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道路レポート 国道237号旧道かつ根室本線旧線 金山隧道 後編

所在地 北海道南富良野町
探索日 2023.06.05
公開日 2025.11.09

 最大の難所! 巨大な崖錐斜面を渡る


2023/6/5 14:13  《現在地》

相対した。
約20年も前の誌面以来ぶりの遭遇となる、金山隧道旧道最大の崩壊現場。
印象として、やはり誌面の光景以上に崩れているように思ったし、また当時から継続して崩れ続けていることも、崩壊斜面がほとんど地山化&緑化していないことから窺い知れた。
この崩壊が未だ危険度を失っていないことは一目瞭然であった!!

瓦礫の状態や傾斜の具合を足先で軽く確かめた後、意を決し突入!



目測だが幅100mを優に超える規模を持った崖錐斜面である。
見た目は派手だが、その突破の難しさは斜面の形質次第であり、実際に相対するまで判断は出来ないと思っていた。
そしていま、実地でその判断を下す、最も重要な局面にあたっている。

観察の結果、この斜面を構成している瓦礫は、砂利と砂の中間のいわゆる礫と呼ばれるサイズ感のものであり、かつ均質的だ。
礫の安息角(自然に作られる斜面の角度)は45度とされているが、ここも明らかに45度に近い数字になっている。
そして、オブローダー的な技術の話になるが、この手の礫斜面は締まっていない方が遙かに与しやすい。
締まっていないと斜面に足が良く埋まるので、逆にグリップして滑り落ちにくいのである。一見崩れまくるので危なそうに見えて実は安全だ。
一方、良く締まっているとグリップがなく危険である。一気に滑り落ちるリスクがある。

この斜面は、やや締まっていると感じる。
表面以外は水気を含んでいて、そのせいもあるのだろうが、グリップがあまり良くない。
だが、そこで救いになるのが、どこを渡るべきか悩ましい程均質で広大な斜面に撫でつけられた一筋のタイトロープ的ケモノ道の存在である。
はっきりとした歩道と言えるほど平坦ではないが、小さな足がかりでもあるとないとでは段違いである。

オブローダーに手を貸してくれる名も無きケモノさんたちに感謝だ!



この斜面で一番の怖さを作っているのが、路肩の下に切れ落ちている垂直の擁壁と、底知れない水面の存在だ。
まあ、現実的には尖った岩敷きの河原に落ちるよりも生存確率は高いかもしれないが、動きのない水面は不気味だ。
そして実際に歩き進めていくと、足元から零れた礫が次々に水面へ落ちる音を聞くのであった。
カラカラカラ……(間)……しゅぽぽぽぽぽぽぽ…………(静寂)。



なお、敢えてこういう“客観視の現在地”は知らない方が、怖くなくて良いと思う。
路肩から転げ落ちたらどうなるのか、このアングルからだとよく分かるだろう?(苦笑)。

現役当時の道幅が何メートルあったのか正確な所は知らないが、最低限の単線線路の幅のままであったとしたら3.5mくらいだろうか。
僅かそれだけの幅の所に、もう絶対これ以上は積み上げられないという量の土砂が積み上がって、綺麗な安息角の斜面を作り出している。
なので、今から墜落してきた瓦礫は、ほとんどがそのまま川まで落ちていると思う。ある意味、これ以上は壊れることがないという終着状態で安定している。
また、現状この場所の川の流れが常に一定水位の湖面であることで、浸食による状況の変化も回避されている。



道があった場所は全て崖錐斜面になっているが、その上部はご覧のように恐ろしく切り立った露岩である。
川の流れと風雪により悠久の時を使って磨かれた、神々しささえ感じるこの磐座の元に、初めて雄々しくツルハシを叩きつけたのが、北海道開拓の使命を帯びた鉄路であった。

その実際の工事にあたった者達の苦闘は想像に余りある。
【人跡未踏に限りなく近い世界】に、当時の世界最先端の分明利器である鉄道を、重機にも機械力にも頼らぬ手仕事で持ち込んだのだ。人が細々行き交う道を通すのとは訳が違う難事であろう。

しかし、彼らの健闘は報われて、鉄道としてまず30年間北海道の黎明を切り開いた後は、さらに道路として36年間活躍した。
「こんな場所によくぞ」という感想は、廃道探索においては珍しくもないが、いやはや、ここは活躍の度合いの大きさも踏まえれば、その極地の一つと言えよう。
危険だが、訪れて良かったと思う。



14:15

バカでっけ〜足跡だぁ〜〜!!

