道路レポート 早川渓谷の左岸道路(仮称) 第10回

公開日 2013.11.05
探索日 2011.01.03
所在地 山梨県早川町

 綺麗すぎる区間の謎と、孤絶の監獄


前回最後の苔むした長大な石垣の出現を合図としたかのように、その後は突然路盤の状況が良くなった。
路肩側に立派な空積みの石垣を張り巡らせるだけでなく、法面も一部同じように固めていて、幅1間半(2.7m)くらいの完備された路盤が現存していた。
レールや枕木を敷けば、今すぐにでも工事用列車を運転させられそうである。

一帯はこれまでに較べて地形的に恵まれた場所であった事もあるだろうが、そもそもの路盤の作りが違っていたのではないかと思わせた。
すなわち、「1号余水路」からこちら側の区間は、何かワケがあって上等に拵えられたのではないかという気がした。
しかし、大正末期などと言う大昔の現存しない企業の工事誌などを目に出来るはずもなく、また詳細を問うべき人も知らないのであるから、これはあくまでも私の考えということになる。
ともかく、この区間の路盤の程度の良さは、今までとは違う道を歩いているかのようであった。左岸道路の新たな一面というべきか。

なお、この近くでは現在盛んに伐採が行われているようだったが(探索日1月3日は休業中)、作業者達がどこから出入りしているのかは未確認である。
わざわざ、いま私が歩いてきた道を往復しているとは思えないが…。




8:08 《現在地》

1号余水路から300mほど落石ひとつない「上等な路盤」を歩くと、昨日探索した部分を含めても、左岸道路沿いの地形としては最も恵まれた、広い平坦地にさしかかった。
早川左岸の水面より150mの高さ(海抜650m)に広がる西向きの緩傾斜地で、地形図でも等高線の疎らさが際立って見えるエリアだ。
集落や田畑があっても不思議ではないような地形だが、今はもちろん、古い地形図にもそういう物は見あたらない。
地形図上では、あくまでもただの山林である。

だが、やっぱり何かありそうである。
「上等な路盤」の行く手に、何か路盤以外の人工的な地形が見えてきた。
歩速を早めて近付いてみると…。




これは、なんだろう?

路盤傍の平らな場所にしつらえられた、まるで築堤のように細長い土台である。

こちらの道と繋がっていれば、道の一部と考えたくなるところだが、そうはなっていない。
奥行きはかなりあるが、それでも3〜50mくらいでぷつりと終わっていた。
道ではないのである。

これはやはり、水捌けを考えて作った土台であろうか。
ということは、かつてこの上に長屋のように細長い建物が置かれていたのか。
コンクリートの基礎などを残していないところから、その建物は木造で、しかも簡易なものであったと思う。
この立地との整合性から見ても、ここにあった建物は工事の労務者が詰める飯場であった可能性が高いと考えている。

そういえば、昨日探索した北側の区間にも、飯場を疑わせる広場があったが、左岸道路は中間部に横たわる青崖および楠木沢の難所によって南北に二分されているから、それぞれの区間の途中に工事拠点(飯場)があったと考えると誠に納得がいくのである。





