道路レポート 鳳来湖湖底の宇連旧道 第3回

所在地 愛知県新城市
探索日 2019.05.23
公開日 2023.02.06

 湖底の切り通しにシビれ、岩脈にフルえる!


13:35 《現在地》《現在地:昭和26年地形図》

かっけー!! めっちゃここかっけぇ!

湖の色のように青い空のもと、赤茶けた色の湖底に私はいる。
水深10mを優に超える河川としては深淵と呼ぶべき深さに、我が自転車は車輪を回して突入している。
そこには荒々しくも荘厳なる切り通しがあった。

切り通しの陸側の崖は10m以上の高さがあり、上部はそのまま満水時の湖畔に達している。
したがって、もし湖の透明度が10m以上あれば、湖面を透かしてこの路面が見下ろされることになる。
実際そんな透明度はこの湖にあり得ないが、想像するだけならタダである。湖底に眠る常の日の切り通しを想像し、震えるような興奮を享受した。

(→)
切り通しの谷側は、山側よりもさらに大きな20m前後の高低差をもって、宇連川の谷底へ臨んでいる。
あらゆる生を拒絶された、地球創生時代を彷彿とさせるフィールドが広がっている。

眼下の対岸には、推定1600万年ほど昔に大地を切り割りながら地表を目指したマグマが、やがて冷えて板状となった“岩脈”が2列、垂直に近い姿で露出していた。
学者たちのフィールドワークの成果を借りれば、これらは鳳来湖第5および第6岩脈である(岩脈の地図を表示)。



切り通しをくぐると、それまでは見えなかった領域が大きく眼前に展開した。

まず目に飛び込んできたのは、尋常ならざる……どんな表現をしても現物の前ではいささか物足りく感じる……私の人生にはこれまで無かった規模の大岩脈!!! 鳳来湖第4岩脈と呼ばれる、満水時は辛うじて先端部が岩の岬が現われるだけの、氷山の如き水中デカすぎ岩脈!

本当にすごい、もし常に間近で見られるならば、国の天然記念物や、全国レベルの観光名所になり得る大景観だと思うのだが、それを半世紀以上も昔とはいえ全く無為に水没させた宇連ダムの経済優先・文化軽視的姿勢たるや……

などと、批判的な気持ちになるのは待って欲しい。
なぜなら、こうして水没によって周囲の樹木が完全に撤去されねば、こんな壮大な眺めはなかったと思うから。

かつては川べりまで鬱蒼とした森があり、岩脈は森と表土によって相当部分を隠されていたとみられる。江戸時代の図絵では名所として少しも触れられていないこうした大景観は、半ばダムによって生み出されたと思われるのだ。
現に満水位以上の山岳地に、こうした岩脈の姿はほとんど見えないが、その状況や推して知るべしである。




湖底の天地の広さよ!

前方にこれまでになく広大な湖底の盆地が展開した。
難所を越えた直後に訪れた強烈な開放感に、テンションは爆上がりだ。
この盆地の奥の方では、先に八石橋で渡った砥沢が左から本流へぶつかる。
正面奥の山肌を横断している県道は、八石橋よりも下流の道である。

旧道は、この広い地形の中の最も通行に適した位置を悠々と横断し、
県道からも見えた、“遺跡のような巨大遺構”へと近づいていく。
今日の湖底の旅のハイライトは、着実に近づいている。



ここは二つの河川が合わさるところにある、狭くとも明るい感じの小盆地だが、
戦後間もない昭和22(1947)年に撮影された航空写真(↑)を見る限り、
食糧難だったかの時代でさえ、周りは鬱蒼とした森林で、田畑や住宅は見えない。

ただ、この旧道のいやに白い路面だけは際立って見えている。
道はこの当時もしっかりと維持されていたように見える。



湖底に残されたあらゆる人間の営みの痕跡は、“遺跡”という言葉が似つかわしい、時代を飛び越えて目の前に現出したもののような違和感を醸しながら、そこにあった。それらは内心に、意識を向ける者の訪れを待ちわびているように私には見えた。

