道路レポート 宮古市道 沼の浜青の滝線 第2回

所在地 岩手県宮古市
探索日 2020.03.26
公開日 2020.04.28

マージナルトンネル 第二沼の浜隧道


2020/3/26 15:48 《現在地》

起点から約700m、全線のおおよそ3分の1を早くも走り終えた。
ここまでの所要時間はわずか8分。それも写真撮影のために相当足を止めまくって、この時間だ。
それは、ここまでの道が真っ当だったからである。

2本目のトンネルを前にして、道は唐突に「廃」を迎えた。
しかも、その始まり方が、インパクト大だった。
無造作に、橋がない――のである。

この状況なら、自動的に旧道は進行不能なので、わざわざ「通行止め」の看板や標識を設置する必要もないという判断かも知れないが、それでもここが交通量の多い道だったら、ガードレールやデリニエータは設置しただろうと思う。
夜間とか、うっかりするとマジで直進し、そのまま橋がない川へドボンもあり得る状況だ。



17年前には何気なく渡った橋だが、当時は一々銘板を撮影していなかったので、今となっては名前も分からない。
そして、橋がなくなっている理由だが、大方の皆さまのご想像通りであろう。

きっと、橋桁は津波に押し流されたのだ。

そしてそのまま、復旧されなかった。

たまに洪水とかでも橋桁が押し流されることがあるが、木橋が瓦解してしまう場合を除けば、多くは落橋するだけで、水が引けば近くに残骸を見つけることが出来る。
しかし、この周囲にそれらしい橋桁の残骸は見当たらなかった。
Google Earthで津波3日後の航空写真を見てみたが、やはり橋桁の行方は不明である。

コンクリート桁はこの橋の規模でも数十トンはあるだろうから、そんなものがどこか見えないところまで移動したとしたら、津波の破壊力の凄まじさは洪水を上回るということになろう。
引き波で海中まで連れて行かれてしまったのか…。
近くの砂浜や沼地に埋没している可能性もあるが…。



それにしても、こうして震災によって破壊された道路が、“震災遺構”として保存されているわけでもなく、一応は利用を再開された市道の真横に横たわっている状況というのは、なんともいえない怖さがあった。

なんとなく、震災復興というのは、遺構として保存する以外の被害物は全て直すか更地にするかして消滅させてしまい、「見えるところに廃な物が放置される」ようなことがないというイメージを持っていたし、実際もほとんどはそうして進められていると思うのだが(心情的にも、犠牲が出た集落周辺などでは、そうする方が良いはずだ)、この沿道では、まだそうなっていない。

おそらくこれは、この沿道に復興すべき集落がなかったうえに、田畑や海水浴場についても当分は復興させない方針であるようで、そのため沿道の土地の利用度が極端に低いままになっていて、荒廃を覆い隠すほどの新たな開発が行なわれていないからだろう。
震災からの9年という月日は決して短いものではないが、未だにこうした状況であるというのは、人口が集中する市街地の復興が大優先であり、辺境の海岸までは未だ手が回りきっていないのだろうなと感じた。



隣にある橋は、健在だった。

こちらの橋も銘板がなく名称不明だが、震災以前からあった橋だ。
本来は岡を上って乙部野(おとべの)集落から国道45号へ通じていた市道だが、現在は沼の浜青の滝線に組み込まれている。

すぐ隣にある橋が流失を免れた最大の理由は、構造の違いによると思われる。
こちらの橋は、浮き上がるような桁橋ではなく、橋台と橋桁が一体化したラーメン構造だった。ボックスカルバートに近い。津波を想定しての構造だったかは不明だが、功を奏している。
石垣を模した意匠が施されているのは、かつて周囲が公園だった時代の名残であろう。

なお、左端部分を除いて、欄干は全て新品に交換されていた。
また、橋の袂の一部路盤が流失していたが、これが津波の被害かは分からない。



前進再開。

インパクト大な失われた橋の迂回だが、難しくない。
私は下流側から迂回した。
そこでは分厚い砂丘が河口をせき止めており、いわゆる尻無川になっているので、水に浸からず迂回が可能だ。
(この川の水は、伏流によってのみ、海に脱出しているらしい)

