国道127号 旧道及び隧道群 明鐘岬編 第1回(2−1)

所在地 千葉県富津市・鋸南町
公開日 2007.5.18
探索日 2007.3. 6


 千葉県木更津市より房総半島南端の館山市まで、おおよそ52kmの道のりが国道127号線だ。藩政期の房総往還より、明治、大正、昭和、そして平成へと、連綿と改良が進められてきた、房総半島最大の幹線道路である。
その沿道に残された、数多くの旧隧道たちを巡る私の旅も、今回より、いよいよ本番戦に突入する。

 「明鐘岬編」と題した本編では、富津市湊(みなと)から、お隣鋸南(きょなん)町の保田までの、現道ベースで約14kmを辿る。
この区間、海へ鋸刃のような嶮しい稜線を落とす、その名も鋸山。
これを海岸すれすれで迂回する、明鐘(みょうがね)岬こそが、そのハイライトとして相応しい。
そこには、明治21年に開通したという、明鐘隧道が眠っているはずだ。

 それでは、湊よりレポートを開始する。


栄えた湊の狭き旧道たち

富津市湊 現道と絡み合う旧道筋


 2007/3/6 10:54 《現在地》

 木更津市から君津市を経て、小山野隧道で富津市に入った私は、佐貫でいったん国道を離れ、新舞子海岸沿いの県道256号を通った。
やがて元の国道へと合流して、間もなく写真の地点となる。
ここは、JR内房線の上総湊(かずさみなと)駅の500mほど北方。
これから湊の街を通過する訳だが、この町内には、現道と並行して味のある旧道が良く残っているので、紹介していきたい。

 写真は、【A地点】(←リンクをクリックすると、別窓で地図を表示します。以後同様)


【B地点】

 1車線の細い旧道は200mほどで再び現道へぶつかるが、そのまま旧道は国道を跨いで反対側。郵便局の脇を入っていく。

 ここは、旧道の成因がとても分かりやすいところで、左を見れば、現道が一直線に小さな山を掘り割っているのが見える。
こうやって新しい道は一直線に街中へと入っていくのだが、旧道はそのような微地形にも、丁寧なレスポンスを返していた。



【C地点】

 小山の縁をぐるり、その裏側へ回り込む。
落石注意の看板がいくつか立てられているが、いかにも崩れやすそうな砂岩の白い法面が露出している。
舗装されている部分の外側にも、未舗装の路面がいくらかあり、かつてはこの形で主要道路であったことを感じさせる。

 このカーブを過ぎると、案の定、再び現道とクロスする。


【D地点】

 横断歩道もない交差点で、再び現道と交差する。
こういう細かな道を探索するには、チャリはすこぶる都合がよい。
車だとなかなか思うように走れないからだ。

現道を横断してまっすぐ行くと、すぐに写真の直角カーブとなる。
ここは非常に幅が広くなっていた。



【E地点】

 直角カーブを経て、真っ直ぐの道になる。
両側には木造の民家が密集しており、白線もない荒れた舗装路と相まって、どこか懐かしい感じを受ける。
昭和27年頃の地形図では、まだ現道は描かれておらず、このような屈折したルートを国道が通じていた事になるが、辺りにはまだ民家もまばらで、水田が広がっていたようである。
しかし、この湊地区はかつて長らく富津市の市役所も置かれていた所で、河口にある湊港(みなとみなと)は、湊川舟運と浦賀水道海運の結節点として、また鴨川方面への陸路との分岐地点としても、大変良く栄えた場所であった。
現在、市役所は、より北部工業地帯よりの、大貫地区に移転している。



【F地点】

 すぐに現道に再合流した旧道は、そのまま600mほど重なる。
この間に、上総湊駅前を通過している。

そして、いよいよ港地区内での最大の見所。
極狭旧道へ差し掛かる。
地形図にも普通に記載されている道であるが、ここはとにかく狭い!



 この、左へ分かれていくのが旧道である。
だが、現道とはガードレールで隔てられており、辛うじて歩道のみが繋がっている状態だ。
現道はここから緩やかに下って、地区の中心街区へ入るのだが、その勾配を少しでも緩和するためか、旧道との取り付けを無視して道嵩を下げたようだ。
その浅い掘り割りに削り残された道が、旧道として分かれていく。

この旧道は相当に古く、昭和27年頃の地形図では既に旧道となっていた。


【G地点】

 既に車が通れる幅はなく、事実上の歩行者専用道路と化している。
だが、一連の繋がりを持ってちゃんと続いているので、そこが一本の道であると理解できる。
いくら何でも、ここが「現道」だった当時には、もう少し広かったのではないだろうか。
幅1間(1.8m)さえ満たしていない。



 この極狭区間は、国道465号との交差点まで約400mほど続くのだが、最初が最も狭く、そこを過ぎると辛うじて車が通れる幅となる。
とはいえ、民家の塀や生け垣がほぼ絶え間なく続いており、しかも小刻みな屈曲もあって、間違って車で進入してしまったとしたら泣けるところだ。
チャリだから、笑って見ていられるのだ。



