道路レポート みなかみ町小川島の未成軍用道路跡 第1回

所在地 群馬県みなかみ町
探索日 2021.01.21
公開日 2021.02.18

《周辺図(マピオン)》

私は2019年12月に約13年間暮らした東京を離れ故郷の秋田へ戻ったが、それから約1年ぶりに関東の地を踏んだ。もちろん目的は探索(とトークイベント)。そんな久々の“関東遠征”における重要な探索地が、群馬県みなかみ町下津の小川島(おがわじま)にあった。

小川島地区は、みなかみ町南部の利根川右岸低地を占めている。
すぐ近くを国道17号が通じているが、私はいつも素通りするばかりだった。
実際、この地名で検索すると、「小川島歌舞伎舞台」というのが真っ先に出てくるような、農村芸能が今なお息づく長閑な土地だが、ここに戦時中の軍用道路の未成道があるかもしれないと知っては、もう素通りというわけにはいかなくなった。

私の中で小川島が急浮上したきっかけとなった情報は、読者のpop氏からお寄せいただいた。
彼がご祖母宅で読んだ『月夜野町史』(平成17年まで小川島一帯は月夜野町に属していた)に、小川島と沼田市上川田地区の間に、軍用道路の未成道があると推定しうる記述があると教えて下さったのだ。



急ぎ、同書を手配して確認したところ、「第5章 交通・通信」の「農免農道小川島沼田線」の項に、果たして次のような記述があった。

役場庁舎の西方、利根、赤谷の両川を挟んで指呼の間に位置する小川島部落は、名胡桃台地の裾に位置し、北は小袖の岩壁が、南は竜ヶ渕がそれぞれ、赤谷川、利根川に迫って人を寄せず、加えて古い時代から赤谷川の氾濫におののくなど、恵まれない生活を余儀なくされていたのである。(中略)
昭和12年5月関口橋が架けられて、この不便さから脱却することはできたが、今度は洪水の度に橋は流失、或いは破損し、橋との戦いが続けられていた。
昭和19年、上川田の孫目河原に、旧陸軍の地下工場が建設されることになり、軍用道路として関口橋以南が拡幅改良され、竜ヶ渕まで到達、その先はトンネルによって進められギョーニン渕ぎわまで掘り進んだところで敗戦となって工事は中止され、今はその形骸を残すのみとなっている。

『月夜野町史』より

うおーーー!!!

完璧すぎる未成道情報じゃないか!

町史に地図は掲載されておらず、文中に登場する名胡桃台地、小袖の岩壁、竜ヶ渕、ギョーニン渕などの地名の地図上へのプロットは、いずれも推測に拠った。しかし文章との符号から、大きく間違ってはいないと思う。
この町史が語るところをまとめると、小川島から沼田市上川田地区まで、利根川右岸に沿って軍用道路が計画され、昭和19年から工事が進められたばかりか、竜ヶ渕付近にはトンネルも建設されていた。しかし、終戦により工事は中止され、今もその形骸を残しているというのだ。
隧道ありの未成軍用道路とか、私の好みすぎるだろ!!

町史にこれ以外の記述は見つからなかったが、探しに行くきっかけとしては十分すぎる内容だった。
しかし、町史の発行年は昭和61(1986)年であるから、それから既に30年あまりが経過していることになる。
現在も引き続き、戦時中の遺構が“形骸を残している”かどうかということが、探索の最大の焦点となると思うが、これについても現地調査に期待を持たせる次のような事前机上調査の成果があった。

右図は、昭和23(1948)年に撮影された航空写真である。
終戦間もない時期の写真にならば、未成に終わった軍用道路の痕跡も写っているのではないかという期待を持って調べたのだが、

写ってる! めっちゃ写ってるよこれ!

後で現在の航空写真との比較も掲載するが、この写真の小川島付近に鮮明に見える直線的なラインこそが、探している未成軍用道路の跡ではないのか?!

この疑惑のラインは小川島を南下し、そのまま名胡桃台地が利根川へ落ち込む崖地に突入すると、そこにも鮮明なラインを引きながら、再び川べりに平地が現われる大平地区へ接近していくように見えていた。
もっとよく見せてくれ!!




