来た。

そしてこの次のカーブでは、さらに私を癒す展開が。




16:24 《現在地》

峠のおおよそ200m手前、麓からもよく見えた大きくて緩やかな鞍部、その入口に待っていたのは、老木の根元に安置された素朴な石祠と石灯籠の姿だった。

石祠は良く見るような石材をノミで削り出したものではなく、自然の石を上手く積み上げて作られていた。中にはそれぞれ小さなお地蔵さまが納められており、造形も麓で見たものと似ている。手前の祠の地蔵はほとんど風化して目鼻も定かでなかったが、未開封のお茶のペットボトルが1本まるまる手向けられていた。

石祠以上に私の目を惹いたのは、その両側に侍従するように建つ、端正な作りの石灯籠だった。凛とした姿で道の歴史を誇っている。そして、いかにも目立つように刻まれた文字を、読んでみろとアピールしていた。



二つの石燈篭は、全く同じ形をしていたとみられる(現在は左側のものは燈篭の火室部分が壊れている)。
そして柱側面に刻まれている文字も全く一緒である。刻字は以下の通り。

寛政十二年十二月吉日

長明燈

まず年号だが、寛政12年とは、西暦1800年という18世紀最後の記念すべき年である。もっとも、建立者である江戸時代の日本人がこれを知っていたかは分からない。彼にとって重要だったのは、60年に一度の庚申の年であったことかもしれない。簡単な算数だが、このような年は300年に一度しか来ないので、次回は西暦2100年である。

そして、これを石燈篭と呼ぶのは間違ってはないだろうが、自らは「長明燈(灯)」を名乗っている。
見馴れない言葉だったので帰宅後に調べてみたが、国語辞典には常夜灯の別名の一つと見えた。また、照明器具(今でいう街灯)というよりは、邪気を祓い闇を照らす信仰の対象であったとも。さらに、長明燈というキーワードでイメージ検索をすると、大陸のものが多くヒットするようなので、日本では比較的に珍しいものと思う(常夜灯ならば馴染みがあるが)。

麓の地蔵も、この峠の地蔵も、共に単体ではなく、それぞれ小さな霊場であるかのように設えられていた。
しかも古い時代のものであるにも拘わらず、今も連綿とその徳が慕われていた。
それぞれ、いかなる経緯で祀られたかは定かでないが、一時限りでは終わらなかったのであるなら、本物なのだろう。
こういうのを見せられては、いくら県道としては力が足りていなくても、口軽く「廃道」などとは言えない気がする。



鞍部に入り、両側に山の膨らみが迫ってきても、すぐに峠の頂上は見えなかった。
とはいえ結局のところ、峠まで廃道寸前の微妙な感じはあったが、「まだ保っていた」というのが率直な感想である。
そして、案外にこんな県道は貴重ではないのかと思う。
完全に車の通行などはあり得ない未開通の県道や登山道県道の方が、むしろ珍しくない。

しかも、間もなく下りというのなら、自転車にとってはちゃんと使い出のある道といえるだろう。
通行がただの道楽に終わらず、国道を迂回して進むよりも短時間で今庄へ向かう事が出来るのだ。
廃道探索に、こういう旅の流れの中での実利が伴うと、本当にしてやったりと嬉しく感じる。
自転車乗りとして使い古された言葉を使うなら、パスハンティングの醍醐味というやつだ。



キター!峠キタ−!
鋪装路もキター!


よし、頑張った。

起点からちょうど2km…を、ちょっとだけオーバーしたところか。
まあ2qでいいや。標高は170m。低いけれども、ここまでの風景を思い返してみれば…、

海岸に始まり、街を通って、郊外の田畑を越え、川を遡って、最後は山の斜面を少しグネって、鞍部の峠へと、
模範的な峠道のライフステージを、こんな小さい道なのに、全部一人でこなしてきたことに思いが至る。

なるほどなるほど、これは確かに「愛される峠」だろう。
少し贔屓しすぎか。風景は平凡だからな。でも好き。


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ウツロギという名の峠。


15:56 《現在地》

地形図その他の地図でも、峠を越えた田尻側は、すぐ下まで実線で道路が描かれている。
なので、五幡側に較べればきっと整備状態はマシであろうと予想していたのだが、まさにその通りで、峠まで鋪装が伸びてきていた。