問題は、ここから先の行程に自転車を持ち込むかどうかだった。
車道には出来るだけ車両をもって臨みたいという理念と、前回は問題なく通れた道なのだから今回も自転車でという予断は、持ち込みを肯定していたが、荒れているだろう廃道を自転車で行くことの危険さと、終点まで行った後でどうやってスタート地点へ戻るかというところに、不安があった。
この先の廃道を苦労して越えたとして、同じ廃道をもう一度自転車同伴で戻ってくるのは嫌だったから、出来れば帰りは付け替えられた市道を使いたかったが、既に開通しているかどうかは不明だった。

悩んだが、結局は、自転車同伴で行くことにした。
その方が、自分にとってこの探索の印象がより深まりそうだった。安全は大事だが、気持ちを枯らさないためには、スリルも大事だ。



途絶を乗り越え、廃道区間に足を踏み入れた。
目の前には、ぽっかりと口を開けた2本目のトンネル。
わざわざ渡るまでもなく、貫通は確かめられていたが、これでようやく触れて確かめることが出来る。

この坑門には、外見上の大きな特徴がある。
なぜか坑門に開いている穴の大きさと、奥に通じる坑道の大きさが合っておらず、段差のようになっている。
何かのトラブルではなく、単に意匠として行なったとすると、非常に珍しいデザインだと思う。

扁額によると、名称は「第二沼の浜隧道」という。
『平成16年度道路施設現況調査』に掲載された主要スペックは以下の通り。

名称: 第二沼の浜トンネル
 竣功:昭和43(1968)年 全長:50m 全幅:5.1m 限界高:3.8m
『平成16年度道路施設現況調査』より


「沼の浜トンネル」と比較すると、竣功年は1年後れ、全長はほぼ一緒、しかし断面サイズはなぜかこちらが90cm狭い。
同じ道に隣接してあるのに微妙に規格が違うが、坑門の奇妙な段差を見るに、建設途中で工費削減のため断面を一回り小さくしたなんてことがあったりして…。

この写真は、17年前のもの。
坑門の謎の段差は当時からだったが、今はない看板が3枚、坑口脇に設置されていたのが分かる。

うち2枚には「落石注意」と書いてあったが、敢えて道路標識ではなく、なんか関所にでもありそうな手書きの立て札というところが、ローカル感満載だった。
しかし、落石はトンネル内で起きるものではないから、トンネルを抜けた先の道が険しかったことを物語っていた。
もう1枚の大きな看板も時代錯誤的で、「告」と大書きされた注意看板だが、残念ながら内容の記録はない。




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全天球画像。

トンネルが廃道の入口になっているのは、とてもドキドキする大好きなシチュエーション。

いざ参らん!



すごいな……。 凄まじい……。

今さらだが、津波の恐ろしさを感じる。

土石流にでも呑み込まれたかと思うような膨大な土砂が、
全長50mの洞内全体に堆積していて、洞床を完全に覆い隠していた。
もともとは平坦なトンネルだったはずだが、先へ進む程天井が低い。
すなわち、堆積物の勾配が出来ている。どういう津波の作用で、
この勾配が出来たかは分からないが、何度も何度も両側から越流を受けたはずだ。
うち数回は、天井よりも高い波で、完全に水没したと見られる。
このなだらかな堆積は、水中で形作られたものかもしれない。



洞床を覆う堆積物の嵩は、出口へ近づく頃には1mを越えていた。
9年も経つのに、一度も復旧されないまま、放置されているらしい。

トンネル自体に大きな故障はなく、重機による排土がなされれば、機能を復活できるのに、
その搬入路にある直前の橋が落ちていた。せっかくトンネルは津波に耐えたのに、勿体ない気もした。
だが、橋が落ちていなかったとしても、この道の復活は難しかったのかもしれない。
……そう実感させられるような状況が、この先には待ち受けていた。

境界の存在、第二沼の浜隧道を通過!



