道路レポート 新潟県道246号西飛山能生線 飛山ダム区間 机上調査編

所在地 新潟県糸魚川市
探索日 2019.6.26
公開日 2019.8.13

県道西飛山能生線と飛山ダムの歴史解説


(1) 県道西飛山能生線の原点は昭和初期以前にあり

平成17(2005)年に糸魚川市の一部となった旧能生町における最大の幹線道路は、日本海沿いを東西を貫く「北陸道」で、これは現在の国道8号や北陸自動車道である。
対する南北方向の幹線は、能生川沿いに点在する多数の集落(近世には能生谷と総称された)を結ぶ道で、「能生谷道」とでも呼ぶべき、現在の県道246号西飛山能生線である。
旧能生町の交通網は、この「北陸道」と「能生谷道」からなる丁字型の骨格をもっているが、後者の南端は能生川渓谷と火打山の険阻に遮られて行き止まりである。

今回探索したのは、能生谷の最奥集落である西飛山から上流8kmまで延びる、県道西飛山能生線の末端区間だ。行き止まりの道であるが、終点(県道としては起点だが)には、防災ダムである飛山ダムが孤立して存在していた。
途中、西飛山集落から3.5kmのところにはシャルマン火打スキー場があって、そこまでは2車線舗装道路としての整備が行われているが、その先は1車線となり、新潟県が通年通行止めの規制を行っている。
特に最後の1kmについては舗装もなく、かつ大規模な斜面崩壊箇所が2箇所もあって、車道としては廃道状態であるため、歩行者以外の通行は不可能。現役施設であるはずのダムへ到達するにも、これら危険箇所の横断が必須という、なかなかハードな状況になっていた。

このローカルな県道のことを調べるには、やはり自治体史が欠かせないだろうということで、昭和61(1986)年に旧能生町役場が発行した『能生町史下巻』を読んでみたところ、「昭和4(1929)年には西飛山線と能生停車場線が県道認定線となっている」という短い記述を見つけることが出来た。

この「西飛山線」について、昭和5(1930)年に新潟県西頸城郡教育会が発行した『西頸城郡誌』に、もう少しだけ詳しい下記の記述があった。


  府縣道路認定線 (昭和4(1929)年調)
糸魚川松本線  (小瀧根知方面)
能生停車場線  (能生谷方面)
糸魚川停車場線
青海停車場線
 (中略)
西飛山線     (能生谷方面)

乗合馬車は、夏期中は縣道松本線糸魚川町根知間及び里道幹線糸魚川町西海村間、里道早川幹線大和川村下早川村間、縣道能生谷線能生町能生谷村間を往復す、昭和に入りてほとんど自動車となる。
『西頸城郡誌』より

昭和4年時点の西頸城郡内にあった県道9路線が列記されているが、能生谷方面の路線としては、能生停車場線と西飛山線の2線が載っていた。

『町史』の記述もこれをベースにしたものではないかと疑われるが、郡誌の書き方からすると、これらの県道は昭和4(1929)年に初めて認定されたわけではなく、それ以前に認定されていた可能性が高い。
初認定時期の記録は未見だが、大正9年の旧道路法公布時ないし、郡制廃止に伴う郡道廃止が行われた大正12(1923)年の可能性が高いと思う。
いずれにせよ、能生谷の生活幹線道路として、かなり早い時期から県道の地位を与えられていたことが分かる。

なお、能生停車場線と西飛山線の関係は、冒頭の地図に示した地名における、「能生〜大沢」までが前者、「大沢〜西飛山」までが後者として連続していて、両者を合わせて能生〜西飛山を結んでいたようだ。またこれは「県道能生谷線」と総称されていたようでもある。なお、昭和29年に能生町が誕生するまで、能生谷流域には(旧)能生町と能生谷村の二つの自治体が存在していて、役場はそれぞれ能生と大沢にあった。

この2本の県道が一本化して、現在の県道西飛山能生線が誕生した時期は、記録が見当たらず不明である。
ただ、雑誌『新砂防 1948年1号』に掲載されている「新潟縣能生谷地辷り地に就いての一考察(pdf)」という記事(昭和22(1947)年5月19日に発生したこの地すべりは、柵口地すべりと呼ばれ、本邦で発生したものでは記録的に大規模な地すべり災害の一つとされる)に、「縣道西飛山能生線」の延長400mが埋没流失したことが出ているので、戦後間もない昭和22年(旧道路法の時代)には既に現在と同名の県道となっていたことが分かっている。
もっとも、この頃の路線の起点はあくまでも西飛山集落で、それより奥地に西飛山ダムや火打スキー場はまだなく、県道も存在しなかったはずだ。