現県道の白いガードレールが樹陰に見える湖岸へ湖底の斜面を見上げれば、そこにも“小さな遺跡”の姿があった。
太古人類の石積み住居跡を彷彿とさせる、丸形に囲われた礎石の正体は、おそらくは太古人類ではなく昭和30年代までの村人が築いた、炭焼きの大窯跡と見られる。

山中の炭焼き窯の跡は全く珍しくないものだが、これは規模がだいぶ大きく、当地の製炭業が多くの人手を集めるほどに盛業であったことを窺わせる”遺跡”だ。
焼かれた炭は近くの倉庫に集められ、旧道の規模からしてきっと走ることができただろう運炭トラックが、どこかの都会とこの山を結んでいたのに違いあるまい。




旧道の路上より、宇連川対岸第4岩脈方向を見渡している。
宇連川の流れの傍まで非常に緩やかな下り傾斜が続いているが、その果ては落差20m内外の急崖となって、砂場に水を流したような峡谷に落ち込んでいる。

荒地そのものとなっている湖底の地面だが、よく見ると沢山の木の幹が点在している。
水没前に全て伐採されたようで、明らかな伐根と分かる形のものもあるし、立ち枯れではない。
K-P境界の話ではないが、ダム事業という大きな外的要因で、鬱蒼とした豊かな森に唐突な最期の日が訪れたことを容易に想像させる、そんな突然死的荒野風景だった。



先ほどから私の目を楽しませて止まない、第4岩脈の恐るべき巨躯を遠望で覗く。

手前側の大地には沢山の伐根が見えるが、対岸の岩脈周囲には完全な立ち枯れとなった幹の先端まで満水位の下に置かれている樹木がいくつも見える。
あれらも灌木ではなく、普通に背丈がある高木だが、満水位から谷底までの30mというスケールの中で矮小化して見える。

岩脈もすごいが、その背後にある無名の支谷の入口を形作っているスラブの大岩盤の迫力も凄い。この規模のものは私に無条件で森吉を思い出させる。

廃道探索者には、なんとなく浅いか深いか分からない湖岸を歩くという場面が結構あると思うが、実は湖底の地形がこんな風になっていると目に見えたら、怖くて歩けないこともありそうだ。転落しても泳げるから平気とか、そういう次元ではなく、なんか怖いじゃん?
満水の時に、あの岩脈の先端に座って釣り糸を垂らすとか、もう私には怖気がする行為だ。




13:38 《現在地》

キター! キター!

渾身のキタキタ2連発。遠近両方同時キタ。

すぐ目の前にあるキタは、第3号の暗渠である。

それを渡って、月面にでもありそうな緩やかすぎる切り通し(←勝手なイメージ)を越えた先、右へ曲がった道がぶつかる奥のキタは……




ピラミッドを彷彿とさせる巨大な石造橋台が、湖底にひときわ目立って聳えている、先ほど県道からも【目視済み】宇連川を渡る大きな橋の跡!だ。

干上がった湖底にあるその姿は、本当に世界地図の中でイメージされる古代遺跡のイメージそのもの。滅んだ文明の跡っぽさがハンパない。
こういうものが沈んでいるという事前知識があったとしても、生で見る感動は大きかっただろうが、私はこれまでの渇水時にこの湖を訪れたことがなく、湖底への予備知識がほぼゼロであっただけに、感動はひとしお。
これから、実際に近づいてみるのが楽しみで仕方がない!



が、まずは近くの遺構から順にチェックだ。

湖底の暗渠 第3号!

これが先に県道から【見えていた】暗渠だった。

構造としてはこれまでの2基と同様の布積石壁とコンクリートアーチを組み合わせた質実剛健、鉄道構造物的印象の強い暗渠だが、規模は最も大きく、干上がった湖底にありながらサラサラと透き通った水を流し続けているのも、これまでの2基にはない特徴だ。
形だけでなく機能の面でも、ちゃんと暗渠の役割を全うしているのが地味にすごい。

湖底という環境で陸上と異なる堆積作用を長く受け続けてきたはずだが、それでも陸上を流れる沢が湖岸を越えて湖底の中の湖心にある深淵へと流れ込む、そんな谷の位置は変わっていないのだろう。
この暗渠には、次に湖に沈む日まで存分に復職の喜びを味わって貰いたい。
その活躍、道路管理者は見てくれなくても、私が見る!



