神津島黒根の未成道 第1回

公開日 2014.01.01
探索日 2013.04.02
所在地 東京都神津島村



※ このレポートは、「廃線レポート 神津島の石材積出軌道」の続きの時系列となります。
先に向こうをお読みになる事をオススメします。

私はいま雨の中、帰りの船の出航の有り無しとその時刻を気にしながら、島北端部へのスピーディな遊撃作戦を展開している最中である。
そしてスタートから1時間30分が経過した現在、ふたつのターゲットのひとつめ「石材積出軌道」の探索を終え、つづいてもうひとつの…

コードネーム: 都道終点

へのアプローチを開始するところだ。

だがその前に、皆さまにお伝えしておきたい。 私がなぜ、ここへ行きたかったのか。




見てくれよ!! → 

変だぜー!!

黄色い都道の線が、結構長いトンネルを出た途端に突然 ブツッ! と切れている。
現場はまさに採石場が山頂にあった神戸山の北麓で、神津島の最北端である。

そして、この「終点?!」の600mくらい手前にももう1本トンネルが描かれていて、その入口(南口)まではバスも通っている(=現役)のようだ。
しかし、地図からは何のためにあるのかまるで分からない末端部分は、果たしてどうなっているのだろう?
そして、末端の先には、一体どういう景色が展開しているのか??

…このことを、ぜひ是否この目で確かめたかったのである!! 




1本目のトンネルをくぐってみれば……



ついさっきまで私がいた“ボンブ”が、今にも海に呑み込まれてしまいそうな所に見える。

今度の舞台は、私を集落からここまで連れてきたこの足元の道の終点である。
濡れたサドルに跨がって、再出発である。

そして写真の場面からおおよそ2分自転車を漕ぎ進めると、1本目のトンネルが早速現れた。




松がこんもりと茂る尾根が神戸山から下りてきて、道を遮った。
これはトンネルを掘らねば先へは行かせぬという高さがある。

そして尾根が海に没する先端には「赤崎」という名前が付けられていて、名勝の∴マークもセットである。
道の左に見える広めの駐車場は、赤崎に対するものであった。
しかし、今日は当然のように無人。売店らしき建物も奥に見えたが、シャッターが下ろされていた。観光客がここへ来ない日には島民が来る理由も無い。たぶんそんな場所なのだった。



赤崎を貫くトンネルとは別に、海岸線を迂回する道がある。
普段なら旧道を疑うところなのだが、ここに限ってはそうでは無さそうだ。
この海岸線をまわる道は、ほぼ全線が積み木細工のような木製桟橋で作られた、世にも珍しい赤崎遊歩道である。

これは神津島の観光パンフレットには必ず出てくる島の名所で、わざわざ島の北部へやって来る観光客のほとんどが目的地とする場所でもある。
しかし、パンフレットの写真は当然晴れている夏の日に撮影している。
対して、重い雨に沈んだ今日のそれは少しも楽しげに見えなかったが、私は… 私は……

気付いたときにはもう遊んでいたッッ。


……そして、たっぷり20分後。




7:30 《現在地》

やっとトンネル(本題)に戻って来た。

で、変なのは赤沢遊歩道ばかりでなく、このトンネルもそうである。

売店らしき建物裏の狭っこいところに、立派なトンネルの扁額が見える…。



まぎらわしいよ〜。

建物の裏に塞がれた旧トンネルか、歩道用トンネルでもあったのかと思ったぜ。

これはオブローダーでなくたって、そう思うハズ?