そして広場を過ぎると、道は途端にしょぼくなった。

このしょぼさは、昨日と今日の少し前までとで見慣れたものである。

やはり「1号余水路」から「広場」までの区間だけが、特別であったのだ。
このことには、何か納得の行く理由が用意されるべきだと思うので、少し考えてみたのが次の図だ。




この図は今回の探索だけでなく、この前日に行った県道37号旧道探索の成果も踏まえているが、図を使って私が言いたいのは、次のただ一つの事柄だ。

図中に赤く太く示した「上等な区間」は、2号水路の増設工事の際にも工事用道路として、改修&再利用されたのではないか。

「左岸道路」の全体は、既に何度も述べた通り、東京電灯株式会社によって、早川第三発電所の導水路工事の資材運搬道路(軌道)として建設されたものである。
そしてこの大正15年から昭和3年の工事期間に完成したのが、現在「1号水路」と呼ばれているものだ。
だが、後の昭和36年になって、既設の水路に並行する「2号水路」が増設され、早川第三発電所2号機へと水を送るようになった。
この東京電力が行った発電所の増設工事については、今のところ記録らしいものを見たことがないが、普通に考えれば、この工事でも地上に多少の工事用道路を必要としたであろう。
その時に左岸道路の全体が再利用された可能性は低いように思うが、「2号水路」の一部である「加良沢水路橋」と、地上施設を設けるのに誠に都合が良さそうな「広場」を結ぶ300mほどの「上等な区間」が、この時に改修のうえ再利用されたのだと考えている。




しょぼくなった道(これが本来の左岸道路スペックだが…)を黙々と歩いていくと、意外にも鉄橋が架かっていた。

相変わらず人道用の規模ではあるが、先ほどまでの木橋とはうって変わって、過保護なくらい立派である。
また、鉄橋の前後に取り付けられた文字盤から、この橋が「No.10」であることと、耐荷重が「150kg」であることが分かった。
見た目の割に意外に耐荷重が小さく、大人2名ずつしか渡ることが認められないようだ。
そしてこれまで9本の橋を目にしていないことから考えて、この先にあと9本もの橋が架かっている公算が大である。
全てこうした鉄橋ならば、あまり心配するには当たらないかも知れないが、それらの橋の無事を願うばかりだ…。
昨日だって、要所要所に橋が掛かってさえいれば、何もあんな必死な形相を晒すハメにはならなかっただろう……。

ともかく、この橋は何の問題もなく通過である。




更に進んでいくと、コンクリート製の用地境界柱が目に止まった。

今までも時々あったと思うが、マジマジと見るのはこれが初めてな気がする。
少なくとも、写真を撮っていたのはこれが最初であった。

内容はどうということもなく、「東電」とだけ、角張った文字で刻まれていた。
この文字だけだと、東京電灯とも東京電力とも解せるが、まあ字体の雰囲気などからして、普通に現在もある「東電」の方だと思う。
今も定期的に巡視が行われているという新倉古老の証言通り、一見それなりに荒れた道ではあるが、現役の巡視コースなのだろう。

しかし、間違いなく今日最初の通行人が私であることは、うっすら積もった新雪が教えてくれていた。
たぶん、ことし最初の通行人でもあったろう。




8:15 《現在地》

広場から500mほど進むと、再びなだらかな地形となり、そこにこの道の擁壁とは思えない立派な石垣の壁が見えてきた。

近寄ってみると、果たしてそこには見慣れた感じの横坑が口を空けていた。
昨日の北側の区間でも2度ほど横坑を見つけているが、今度のものもそれらと同列のものと思われる。
しかし、相変わらず「1号水路」と「2号水路」のどちらに関わるものかを知る手掛かりは、ここにも見あたらなかった。




昨日との通算で3本目となるこの横坑だが、初めて施錠されていなかった!

しかし、鍵らしいものが無いのを見て取った瞬間に「オッ」となったのも束の間で、この扉には二重の“がっかり”トラップが仕掛けられていたのである。

まずは、鍵など無くても常人の力では開ける事が出来ないほど、扉は堆積した土砂に力で封印されていたこと。
そしてもう一つのより決定的な“がっかり”は、洞内は目の届く至近の位置で完全に閉鎖していたことである。

おかげで、この錆び付いた鉄格子は絶海の無人島に取り残された廃刑務所のような悲壮感を漂わせ、あまつさえ狭い“牢内”に取り残された飯炊き窯の如きは、マジで呪いでもかかっているのではないかと思わせる迫力があった。
土木作業をしてまでこの空間に入り込む事は、賢明ではないだろう。




“牢獄横坑”を後にすると、いよいよ周囲の地形は、昨日見た景色への収斂という気配を見せ始めた。

ようは、険しさが鬼気迫り始めた。

今は手摺りが路肩を守ってくれてはいるが、こんなものは昨日も見たし、最後は何の役にも立たなくなって消えていったヘタレである。
今日だってあまり信じられたものではないと思ってしまう。