そして私はくぐりもするぞ!

魚礁に屯(たむろ)するお魚さんの気分を想像しながら、
長さ5mほどのミニトンネルを、足元を流れる浅い水に気を遣いながら堪能した。

普通は人目につかない暗渠内壁の造りも破綻がなく、ほんと仕事が丁寧だ。
オーパーツと言ったらさすがに言い過ぎだろうけど、あらかじめ宇連集落で
行き止まりが確約された道の整備状況とはちょっと思えないレベルの構造物。
まして、昭和20年代以前の道路整備状況の中でこれは……。

この旧道については、机上調査の成果が未だ全然出ていないんだが、
これを整備した時期には、現在の県道不通区間を車道として突破するつもりだったじゃないかな…?
堤石峠の堤石隧道(現在の国道473号旧道、昭和9年竣工)と結んで、設楽方面と
三河川合駅間の短絡ルートを整備しようとしていたとか、普通にありそうだ。



暗渠の下流は、小さな滝を連ねながら、湖底の最も深いとこまで落ちている。
湖底もここまで下流へ来ると、さすがに泥の堆積が目立つようになってきた。
水に洗われていない部分は全般に泥の装いを纏っていて、重苦しい。

で、ここで振り返ると……




感涙の眺めが!


いいなぁ、これ……。




君はどこからきたんだい? 何か遠大な計画を裡に秘めていたんではないのかい?

そんな問いかけがなされたのだが、遺跡からの答えはなかった。

ここで私はおもむろに道外れ…、無言の遺跡に背を向けて…、

この先、探索はますます、巨大なものへ、導かれていくことに。


巨大ひしめく、深湖底の領域へ…!





 湖底の美しき橋と、意外な新発見


2019/5/23 13:23

ここで一度、「現在地」を説明する。

最新の地理院地図上での「現在地」は、当然ながら完全に鳳来湖の湖中である。それも岸からかなり離れた位置まで侵入してきている。そのため地形図では周囲の地形を把握・説明することが難しくなってきた。

チェンジ後の画像は、昭和26(1951)年に撮影された航空写真を可能な限り正確に地理院地図に重ねて表示した。
ここに白くはっきりと写っている道は、いま探索している旧道に他ならない。また道との区別のために、主な川や沢を水色で着色した。

現在私は、湖畔の県道からもその姿を見ることが出来た、湖底に眠る遺跡の如き巨大なの跡へと近づきつつあるが、実はその前に一つ、寄り道に向かっている。
そのため、湖底で見つけた3番目の暗渠を潜った後、そのまま旧道の路上へ戻らずに、暗渠を流れる沢に沿って宇連川の畔へと下りつつある。
なぜここで道を外れ川へ近づく選択をしたかといえば、次の写真での“新発見”が理由である。



こんなものをみつけてしまった。

これ、すごく目立っていない。斜面に紛れて見えづらいというだけでなく、
そもそも、おそらく旧道の路上からだと、地面に隠れて見えないと思う。
私がたまたま暗渠を潜ったら、その出口からちょうど正面の位置で偶然目に入った。
ほんの数秒視界に入っただけだったと思うが、私は違和感を見逃さなかった。

これ、橋台の跡だよね? 石組みの。

状況的に、とても目立つ存在である“大きな旧橋”の先代に当たる、

旧々橋跡ではなかろうか。



宇連川の“川べり”まで下りてきたところで、100mほど下流にある旧橋の跡を撮影した。
この橋は間違いなく今回の探索の主役だが、今少し待って貰いたい。

ここは満水位から見れば既に30mくらい低いとところだ。深湖底の領域。
だが、ここからさらに5〜6m低い所を、白い砂利を底いっぱいに蓄えた清流が、
サラサラと流れている。暗く淀むが必定の湖底とは思えぬ、場違いな清流だった。