そしてちょうどサミットの狭くなったところには、設置者の名前の書かれていない「通行止」の看板が、A型バリケードと一緒に置かれていた。看板の向きは田尻側を向いていた。
これは、県道に立ち入って以来、始めて行く手を阻んだ、物理的な“封鎖”である。

また、山間部に入ってからはずっと並走していた送電線も、一緒に峠を越えることになった。




峠のサミットは遠望したときの印象の通り大変に緩やかなもので、深い切り通しは存在しない。また、眺望も全く開けない。
峠でさえも、今まで登ってきた小さな沢の続きのような風景だ。
「ウツロギ」と、地形図には珍しいカタカナで表記された峠の名前は、何を意味しているのか。
この音からは、空ろ木、虚ろ気、或いは移ろ気といった言葉が連想される。穴のある木? ぼんやりとした峠? 
珍しい峠名には、案外に珍しい風景は無いというのも、定番である。

そんな切り通しの一角には、三度目となる地蔵が小さな祠に祀られていた。
お地蔵さま一体を取り囲むように多くの杯が供えられており、ここにも信心深さが見て取れた。

なお、現在は敦賀市五幡と同市田尻を隔てる大字レベルの峠だが、昭和30年までは敦賀郡東浦村と同郡東郷村の村境をなしていた。
ここから先は、旧東郷村の村内である。



峠を出発すると、一旦道幅が広くなり、白線を敷けば2車線に出来そうだった。
比較的近年になって整備されたような感じがある。

そして峠のバリケードが見えるぎりぎりくらいの位置で振り返ると、設置者の名前のない注意書きの看板があった。
文面は、「注意 この先通行止により 通り抜けられません」。

通り抜けられないから通行止なのではなく、通行止だから通り抜けられないという表現になっているのは、正直だと思った。ここを偽っている看板は各地に見られる。
通行止めでさえなければ、自転車程度は容易く通りぬけられることを確かめたばかりなので、特にそう思う。




鋪装されている田尻側は、轍の様子から通行量を推し量る事が出来ないが、両側の夏草が車1台分を空けて路上に張り出しているのを見るに、いかにも不通県道の片割れといった感じだ。
特に沿道施設や分岐もなく、比較的緩やかな勾配で黙々と下っている。

ちなみに事前情報として、この県道には県の指定した自動車交通不能区間が1519mあることを知っていたが、五幡から峠までの約2kmの区間の大半がそうであったと思う。
というか、自動車交通不能区間の定義(最大積載量4トンの普通貨物自動車が通行できないなど)に照らせば、むしろあの2kmのどこに、“そうでない区間”があったのかという気がするが、まあ細かいことは置いておこう。
田尻側は、貨物車も普通に通れる道である。



もはや峠は過去のものとなり、ぐんぐんと里の景色が近付いてきた。
周囲が広い河谷になり、畑を見るようになると、続いて巨大な高架橋が現れた。
北陸自動車道(敦賀方向車線)である。

五幡側は海から登ってきたが、田尻側はそこまでは下らず、標高130mくらいのところで止まるので、実感としても片峠を感じる。
しかしこのあともう一度山越えして今庄に向かう予定の身としては、ここで高度を保ってくれるのは助かる。




16:36 《現在地》

峠から1.2km、所要時間6分で集落が見えてきた。田尻集落である。
そして集落出現を合図に、道幅は完全な2車線となり、センターラインも完備された。
もう国道との合流地点までは残り700mくらいだが、最後にようやく県道としての必要十分な姿になった。

この綺麗な道が、五幡側で目にした行き止まりの新道と結ばれる日は、果たして来るのだろうか。
両者の隔たりは、直線距離なら2kmくらいだが。



16:38 《現在地》

あとは流れでそのまま国道476号との合流地点に辿り着く。
五幡の起点から約4km、峠からは1.5km、全体の所要時間は起点から50分であった。 …使えるじゃん!