『能生町史下巻』より
昭和4年7月から頸城鉄道がバス事業に進出した。能生では能生自動車商会が糸魚川線と能生谷線に定期乗合自動車を運行し、庶民の足として重宝がられていた。昭和14年には槙まで運行されるようになった。(中略)昭和18年には上越地域のバス会社8社が頸城鉄道と合併し、昭和19年から頸城鉄道自動車株式会社となった。昭和25年ころには能生谷線は須川まで路線が延びていた。(中略)44年6月には徳合と西飛山への定期バスが運行されるようになった。46年6月に社名を頸城自動車株式会社と改称、マルケーの愛称で上越地区全域の重要な足となっている。(中略)現在(昭和60年度)の町内のバス路線は、能生谷線西回りは田麦平又は西飛山へ1日11往復(以下略)
『能生町史下巻』より

右写真の撮影時期は不明だが、県道西飛山能生線を走行する頸城自動車(株)の路線バスである。(今回は車で走った)田麦平〜西飛山間と思われる。現在は2車線舗装路であるが、写真にはすれ違いの難しそうな狭い砂利道が写っている。


県道西飛山能生線のうち、西飛山集落より下流は能生谷の生活道路として早い時期から整備が進められ、よく利用されてきたことが分かった。
それでは、今回探索した集落よりも上流区間の延伸はいつ、どのような目的で行われたのか。
このことについて述べる前に、私が今回の探索で目にした“印象的な光景”について説明したい。




(2) 能生は全国屈指の地すべり多発エリア

“印象的な光景”とは、山腹を横断する県道が連続300mにもわたって深さ1mほども陥没していたことである。(→)
全面通行止めが20年近くも継続している状況を、なんとなく納得させてしまうだけのインパクトがあったが、あれは明らかに地すべりの跡だった。
旧能生町における地すべり災害について、『町史』に大量の記述があった。

町史編纂室で整理した災害に関する資料によれば、明治元年から昭和58年4月までの115年間に、災害と呼ばれる事故の発生は大小合わせて400件の多数に及んでいる。 その内訳を見ると、 火災246件 地すべり57件 水害32件 雪害16件 浪害14件 海難事故12件 山崩れ10件 土砂崩れ8件 風害6件 となっている。この災害資料を見ると、いかにも能生町という地域の特色が大きく浮き出ているように思う。
まず、町が日本有数の地すべり地帯にあるということから、地すべりや山崩れの災害が多いこと。山が海に迫っているという地形から豪雨のたびに河川がはんらんして水害を多く招いている。また、海辺の町ということで浪害や海難事故が多く発生している。さらに、雪国の宿命ともいうべき雪害の回数も多く、被害も甚大である。その上、水の便が悪くいったん火災が発生すると、その消火作業は極めて困難であったようである。
(中略)
地すべりは、能生町のほとんど全域にわたって大なり小なりの発生を見ており、それぞれに多大な被害を受けている。この地の宿命ともいえる災害である(以下略)
『能生町史下巻』より


国立研究開発法人防災科学技術研究所
J-SHIS Map より(一部著者加工)

このあと町史は、町内で発生した主要な地すべり災害について述べており、そこには前述した、昭和22年の「柵口(ませぐち)地すべり」も出ている。
戦後の4大地すべりに数えられるというこの災害は、西飛山集落の北隣(下流)にある柵口集落を一昼夜で破壊した。約2平方キロメートルもの土地がすべりを起こし、家屋の大半が破壊された(幸い住人は避難し死亡者はなかった)ほか、川と県道も完全に寸断されるなどして、復旧には長い年月を要することになった。

町史は、旧能生町が日本有数の地すべり地帯であるとも書いているが、このことは国立研究開発法人防災科学技術研究所が公開している、全国の地すべり分布図とも言えるJ-SHIS Mapを見てもよく分かる。町内の山という山に地すべり地形が分布しており、私が目にした道路陥没地も、右図のようにしっかり記録されていた(図の茶色の網掛けは全て地すべり地形である)。

通行止め区間は大半が地すべり地形に乗っていて、今は崩れていない場所もいつ崩れるか分からない。
公式機関にこのような調査結果を公表されてしまっては、新潟県としてもますます通行止めを解除しづらくなっているのかもしれない。


このように能生谷は昔から地すべりの巣のような土地であったが、恐れられていた災害はそれだけではなかった。
町内には海へ直接注ぎ込む急流河川が多いため、豪雨のたびに河川が氾濫して水害を生じていたというのである。

そんな中で、町内最大の河川である能生川の防災のために建設されたのが、今回の探索の陰の主役となった飛山ダムだった。
この建設に関する記録も町史にあったので、次項で紹介しよう。