左図は、名胡桃台地の利根川べりを拡大した画像だ。

川べりのラインには途中で途切れているように見える部分があり、そこに隧道が建設された(されようとしていた?)のではないかと思われた。
すなわち、この場所こそが町史のいう「竜ヶ渕」と推測された。

そして、このラインは最後、「竜ヶ渕」から400mほど南下した崖地で、唐突に途絶えているように見えた。
その場所こそが、町史のいう「ギョーニン渕」(行人渕)と推測されたのである。



このように、1枚の航空写真のおかげで、探索すべき場所が非常に明確になった。中でも、最も重要な遺構とみられる隧道を探すべき場所を、かなり狭い範囲に絞ることが出来た。

その後の航空写真上の変化も確認した。
右図は、昭和50(1975)年と令和元(2019)年の航空写真の比較である。

前者では、二つの矢印の位置に、昭和23年の航空写真と同じ直線のラインが、やや薄れている感じはするものの、しっかり見えている。
しかし、川べりの崖地に入ると、樹木が成長したせいだろうが、ラインはほとんど確認できなくなっている。

そして、「現在」を撮した後者の写真では、小川島集落内の軍用道路の跡地利用は、綺麗に二分されていることが分かる。
北側半分は舗装された道路として活用される一方、南側半分は完全に消滅してしまったように見える。おそらく耕地整理が行われたのだろう。
そしてもう一つ注目すべき大きな変化が起きており、ちょうど軍用道路の隧道が擬定される尾根の上に、国道17号の月夜野バイパスに架かる月夜野大橋が出現しているのである。

この大規模な道路開発の影響は懸念されるものの、橋より南側の河畔部については、戦後を通じて新たな開発を受け入れた気配がなく、未成道の形骸がいまも残っている可能性は大きいと期待された。


なお、事前調査は旧版地形図についても行った。
右図は昭和21(1946)年版の地形図である。

だが、未成道ということを裏付けるように、航空写真ではあれだけ鮮明に見えていた小川島の直線ラインも、道路としては全く反映されていなかった。
そして、その先の隧道擬定地や川べりの道も、描かれてはいなかった。

私は以上のような事前情報を元にして、現地探索へ赴いた。
予定した探索範囲は、小川島集落から未成道の終点までで、この道路が目的地としていた沼田市上川田地区の地下工場跡については、時間の都合などもあり探索の対象とはしなかった。
こちらについては探索されている方があり、「か〜み〜の地球が遊び場!!」などに優れた記事があるので参考にされたい。

今回、未成軍用道路の遺構の発見が十分に期待できるという、恵まれた状況だが、なんといっても最大の期待は、隧道の現存だった。


いざ、出撃!




小川島地区に残る軍用道路の痕跡


2021/1/21 11:38 《現在地》

今回はこの場所、みなかみ町下津の関口橋前の十字路から、探索に出発する。
ちょうど小川島集落の北外れにあたるところで、ここから正面の道を進むと小川島集落に入る。
また、ここにある関口橋の名前も、事前調査で読んだ『月夜野町史』に、崖と川に四方を囲まれた小川島集落を立地の不遇から最初に救った存在として、登場していた。
初代の橋は昭和12年に架せられたそうだが、現在の橋は少なくとも3世代目のもので、まだ新しい。赤谷川を渡る橋の向こうは月夜野地区で、旧町時代の中心地だった。

それでは、いつものように自転車に跨がって、軍用道路跡の探索へ出発。




何の変哲もない、いたって普通の道だ。
道の名前を知る手掛かりは現地になかったが、みなかみ町地図情報によれば、この道はみなかみ町の1級町道上津下津線というようだ。みなかみ町の町道は1級・2級・一般の3グレードからなっているから、町道としては最高位の重要路線である。

初めて訪れる場所だから、風景の観察にも余念はない。
道に沿ってやや大きな用水路があり、その向こう側に小川島集落の北端部の家並みが連なっている。その背後の高台は名胡桃台地と呼ばれていて、その上面にある新田や内野といった集落との間には70mほどの落差がある。それがそのまま国道17号との落差でもある。



11:41 《現在地》

関口橋からちょうど500mの地点で、道は二手に分かれていた。
この場所こそが、軍用道路の入口だった。
左の道が、元軍用道路だ。
しかし、その物々しい出自を窺わせるようなアイテムは何もない。
見ただけでは何の特殊性も感じられない、しかし特殊な出自を隠し持った道が、すっかり景色に溶け込んでいるところには、マニアとしての「知る人ぞ知る」をくすぐられるような、グッと来る感じがあった。

右が集落内を通る古くからの生活道路で、それに対するバイパスとして整備されたのが左の道だろうということが、自然と感じられる風景だ。
こうした集落迂回のバイパス整備は、一般的には、高度経済成長期の急激なモータリゼーションの中で起きたことだから、ここでもそういう時代を想像するのが自然だが、今回に関しては当らない。
左の道は、昭和19年に建設された軍用道路であった。
整備の目的が集落回避にあったことは現代のバイパス整備と同じだろうが、時代が違っていた。


前説でも見てもらったが、昭和23年の航空写真を改めて見て欲しい。
町史の文中に見つけた軍用道路を、この航空写真上にも見つけたときの興奮は、私の中に深く刻まれている。
これより古い航空写真がないために、戦前はなかった道が忽然と登場したという紹介は出来ないが、戦前の地形図には影も形もない道が登場しているのである。
これこそが町史の軍用道路だということは、すぐに分かった。