完全に、ヒグマさんの足跡である。

それも、この鮮明さは最後の雨よりも後のものだろう。ってか、今しがたでもおかしくない。

いやぁ、ケモノ道なんだからケモノは誰でも通るんだろうけど、こんな所でヒグマと鉢合わせたら嫌だなぁ…。



核心部通過中に撮影した全天球写真。

空を映して静かに留まる空知川に、ときおり僅かな波紋を立たせながら、私の孤独で真剣な時間が流れていった。
このときも私はそのへんで拾った木の枝を借りて、二足歩行の不安定を補助している。これも危険斜面トラバースの常套手段である。
市販のストックなども使うことはあるが、廃道ではいざとなったら気兼ねなく投げ捨てられる木の棒の方が、難所に集中できるので好みだ。



14:17

斜面に突入して約5分経過。
崩壊地の主要な部分を突破した。
大きな足跡にはビックリしたが、ケモノ道はほんとありがたかった。
もし鉢合わせになったら、彼らとも譲り合えると信じているよ。



進行方向の風景と、(チェンジ後の画像)振り返った風景と。

崖錐斜面が小さくなり、樹木が路上に現われだした。
崩壊の頻度が少なくなっている証拠だ。
最大の難所を突破できたに違いないが、また余談は許さない。肝心の金山隧道が現われていない。
もしそいつが通り抜けられなかったりすると、引き返す羽目になる可能性が残っている。

前方に現われてくる風景にこれまで以上に注視しながら、残りの瓦礫斜面を慎重に進んだ。



14:18

お気づきか〜? もう見えてるぞ〜〜!!!


枝葉の影に、黒い穴が。




っしゃぁあー! 貫通!!!

明治生まれの金山隧道、未だ健在を確認!!



 構造も経歴も珍しい 金山隧道


14:19 《現在地》 

上流側から旧道を辿ってきた場合、最大の難所を乗り越えると同時に、区間内唯一の隧道である金山隧道が待ち受けている。
距離的には上流側から約600mの地点であり、下流側は残り400mであるので、隧道が見たいだけなら下流側から来る方が楽であろう。

金山隧道は、写真からも分かるように、入る前から間近にある出口を見通せるような短さが大きな特徴といえる隧道で、前説でも紹介した『大鑑』のデータによれば、全長は僅か17mに過ぎない。
道路トンネルとして見ても相当に短いが、官設の鉄道トンネルとしてはより特筆レベルの短さだったと思う。
これは通常なら切り通しになる短さであるが、川に突出した堅牢かつ高峻な岩脈を貫いているため、この長さでも隧道以外の選択肢はなかったと思われる。



短さだけではない金山隧道の大きな特徴として、坑門が存在しない珍しい構造も挙げられる。
通常は坑口に坑門があり、地山を抑える役割の他、文字通りトンネルの入口をなす門として、扁額を掲げるなど、意匠的に大きな特色を有するものとなるが、この隧道には坑門が無く、坑道を巻き立てる煉瓦の断面が直接地表へ現われている。扁額も見られない。

これもかなり珍しい構造といえるもので、『鉄道廃線跡を歩く』の当該レポートにおける金山隧道の解説文は「坑門部分のない珍しいトンネル」という一行であるし、鉄道構造物解説のバイブルとして私が愛読する小野田滋氏の『鉄道構造物探見』にも、鉄道トンネルの珍しい坑門の例として本隧道が写真付きで示され、「坑門自体がない例で、固い岩盤に掘削されたトンネルなどでごく稀に存在する」と、希少性を紹介している。

この隧道が貫く地山は長期間の浸食に耐えて川へ突出していることから、きわめて堅牢な岩体であることが窺えるが、そのため建設当初においても、わざわざ坑門を設置して地山を抑える必要はないと判断されて、工期工費の面からも不必要な工事が避けられたのだと思う。
そしてこの明治の北海道官設鉄道の建設に携わった技術者たちの判断は――



見事に大的中!

竣功の年から数えて探索時点で実に133年、最後に使われていた道路としての廃止からだけでも54年の年月が経過しているにもかかわらず(この間は全くの無手入れだろう)、ご覧のように隧道内部にはひび一つなく、完璧な煉瓦の美壁を保っている!! 
たった17mとはいえ、ここまで完全な煉瓦トンネルは、廃隧道としては奇跡的である。
これは必要最小限の工事で完璧な隧道を完成させる仕事が果たされている例だと思う。技術者たちに最大限の賛美を送りたい。



シェルターのようにあらゆる破壊から守られた隧道の内部を目前に、もう一度だけ来た道を振り返る。
そこにあるのは、同じ道として同じ経過を共有したとは信じられないほどに壊れ果てた道の姿。
無事に通り抜けられた幸運に一礼をしてから、入洞した。



短い洞内は、入洞して最初に本来の洞床に足を降ろした時点で、全長の半分近くを終えていた。
写真は、半ば以上まで崩落した土砂に埋れている入洞側の坑口を振り返って。
崩れているのは全部外界由来で、内壁には亀裂一つない。



そしてこれが進行方向、出口側の風景だ。
こちら側は一転して、穏やか……かはまだ分からないが、緑陰の元に口を開けているようだ。
洞床には靴が埋まる深さで乾いた落葉が堆積しており、最後まで未舗装であったという洞床は全く見えない。