(3) 能生川防災ダム(飛山ダム)の建設


『能生町史下巻』より
遠く火打山に源を発し、小渓谷を流れる七つの支流の水を集めて日本海に注ぐ能生川。この能生川の上流(西飛山から8km奥)に能生川防災ダムがある。
能生川流域では、急激な出水により例年農地をはじめ農業用施設、ならびに公共施設に大きな被害を受けてきたのである。しかし、この防災ダムの完成により、下流流域の洪水災害の防止に大きな期待が寄せられるようになったのである。
このダムは、10年の歳月と13億6000万円の巨費を投じて、昭和44年10月に完成したもので、高さ44.6m、長さ180m、湛水面積10.75haに及ぶ堂々たる規模であり、火打山をバックに、城のような偉容を誇っている。ちなみに、このダムの建設に要したセメントは1万6472トン(32万9425袋)、作業労力は延べ7万2000人にも及び、この陰に3名の尊い命が犠牲になっていることを忘れることができないのである。
 (ここにダムの緒元が掲載されているが、銘板と同じなので略)
また、10月下旬頃には、渓谷の紅葉は一段と色を増し美しく、訪れる人々を魅了し、若者たちや家族連れのハイキングに最適の景勝地となるのである。
『能生町史下巻』より

ダムの景観について、「火打山をバックに、城のような威容を誇る」と評されているが、これは初めてこのダムを見た誰しもが抱く感想だろう。
こんなに美しいダムの景色は、なかなか他では見られないと私は思う。

注目したいのは、引用した最後の部分にある、ダムが行楽に適した「景勝地となる」という表現だ。
これは、現に景勝地として活躍しているとも、これから景勝地としての活躍が見込まれているという風にも取れる、微妙な表現だ。
この町史を昭和60年頃に執筆した関係者は、当時のダムが行楽地として利用されていたかを把握して書いたはずだが、既に通行止めとなってから20年近くが経過し、道中もすっかり荒廃した現状では、どちらの意図で書かれたかの判断が難しくなってしまっている。

個人的に、あのダムにバラ色の行楽地であった時代があったのか、そこまでではなくても、普通にマイカーでダムサイトへ行けた時期があったのかについては、多いに興味がある。
町史からは解明できなかったこの点について、判断材料を提供する資料を見つけた。
それは、昭和58(1983)年に出版された『日本百名谷』という書籍である。

沢登りの対象として有望な100の谷を紹介するこの本に、「能生川イカズ谷」(飛山ダムに注ぐ3本の谷のうち中央の沢)が掲載されており、溯行した柳賢一氏は入渓アクセスについて次のような記録を述べている。

お盆休みを利用して8月12日、仲間の橋本の車で直江津を出発。早朝の国道8号を糸魚川に向かってひた走る。左折して能生谷に入り、飛山ダムで下車。
(中略)アプローチは普通、能生駅からタクシーを利用することになる。バスの場合は終点の西飛山の集落から1時間半の林道歩きになる。
『日本百名谷』より

この溯行が行われた正確な年は不明だが、刊行された昭和58(1983)年にかなり近いだろう。町史も見ていたこの時代は、間違いなく、ダムまで車が通行できたことが分かる。
現在は大荒れになっている終盤1kmも、やはり未舗装ではあったろうが、タクシーも通行できるくらいには整備されていたようだ。まあ、ダムとしてはそれが普通なのだけれど…。
また、当時は林道だったという記述もあり、確認は取れていないが、おそらくそうだったのだろう。


先にダム完成後の道路状況について述べたが、西飛山集落からダムへ通じる8kmの車道が、そもそもどういう経緯で開通したのかという“謎”を置いてきてしまった。
しかしこれについては、おそらく私や皆様の多くが想像するとおりだったようだ。


『農業土木学会誌1969年8月号』より

雑誌『農業土木学会誌』の昭和44(1969)年8月号に掲載された記事「能生川防災ダム(飛山ダム)工事報告」および同号のグラビアページは、事業主体となった新潟県農地建設課と新潟県糸魚川農地事務所の職員による工事報告であり、町史以上に詳細な内容があった。というか、町史もこの記事を参照した書かれたのかもしれない。