分岐地点を旧道側から振り返って撮影した。
背後の白い山脈の存在感がもの凄く、真っ先に説明しなければならない観念に襲われるが、一番高いところは谷川岳で、全体としては上越国境の越後山脈だ。
航空写真を見較べてみると、道の周りの家や田畑はだいぶ変化しているが、山の眺めだけは変わっていないだろう。




旧軍用道路の区間に入った。

赤谷川と利根川の合流地点に広がる元氾濫原の平地を貫いており、道は極めて直線的だ。
集落の外で視界を遮るものがないので、とても見通しが良い。そのため、隧道擬定地に突出する尾根がよく見えた。
地図や航空写真に拠れば、入口から約500m先までは、今も1級町道上津下津線の一部となって活躍している。
そこから先は、現行の地図や航空写真から完全に抹消されてしまっているので、
おそらくここは一連の軍用道路の中で唯一、日の目を見た区間ということになろう。

なお、後で集落内の旧道も通過したが(【写真】)、そちらは案の上、昔ながらの曲がりくねった狭路だった。



隧道擬定地に突出する尾根の望遠風景。左背景は赤城山。

名胡桃台地の末端が利根川に落ち込む急崖を作っている。
現在の道路は、この町道上津下津線も、写真の中で圧倒的な存在感を見せている国道17号も、全て、
この台地への上り下りを甘んじて受け入れているが、ひとり軍用道路だけはそれを許さず、
この低位置を保ったまま急崖を通過し、下流の低地である大平や孫目河原を目指そうとしていた。

これは町史や航空写真からの予想だが、軍用道路の隧道は、急崖の入口辺りにあったと思う。
竜ヶ渕と呼ばれていた場所で、ちょうどそれは今の国道17号月夜野大橋の直下ではなかったろうか。
そしてここから見る限り、橋は思いのほか高く上空を跨いでいて、地上への影響は少なさうだ。
橋の建設の影響で隧道が失われたというパターンは、回避できているかも知れない。
私の期待は高まった。



11:44 《現在地》

分岐から500m地点で、それまで直線だった道が唐突に右へ折れる。
だからなんだと言われれば、それまでの風景。
どこにでもありそうなカーブだが、今の私にとっては特別な場面だった。

軍用道路は、このまままっすぐ伸びていた。
そして、奥に見える岬のような地形に突き刺さっていったのだ。
この先は識る者だけが往く道となる、分岐はここ。




昭和23年の航空写真を見ると、この通り、道はどこまでもまっすぐ伸びている。
だが、このすぐ先には小さな扇状地を作る川が横たわっていて……、よく見ると、橋が架かっていない!

橋の前後ともくっきりと道形が写っているのに、橋だけが見当たらないのはどうにも奇妙な光景で、軍用道路が終戦のため未成に終わったことを物語っているのだと思う。
両岸とも橋台の建設までは進んでいそうな雰囲気だったが…。

そしてこの未成軍用道路の跡は、終戦から30年が経った昭和50年の航空写真でもはっきりと写っている。
ただし、道としてではなく、広大な水田を横切る奇妙な帯状の草地として。
昭和50年当時までは、いま走ってきた区間も含めて、小川島の軍用道路跡は全く活用されていなかったようだ。
それが半分だけとはいえ、現状のように町道として(それも1級町道)日の目を見たのは、どういう事情によるものだったのか。

その一端を垣間見せるアイテムが、ちょうどこのカーブに置かれていた。



「小川島土地改良総合整備事業 竣功記念碑 月夜野町長高橋芳平謹書」
このように刻まれた立派な石碑が、ちょうど軍用道路跡が町道として“復活”を遂げた区間の終端を示すように、立っていた。
裏側にもびっしりと碑文が刻まれていた。

「当地区は赤谷川と利根川の西側に位置し、昔から洪水による氾濫が繰り返されてその都度田畑への甚大な被害があり先代の身魂労苦は計り知れなかった。四百年余の伝統を持つ若宮八幡宮の「ヤッサ祭り」も水難避けに由縁がある。このことから、耕地は不整形にして表土は浅く、狭窄・屈曲した道水路は近代農業への大きな障害であった。」(以下略)

こういう不利な状況を打破すべく、旧月夜野町が事業主体となった土地基盤整備事業が昭和62年秋から平成3年まで行われ、一帯は13.5ヘクタールの整然たる美田へと生まれ変わったことが誇らしげに書かれていた。残念ながら軍用道路については一切触れられてはいなかったが、昭和50年と現在の航空写真を比較してみれば、この事業によって未成道跡の半分が町道となり、半分は水田となって消滅したことが容易に想像できるのである。