繰り返すが、この隧道はもともと鉄道用で、明治33年から昭和5年まで根室本線の一部を構成していた。
昭和5年の時点では、道央と根室あるいは帯広・釧路といった道東の主要都市を結ぶ最短かつ最重要の鉄道線路であり、その輸送量や運行頻度は私が探索当日に目にした“風前の灯火”としての同鉄道とは別格であったと思われるから、爆走する蒸気機関車の煤煙による内壁の汚れが強く残っていることを想像したが、実際は不思議と綺麗な壁であった。

その理由として、道路化してから長い年月を経ているというのはもちろんあるだろうが、おそらく隧道自体が短すぎて、煤煙が籠もって壁に付着すること自体少なかったのではないかと想像している。



14:21

立地といい、外見といい、歴史といい、とても私好みの隧道だが、如何せん短く、その短さも魅力ではあるけれど、時間をかけて鑑賞する余地はさすがに少ない。
1分ほどで簡単に通り過ぎてしまい、早くも下流側の坑口から振り返り見る風景をお届けしている。
やはり、坑門を持たないシンプルな坑道のみの坑口であった。
隧道抜きでは絶対に迂回の出来ない地形であることが、よくよく分かる景色でもある。

再三再四述べているように、昭和8年から昭和44年までは道路トンネルとして使われた。
だが、道路トンネルとして使うための特別の改修や改造が行われた形跡はない。
単線鉄道トンネルの断面のままに、国道237号の一部として利用されていたようである。
道路標識や一般の交通があった名残……例えば轍や空き缶などのゴミも見られなかったのである。

私が生まれるより前に道路としても廃止されていたのであるから、道路として現役風景を想像することは、むしろ鉄道時代以上に手掛りが少なく難しい。
車が行き違える待避所がそこここにあったようにも見えないし…。
現在の北海道の国道はどこも素晴らしい出来だが、昔はこんな鉄道のお古もおフル、落石多発で放棄したような跡地を転用するしかないほどに細々とやっていたのかと思う。鉄道との力関係が今とはまるで逆さまだ。




 上渓橋と、大掛りな護岸擁壁地帯

14:21 《現在地》

全長僅か17mの金山隧道だが、抜け出ると風景は一変する。
高い切岸に望む湖畔の道には、廃止されてからの月日の長さを物語るように多くの樹木が育成しており、探索時は濃い緑に覆われていた。
だが、ここは単調な場面ではなく、足元には金山隧道と並ぶ……、いや、それ以上の大型構造物が存在している。
如何せん、路上を通り抜けるだけだと気付きづらい存在なのだが…。

……ということで、見ていただきたい。



はい、隧道を出て20mほど進んだこの地点に、橋がある。

前の「いわしりはし」も、近づかないと気付けない目立たない橋だったが、こちらは渡られるような渓流もないので、さらに目立っていない。
急傾斜地において、道幅を確保するために空中へ道を架ける構造を、河川を渡る橋と区別して桟道橋と呼ぶが、ここにあるのはそのような構造物だ。
肉眼だと立体的に見えるのでもう少しは分かりやすいが、この写真の中から橋の四隅に立つ親柱を見つけ出すのは少し骨が折れると思う。
チェンジ後の画像の@〜Cの位置に親柱が存在し、これらに囲まれた部分が橋である。



路上にいると、この場所に存在する大型構造物の全貌を認識しづらいのだが、本編冒頭に登場した現道の五月橋からの眺めに、その“一部”が含まれている。

ご覧のように、二つのアーチ窓を有するコンクリート造りの大掛りな重力擁壁が、周囲の緑の中で異彩を放っている。
いまいるのはこの擁壁の上で、擁壁の前後は橋と隧道である。
この擁壁は、金山隧道や橋を上回る規模を持ち、一連の旧道内における最大の土木構造物であり遺構であるが、残念ながら直下に立つことが出来ない立地である。



写真は、Cの位置にある親柱である。
本橋の名前が、「上渓橋」であることが刻まれていた。
親柱や銘板のデザインは、先に見た「いわしりはし」と同一である。
あちらは漢字表記の銘板など、2枚が失われていたが、今度はちゃんと4枚が揃っていた。

チェンジ後の画像は、同じ位置から覗いた橋の下の様子だ。
両岸の橋台が、連続アーチ窓を有する大掛りな護岸擁壁と一体化している。



これは@の位置にある銘板で、「上渓橋」の読みが「じょうけいはし」だと判明した。
地名っぽくはないので、渓谷の上に架かっている立地からの命名ではないかと想像した。

この写真には、転落防止用の高欄の支柱も写っている。
残されている支柱の形状から、等間隔に設置された支柱の間に2本の鋼管を渡した高欄構造が判明したが、鋼管は1本も残っていなかった。



Aの位置にある銘板で、「昭和八年十一月竣功」と刻まれている。
また、これと対角の位置にあるBも、全く同じ内容の銘板であった。
この竣功年は「いわしりはし」と“月”まで一緒であり、間に挟まれる金山隧道を含む一連の道の竣功が昭和8年11月であることを強く示唆している。