この記事は高度な技術的内容がほとんどであるが、建設中の特殊な状況や、現地銘板にはないデータを中心に、興味深いと思ったところをいくつか箇条書きで抜き出してみよう。

  • (能生川の)沿線に開けた細長い沖積平野886haは、例年農地、農業施設、その他公共施設などの被害が多大となっている。これらの恒久対策として河口より約20kmの地点に洪水調節用ダムを計画したものである。
  • 1/50年確率雨量に対して安全洪水量を流下すべく計画した。
  • 調節方法 水位によるゲート調節法
  • 本地方は全国有数の地すべり地帯であるため、当初の地質調査は慎重を期し、現計画線(ダム位置のこと)を含め4線を候補に上げて、ボーリング、試坑、弾性波調査、電気探査など一連の調査を実施した。
  • 左岸直下流には地すべり地塊が見られるため、放流水の直撃を避ける意味で減勢工の構造を平面的に右10°右に曲げた。
  • 本地方は有数の豪雪地帯で冬期間は現地に入ることができないため確認はしていないが、3月末でも5m位の積雪である。このため年間打設期間は5ヶ月程度(6月〜10月)しかなく、11月中旬には一連の越冬準備をして全員下山せざるを得ない。また翌春は雪の上の工事用送電線補修から始まり、4月下旬ブルドーザーによる工事用道路約8kmの除雪をして入山、骨材プラントその他の整備に約1ヶ月の時日を要し、ようやく6月始めから打設可能となる。
  • 全骨材を現地採取によることは担当職員が全員初てであり、さらにその数は8名、昼夜打設の監督、品売監理、設計と追い回されたことも原因して検討する時間もあまりなく、幼稚な点での失敗も多かった。しかしながらコンクリート強度面および仕上り面からも十分満足のいくものであったと思う。 
『農業土木学会誌1969年8月号』より

『農業土木学会誌1969年8月号』より

私が探索中に何度となく「奥地」「山奥」ということを書いたと思う。国道が走る海岸から20km、最奥の集落から8kmほどの短距離であっても、このダムを訪れると数字以上に山奥を感じる。
道路事情も格段に悪かった半世紀前であれば、この感想は一層深いものであったはずだが、そのうえで私は体験していない豪雪という問題もあったことが述べられている。
このために、ダムの打設が行えるのは毎年たった4ヶ月だけだったというから、高さ44m堤長180mというそこまで大きくないダムでありながら、完成に6年の月日を要する必然があったのだろう。

毎年春の工事入山時に全長約8kmの工事用道路の除雪を行ったという記述もあるが、この工事用道路こそが、西飛山集落とダム現場を結ぶ現在の県道である。
残念ながら工事用道路についてこれ以上の記録は見られないが、工事用道路と表現されている以上は、ダム事業の一環として先行的に整備されたものなのだろうか。
この推論は、後ほど紹介する歴代地形図や歴代航空写真の内容とも矛盾しない。

右図は記事に付属する地図で、ここに「資材運搬道路延長7712.5m」とあるのが、工事用道路のことだろう。
加えて、この地図や記事からは、クロ沢の奥に原石山が営まれていたことも判明した。
今回は探索しなかったクロ沢沿いの廃道は、全長1146mの「骨材運搬道路」として開設されたもので、工事で使った骨材は全てこの原石山から採取されたという。7トンダンプトラックがダムサイト近くの骨材プラントまで毎日240立方メートルをピストン輸送したそうだ。この数字からしても、当時はそれなりに頑丈で幅の広い道が存在していたはずだ。

なお、工事中は送電線が敷設されていたようである。しかし完成後に撤去されたのか、現存していない。



『農業土木学会誌1969年8月号』より

右図は現場付近にあった仮設プラントの全景だ。
現在のダム前最後の九十九折りがある広い草地になっているあたりに、これらの大掛かりな設備が置かれていたようだ。
全く跡形もなくなっているが、延べ7万人日以上の労働の血と汗が、この緑には染みこんでいるわけだ。

せっかくなのでもう一つ、ダム工事に関する記事を紹介しよう。今度は施工者である佐藤工業株式会社側の記録だ。
雑誌『建設業界』の昭和57(1982)年1月号に掲載された、「えちごつついし西飛山」という記事で、佐藤工業営業第二部長新地信雄氏の手記である。
こちらは技術レポートではないので、当時の工事風景がより実感的に伝わってくる。やはりいくつか引用しよう。

  • 飛山ダム工事が着工されたのは、昭和38年であった。現場は能生の町から25km、最奥の西飛山部落からでも8km奥まった耕地もない、全く工事現場だけの地点である。当時は国道8号線も未改修で埃だらけの砂利道であり……
  • ダム現場は着工初年度で、電話は無論、電気も次年でなければ来ない場所で……
  • 能生の町と山の現場に事務所を設け、その間はジープなどで連絡という毎日であった。
  • 西飛山の部落で車を降り、それからは上りだけの林道である。
『農業土木学会誌1969年8月号』より

この記事の主題は、10月末の新雪が降り積もる日に、ブルドーザーの先導を頼りに山の現場から撤収する苦闘だ。これが情感たっぷりに描かれているので、先ほどの県側の記録にあった豪雪地での工事の大変さが実感された。
なお、この記事では集落と現場を結ぶ道が「林道」と表現されており、工事用道路とは書かれていない。着工初年度には既に存在していたらしいこの林道、いったい誰がいつ開設したものなのかは、解明に至らなかった。