15:54 《現在地》

破壊された世界が、取り残されていた。

橋の流出から始まっていた荒廃は、瓦礫が堆積したトンネルを抜け、

崖下の海岸線にただ独り立つようになると、その凶悪な本性を完全に顕した。

テレビモニター越しで見た恐怖の情景のままで時が止まったような道が、目の前に横たわっていた。

幸い、今日の波は穏やかで、壊れた路上へ襲い来る様子はない。前進は許されている。




9年ぶりに刻まれたかもしれない轍もえらく頼りなさげな、第二沼の浜隧道の北口。
南口に見られた特徴的な段差がなく、至って平凡なツライチの坑門である。



17年前の写真と比較してみると、一見無事に見える坑口にも、津波の影響が及んでいることが分かった。
まず、当時存在していた扁額が失われていることに気付く。
おそらく津波に持ち去られたのだ。

これだけでも、トンネルの天井より上部まで波が上がった証明といえるが、さらなる恐るべき変化が、坑門上に乗っている落石防止柵に起きていた。
柵の支柱が、様々な方向に折れ曲がっている。
これは通常の落石や土砂崩れによる破壊とは考えられず、路面からおおよそ6m、海面からならば10mも高い所まで、強靱なH鋼をへし曲げるほどの破壊力をもった波が、衝撃したことを暗示していた。

恐るべき破壊の痕跡を留めた坑口を背に、1.5km先の青野滝漁港を目指して前進再開!



行く手に連なる、険しい海岸線。
その中で目立つ3本目のトンネルが、進むべき道の確かな名残としての安心感を与えてくれたが、そこへ辿り着く道のりに不安がある。特に、自転車がどういう役を果たすかが、大きな不安材料だった。

この先の沿道の地形は険しく、高さ50m前後の崖下をゆく。
沿道に人が生活できるような平地はほとんどなく、ただ道だけが、崖と波の隙間に続いている。
三陸海岸には、こうした険しい崖は珍しくないが、その下を通る道は、意外に少ない。
特に幹線道路はこういう所を避けており、一般的に三陸のドライブ風景は、高い崖の上から見晴らすものだと印象づけられているはずだ。この市道は、広大な三陸海岸でも稀少なドライブコースであったと思う。

しかし、歴史のある幹線道路がこうした立地を避けたことには、当然ながら理由がある。
激しい波浪と落石に晒されるリスクの大きさに加えて、数十年に一度の頻度で起こる大津波により徹底的に破壊されてしまうという問題があった。
近代以降でも、明治29(1896)年、昭和8(1933)年、平成23(2011)年に、三陸大津波が起こっている。
さらに、そんな災害時に通行人の逃げ場がないことも、現代の幹線道路には許されないリスクだろう。
現に私も、探索中に津波が起きたら危険な状況に陥ることを意識していたが、確率は低いので決行している。



どことなく空母の甲板を思わせるような、防波堤と一体となったコンクリート路盤をひとしきり進んだが、呆気なく、路盤が完全に流出している現場に突き当たった!

数メートルではなく、数十メートルは、流出していた。
写真奥に見える大きなコブのような岩のところから、路盤が復活している。
この間、完全に道が無くなっていて、自然の波打ち際を歩く必要があった。

自然に還ったこの土地で、左の崖の下まで波が上がることは珍しくないようだ。
浜辺に流木のような漂着物がほとんどないことからも、高波が頻繁に洗っているのだと分かる。

だから、この日、ここを通過できるかどうかというのは、私の技術の問題ではなく、時の運でしかなかったと思う。




幸い、私の探索中の幸運値は、255。

自転車で浜辺へ漕ぎ出し…… いや、 “押し”出した。



ザ サ ー

ザ サ ー

ザ サ ー

あの日、夜闇の中で聞いた砂浜の音が、再び私を包み込んだ。

道は海へと復り、あの日の走行を反復しようとする私は、端から見れば、砂浜に自転車を押す呆け者になった。

もう二度と、ここに道が造られる日は来ない。 最後に自転車を連れて来たのは、おそらく正解だった。

楽という意味では、もちろん自転車は邪魔だったけど…、レクイエムをね……。




重津部沢の寂寞砂丘


2020/3/26 15:58 《現在地》

現在地は起点から約1km、廃道区間に入って約300mの位置である。

周囲の状況は、小さな灯り一つで走り抜けられた17年前とは一変していた。
路面は根底…土木用語で言うところの基礎に至るまで完全に流出し、破壊され、道が建設される以前と同じ天然の砂浜や岩場が現われていた。