この年代の土木事業として連想されるのは、全国に吹き荒れた農村大不況への対策として行われた、国策としての時局匡救土木事業のことである。
全国の農村部で膨大な量の土木工事が当面の失業対策の目的で行われ、戦前の道路橋ではこの年代の竣工を記録するものが突出して多い。
昭和5年に廃止された旧線跡を道路として改修して利用することがどのような経緯で企てられたのか、気になるところだ。



Bの親柱の近くから橋の下を覗いて撮影した。

橋の下はただのガレた斜面で、渓流などはない。埋め立ててしまわなかったのが不思議な感じだ。
それはともかく、本橋も「いわしりはし」と同型式のRC桁橋で、道幅も同程度である。
そして、桁を支える橋台の一部が煉瓦製で、一部がコンクリート造りであることも同じ。
「いわしりはし」同様に、煉瓦部分は鉄道橋時代の橋台の再利用で、コンクリート部分は道路橋としての改築時に増設した部分だと判断した。

が、本橋の場合は、“下線部分”は正しくなかったことが後に判明する。



こちらは橋を間もなく渡り終える地点から振り返って、金山隧道を見ている。
中央に薄暗い部分があるが、そこが隧道で、向こう側の地表が中央に明るく見えている。
坑門を持たない隧道という存在は、素掘の隧道並みに緑の影へ溶け込んでいた。



14:24

これも前の写真と同じ位置から、今度は進行方向を撮影している。
やはり路上の風景では分かりづらいのだが、実はこの先にもまだしばらくアーチ窓がある大掛りな護岸擁壁が続いている。
よく見ると、右の路肩部分にコンクリート製の地覆が続いているのが分かると思う。これが擁壁の天端に設置された転落防止柵である。
だが、擁壁の存在をあざ笑うように、この部分の路肩には大きな陥没が生じていた。

また、Bの親柱のすぐ背後には、「いわしりはし」の前でも一度見ているキロポストが設置されていた。
【近づいて見ると】、前のキロポストよりも表示が鮮明に残っており、前は読めなかった肝心の数字の部分を確認できた。
これは「96.4kmポスト」だろうか。(だが残念ならこれは河川用のキロポストで、道路とは無関係であった)



これは路上の陥没を振り返って撮影した。
大きなアリジゴク状の陥没穴が空いており、普段は路下に埋れていて目にすることがない擁壁の裏側が露出している。
穴の底は暗くて見えないがとても深く、擁壁の底から河底まで貫通してしまっているのだと思う。
それにしても、擁壁の裏側の階段状の凸凹が面白い。こうすることで、より地形に接着するようにしたのかもしれないが、珍しい形状だ。他で見た憶えがない。

そして重要なのは、この巨大な護岸擁壁がいつからあるのかという問題だ。
私は当初、材質がコンクリートであることや、上渓橋との関係から、鉄道時代には存在せず道路転用時に上渓橋と共に建設されたものと判断していたが、探索後、この場所を撮影した鉄道開業当初の写真を発見したことで(後述)、擁壁は鉄道由来であった可能性が極めて高いことが判明している。
道路転用後も長く使われているので、補修などはあったかもしれないが…。



これが、明治33年の鉄道開業当初より鎮座する、区間内最大の遺構である護岸擁壁の概ね全容だ。

樹木やアングルの関係で写っていない部分があるが、上渓橋が架かるスリット部を挟んで、前後に2つのアーチ窓と5つのアーチ窓を有する高い擁壁が連なる。

あまり明治らしく見えない?全体的に無骨なコンクリート造りの構造物だが、アーチ窓部分(ピンク枠の部分)をズームアップしてよく見ると――



おおおっ! 煉瓦アーチだ!

擁壁の大部分はコンクリート造りだが、アーチ窓の部分は全て煉瓦造りであった。

鉄道構造物における場所打ちコンクリートの利用は古く、明治初期から鉄道建設用のセメントの国産化が行われている。
だが、当初は橋やトンネルなど大規模な構造物のメイン材に採用されることはなく、代わりに煉瓦やコンクリートブロックが用いられた。
場所打ちコンクリートによる鉄筋コンクリート造りの鉄道橋は明治40(1907)年に初架設の記録があるが、本構造物は橋梁ではないので、それよりも古いとしても矛盾はない。そして、アーチ窓の部分だけが煉瓦造りなのは、コンクリートでアーチを安定して建設する技術がまだなかったためとみられ(大正以降に本格的なコンクリートアーチが現われる)、ここに本構造物の“本当の古さ”が現われていた。

いぶし銀……
私の勝手な印象だが、そんな言葉がぴったりと合う構造物だと思った。
もしもこれが、明治26(1893)年に信越線に登場したあの有名な橋のように、全体が鮮やかな赤い煉瓦で築造され、同じように凝った意匠が施されていたら、年代の近いこの構造物だって、もっと遙かに認知されていただろうに。
でも、北海道官設鉄道十勝線という場所に建設されたのは、このように到底“鮮やかではない”構造物だった。
それが、当時の北海道開拓という戦場における、間もなく最大の難関である狩勝峠に挑まんとする最前線のリアルだったのだろうと思う。