次の項では、行き止まりに終わった県道や西飛山ダムに関する、みんなも大好きな「IF」について、町史に語られていた夢を紹介したい。




(4) 飛山ダムを表舞台に立たせる企て

町の南にそびえ立っている火打山は、標高2462mあって県内最高峰の山である。火打山から容雅山(1498.5m)へ延びる新建(しんたて)尾根の南面は妙高村である。この北面、容雅山から空沢山(1421m)を結ぶ線までが上信越高原国立公園に包含されている。したがって能生町南端は国立公園となっている。
この火打山北面には登山ルートがなく、わずかに長野のグループ・ド・モレールの人達が北面の尾根や沢を歩いているだけであった。このグループは昭和39年に岳人誌に「火打山北面の登頂困難」の記事を発表している。
この北面の開発は昭和30年の初めから考えられてはいたが、具体化するに至らず、町の山岳愛好者たちによって踏破が試みられていた。たまたま昭和39年に能生町山岳会が設立され、これを機に同年8月、火打山頂から能生川原へのルートの踏破がなされた。
 (中略、以下は上記踏破の記録文から抜粋として……)
漸く谷を降りて竹切道に辿りついた。私たちは過去5回にわたり能生〜火打山間をアタックしている。そのうち踏破したのが今回を含めて4回である。何故に能生町からのルートが開設されなかったのだろうか。午後7時防災ダム建設地に着いて、初めて思う疑念であった。
『能生町史下巻』より

なぜ、これほどよく見えるのに(→)、能生町から火打山への登山道は開設されなかったのか?
このことは、私も現地で素朴な疑問として思ったが、やはり能生町の観光に携わる人々にとっても同感で、長年の課題でもあったらしい。
能生町が能生谷村と合併して新生の能生町となった昭和29年以降、火打山登山道の能生谷ルート開設は町の議題となった。
特に昭和38年に着工した飛山ダム工事によって、アクセスルートが一気に奥地へ延びたことで、町の山岳会によって繰り返しルートの踏査が行われるなど、具体化へ前進したようであった。
しかし、すぐに実現することはなかった。



『能生町史下巻』より
その後ようやく昭和56年になって、町の事業として火打山登山道の調査がおこなわれた。調査を依頼された能生町山岳会は10月18日、7人のメンバーで西飛山ダムからクロ沢を通り空沢山に至る間の調査をした。山岳会では調査の検討課題として次の点を挙げている。
 (1) ルートの決定について
(略)廃道を一部利用するならば、効率的に登山道を前進させることができる。しかし沢筋に設定するため、水源確保の反面、景観が悪く雪崩等による登山道欠損が予想され、修復を余儀なくされる。
 (2) ミズバショウなどの自然保護
(略)乱獲などによる自然破壊も予想される。
 (3) 登山道確保と利用の問題
西飛山から飛山ダムの間、相当の距離があり登下山者の交通不便のため、利用者の多きを望めない現状では登山道維持管理に大きな問題が残る。(略)クロ沢出合(ダム上部)の丸木橋修復は雪解けによる欠損を考慮し恒久的な物にするか、やや上流にある大きな瀧を景観として取り入れるルート設定に伴い位置を移動させるか課題である。
『能生町史下巻』より

右図は昭和56(1981)年の能生町山岳会による登山道踏査の際に描かれた概念図である。
同じ山岳会が昭和39年に下山路に使ったクロ沢の道を逆走しており、いずれの時期にもクロ沢沿いには「竹取道」と呼ばれる廃道が存在していたことが出ている。これは文字通り、古くから竹取り(山菜としてのネマガリタケか)のために歩かれていた道らしく、ダム建設や車道の延伸が行われる前から、このような奥深くまで生活のために立ち入っている人がいたことに驚かされる。

しかし、クロ沢から空沢山を経由して火打山頂を目指す北面登山道の建設は、そのまま構想として終わってしまったらしい。
もしこの登山道整備が高いレベルで実現していれば、その後の登山ブームに乗ってよく歩かれ、県道の整備にも予算が付いて、ダムも孤立化を免れた未来もあったのかもしれない…。
もっとも、国立公園内への登山道新設は、国の利用計画を変更する大かがりな手続きが必要であり簡単ではないので、そのあたりも問題になった可能性がある。



能生町が夢見た登山道整備は実現しなかったが、飛山ダムが観光の表舞台に立つ好機は、その後もあったようだ。
次に紹介するのは、『日本経済新聞』平成5(1993)年7月16日地方経済面に掲載された「能生町、火打山麓に通年観光拠点――スキー場軸にキャンプ場・観光農園…。」という記事である。

