道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 導入

公開日 2022.06.26
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市


房総東往還とは、県都千葉と房総半島南部の要衝館山(北条)を外房海岸伝いに結ぶ道に対して、明治期に与えられた名である。
現在の国道128号の旧名にあたり、反対に江戸時代の古称を遡れば、伊南房州通往還などと呼ばれていた。

これまでも当サイトでは国道128号の旧道とされる道をいくつも紹介してきたが、代表的なものとして勝浦市の「おせんころがし」の旧道が挙げられると思う。
「おせんころがし」のレポートの冒頭で、房総東往還の来歴を簡単にまとめているので一度ご覧いただきたい。
そして、今回紹介する道もまた、房総東往還の一部として明治期に整備された「旧道」である。

この区間の正式な名前がまだ明らかでないので、仮称、“大風沢旧道”としておく。
大風沢は土地の名前で、「おおびそ」と呼ぶ。
しかもここは明治期から戦後まもない時期まで長く使われていた「おせんころがし」の旧道とは異なり、明治に誕生し、明治のうちに旧道になったとみられる“古き廃道”なのである。



@
明治16(1883)年
A
明治36(1903)年
B
地理院地図(現在)

その本当に“古い”ということは、普段の探索では利用しないような古い年代の地形図に頼ることからも伝わるだろう。

右図は新旧の3枚の地形図の比較であるが、一番古い@に注目して欲しい。これは明治13(1880)年から17年頃に描かれた迅速測図と呼ばれる、我が国の地形図の原点ともいえる古い版だ。まだ全国的な三角点測量網が整う前に、試作的な意味合いも含めて主に関東近郊のものが縮尺2万分の1で作成され、明治19年に完成している。ここに掲載したのはその中の1枚で、明治16(1883)年1月に測量された「千葉縣安房國長狭郡天津村及内浦村」という図の一部だ。

この“最古の地形図”に、大風沢旧道は描かれている。
“どのように”描かれているかは、次の拡大した地図で詳しく見るので、少しだけ待って欲しい。

で、この@から時代が少し進んだAの地形図は、いわゆる通常の5万分の1地形図の最も古いもので、明治36(1903)年測図版だ。
Aは大抵の探索だと「最も古い地形図」という扱いになると思うが、なんと大風沢旧道は早くも旧道化してしまったらしく、山越えの肝心な部分が、描かれていない!
……その代わりに海岸沿いにトンネルが掘られて、改良が進められている。

そして最後のBの地形図は、一気に時代が進みまくって現代の地理院地図である。
Aで登場したトンネル(実入隧道)は、最近旧道になったが、今も国道として健在である。
Aで早くも消えていた大風沢旧道については、当然のように描かれていないが、代わりに、近い位置にJR外房線の大風沢トンネルが描かれている。
この場所の外房線が最初に開業したのは昭和4(1929)年で、大風沢トンネルもその時に生まれた。

以上を短くまとめると、「大風沢旧道は明治16年の地形図に登場し、明治36年の地形図で早くも退場した」となる。



右図は先ほど掲載した@の迅速測図より、大風沢旧道がある辺りを拡大した図である。
実はこの道、この地図においても、
普通には描かれていない。

どういうことかというと、「新設縣道線」という注記と共に“点線”で表現されている。

この迅速測図の図式(凡例)は迅速図式と仮称されるが、そこにこのような“点線”の定義はなく、イレギュラーな表現だ。でも注記のおかげで、これが「工事中の道路」のようなものを描こうとしたことが分かる。

つまり大風沢旧道は、明治16年に作成された地図では「まだ工事中の新道」だったのに、明治36年には既に旧道(廃道?)になっていたということだ。何があったか知らないが、新道としては驚くほど短命だったことになる。

一方この迅速測図で、工事中の新道に対して県道の現道として描かれているのは、現在の国道がある海沿いのルートだ。
明治36年の地形図の県道は、この古い海岸ルートをベースに峠部分を隧道化したものであり、後に鉄道が通ることになる大風沢旧道の山越えルートは、道路としては継承されなかったようである。

ところで、これは探索者としては非常に重要なポイントになると思うのだが、この明治期に旧道化した大風沢旧道には、どうやら隧道が存在していた。
そう考える第一の根拠は、迅速測図に描かれたルートの形だ。
切り立った峠の尾根を隧道でなければ実現できないような直線的なルートで突破しているのが分かるだろう。
しかも、よく見ると、越えている尾根は2本あり、隧道も2本あったりして……と思わせる。
……まあ、こんなに古い地形図の「工事中の道」が、どれだけ正確なルートを描いているか疑わしいが……。

隧道が存在した第二の根拠は……これはもう根拠というか直接の証言というべきなのだが……、千葉県教育委員会が平成2(1990)年に発行した 『千葉県歴史の道調査報告書12 伊南房州通往還II』 にある、次のような記述である。