さて、ここからは軍用道路の“現役ではない部分”の探索となる。

とりあえず、この先にある小さな川を渡るところまでは、道らしいものが延びていた。
微かに轍があり、そこに見える墓場への通路や、作場道として利用されていたようだが、50mほど先で川の堤防にぶつ切りにされており、橋もないので、このまま先へ進むことは出来ない。また、この道っぽい部分は、いかなる町道の認定も受けていない。

とても地味で曖昧な風景であるが、結果的には、この僅か50mほどの区間は、小川島の平地内では唯一、軍用道路跡が土地改良以前の旧態を窺わせる形で残っている部分と言えそうだ。
ここ以外は、これまで見たとおり町道として改築されているか、この後見るように、耕地整理によって完全に跡形がなくなっているかのどちらかなので、旧態不明である。




堤防に突き当たる末端付近から振り返って撮影した。
今いる場所が、町道の長いストレートの延長線上に綺麗に収まっていることが分かるだろう。
元は一連の道であったことを強く示唆する風景だった。

また、ここには道に沿ってコンクリートで片側を抑えた少し深い側溝が残っているが、これももしかしたら戦時中に建設された排水路かも知れない。




11:55 《現在地》

おそらく一度も完成しなかった軍用道路の橋の代わりに川を渡っているのが、この湯舟沢橋だ。
軍用道路の架橋予定地点の約50m上流に架かる、町道上津下津線の短い橋で、欄干に取り付けられた銘板によると、竣功は平成元年で、河川名は橋名と同じ湯舟沢となっていた。もともとこの辺りに町道の橋が架かっていたと思うが、前述した土地改良事業の一環でいまある橋へ架け替えられたようである。




湯舟沢橋から眺める下流方向。

軍用道路は、左の建物が見える辺りからまっすぐ渡る計画だったはずだが、
残念ながら橋台を含め、いかなる橋の痕跡も残ってはいなかった。
そもそも、どの程度まで施工されていたかも分からないわけだが。

それに、歴代の航空写真を見較べると、昭和23年から50年までの間に湯舟沢の高い堤防が整備されており、
そればかりか、川の位置自体も微妙に動いているように思われるので、遺構は期待し得ない状況だった。



そして残念の連鎖というべきか、湯舟沢を渡った先の道路跡も、
先に見た航空写真からも分かる通りに、全く何も残っていないようだ。
土地改良によって旧来の不定形の地割りが整然としたものに改められ、
古い地割りに刻まれた“草地の帯”でしかなかった道路跡が残される道理はなかった。



湯舟沢前後の道路跡の位置を、画像上に再現した。
実線部分は痕跡があり、破線部分は推定位置である。

やや遠くの山裾に見えるのは、利根川対岸の後閑地区の街並みだ。
実は後閑のあの山にも、戦時中の地下工場が作られたという話がある。
沼田盆地の周辺は、我が国でも有数の海から遠い内陸の平野地ということで、
意外にも軍都としての性格を濃く持っていたことを、今回の探索まで私はまるで知らなかった。



11:57 《現在地》

湯舟沢橋を渡って100mほど町道を進むと、小川島集落の南の外れに写真の交差点がある。
普通はこのまま町道上津下津線を直進して国道17号に出たり、台地の上の滝合集落へ向かうのだと思うが、消えた軍用道路跡の続きへ行くためには、ここを左折する必要がある。

しかし、左折するといきなり、厳重な電気柵が通せんぼしている。
慣れていないとこれだけで怖じ気づく人もいると思うが、電気柵はあくまでも獣避けなので、人や車の通行を禁止するものではない。
実際、みなかみ町地図情報によれば、この先の道もちゃんと町道である(格付けとしては最も下の「一般町道」だが)。つまり公道なので、一般の通行が理由もなく禁止されることはない。

ということで、それなりに慣れた手つきでもって、5本の電気線のロックを解除して、通過した。それからまた元通りにする。一応自転車も持ち込むことにした。



電気柵を越えてから、またすぐ丁字路があるので、今度は右折する。
そうすると、広い田んぼの山際を行く道になる。

やはり見ても全く分からないが、写真の破線の位置辺りに、昭和23年や50年の航空写真では道路跡が写っていた。
そしてその消えてしまった軍用道路跡の直線がちょうど山に突き当たる辺りに私がいる山際の町道も向かっていき、最後は収斂しているようだ。

私は、何か目にはまるで見えない導きを感じているかのような確信めいた足取りで、何の変哲もなさ過ぎる田の奥へと近づいていった。
隧道があるかは正直五分五分だと思うが、軍用道路の工事跡自体は必ずこの先で出会えるものと思われた。




隧道を隠すには誂え向きと思える暗がりが、森によって作られていた。

そこは何度も走った二桁国道の軒下だったが、もしそんなところに“秘密”が眠っていたとしたら、

……これは楽しくて堪らないことになりそうだ。

さあ、見せてくれ! 真実を。