能生町は火打山の山麓の大規模開発に乗り出す。スキー場をメーンに、モトクロス広場、観光農園、キャンプ場などを整備し、通年観光の拠点にする構想。総投資額は42億円を見込んでいる。スキー場は95年冬のオープンを目指しており、富山を中心に、北陸方面からのスキー客を呼び込むことを狙っている。
この事業の名称は「火打山麓スカイパーク整備事業」。スキー場、グラススキー場、モトクロス広場などを整備するレクリエーションゾーン、温泉街を中心としたリフレッシュゾーン、西飛山ダム周辺のダムサイトゾーンなどに分かれている。自治省の「若者定住促進等緊急プロジェクト」の対象事業に指定されたため、交付税措置がある事業費を起債できる。
(略)
ダムサイトゾーンには西飛山ダム周辺の紅葉を楽しむ遊歩道を設置する。観光農園、農村公園、水辺の散策路などを集積するメモリアルゾーン、能生川の支流にフィッシングゾーンを整備する。
同町は企画財政、建設、産業の各課で構成する開発特別委員会を発足し、基本構想の策定を進めている。94年度に実施設計を終え、95年度から施設建設を始める予定だ。同町は「アクセス道路などで、県と協力していきたい」と話している。
『日本経済新聞』平成5(1993)年7月16日地方経済面より

能生町が再度描いた、火打山を町おこしに活用せんとする大構想だった。
そして、今回の火打山麓スカイパーク整備事業は、一定の成果を収めることとなる。
本編に登場したシャルマン火打スキー場が、この成果品である。

調べてみると、当初は町営スキー場として平成7(1995)年冬のオープンを目指していたが、すんなり行かず、最終的には平成10年冬に、第3セクター火打山麓振興株式会社の手でオープンしたらしい。
火打山麓スカイパーク整備事業は、このスキー場を足掛かりとして、飛山ダム周辺を整備することも計画されていたが、平成17(2005)年に能生町は糸魚川市と合併して閉町、事業も中途で終了した模様である。

しかし注目したいのは、記事にある「アクセス道路などで県と協力していきたい」という町の意向だ。
この意向に沿って県は、県道西飛山能生線の起点を、従来の西飛山集落から、飛山ダムへ移動させたのだと私は考えている。
また、ダムサイトの1km手前までは比較的最近に舗装されたように見えたが、これも県道に認定された成果だと思うし、最終的にはダムまでの全線を整備するつもりであったと思う。

だが、おそらくこの整備の最中だった平成12(2000)年5月25日より、(前年冬の冬季閉鎖が解除されないまま)今日に至る長い長い通行止めとなってしまったのは、事業の推進にとって致命的な出来事だったのだろう。
ただ、具体的にこの平成11年の冬から翌年の春にかけて、道路に何が起きたのか。
この重大な問題については、残念ながらはっきりとした記録がなく、不明である。




(5) “ツチノコ”を探す捕獲イベントが盛況

ところで、能生川上流のこの山域が、昔から“ツチノコ”の目撃が多発しているエリアであることをご存知だろうか。
わが国を代表するUMA(未確認動物)として古くから人口に膾炙しているツチノコ。
次に引用するのは、『日本経済新聞』平成18(2006)年5月27日夕刊に掲載された「幻のツチノコ、捕獲賞金一億円――山中探検、新潟で催し」という記事である。

幻の動物ツチノコを発見しようと、6月11日、新潟県糸魚川市能生地区の山中に分け入る探検イベントが行われる。地元有志の「つちのこ探検隊」が地域おこしも兼ねて企画し、参加者約50人を県内外から募集中。「スポンサーを探し、もし捕まえたら賞金1億円を出す」とPRしている。(略)糸魚川市でも、能生川上流にある御殿山(標高901m)付近で過去2回、住民男性が隊長約90cmで胴体が一升瓶ほどの太さの動物に遭遇したという。連絡先は能生町商工会内の探検事務局((電)025-566-XXXX)。
『日本経済新聞』平成18(2006)年5月27日夕刊より

記事に過去2度ツチノコが目撃されたとある御殿山は、西飛山ダム上流のイカズ谷とタジマ川に挟まれた尾根にある。
平成18年6月に行われたイベントの参加者50名ほどが、実際にここへ入山して捜索したはずで、彼らは通行止めの県道を(おそらく県の許可を得て)通行したのであろう。

調査を進めると、なんとこのイベントは、今年(2019年)も行われたことが判明した!
というか、こんな立派なサイトがあり、平成17(2005)年から毎年開催され続けていた!(すごい!)
ただ、新聞報道などによると、「平成18(2006)年7月にスキー場の西側近くでツチノコらしいものを見た」という地元住民の情報をもとに、平成20(2008)年の会からは従来の御殿山付近ではなく、シャルマン火打スキー場周辺へ捜索範囲が変更になっているようだ。(なんとなく政治的意図を感じる…笑)