……私好みの構造物だ…。



14:25

上渓橋周辺の巨大護岸擁壁地帯の終わりには、硬い岩壁に打ち抜かれた切り通しが待ち受けていた。
ここも山側の法面が高く切り立っており、道が崩土の崖錐に呑まれつつあるが、まだ通行は容易い。



14:28

その先も、廃道らしからぬ歩きやすい道であった。
藪もほとんどなく、道形もきわめて鮮明である。
湖となった川面を脚下に見下ろしながら、次第に車の音が大きくなる方向へ黙々と歩く。



14:31

さらに数分進むと、川が遠ざかり、平坦な森になる。
道はほんのりとした盛土のカタチで、ほぼ直線的に、それはまさに鉄道時代の線形のままに伸びている。
アップダウンも鉄道らしく皆無に近い。
相変わらず、車が通じていたことの明確な証しはない。
明らかに車道橋の姿であった2本の橋や、開発局が設置したキロポストを見なければ、一連の探索は鉄道廃線跡の印象しか残らなかったかも知れない。

……で、最後は……



14:33

思い出したように一面腰丈の笹藪に進路を阻まれるが、間もなく正面進路上に現道の気配が接近! 
路傍の青い看板が見える!
最後は藪をガサゴソして……




14:34 《現在地》

脱出!

50分ぶりに、五月橋の旭川側袂に戻ってきた。
このレポートの中だけで綺麗に一周してきたことになる。
まあ、このあと旧道の入口に置きざりにした自転車を車で取りに行く作業があったが、探索としてはこれで無事終了だ。

探索したのは約1kmという短い旧道だが、そこに鉄道と道路の歴史や構造物が綯い交ぜになっているだけでなく、風景や踏破の難しさも変化に富み、まさに廃道探索の世界観がコンパクトに凝縮したような場所だと思った。
現地レポートは、これにて完結!




 机上調査編 〜2度の生を終えた道〜


かつて国道であり、さらにその昔は鉄道であったという、約1kmの廃道。
区間内は一本道であり、探索はシンプルだったが、その誕生から今日に至る経過を紐解こうと思うと、鉄道と道路としての両方の歴史が関わるうえ、それぞれの路線名の変化が多く、意外に複雑であった。
本項では、その歴史に焦点を当てたい。

また遺構的な話をすると、一連の区間内には「いわしり橋」と「上渓橋」という2本の橋と、「金山隧道」という1本のトンネルが存在している。
トンネルについては鉄道用のものをそのまま利用しているようであるが、橋は橋台のみを転用し、桁は新たに道路用のコンクリート桁を架け直していた。
これら、鉄道用と道路用のそれぞれの顔を持つ構造物と出会えることも、この廃道の探索の面白みだと思う。
中でも金山隧道は、明治中期の煉瓦製鉄道トンネルとしては保存状態がよく、かつ「坑口を持たない」という珍しい構造上の特徴を持つ、特筆すべき遺構だろう。


本編冒頭でも歴代の地形図を比較して見たが、改めて地形図の変化を見ながら、鉄道と道路の両方に関わってきたこの道の歴史を紹介していこう。
まずは(→)、明治29(1896)年版から大正8(1919)年版への変化から。

金山の周辺は、明治前半まで定住者はほとんどなかったが、空知川に沿って石狩平野と十勝平野を結ぶ自然通路としてアイヌの人々による僅かな通行があり、当地に良質の砂金が出ることを聞きつけた和人たちが道案内を請うて入り込んだというのが、歴史書に現われる当地方の初期の記録だ。その砂金の産地は十梨別川にあり、これが後の和人による大規模入植時に一帯を「金山」と名付けるきっかけとなった。
明治29年の地形図を見ると道も家も全くないが、「トナシュペッ(十梨別川)」の地名だけは書かれている。



『帝国鉄道要鑑 第2版』(明治36(1903)年)より

明治政府が国策として北海道東部の開拓を進める過程において、この空知川沿いの古い通路に沿って道央と道東を結ぶ鉄道を敷設することで、十勝平野からさらに釧路、網走、根室方面へ入植を進める方針が決まった。具体的には、明治29(1896)年に公布された北海道官設鉄道法によって、1500kmあまりの鉄道を北海道庁が経営する北海道官設鉄道が敷設することになり、同社は後の根室本線や富良野線となる北海道官設鉄道十勝線の工事に着手した。

この鉄道は、明治32(1899)年9月1日に旭川〜美瑛間が開業したことを皮切りに順次延伸し、明治33(1900)年12月2日に下富良野〜鹿越間が延伸開業。途中駅として金山駅も設置され、今回探索した道はこのときに鉄道として初めて開通した。
後、明治38(1905)年4月1日に国有化され官設鉄道十勝線となり、さらに工事が進められ同40年9月8日に歴史上有名な狩勝峠の難工事を完成させ鉄路は貫通、旭川〜帯広を結ぶ十勝線は全通した。