そして地形の凶悪化と比例するように、道からの見晴らしが恵まれて来るのも定番だった。





現在地における早川河床および対岸旧県道との比高は依然として100mを下るものではなく、谷底に横たわる道や工場の人工物を、まるで谷を渡る鳥になったかのような比高感で俯瞰することが出来た。

ここから見えている斜面も十二分に急峻であり、とても人が立てる余地は無さそうであるが、その先はいよいよ直角に近い角度で切れ落ちているらしく、谷底と足元の地面は地続きではなかった。
高さだけならば昨日の青崖にも遙かに勝る、全く恐ろしい限りの眺めであった。

なお、旧県道の行く先に望遠レンズを向けると、現在は使われていない旧青崖隧道の洞門と一体化した坑口や、その脇に分岐している西山林用軌道跡を転用した東電の歩道が見渡せた。
この歩道は昨日既に歩いており、レポートもしている。
そしてまた、今日も最終的にはあそこへ下り着くという計画であった。




うひょおぉぉお。


やばかった!

昨日みたいに、この途中が切れ落ちていたら、ぜったいやばかった!!

でも、今日は大丈夫だった。良かった〜。

それにしても、この場所の手摺りはさっきまでより古びて見えるが、
それだけ早い段階で設置されるほど「やばい」場所だったという事だろう。




んが!

現役巡視路がヤバイ?!




道に直接落ちている、半ば凍り付いた滝。

その直下には土砂と落ち葉が狭い道幅を全て埋め尽くし、45度の斜面に変えていた。

そしてその斜面は、いま……




凍り付いていた!!


東電職員が設置したらしい命綱代わりのロープが法面に這わされており、本来はそれを手探って通行すれば安全度は格段に高まる
(さらに言えば、本職の人たちは腰の安全帯に通して通行しているはずだ)はずだったが、

そのロープも氷の中に取り込まれていて、
触れる事さえ出来ないッ!




この凍てついた斜面に、物理的な迂回の余地は皆無。

陽が昇り、氷が溶けるのを待つ余裕は無い。
私は、この氷が柔らかい落ち葉の層に重なっていることを利用し、
上から体重をかけて割ながら、落ち葉層のグリップに頼って越えたのだった。

したがって、氷がもう少しぶ厚ければ、ここは横断不可能となっていた可能性が高い。
ここは結構、やばいところだった…。




8:33 《現在地》

氷瀑の絶壁を越えて進むと、そのわずか1分後に、

道は突然、空を背景に従えた小さな広場に突き当たった。

この岩場は今までのように、へつって進むのではない

… と し た ら そ れ は …




ったー!



昨日に引き続き、本日も隧道を発見でアリマスッ!!

しかもこの隧道こそ、今回の探索のそもそものきっかけとなった、
古地形図に描かれていた2本の隧道の片割れと思われるのでアリマス!
昨日下から望見したものと同一と思いマスが、近くで見るのはマタ格別でアリスマスッ!!




通算三本目の隧道となる隧道に突入!


8:34

さっそく、隧道への進入を目論む。

これを通らねば先へ進める余地は全くないから、逡巡する余地も無い。

昨日見た北側区間の2本の隧道と同様、やはり坑門工などの補強や装飾的要素を全く持たない、完全なる素掘の隧道である。
天井の高さや横幅も変わりはない。
人が3人並べばいっぱいになるくらいの狭隘さで、とても四輪自動車は通行出来ない。手押しトロッコがやっとだろう。
そして、出口の明かりこそ見通せないが、勢いよく風が吹き抜けているのもまた、昨日と同じであった。
入口にあって、貫通している確信を得、まずは安堵する。

では、昨日の隧道との違いが無いかと言えば、一つ大きな違いが見て取れた。

それは、少々意外なアイテムの存在であった。




フリー(無料)の懐中電灯だァ〜〜!!