なお、冒頭の説明で述べた通り、県道209号五幡新保停車場線の終点は、ここではない。
本来の終点は、ここからさらに1kmほど国道を南下したところにある旧新保駅前で、この間は国道との重複区間になっているとのことだ。

私は時間の都合上行く事が出来なかったが、気になる人もいると思うので(ていうか私が気になる)、机上レポートをしてみよう。




右の地図を見て頂きたい。
まず大前提となるのは、現在の国道476号(県道と一部重複)がある位置には、昭和37(1962)年まで北陸本線が通っていたということだ。
そして、獺河内地区に置かれていた新保駅が、昭和35(1960)年に路線認定を受けた当時の県道五幡新保停車場線の終点だった。
故に現状では、駅を目指している県道が、その駅に通じる鉄道線路上に認定されているという、時代を跨いだ併用軌道のようなことになっている。

駅は県道認定後すぐになくなってしまったが、それから半世紀以上が経った現在でも、県の文書上では県道の終点は「新保停車場」であり、「駅跡」や「駅跡前」とはなっていない。
駅跡の現況は、グーグルストリートビューで見る事が出来る(リンク)が、国道に面して駅跡を示す記念碑があるようだ。
この碑の場所が県道の終点であると見ていいだろう。特にそれを示す標識などは無いようだが。

ただ、現状はそうであっても、新保駅が現役だった時代は勿論、旧線跡が道路に作り替えられるまでの期間は、県道も当然今とは別の場所を通っていた。
古地形図から読み取れる昭和30年前後のルートを地図上にピンクの実線と破線で示している。
実線は県道五幡新保停車場線の旧道があった位置だが、北陸自動車道の整備により、完全に失われている模様だ。
破線は国道476号の旧道と言いたいところだが、まだ主要地方道今庄敦賀線と呼ばれていた時代の道である(遅くとも昭和50(1975)年には現在の国道の位置に主要地方道があったから、それ以前のルート)。

話がごちゃごちゃしてきたが、ぶっちゃけ何を知りたいのかと言えば、旧線跡が県道(そして国道)になる以前の県道五幡新保停車場線の終点は、どこだったのかということである。
今と全く同じ場所ではあり得ないだけに、気になるのだ。
とまあ、長々と解説を試みたくせに、答えは判明していない。いつか資料を揃えて確認したいものだ。



さて、現地レポートとしてはこれが最後のシーンである。
国道側から振り返る、県道分岐地点の様子だ。

これぞまさに、全国に数多ある不通県道入口の風景の標準といった感じだ。
「この先 五幡方面 行けません」の看板がその最たるアイテムで、他にも草臥れた青看(なぜこうなった)に示された県道の行く手に、すぐそこの集落名だけが書かれているのも良く見るパターン。

そして忘れてはいけない、こうした場面での三種の神器のひとつ。ヘキサちゃん。
今回探索した県道209号の単独区間全線につき、1本限りのレアものである。
こういう形ではっきりと「新保停車場」という、半世紀以上前に無くなった駅名が記されているのが、シュールでいい。

そんなわけで、派手な崩壊や困難場は全くなかったが、全体に“険道”探索の魅力を存分に体験できた、コストパフォーマンスの良い50分間であった。私は満足して現場を離れた。




ウツロギ峠の机上調査編

実は大正生まれの由緒ある県道だった。

帰宅後の毎度お馴染み机上調査であるが、今回も「角川日本地名大辞典」が大活躍した。「福井県」版(平成元年)に「ウツロギ峠」が登録されている。
無駄な部分が全く無いので、全文を転載したい。

ウロロギ峠ともいう。敦賀市五幡から同市田尻に至る峠。標高約170m。峠名の由来は不明。敦賀湾東岸と木ノ芽道を結ぶ道が通る。古くは五幡で産した塩と今庄の酒が相互に運ばれた。JR北陸本線の開通後は五幡から新保駅へ向かう道として利用され、大正期には県道五幡新保停車場線として整備された。北陸トンネル開通後は五幡の住民が田尻側の田畑の耕作に利用するだけである。県道を改修し、国道8号の渋滞を緩和するバイパスとする計画が進行中である。