この有名な鉄道の工事よりも僅かに先行し、工事用資材の運搬や初期の入植に活躍する道路の開設も進められている。
昭和35(1960)年に南富良野村が発行した『南富良野村史』および、平成3(1991)年発行の『南富良野町史 下巻』ならびに、平成2(1990)年発行『北海道道路史 第3巻 路線史』などによると、鉄道十勝線に沿って旭川〜富良野〜帯広を結ぶ道路は十勝街道と呼ばれ、その最大の難関である(鉄道にとっても同様)狩勝峠を含む国境の山越え区間は、やはり北海道庁によって殖民道路として明治31(1898)年に馬が通れる程度の道が整備され、途中に駅逓と呼ばれる官営の休憩所が数ヶ所設置された記録がある。

十勝街道 旭川から十勝帯広に通ずる道路は、明治30年鉄道開通につき下富良野以東は仮道路を開通し漸次修繕を加え、困難の個所はあるが馬行差し支えなし。

林顕三編『北海誌料』(明治35(1902)年)より(『南富良野村史』所収)


十勝街道は、明治39(1906)年に殖民道路から昇格して仮定県道南北線となったが、その経路は右図の通りのものであった。すなわち、オホーツク海沿岸の興部(おこっぺ)に始まり、天北峠を越えて道央の旭川へ至る。さらに鉄道十勝線に沿って狩勝峠を越え太平洋岸の大津港まで至る壮大な南北縦貫道路となったのである。
これが先の大正8(1919)年の地形図に太い二重線で堂々と描かれている道路なのだ。

さらに明治44(1911)年には、こちらも古くからのアイヌや砂金取りたちの通路を基にして、金山から占冠を経て右左府(現:沙流郡日高町)へ至る三国連絡道路(石狩国、胆振国、日高国を連絡、後の国道237号)が道庁によって整備されたことで、金山は鉄道と重要な複数の道路が結節する地となった。
この後の大正時代が金山の歴史における交通上の地位が最も強まった時期である。


『目で見る南富良野の歴史』(平成3(1991)年)より
/(チェンジ後の画像)『鉄道廃線跡を歩くIX』より

(←)写真は明治43(1910)年に撮影された「トナシベツ川鉄橋」である。

この撮影現場は、今回探索の途中で通過した緑橋から400m南の国道237号に架かる岩根橋位置)で、ここも昭和5年11月に今回探索区間と同時に新線へ切り替えられていた。そのため、蒸気機関車が渡るプレートガーダーを支える石造橋台は、チェンジ後の画像である『鉄道廃線跡を歩く』の調査時には遺構(赤矢印)として、現鉄橋(これも現在は廃線)の隣に残されていた。(なお、今回私もレポート外で訪れたが、緑が濃く確認できず)

おそらく撮影者にとっても、掲載者にとっても、この写真の主役は、道東の歴史を切り開いた偉大な鉄路であると思うが、その手前に写り込んでいる木橋にも私は注目したい。
人道か牛馬道くらいの幅しかない、手摺りのない恐ろしい方杖橋だが、これこそが仮定県道南北線であり、その整備水準を物語る構造物である。
チェンジ後の画像にも、この道の遺構(おそらくは次の世代の未知の旧橋のもの)と見られるコンクリート製らしき構造物(黄矢印)が写っていた。

そしてもう一枚、今度は今回探索の区間内で撮影された古写真があるので見ていただきたい。(↓)



『目で見る南富良野の歴史』(平成3(1991)年)より


こちらは、明治34(1901)年に撮影された「十勝線金山隧道附近」の写真とのこと。
時期的に、開通直後ということになるが、今回の探索中の同ポジ写真と比較している。

この写真は鉄道時代の今回探索区間を撮影した貴重なものだ。昭和5年に早くも廃止された旧線だから、撮影機会的にも貴重である。
そんな貴重な写真から分かるのが、本編で紹介したアーチ窓のある擁壁(上渓橋の前後にある構造物)が鉄道時代からの構造物だったということだ。金山隧道と共に区間を代表する大規模構造物である擁壁もまた、明治の鉄道に由来する構造物だったことがはっきりしたのである。



『日本国有鉄道百年写真史 本編』(昭和62(1987)年)より

もう1枚、鉄道時代の金山隧道が写っている写真を見つけた。
昭和62(1987)年発行の『日本国有鉄道百年写真史 本編』に掲載されていた写真で、キャプションには「空知川沿いの十勝線」としか書いていないが、間違いなく金山隧道とその東口に連なる大型擁壁が被写体である。
道路化後に「上渓橋」が収まっているスリット部分には、同じ長さの上路プレートガーダーが収まっていたことも見て取れる。残念ながらその橋名は今以て不明であるが。

なお、明治時代の十勝線建設工事については、最大の難関であった狩勝峠については比較的多くの記録が残っているが、今回探索区間について述べた工事記録は未発見だ。
ただ、『南富良野村史』には次のような記述がある。