ここだな、旧々橋の位置は。

劇的に地形が変わっていなければ、橋の長さは30mくらいある。
“旧橋”よりは短く、そして低いが、それでも山間部の橋…木橋だったろう…としては、
壮観な規模の橋だったと思う。間違いなく大切にされていただろう規模の橋だ。
河中には全く橋脚の痕跡がないが、橋杭を3箇所くらい立てた単純木橋を想像している。



旧々橋(推定)より、旧橋を遠望した。

こういう位置関係の新旧橋って、よく見るよね。だから余計親近感が湧く。
ただ、湖底という特異な環境にあって、思いのほかに原形をよく留めている旧道と比べ、
旧々道と呼ぶべき道については、もし旧々橋のこんな明確な痕跡を見つけなければ、
存在に気付かなかったと思えるくらいには痕跡が乏しい。とても風化している。

原因は、単純に道としての規模が小さかったこともあるだろうし、
水没した時点で既に廃止されていて風化が進んでいたこともあるだろう。
さらに水没後、より深い位置にある旧々道がより長く湖底の堆積作用や、
流水による全方位からの浸食を受けたのだろうと考えられる。

そもそも旧々道、いつの時代の道なのか……?



右図は、昭和21(1946)年に撮影された航空写真に見る現在地の周辺だ。
旧道がとても鮮明に写っており、宇連川を渡る部分には橋が架かっているのが分かる。これが旧橋である。

そして注目すべきは、旧々道らしきラインがうっすら写っている点だ。
旧々橋は既に架かっていなさそうに見えるが、チェンジ後の画像にハイライトした桃色の線のような位置に旧々道が存在したようだ。
旧道の完成によって旧々道は昭和21年の時点で既に廃止されていたのだと推測できる。




航空写真には昭和21年よりも古いものはないので、さらに昔の状況を確認すべく、歴代の地形図を探ってみた。
まず、昭和26(1951)年の地形図には旧橋は描かれているが、旧々橋の記載はない。

(チェンジ後の画像)
そこで昭和5(1930)年の地形図を確認してみたのだが、今度は旧橋も旧々橋も描かれておらず、道の位置も旧道・旧々道のどちらとも違っていた。さらに道の表記も点線の「小径」として描かれていて、車道であるような表現ではなかったのである。

結局のところ、歴代地形図にも旧々橋は描かれたことがないようだった。
私の印象としては、昭和5年の地形図に描かれているものは近世以前からある古道で、その後に初期の車道としての旧々橋の時期を経て、最後に旧道の時代となって水没の日を迎えたのだと思っている。
旧々橋がいつ頃に作られたかについては、昭和5年の地形図の正確性がどれだけ実態を反映しているか分からないので、詳細な言及は難しい。
遅くとも昭和21年までには旧橋が誕生していて、旧々橋がそれより古いということは間違いない。

旧々道も旧道も含めて、水没したこの道の歴史の詳細は、ほとんど何も分かっていない。
平成17年まで当地を管轄した旧鳳来町が発行した長編の交通史書である『鳳来町誌 交通史編』も見たが、分からないことが多い。
ただ同書には関連する記述がないわけではなかった。わざわざ机上調査編を用意できる分量ではないので、ここで同書の記述を紹介しよう。