このツチノコ、静けさを取り戻した御殿山で、今も悠々と暮らしているのだろうか。




(6) 歴代地形図と歴代航空写真の調査

かなり情報が出揃ってきたので、ここらでいつものやつをいってみよう。歴代地形図の比較だ。
今回は@昭和27(1952)年とA昭和40年代とB平成26(2014)年の3世代の地形図を比較してみる。

@
昭和27(1952)年
A
昭和43(1968)
/
昭和49(1974)年
B
平成26年(2014)年

まずは@昭和27(1952)年版だが、西飛山集落よりも上流には、徒歩道が現在の県道とほぼ同じあたりに描かれているだけで、車道はない。一方、集落より下流には太く県道が描かれていて、県道西飛山能生線の既設ぶりが分かる。

今回の探索でも、通行止め区間に入ったあたりでも休耕地の気配を感じたが、やはり集落から4kmほど上流までかつては水田が点在していたようだ。

飛山ダムは当然まだないが、ダムサイト付近で川を横断して、ツチノコ目撃例があった御殿山の尾根へ延びる徒歩道が描かれている。この道の先は、標高約1500mの容雅山近くまで延びているが、火打山には達していない。登山道ではなく、やはり暮らしのための竹取道だったのだろう。クロ沢にも同じような徒歩道が延びていて、竹取道の廃道があったという前述の記録を裏付けている。

次にA昭和43(1968)/49(1974)年版を見ると、飛山ダムとクロ沢へ延びる一連の道路が出現している。もちろん昭和44年に完成しているダムも描かれていて、地図を見る限りは、この界隈が一挙に人類の活動圏に組み込まれた感がある。ここには掲載していないが、昭和34(1959)年修正測量版にはこれらの車道は描かれていないので、やはりダムの着工(昭和38年)を契機に車道が開設されたとみるべきだろう。そのことを明言した資料が発見されないことがもどかしい。

最後にB平成26(2014)年版だが、クロ沢の道が消えてしまったことと、シャルマン火打スキー場が登場したことが、地図の上での大きな変化である。
現実には、スキー場より奥の県道は平成12(2000)年から封鎖されていて、荒廃が進んでいるのだが、地図からは読み取れない。

ところで、国土地理院の地形図に関して、これまで本編中でも敢えてスルーし続けた“一つの疑問”がある。
それは、なぜ飛山ダムのことを西飛山ダムと書いているのかだ。
現行の地理院地図もそうだし、昭和49年に最初に描かれた時点でも、既に西飛山ダムの表記になっていた。
また、前掲した産経新聞の記事でも、西飛山ダムの表記が見られた。
しかし、現地には「飛山堰堤」の銘板があり、町史も「飛山ダム」としているほか、一般財団法人日本ダム協会が公開しているダム便覧も「飛山ダム」。こちらが正式名であることは、疑いがないはずだ。

なぜこのような表記の揺れがあるのだろうか。
そもそも、西飛山というのはダム一帯の大字であって、集落名にもなっているが、明治20(1887)年以前は単に飛山と呼んでいたものを、同じ西頸城郡の名立川上流にあった同名の集落と区別するの必要から、それぞれ西飛山と東飛山へ改名したという経緯がある。西飛山にあるダムを西飛山ダムとしなかった理由は不明だが、飛山ダムを名乗った以上、地形図もそうあるべきだろう。というか、ダムが出来て今年で50年も経つのに、この誤記を指摘する声はなかったのだろうか。もしそうなら、あまりにも世に注目されていないようで、可哀想になってくる…。



@
昭和22(1947)年
A
昭和46(1971)年
B
昭和51(1976)年
C
平成22(2010)年

続いては歴代空中写真を、昭和22(1947)年から平成22(2010)年までの4枚で比較してみた。

注目すべきは、A昭和46(1971)年版である。
この版以降に飛山ダムが写っているが、ダム湖がなみなみと水を湛えている点で、後の版と一線を画している。

防災ダムという性格上、平時には貯水を行わないはずであり、これはいわば“幻の湖”といえる存在。
おそらくだが、昭和46(1971)年はダムの完成から2年目とあまり時間が経っていない時期であることから、試験湛水が行われていたのではないかと推測している。

本編でも述べたが、このダムが水を湛えている姿を実際に目にした人は、この航空写真を除けば、本当に限られていると思う。
その貴重な風景写真を、どなたかお持ちではないだろうか。見てみたいものだ。
いったい何色の湖面だったのか…。世にも美しい“逆さ火打山”が見られたのかどうか。