短い文章だが、知りたい事ばかりが的確に書かれていて恐れ入る。
内容順に補足説明を試みたい。

まず、峠名の由来について本書は不明としているが、wikipediaの「ウツロギ峠」の請うの説明文には、「峠附近にかつて杉の大木があり、大きな洞が開いており、その様を「空ろ木」と呼んだことからその名がついたという伝承がある」とあった。別名として挙げているウロロギ峠となると、皆目見当が付かない。強いていえば、北陸地方でオロロと呼ぶアブの一種と関わりあるか。

峠道の利用実態の変遷について、「古くは五幡で産した塩と今庄の酒が相互に運ばれた」とあるが、同書の「五幡」の説明文によると、当地では敦賀郡内で最後となる明治40(1907)年まで製塩が行われていたという。
そして、次の記述「大正期には県道五幡新保停車場線として整備された」には、特に興奮を覚えた。

県の資料では、この県道の認定は昭和35(1960)年となっていたが、これはあくまで現行道路法下における県道認定だったのだ。こちらの記述によると、福井県における現行道路法下の第一次県道認定時に、本県道は認定を受けている)
しかも、大正時代に県道として認定された路線名が、現在まで1文字も変わっていない。これもなかなか珍しいことであり、しぶとい!

(大正時代の県道認定についての他の記録を探してみたが、はっきり路線名の出ているものは、見つからなかった。
だが、大正4(1915)年と5年と7年にそれぞれ敦賀郡が発行している「要覧」を見較べると、4年と5年の郡内の県道総延長は変わらないが、7年には一気に150町(約16km)増えており、かつ新保駅の開設が大正5(1916)年であることに照らせば、この時期に認定された可能性がある。ただし、大正8年に旧道路法が制定されたため、それまでの県道の認定は一旦白紙に戻されたはずである。)

右図は、昭和26(1951)年と明治42(1909)年の古地形図の比較であるが、本書の記述によれば、昭和26年当時には既に県道五幡新保停車場線として認定されていたとのことである。ただし地形図では里道(連路)として表現されている。
関係する路線である現在の国道8号や国道476号についても、当時の路線名を記述した(明治42年版も同じ)。

明治42年当時も北陸本線は通じていたが、新保駅はまだなく、ウツロギ峠の道は「小径」としてか細く描かれているのみだ(峠名の注記も無い)。
今回探索した五幡集落から峠までの狭い道も、鋪装を除けば、大正時代に県道として整備された当時の道路風景をかなり残している可能性がある。



さらに調べてみると、明治や大正どころでは無く、一気に12世紀以上飛んだ大昔。古代から平安時代の初期にかけて、官道としての「北陸道」(五畿七道のひとつ)が、このウツロギ峠付近(或いはウツロギ峠そのもの)を通行していた可能性が高いらしいことが分かった。(参考サイト:「街道の風景」)

大化の改新を契機に定められた最初期の「北陸道」は、田尻から五幡を通り、中山峠付近(帰山(かえるやま)や五幡の坂などと呼ばれた)で木ノ芽山地を越えて今庄方面へ通じていたという。 それが平安初期の天長7(830)年までに木ノ芽峠を越える新道が開削され、新たな官道になったという。

この事実を裏付けるように、「いつはた」の地名は北陸道の歌枕として好まれ、奈良時代以降、多くの和歌に詠まれて残っている。(例1例2

こうなると、ウツロギ峠などという変わった名前にも“万葉の浪漫”を探したくなるのが人情だ。事実、そういう需要もあって、今だ峠道の方々にある地蔵の手向けが絶えないのではないかと思ったりもするが、今回の調査ではこの峠の名を明治以前の記録から見出すことは出来なかった。せいぜい大正時代からである。




いやはや、小さな峠と侮るなかれである。

こんな弱小県道が、今日の国道8号の偉大なるご先祖様「北陸道」だった可能性が、あるってんだからな。

でも、国道8号の渋滞を緩和するバイパスとして“復活”させる計画の方は、なかなか、なかなかなようで……ヘェ。