写真は、道が完全流出した砂浜から見る、路盤の断面だ。
道は、岩場を削ったり、埋立てたりしながら、平坦に造られていたが、現状では埋立て部分の大半が失われ、硬い岩盤を削って施工されていた部分だけが、断続的に原形を留めている状況だった。

レポートの冒頭で紹介した「工事概要」によれば、当初はこれを復旧させる計画で調査を始めたらしい。
しかし、「現道の復旧工事は波浪の影響を受けやすいため施工が非常に困難である」などの理由から、迂回バイパスによる復旧が決定されたのだった。
調査の過程で、工事関係者はここを歩いただろう。その上で、復旧は困難だと判断した。素人目にも、ここでの復旧は、道を一から作るのと大差ない工事量になることが想像できた。トンネルだけは再利用できそうだったが…。



道が完全になくなってしまった場所がある一方で、このように立派な舗装路がよく原形を止めている場所もある。
17年前の探索でも、このカーブした長い駒止工の印象があり、写真も撮っていた。

地形図では点線さえも描かれなくなっているが、実質的には点々と道の痕跡があるために、歩行者ならば楽しい海岸散策が出来る状況だ。
しかし、ここが遊歩道として再開されることも、おそらくないだろうという気がする。
崩れた道や廃れた道、こういう敗北的なものがある場所を、行政は積極的に公開したがらないだろう。
例外は、産業遺産だが、この道は歴史が浅く、それも難しい。



重さ10トンはありそうな軽トラックサイズの巨岩が、路上に鎮座していた。
その重量に耐えかねて、周囲の路面が陥没してしまっている。

巨石が、海から上がってきたものなのか、山から落ちてきたものなのかはっきりしないが、前者だと言われた方が驚愕の度合いは大きい。
そしてその可能性は十分にある。大岩の海側にあるコンクリートの駒止が、根こそぎ失われていたのだ。

津波で陸上に運ばれた岩石を津波石と呼ぶが、東日本大震災でも津波石の報告が多数あり、田老地区の摂待川では、河口から470mの地点に推定重量140トンもの巨石が運ばれている。





……しかし、“この程度”の巨石に驚いていた自分の甘さを、

思い知らされるような風景が……




めちゃくちゃだ…。

人工物も、それ以外も、何もかもが、混ぜこぜになっていた。
しかし意外にも、“板チョコ状態”となった路面の多くが、この場所に残って散乱していた。
これらは自転車を押し進むことの役に立ち、とてもありがたかった。

一度はばらばらになって浮き上がったはずの路面が、遠くへ流失せず残ったものが多いのは、
ここがまさに崖下であり、津波は横ではなく、上下に最大のエネルギー発散をしたからと想像する。
もしそうでなければ、沼の浜の失われた橋のように、残骸は遠くへ運び去られてしまっただろう。

道を破壊し尽くした暴力の中にも、幾ばくかの秩序はあり、
残骸にその痕跡があるということが学習される。
もっとも、私がそれを知っても、世の役に立つことは出来ないが。



松ノ木峠で大騒ぎしていた頃の私だったら、この破壊の光景を
小躍りして喜んだかもしれないが、今日は静かに体験している。

これは、大勢の犠牲者が出た災害の痕跡だから、不謹慎だから、自重しているのではなく、
この道を取り巻く景色がとても綺麗で、その享受場である道も、きっと愛されていたと思うと、
不条理な目に遭ったことが可哀想に思われ、あまり大騒ぎする気にならなかった。

シビアに考えれば、この立地に造られた道は、遅かれ早かれ、
次回の三陸大津波で破壊される定めだった。
それがいつ来るかは、運でしかなかったのだ。



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

ここから100mほどの道路状況(もはや道路ではないが)は極めて悪く、磯歩き同然だった。

自転車は担いだり押したりの繰り返しで、全く乗車することなく、ただ運ばれねばならなかった。



頭上には、無意味の存在と化した膨大な落石防止ネットが蔓延っていて、人類の敗走を物語り…。

ひとしきり自転車を運び終えた私の前に、次なる場面が――




16:04 《現在地》

ここは、重津部沢(おもつべさわ)