なお、文字をにした部分は、現在地よりも上流(探索済)の記述で、赤の部分は下流なので、これから進む部分である。

川合から宇連へ
川合村から宇連村へは、ほぼ現在の宇連川沿いを走る県道振草三河川合停車場線と同じ道であったと思われる。宇連川へ乳岩川が合流するあたりで、赤沢地内を通っている道が、一緒になり、宇連川左岸へ渡り更に上流へ行く。(ヨッキ注:ここから現在はダム湖の湖底だ)女郎岩の先で再び渡河し、宇連川右岸を行く。阿弥陀ヶ瀬、蝉ヶ滝を右手に見て、穴滝のかかる川を渡り(ヨッキ注:ここが現在地)椎代へ行く道と分かれて宇連へ行く。この道は今鳳来湖の湖底である。宇連と椎代の分岐点あたりが鳳来湖尻である。(ヨッキ注:現県道の宇連橋の位置である)
以上の道は明治初年、馬の背に荷物を積んで運んだ道である。馬車が通るようになってからの道は現在の国道151号線とほぼ同じであり……(以下略)

『鳳来町誌 交通史編』より

……とあって、明治初期から川合村から宇連村に荷を付けた馬が通った道が湖底にあったという記述なのだが、明治中頃に当地方にも馬車が登場し、現在の国道151号のルートが整備された以降のこの道の状況については、言及がなく分からないのである。航空写真や、現地にある立派な暗渠などの構造物を見る限り、この道は昭和時代に入ってからも積極的に整備されていたと思うのだが、その正体は未だ分かっていない。

今回は、普段は湖底にあり、珍しく地上に露出した、正体の分からぬ旧道を見てもらおうという、そういう趣旨のレポートになっている。

そういうのも、ロマンがあるでしょ……。それに正体が分かるまで書かないと、こんなに貴重な体験を、いつまでも書けない恐れが…。



旧々橋については以上である。
現存する遺構は右岸の斜面に半ば埋れた状態の半壊した石造橋台だけだったがが、湖底を歩いたからこそ見つけることが出来た、道の一世代を担っただろう貴重な存在だった。

そして次は、お待たせしました!
私もさっきから早く近づいて見たくて見たくて堪らなくなっている、旧橋への接近をやる時がキタぞ!

旧橋も、橋そのものは架かっていないので、渡って先に進むということは出来ない。
なので、どこかで宇連川の谷底へ降り、徒渉して先へ進む必要があった。
果たしてどこで下りるか。
両岸の地形は全体的に切り立っており、慎重な判断を要する場面である。
当然、普段から人が歩いている場所ではないから、踏み跡なんてなさそうだし、自分でルートを探して歩く難しさと楽しさがあった。このような流れっぱなしで人手が加わらない原始河川の徒渉は、踏破者としての踏破エクスプローラー力を試される場面なのである。




ヨッキ氏、豪快にイッた!

旧橋への想い抑えがたく、ここからのアプローチとしては“明らかに最短”だが“明らかに脳筋”なルートをチョイスッ!
すなわち、普通に5mは落差がある、垂直ではないが非常に急傾斜である一枚岩スラブ斜面を、尻で強引に滑り降りてしまった。

私が滑り降りた部分は、暗渠で道を潜って流れる無名の小川が本流へ注ぎ込む小さな滝になっていたところで、周囲よりも少しだけ落差が小さかったから選んだが、濡れた斜面を滑ったせいで尻が盛大に濡れちまった。尻終了。

チェンジ後の画像は、下降直後に見た上流方向の眺めだ。
左奥に第4岩脈が迫り出している。
また、向かって右側の岩壁には旧々橋の左岸側橋台があったはずだが、完全に失われていて痕跡はなかった。




きーもちぃーーー!

なにこの世界から切り離された世界感……。

満水位の水面という、今は存在しない壁がこの世界を二分していて、

私はいま、圧倒的に壁の裏側の存在である。


(チェンジ後の画像は、さかなヨッキが撮影した水没時のイメージだ)



13:47 《現在地》

最高ッ!

この橋は、このアングルが至高だッ!

架かっていない橋が、私には架かって見えるぞッ!

そのくらい、この橋の遺構の存在感は強烈である!