しかも、4本もある!!

このダンジョンは、4人パーティ推奨ということだろうか?

あの東電が、自社の電線から引いた電気ではなく、市販品の単一電池を使った懐中電灯を使ってるのも、なんか違和感がある(←酷い偏見)が、同時に彼らも闇を恐れる「人間だな」という親しみを感じた。
ちなみに、一緒に置かれていた未開封の単一電池2本は、どこにでも売っているあのメーカーのやつだった(笑)。


ライトを持参している私は、このような情けに頼る必要は無いが、念のため点灯させてみると、ばっちり4本とも点灯したのも感心。
巡視路は少々ヤバげだったが、こんな小品のメンテナンスもばっちりということか!!

ここで私は、昔、関東地方でよく流れていたCMを思い出した。
確か東電のCMだったと思うのだが、夜間にチームで高圧鉄塔のメンテナンスをする保安員たちの情景が映し出されていて、子供心にも電気のありがたさや、東電マン達の格好良さに胸を打たれた覚えがある。




なお、元々はこのお手製の木箱の中に懐中電灯と換えの電池を保管していたようだが、こちらは朽ちてしまって放置されていた。
懐中電灯が普及する前は、ランプでも入れていたのだろうか?
随分黒ずんでいた。




坑口からは見えなかった出口の光だが、ほんの少し洞内に足を踏み入れると見えてきた。
現役の巡視路ということであるから、隧道もばっちり貫通していた。
洞床は堅く締まっていて、歩くとジャリジャリと冷たい砂を噛む音が響いた。
耳たぶが痛いくらいに冷たい風が、片時も休むことなく吹き抜け続けていた。

昨日、新倉の古老から伺ったエピソードを思い出した。
この隧道が真っ暗で危ないので、手にした古新聞の束に火を付けて、それを松明代わりにして歩いたと言っていた。
しかし、そんな人も少数であったのだろう。壁面に目に見えるような炭の汚れはなかった。




かつて崩れた跡なのか、歪に天井が高まっている場所があった。
しかし洞床に瓦礫が散らばっている事は無く、片付けられたのか、工事中の崩落だったのか。

全体的には、立って歩けば頭が天井に擦りそうなほど低く、私は四方が壁に囲まれている事の安心感に喜んでいたが、閉所恐怖症の人には辛いかも知れない。

なお、この隧道でも壁に碍子の残骸を一欠片見つけた。
昨日も「第1号隧道」で碍子を見つけている。
おそらくこれは照明用ではなく、左岸道路に沿って電信線が敷かれていた名残であろうと推察する。
工事用軌道であっても何らかの閉塞手段が必要で、そのための通信には電信線が使われていたはずである。
また仮に軌道で無かったとしても、左岸道路は工事用の大荷物を運搬する車両が行き違う余地などない場所が大半だから、やはり電信による交通整理は必須であったと思う。



果たしてこの隧道が落盤して通れなくなったら、どうやって復旧させうるつもりだろうか?
よほど大がかりな準備をしなければ、重機をここへ持ち込むことは不可能に近い。
人力でどうにもならない崩壊が起きたら、この巡視ルートは完全に廃棄されてしまうのだろうか。

そんなことを心配したくなるほど、長さ40mほどの隧道の北口は崩れはじめていた。
正確には外から転がり込んできた土砂が多いようだが、既に人間の力では運べないほど大きな岩も積もっていた。

また、こちら側にも「懐中電灯保管ボックス」が設置されていたが、置かれていたのは換えの電池と行き場を無くした南京錠だけだった。
懐中電灯は全て南口に置かれているのだった。
こっちから来た人涙目…w。




8:40 

私は無事、左岸道路内で通算3本目となる隧道の通り抜けに成功。

崩壊のため既に当初断面の半分以上を閉塞された北口を後にした。

廃隧道探索と言うよりは、密やかな職人の仕事道を歩いたような印象を持った。




鉄橋がぁー!!


巡視… し た く ね ぇ…