まだ警察力の充分でない時代であったので、土工募集者の甘い口車に乗って一旦鉄道工事の監獄部屋の人となったら人権はもちろん、生命の保証もされなかった。二人が一組になって、いわゆる前棒と後棒に別れ、一本のモッコ棒とモッコで今のブルドーザーのかわりをするのである。岩石の切割もこうして運ばれたのであった。日の出から日没までの重労働なのに、白米と生味噌で暮らすので脚気になるものが多く、次々に死亡したが、働けるうちは棒頭によって労働を強制された姿は全く惨めであった。

金山駅に汽車がすべり込む前に十梨別川の鉄橋を渡るが、この鉄橋の右手に並んでいる岩根橋のたもとに石地蔵が立っている。この地蔵の附近の草むらに「為十勝線開発之際死者、有縁無縁霊碑、明治三十五年中秋、武田某建之」と刻んだ石碑がある。某とは金山初期の功労者(中略)武田孝一である。この附近も多数の土工が埋められていると伝えられているのである。

『南富良野村史』より

このように(引用外にも大量の記録あり)、以前レポートした明治24年の北見峠の“囚人道路”に代わって台頭したいわゆる“タコ部屋労働”によって建設されたことが述べられている。
工事内容についての記録は乏しくとも、開拓という大義の影に隠れがちな人命軽視的鉄道工事によって相当多くの犠牲が払われたことは間違いがないようだ。



以上見てきたように、明治30年代初頭のほぼ同時期に、金山の地へ文明をもたらす道路(十勝街道→仮定県道南北線)と鉄道(北海道官設鉄道十勝線→官設鉄道十勝線)が誕生し、後者が今回探索した道を最初に切り開いたのであった。

鉄道はこの後、明治42(1909)年に終点の変更により釧路線と名前を変え、さらに大正2(1913)年には釧路本線となり(同時に現在の富良野線の区間が分離)、同10(1921)には根室まで全通したことで根室本線となった。
ますます拡大する輸送の需要に応えるべく、輸送力向上や防災上のネックとなる区間で線路の付替が行われたのも、その後からである。

昭和5(1930)年11月、下金山〜金山間の一部である1.6kmが新線に切り替えられた。これにより金山隧道が廃止され、新たに2本の乙号・甲号空知川橋梁が架設された。今回探索の区間である。旧線は根室本線として最初期に開業した区間だったが、最も早くに廃止されることとなった。それだけ問題が大きかったことを物語るが、残念ながらこの付け替えについてはソースが『鉄道廃線跡を歩く』シリーズしかなく、詳しい事情を述べる史料は未発見である。

今回探索区間の鉄道としての活躍はちょうど30年目に終わったのであるが、これがその3年後、今度は道路として突如息を吹き返すのである。

明治39年に指定された道路の仮定県道南北線は、大正8(1919)年公布の北海道道路令によって、内地の道路法制度に準拠する形で更新された。
道内では内地の県道に相当する地方費道と郡道に相当する準地方費道が指定され、これらが昭和27年の現行道路法に統合されるまで存続する。
今回探索の関係では、大正9(1920)年に地方費道3号札幌根室線準地方費道68号浦河旭川線が指定されており、それぞれ現行道路法の国道38号と237号の前身である。

地方費道札幌根室線の最大の難所として長らく自動車が通ることはできなかった狩勝峠においては、昭和6(1931)年に現国道の基になる新道が開通し車道としての便が計られた。
その経路にあたる金山周辺においても、従来の「馬行差し支えなし」程度の道路から、自動車が通行出来る程度の能力を持った道路への改築が企てられたのは必然だろう。
おそらくそんな念願の前に、鉄道省が廃止したばかりの旧線跡が飛び込んできたのだった。

昭和8年の状況について、『事務報告書』には、次のとおり掲記されている。

(略)
8月初旬より雨天多く4日間に亘り大洪水を招致し緒河川氾濫し為に(中略)空知川ユクトラシベツ川護岸の被害甚大なるものあり依りて被害調査の上災害復旧工事として申請し窮民に請け負わしめ救済者を使役し竣工を見たり なお金山下金山間道路改良工事は土木事務所の直営を以て工事を進め村要救済者を使役しその竣功近きにあり本道路完成の暁には村内第一の風光明眉を以て人口に膾炙せらるるに至らん
『南富良野町史 下巻』より

このように、旧南富良野村の昭和8(1933)年度の事務報告書には、この年に道庁の事業として(地方費道札幌根室線の)金山〜下金山間の道路改良工事が進められ、働き手として村内の生活困窮者を用いたこと、その開通が近いことや、現地の風景が優れていることなどが出ているのである。
現地の上渓橋などの銘板に竣功年が昭和8(1933)年11月と記されていることとも一致した記述であり、一連の工事の由来がはっきりした。現代風に言えば、開発局の直営工事ということだ。また、いわゆる時局匡救土木事業の性格も有していたことも明確になった。