チェンジ後の画像は、現存する遺構から総合的に判断して描いた、在りし日の想像図だ。

これからこの想像図の根拠となった各部の画像を見ていただく。




(↑)左岸橋台、および左岸側橋脚の基礎が写っている。

かっこいい! 天然岩盤を上手に活用した構造だ。
川底から路盤までの落差は目測で12〜13mくらい。
ただ、今の川底は砂利がかなり堆積していそうなので、
本来の橋の高さは15mくらいあったと思っている。



湖底にそそり立つ人工物としては、ダムに次ぐ高さを持っていると思われる、中央の橋脚。
まさしく塔の如きルックスで、孤高の存在感が際立っている。格好よすぎる!

泣かせるのが、橋脚の上半分を構成する木製橋杭4本のうち1本が立ったまま残っていること。
水没から還暦を越える61年(探索時)が経過しているにも関わらず、奇跡的に立って残っていた。
陸上より低温かつ低酸素環境である水中では、木材の腐朽は全般的に進みづらいが、
経過した時の長さを考えれば、これも一つの奇蹟と思われる。流されなかったのもすごいよ。

コンクリート部分の上流側は、水切りのため流線型に仕立てられていた。
また、上部の両側に4つの小孔が並んでおり、主桁を支えた方杖桁の存在を教えていた。
すなわち本橋は、中央橋脚の両側に方杖橋が並ぶ、2径間連続方杖橋と判断できた。



天然の岩盤を活用していた左岸橋台とは異なり、自ら高さを稼ぎ出す、右岸橋台の威容!
緻密に整形された石材を地面から6〜7mの高さに積み上げており、奥の築堤へと連なる長さも大きい。
この高さを安定させるべく、日本古来の城壁よろしく、美しい末広がりの組積がなされていた。
石の積み方も工夫されており、壁は谷積み、角は布積みである。この組み合わせも、城壁的。

石造橋台として稀に見る大型構造物だが、周囲が究極の更地であるため、存在感が限界突破している。

さあ、ここを登って進むぞ!



っと、その前に全天球画像を1枚おいておこう。存分に湖底をグリングリンしてほしいぜ。



凹凸は多いが全体に丸みを帯びて滑りやすい岩盤に手こずりながら、
河床から高さ4mくらいの高さがある右岸の崖をよじ登った。橋台基部へ。

橋台基部には、もとあった場所から水中という環境下で静かに落下し、
そのままこの狭い場所に引っかかったらしき、方杖とみられる橋杭一式が残っていた。

くり返すが、水中は木造の保存には有利な環境である。
とはいえ、まず間違いなく戦前に架けられた橋の一部分が、60年以上水中にあって、
このように原形を留めて残っているのは驚きである。
浮上流失していないということは、未だ内部の気密性を保っていると考えられる。
(一方で、消失した橋桁については、行方不明である)

(木橋について、これ以上の驚きはないと思っていたら、実はこのダム湖には……(最後述))



どこから見ても美しいと思えるこの橋は、すごい。

旧々橋の発見に引っ張られたため、先ほどまで探索していた左岸側の橋頭よりも先に
宇連川を渡った右岸の橋頭に辿り着こうとしているが、許して欲しい。
左岸川橋頭からの眺めは、帰り道に撮影しようと思うぞ。
この谷を撮影のためだけに何度も上り下りするのはキツいので、今はこのまま先へ進む。



13:51 《現在地》

右岸橋台の始まりの場所に立って、橋を振り返る。
鉄道じみた築堤との一体感がとても美しい。橋はもう架かっていないが、
景色にほんの少しピースを加えるだけで、谷を越える一連の道が目に浮かぶ。




右岸橋頭より眺める、旧橋の跡地。

橋の長さは30〜35mといったところか。高さは12〜13mと見える。
河岸段丘の面と面を結ぶように架かっており、橋の前後に余計なアップダウンがない。
これは旧々橋と比べて、遙かに機能的で美しい橋だったように思う。

しかし、残念ながらこの美しき橋の名は明らかでない。
これより上流で宇連川を渡る県道の橋が宇連橋を名乗っているので、
別の名前だった可能性が高いが、湖底の旧地名が分からないので、見当もつかない…。



さあ、新たなステージへ挑戦しよう!

今日の水位が私をどこまで許してくれるか、確かめに行く。