でも、結論から言うとそういう事実はなく、単にブラインドカーブの先にあってドライバーから見えにくい赤崎トンネルの扁額をよく見せようという、あまり感心しない露出欲のなせる業であった。
神津島では錆崎トンネルに次いで2番目に誕生したトンネルということで、この頃までは、島民自慢のトンネルという意識が強く働いていたのかも知れない。
或いは工事中、坑門に何らかの設計変更があって、別に用意した扁額を取り付ける余地が無くなった為に、仕方なくここに取り付けたのかも知れない。

どっちにせよ、紛らわしいオブジェ………変だ。




赤崎トンネルそのものには扁額が取り付けられていないが、工事銘板が有った。

曰わく、このトンネルの完成は平成4年11月で、ここに来る途中通った錆崎トンネルの8ヶ月遅れであったが、注目したいのは外見は大きく異なるこれらのトンネルの施工者が全く同じであったことだ。

これら2本のトンネルの施工者は「佐藤工業・大洋建設共同企業体」と表示されており、彼らが元来トンネルの建設は難しいと言われていた火山島である神津島に、平成に入ってから続々とトンネルを誕生させてきた。

そして最初の錆崎トンネルは集落に近い所にあるにもかかわらず長さも幅も控えめだったが、この2本目は僻地でありながら2車線フルスペックの幅員を持つ、本土にあっても見劣りのない立派なトンネルとなった。
これは私の勝手な想像だが、この島でのトンネル工事に手慣れてきたんだろうなという気がした。
またネットで検索した限り、佐藤工業は本土の会社であるものの、大洋建設は地元神津島村の企業のようだ。

そしてもう一つ銘板から分かったのは、これらのトンネルの発注者がいずれも神津島村であったことだ。
錆崎トンネルは明らかに村道上にあったので納得だが、地図によっては都道らしく描かれているこの赤崎トンネルもまた、発注者は村であった。村の事業で建設されたものだった。

この辺り、神津島村のトンネルに対する積極性は、都道の改築や災害復旧によってのみトンネルを誕生させて来た新島村の比ではないかも知れない。
都の事業で作られるトンネルには長さも規模も遠く及ばないが、神津島村も負けじと土木事業の拡大に真剣に取り組んできたということが感じられた。

そして、そこでちょっとばかり頑張りすぎた結果……。




長々と銘板で語ってしまったが、それも雨を避けられる屋根のあればこそ。
今日は雨が強いけれど、海洋性気候のおかげか、4月というのに外気が冷えていないのは救いだった。
しかしトンネルの中だけは肌寒くて、濡れるのは避けれても寒いという、そんなジレンマがあった。

寒くなりながら、赤崎トンネルを突破する。




7:36 《現在地》

現地では都道なのか村道なのかはっきりしない道であったが、その作りは立派そのものである。

これはある1本の道路を時間をかけて集落の傍から作っていくとき、建設の年代が新しくなるほど道路の規格が良くなる一方で、現場は交通量がより少ない僻遠の土地へ遠ざかっていくということが起きる。
その需要と規格の逆行現象を、この道にも感じた。

この先はもう間もなく…
地図の上ではたった500mばかりで行き止まりのハズなのに、未だ、なにひとつとして終点や通行止めを予告する標示物は現れていない。

普通にこのまま島を一周出来るのではないかと錯覚するほど、この道は高規格であった。

そして間もなく、運命の2本目(錆崎トンネルを含めれば3本目)のトンネルが見えてくる。




あった…。


坑門は普通に完成しているっぽい……。

地図だと、道はトンネルを出た先には少しも存在しないようだったが、

このままトンネルに入っちゃうの?! オイオイ大丈夫 か?




否!
すんでのところで、超唐突な封鎖が出現!!


固定されたゲートの先で工事が行われている気配はなく、
これでトンネルが現状、未成道ということがほぼ確定した。

…地図から怪しさが漂っていたが、やっぱりここ未成道だったのな。


なお、写真右に写っている観音像は、平成18年10月に神津島近海で7名が
犠牲(2名死亡5名行方不明)となった第3明好丸転覆事故の慰霊碑であった。
現在のところ、この慰霊碑が赤崎トンネル以北の区間への唯一の交通需要である。


真っ暗だよ…。


でも、風は通ってる。