この先天津へ抜ける道は(中略)山を越える道と、一旦海岸に出て寄浦から山を越える道があった。線路に沿って小道を上っていくと外房線のトンネルからさらに先へいったところに明治の中頃までつかわれていた隧道が崩れてのこっている。明治29年に房州を訪れた邨岡良弼「小半里穿隧道、則天津村」と記している、隧道を抜け外房線の線路に沿うようにして山道を下ると天津の神明神社の近くに出られた。その前は山を越えて天津に抜けていたとのことである。今でも天津側の道には昔の街道の名残が見られ、路肩の石垣や山の片側を切った幅2、3mの道が外房線と平行するように神明神社の鳥居のところまで続いている。
一方海岸に出る道は(後略)

『千葉県歴史の道調査報告書12 伊南房州通往還II』より

基本的に近世までの古道を調査している『歴史の道調査報告書』だが、珍しいことに、明治20年代に使われていたという「崩れた隧道」のことが登場している!
この隧道を歴代の地形図に見つけることは出来ず、前後の文章の内容と合わせて考えると、まさしく大風沢旧道のことを書いているに違いないと思われた。JR外房線の線路沿いという話も決定的に一致している。
崩れていたようだが、平成2年頃まで隧道が残っていたらしい!
なお、私が引用を(後略)として省いた部分には、現在の国道と同じ海岸ルートの古道の紹介がある。近世から既に山側と海側の2ルートが存在し、それぞれ明治時代に県道の房総東往還として整備されて利用された時期があったようだ。

上記引用した踏査は、先ほどの地図でいえば、東側(内浦)から西側(天津)へ向けて行われていた。
隧道が何本あったのかは分からないままだが、最も内浦側の麓に近い坑口が現存していたということのようである。
そして、道自体は天津側を含めた広い範囲に現存しているようなので、これはいよいよ私も実踏に行きたいと思った。


さあ、異常に短命だった“幻の明治新道”の調査を始めるとしよう!




 天津側の旧道入口付近 新町〜神明神社


2021/1/20 7:00 《現在地(マピオン)》

やって来ました、房総半島の南海岸に面した鴨川市の東部、天津(あまつ)地区の新町と呼ばれる街頭だ。
もう時刻的には早朝ではない朝7時だが、1月なので、まだ朝焼けの景色だ。

目の前の道路風景は、いかにも街中の窮屈な旧国道の雰囲気だが、国道128号の現道である。
もっとも、この現道と別に国道指定がある天津バイパスが並行しており、そちらが通過交通の大半を担っているので、実質的にこちらは旧道の状況となっている。バイパスが自動車専用なので、旧道の国道指定が解除されないままになっているという、よくあるパターンだ。

で、私がこの何気ない風景の路上へスポーンしたのは、ここが今回の探索の重要地点であるからに他ならない。

@
明治16(1883)年
A
明治36(1903)年
B
地理院地図(現在)


再び3世代の地形図(迅速測図・旧版地形図・地理院地図)の力を借りたい(→)。

@、A、Bを順に比較して見ると分かるが、「現在地」のすぐ先が、今回の探索ターゲットである「大風沢旧道(仮称)」の西側起点と見られる地点だ。

@の地図は、当時まだ山越え区間が建設中だった大風沢旧道と、海岸沿いを行く旧来の県道の分岐を描いている。いずれの道も「県道」の太い二重線で描かれており、典型的な新旧道の関係にあったように見える。
おそらく、それぞれの道が近世の伊南房州通往還の山側ルートと海側ルートをベースにしていて、@はその山側ルートで新道の工事が行われている。

なお、本稿ではこれ以降、煩雑を避けるために、近世に由来する伊南房州通往還の“海側ルートのみ”を、単に“古道”と表現することにする。

Aの地図では、後に国道となる一連のルートが「県道」として形作られている。
ここにある県道のルートは、神明川という小さな川を渡る部分において山側の大風沢旧道ルートを採用しつつ、川を渡ったところから海側に進路を戻して実入(みいり)へ向かうものとなった。
このルートに固定化されたためか、神明川河口の砂丘を徒渉していた部分の古道は、地図から消失している。

最後のBの地図に描かれている国道は、ほぼAの県道と同じだが、昭和55年に自動車専用道路として開通した天津バイパス(当初は「鴨川天津有料道路」という名で、先行して開通していた勝浦有料道路と同じく、千葉県道路公社が管理する一般有料道路とする計画で建設されたが、開通直前に採算性に問題があると判断され、開通時点で無料開放されたという変わった経緯を持っている)が登場している。また、神明川河口周辺の市街地化も進んでいる。そして、鉄道が幅を利かせている。

@〜Bの全ての地図に、「神明神社」が描かれている。
これは冒頭で引用した『歴史の道調査報告書』に登場していたもので、大風沢旧道の沿道にあった。
そこを本日最初の目的地としよう。