ただ、この工事に鉄道の旧線跡を利用したことは、言及がない。
まあ、わざわざ書くことでもないと判断されたか。正直、記録としてはあまりヒロイックでない要素だし…。
それよりも、風景の良さを推している。まあ確かにあそこは風景はよいところだが、山や川の風景がよい場所はたいてい険しいんだよな。災害と隣り合わせ…。


ここまで見てきたように、当初の地方費道札幌根室線は、富良野→山部→下金山→金山→幾寅→狩勝峠という経路を持ち、これは根室本線と完全に並走するものだったが、上述の道路付け替えが行われて間もない昭和13(1938)年9月1日に同県道の経路が変更され、山部→西達布→幾寅となった。これが現在の国道38号に引き継がれている。

したがってこのとき、今回探索区間ともども金山の一帯は、道央と道東を結ぶ最大の幹線から外れて、準地方費道浦河旭川線の単独区間となった。だが同年にこの道路は地方費道46号浦河旭川線へ昇格している。
今回探索区間の道路名の変遷をまとめると、仮定県道南北線→地方費道札幌根室線→準地方費道浦河旭川線→地方費道浦河旭川線である。

 旧道にあった橋やトンネルの詳細なデータが判明した
2025/11/10追記

北海道 トンネルwiki」の管理人であるMorigen氏(X:@morigen_tw)より、『開発局 橋梁現況調書 昭和34年3月末現在』のご教示をいただいた。これは開発局が管理する道路(一級国道・二級国道・開発道路)に所在した橋梁とトンネルの一覧表で、昭和42年末のデータであるお馴染み『道路トンネル大鑑』のトンネルリストよりも少しだけ古くかつ詳細な北海道版の道路トンネルリストである。

この資料に、当時の「二級国道旭川浦河線」に属する唯一のトンネルとして、金山隧道のデータが次のように記録されていた。

建設部名隧道名位置延長(m)幅員(m)上有効高
下中央高
断面及覆工路面及地質竣功金額竣功年月日
旭川金山隧道南富良野村大字金山字十梨別16.604.404.92
5.13
馬蹄型
煉瓦積
砂利道
硬盤

比較参考として、既報だが、『道路トンネル大鑑』の金山隧道は次のようなデータである。

路線名トンネル名竣功年延長幅員有効高壁面路面
国道237号金 山昭和8(1933)年17m4.0m4.5m覆工あり未舗装

続いて、「机上の道を辿る」の管理人である江田沼音氏(X:@roaddata_numane)より、同系統の資料である『昭和32年3月現在 1級国道2級国道開発道路(維持路線)橋梁現況調書』のご教示をいただいた。
資料名とおりの橋梁リストであり、現地で目にした2本の橋のデータが次のように記録されていた。

建設部名橋梁名架橋位置河川名橋長(m)巾員(m)橋面積(㎡)上部構造(m〜連)下部構造竣功金額(円)竣功年月日
旭川上渓橋南富良野村字金山空知川支流10.405.5057.20鉄筋コンクリートT型(10.0〜1)煉瓦混用コンクリート1763昭和8年11月30日
旭川岩尻橋南富良野村字金山空知川支流10.405.0052.00鉄筋コンクリートT型(10.0〜1)煉瓦混用コンクリート1720昭和8年11月30日

この資料によって、ついに「いわしりはし」の漢字表記が判明した。
たぶん「岩尻橋」と書くのだろうと予想はしていたが、その通りであるとはっきりして、すっきりした。

あと、現地ではそこまで意識が向かなかったが、上渓橋と岩尻橋の橋長は全く同じだった。
おそらく単なる偶然ではなく、もともと鉄道橋であることと関係がある。鉄道橋は全国で大量に架設されたため、架橋地点ごとにゼロから設計するのではなく、あらかじめ規格化された標準設計の橋桁を工場で大量生産し現場で組み立てる方法がしばしば取られた。地形に合わせて橋の長さを決めるわけだが、その際には標準設計の桁に合うよう橋台の位置をずらすなど工夫がされたのである。
橋長の一致は、これらの道路橋が鉄道の橋台を再利用していることを物語る面白い特徴だと思う。



以後の記録としては、昭和28年に現行道路法下で二級国道237号旭川浦河線が指定され、これが同40年に一般国道237号へ改称されて間もなく、現在使われている道路に付け替える工事が行われた出来事しか見当らない。
旧道時代の難路ぶりを物語るエピソードや写真も欲しいところだが、今のところ未発見である。

昭和44年10月30日には、下金山〜金山間国道に、岩根橋、緑橋、五月橋の三橋が架設され、竣工式が行われたが、岩根橋で三夫婦の「渡りぞめ」が披露された。

『南富良野町史 下巻』より

以上の短い文章で、複雑だった一連の道路の付け替えの最終ページは締め括られる。


だが、廃道化によって道の公としての歴史が閉ざされるとしても、人の体験としてのページは更新されうる。
『鉄道廃線跡を歩く』の著者や私は、その部分に力を注いだことになる。
短いながらも見どころが多いこの廃道は、今後も物好きな者達の体験に鮮やかなページを紡いでいくことであろう。






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