@
平成24(2012)年
5月7日
A
同年
8月29日
B
同年
10月25日


今度は、グーグルの歴代航空写真(グーグルアース)で、ダム付近にあった2箇所の県道崩壊地を見てみた。

まずは第3回で遭遇した1箇所目の崩壊地だが、平成24(2012)年の5月と8月には見えない“迂回路”が、同年10月25日になって忽然と現われているように見える。
崩壊自体は見えない(あるかないか分からない)が、少なくとも私が通った“迂回路”は、平成24年の8月29日から10月25日の間に作設されたものだと思う。
今回も良く刈り払いがされていたので驚きはしないが、やはり最近も継続して手は入っているようだ。


@
平成27(2015)年
10月27日
A
平成28(2016)年
9月2日

続いては、第4回で遭遇した2箇所目の崩壊地だが、こちらはさらにはっきり写っていた。

間違いなく、平成27(2015)年10月27日から翌年9月2日の間に、大崩壊が起きていた。

したがって、この崩壊が県道封鎖の最初の原因となった可能性はなくなった。
この崩壊は、ほとんど死体に鞭打つ所業であったわけだ。

それにしても、あの崩壊がこれほど最近のものだったとは……。
今後も徐々に崩壊は進むであろうし、遠くない未来には、ダムへの到達は本当に常人には不可能な状況になってしまいそうである。
刈り払いが行われている今は、まだぜんぜん「いい状態」だと思う。これもなくなったら、本当にヤバそうだ……。





(7) 最後に、また新たな謎が発覚した

県道西飛山能生線と飛山ダムの歴史について、ここまで調べたことを紹介してきたが、どれも微妙に解決しきらず、推論に近い答えになってしまっている。

  • 西飛山集落から飛山ダムまでの道路はいつどうして建設されたか?
    • (おそらく、ダム建設の直前に、新潟県がダムの工事用道路か林道として整備した)
  • 県道の起点が西飛山集落から飛山ダムへ移った理由と時期は?
    • (おそらく、平成初期に火打山麓スカイパーク整備事業の一環として)
  • 県道が通行止めになった最初の原因は何であったか?
    • (おそらく、第3回の最初に見た大規模な地すべりによる道路陥没が原因ではないか)
  • ツチノコを毎年大人数で探しているのになぜ見つからないのか?
    • (おそらく、最初からいなかった逃げ回っているのだろう)
  • 現在、県道(通行止め区間)の刈り払いは誰が何の目的で行っているのか?
    • (おそらく、新潟県(か県に依頼された何者か)が飛山ダム管理の一環として)

最後に紹介するのは、上記の一番最後の謎に関する調査であるが、普通に考えれば、新潟県が事業主体となって建設した飛山ダムへの管理用通路として、新潟県が刈り払いを行っていると考えて良いように思う…

だが、なぜか、どういうわけか、飛山ダムは、「新潟県が管理しているダムの一覧」に掲載されていない。


じゃあ、誰が管理しているのかという、根本的な謎が生じてくる。

平成29(2017)年9月8日に開催された糸魚川市議会定例会で、次のようなやりとりがあったことが会議録(pdf)から判明した。


田中立一議員の発言
 「1967年に防災ダムとして建設された西飛山ダムの現在の機能と管理はいかがでしょうか。

対する米田徹市長の発言
 「一時的降水調整機能も有しており、県が管理をいたしております。


……市長は、県が管理していると言っていますけど……。

現在、この件について新潟県に問い合わることを検討中だが、どうなっているんだ。
さすがに誰かはちゃんと管理しているんだろうが、このような基礎的な情報ですらはっきりしがたいところに、“幻のダム”と呼びたくなる飛山ダムの実態が凝縮しているように思えてならない。 …相変わらず、市議会でも「西飛山ダム」と呼ばれちゃってるし……。

一度訪問すれば病みつきになるくらい景色の綺麗なところだけに、もっとみんな注目してあげて! あと、新潟県は早く道路直してよ! 何十年待たせんのよ!


(2019/8/14 追記) ダムの管理者が、おそらく判明しました!

このダムの管理者は、新潟県は新潟県でも、「新潟県が管理しているダムの一覧」のページを公開している新潟県土木部河川管理課ではなく、新潟県農地部農地建設課だった模様。
農地部のページで公開されている「新潟県の水土図(pdf)」に、名前の記載こそないものの、飛山ダムの位置に「貯水池」の記号が表示されていることを確認した。
建設の経緯からしても、飛山ダムは河川法による一般的なダムではなく、土地改良法に則った土地改良施設として、(国の補助を受けた)県営事業の形で整備された、いわゆる農林ダムなのだろう。
紛らわしいが、これも確かに新潟県管理のダムであるのは間違いない。