最初の写真の地点から20m進んだ。ここが大風沢旧道の入口だ。

国道から左右両側に街路が分かれているが、左の道が大風沢旧道で、右の道は古道に由来する。
大風沢旧道が整備された当初は、中央の道はなかった。中央の道が整備された正確な時期は分からないが、明治よりはだいぶ後、おそらく戦後のモータリゼーションの中で、国道から直角カーブを削除する目的で整備されたミニバイパスだろう。
したがって、またすぐ先で左の道と正面の道は合流するのであるが、大風沢旧道を出来るだけ忠実に辿りたいので、ここは左折する。

ところで、今回ばかりは事前の調べがなければ、この分岐の重要性には気づかなかったと思う。「おせんころがし」の探索をした平成21(2009)年にも、私はこの国道を自転車で走っていて、目に付いた旧道は片っ端から辿っていたのだが、その時は中央の現国道を疑問を持たずに選択し、左右の道には触れていない。
いわば今回の探索は、オブローダーとしての経験値を積んでレベルを上げた状態でなければ存在にすら気づかないという、上級者向けの探索対象のようだ……。勝手にそんなイメージを持って、いまちょっと悦に入っています(笑)。



見たまえ、この何の変哲もない路地を。

これが、知る人ぞ知る?大風沢旧道の始まりだ。
もちろん、都合良く道の来歴を伝えるようなアイテムが置いてあるはずもなく、本当にただの街路だ。
この辺りについては、国道128号が昭和28年に指定された当初の国道だったとも思うが、その頃は日本中が“酷道”だったのだから、別に驚くような道でもなかっただろう。

左折してこの道へ入ったが、僅か50mほどで奥の住居に突き当たり、今度は右折することに。




右折して80mほど進むと、共同井戸として現役で使われているっぽい大きな井戸があった。
いま井戸がどのくらい珍しいのか分からないし、地域差が大きい気はするが、街中の共同井戸はだいぶ減っていると思う。
まして、房総半島と言えば(いちおうは)首都圏である。
しかし、海岸線から100mくらいしか離れていないのだが、真水が湧くのだろうか。




7:02 《現在地》

井戸を過ぎると20mほどで、分岐したばかりの国道と再び合流する。
写真は合流の三角地を振り返って撮影した。

大風沢旧道の“直角”ひとつ分をショートカットするだけのミニバイパスが、ここの現国道である。
この合流を以て、大風沢旧道の最初の区間(約150m)は終了した。




7:03 《現在地》

合流地点から110m進むと新町というバス停があり、そこで再び大風沢旧道が分岐する。
今度は右へ行くのが旧道であるが、例によって270m先で両者は合流する。
これまた戦後整備された国道のミニバイパスであろう。

右へ行く。




明治の旧道らしく、さっきの区間以上に狭い街路であった。
しかも、道の両側に、綺麗に切りそろえられた高い生垣が連なっていて、圧迫感があった。
ちょうどこのタイミングで小学生の集団登校に出会ったが、私という“車両”(自転車だが)の接近に気づいた低学年らしき彼らは、おそらく学校の指導に従って、道の脇の生垣の隙間へめいめいに潜り込んでいった。
その姿が小さな忍者みたいで面白かった。この写真には子供たちが何人も隠れているのである(笑)。




7:06 《現在地》

2回目の旧道が終わり、再び現国道と合流。
合流地点もまたバス停で、神明神社前という。
また、「天津神明宮」の巨大な案内看板が、国道を横断したところに立っている。
この場所は神明川という小さな川の畔でもあり、先へ進むためには川を渡らねばならない。

おそらく開通当時の大風沢旧道は、現存しない木橋によって神明川を渡り、神明神社へ最短距離で向かっていた。
この消えた橋の代わりに、現国道の宮前橋(昭和40年2月竣功)を利用する。




両岸ともコンクリートでしっかり固められた神明川を現国道の宮前橋で渡り終えたら、直ちに左折する。
神明神社へ向かう形だ。

チェンジ後の画像は、国道から左折してすぐの場面で、天津バイパスの高架下にまた分岐がある。
ここを右折するのが、大風沢旧道である。

立体的に道が重なっているので地図だとごちゃごちゃしているが、こんなに道が多くなかった時代に、ほとんど直線的に川を横断して神明神社へ向かっていた旧道をイメージして辿るのは、別に難しくない。
旧道の目印である神明神社の大鳥居や社叢も、もう見え始めている。
さらに、神明神社を過ぎた後で旧道の“ガイド役”となるJR外房線も現われた。



7:07 《現在地》

神明神社(天津神明宮)に到着。

これより市街地を外れて山間部へ向かう旧道を、引続き探索する。

次回より、本編スタートだ!