もし、前方にトンネルが見えていなければ、あなたはこう思うだろう。

「手つかずな綺麗な入り江だね」 と。


ここに道があった。




来た道を振り返って撮影した。
沼の浜側のトンネルのような分かり易い目印がないので、古い地図でここに道があったことを確信しているとかでもない限り、人が間違って入り込むことはなさそう。外見上は、ほとんど道があったようには見えない。

落石防止ネットはことごとく地面から離れているが、これは固定する部分が流失しているせいだ。
ネット全体が津波で浮き上がるような感じになって、引きちぎられたのだろうか。非常に強く固定されているはずなのに、根こそぎである。



重津部沢の河口にあるここの浜は狭く、沼の浜のように開発されたこともなかったようようだ。
狭さゆえ、津波の高さも際立ったことだろう。山肌の立ち木の枯死は、海面から20mから30mくらいまで及んでいるように見えた。

ここにもかつて分岐があり、直進すれば岡の上の重津部集落を経て、国道45号へ抜けることが出来た。
現在、その一部は市道沼の浜青の滝線の新道に組み込まれており、ここからもその真新しいガードレールが見えた。

人も道も津波を恐れ、この美しかった浜へ、二度と降りてくる意欲をなくしてしまった。
そんなことを想像させる、淋しい風景だった。




旧道は、右へ!

そんな力強い宣言も、実態の道がないと虚しいが、それでも私に道は見えた。

飛石のように点在するコンクリート板を乗り継いで、重津部浜の横断を目指す!





これには、映画「猿の惑星」の有名なシーンを連想した人もいるだろう。

砂に埋れた、道路の遺跡。

遠い将来、本当に遺跡化しそうな、エモい風景だ。

かつて、ここには重津部沢を渡る小さな橋が架かっていた。
砂浜にポツンと孤立している橋脚のようなものは、築堤の突端であり、
足元から伸びている築堤があそこまで通じていたが、今は途中で終わっている。



そして、次にご覧いただく写真は……




読者のKAZE氏(@KAZE)が、平成19(2007)年9月に撮影された、この場所だ。

チェンジ後の画像(今回撮影)と比較すると、トンネルがある岬のどの高さまで波が上がったのかが、よく分かる。

一般に津波の高さが増幅されるのは内湾部とされるが、やや突出した岬でも(確かにその周囲は湾だが)、
凄まじい高さまで波に洗い流されていた。地形図から読み取れる岬の高さは、先端の最も高い所で
30mを少し越えるくらいである。つまり、津波は25mの高さでも、樹木を押し流す程の破壊力を持っていた。
海食崖の高さは50mほどなので、その実に中間くらいまで、一瞬で波が押し上がったことになり、
むしろ、隧道が原形を留めていられたのが不思議なくらいなのである。


しかし私は津波研究者ではないので、もっと気になるのが、道路の話だ。

KAZE氏は、この道の輝ける活躍のシーンを、すばらしい映像として残してくれたので、合わせて紹介したい。



紺碧と翠緑が織りなす北三陸の海岸線を、色鮮やかなオールドカーたちが疾駆する場面がある。(1:31〜)

この道、2007年9月8日と9日に開催された「ツール・ド・みちのく 2007」のコースになっていた。

以降毎年開催(2011〜2013、2020を除く)となった東北最大級カーイベントのコースに抜擢された栄誉の理由(わけ)は、
この道が幹線から外れていたことも有利に働いたかも知れないが、何より、三陸地方でもなかなか得がたい、
絶壁下の海面すれすれをすり駆け抜けていくという、美しく、スリリングな車窓が、愛されていたからだと思う。

私は夜しか見たことなかった、つまり、
風景を見たことがなかったわけだけど、こんなに綺麗な所だったんだな…。


寂寞の砂丘を越えて、いよいよ最後のステージへ。