【H地点】

 極狭区間のちょうど中間にある、「極狭vs極狭」の交差点。それでも、左右の町道の方が大分ましに見える。
なんと言っても、旧道はここを直進なのである。 見るからに車は無理っぽいのだが、軽トラサイズの轍があるのだから、通れないこともないのであろう…。

なお、この辻の一角は石積が残っている。(写真右)かなり風化した、素朴なものである。



 そして、ここから旧道は下り坂となる。
ほんの100mほどの坂だが、石組みの掘り割りの底を行くと、両側の庭木が覆い被さってくるような箇所もあり、またブラインドカーブが連続しているために先の展開が読めず、なんだか子供の頃に帰ったような気持ちのする道。
とても好きな道だ。
モータリゼーション以前の町並みに、タイムスリップしたような感じさえ受ける。
かつての市役所も、この近くにあったらしい。

そして、湊済寺や保育所の前の小路となって続いた旧道は、やがて、国道465号にぶつかる。




【I 地点】

 国道465号側から振り返った、極狭区間の出口。

イイダデンキの角で国道にぶつかった旧道は、ここが鍵型の交差点だったらしく、5mほど東よりの地点より、再び南に分かれる。

ここから先は、普通に車も通る道となる。




いよいよ “嶮しき”南房総へ


 11:08 【J地点】

 交差点を過ぎると、すぐに大きな橋に行き当たる。
これが、街の中心を流れて海に注ぐ湊川であり、橋はその名も湊橋である。
一般的に、ある川を跨ぐ橋が複数ある場合には、その中で最も主要な道の橋が、川の名を橋名に充てることが多い。
その経験則から言っても、この湊橋は主要な橋であったと言えるだろう。

なお、広大な房総半島を、南北に「南房総」「北房総」という風に分ける場合、古来より、この湊川が境界とされてきた。
初代千葉県令柴原和が明治初頭、「南房総は地形が嶮しく思うように道路建設が進められない」と憂慮したのは、ここから先の領域のことである。

 覚悟して、臨まねばならない。

 なお、本橋には昭和46年の銘板が取り付けられているが、その割に狭い。
昭和20年代には既に現道が存在していたので、旧道の橋として架け替えられたものなのだろう。



 【K地点】

 橋を渡ると、すぐに短い上り坂となる。ひとしきり登ると、左から一本の道が合流してきた。この交差点には、道標石が残っている。(写真左)
彫られた文字をなぞって赤い塗料が入れられており、道標石として現在も通行の用に供されている。 それもさることながら、マジシャンのような手のマークが、何ともオシャレ(ハイカラ?)である。いつ頃のものなのだろうか?
ちなみに、私の進行方向(旧道)には「竹岡村経テ金谷」とあった。

右の写真は、交差点を振り返ったもの。左の道が、いま来た道だ。



【L地点】

 そこから100m少々で、現道と再び合流する。
ちょうどここが湊の街の外縁で、ここから先は、次の竹岡まで山道となる。

写真は振り返って撮影しており、右が旧道だ。
しかし、進めばまたすぐに、旧道は分かれる。



【M地点】

 旧道は、すぐに右側へ離脱していく。
ここから、【S地点】までの一連の現道は、完成した時期がはっきりしている。
昭和18年だ。
それは、途中に存在した天神山隧道の記録された竣工年から分かる。
まさに、あの「特34号国道」、今日では“幻”といっても差し支えないであろう“軍事国道”として、完成させられた区間である。

今日我々の前にあるその道の姿は、至ってありふれた普通の道なのであるが、歴史を知ると感慨深いものがある。



【N地点】

 椿の花弁が無数に落ちた、狭い道を行く。
こちらは、昭和18年以前の旧道である。
過去に国道として過ごした事のない道である。
かなり狭い。



【O地点】

 入り口にも予告の看板が建っていたが、旧道にあるこの「海良踏切」は、恣意的に幅員を狭められており、自動車の通行が出来ないようになっている。



 この小さな踏切の上に立って、山側に線路を見通すと、奥に現道の立体交差が見える。
かつて、天神山隧道が存在したのは、あの橋から左へ続く部分である。
最近の地図では全くその形を失っており、開削されているとの事前情報を得ていたが、一応に見に行ってみる事に。



【P地点】

 ご覧の通り、綺麗さっぱりと切り通しになっていた。
周囲には、他に道形と思える遺構はなく、間違いなく隧道を開削して、拡幅、現道としたのであろう。
資料に拠れば、在りし日の緒元は延長60m、竣工年は昭和18年。コンクリート覆工と舗装があったという。
おそらく、先の小山野隧道と良く似た隧道であったろう。

 帰宅後、その消息を歴代の地形図より追ってみたが、昭和42年度版までは健在、しかし、次の昭和61年版ではすっかり消えていた。



【Q地点】

 踏切を過ぎた旧道は、一旦現道のすれすれにまで接近する。
だが、そこには築堤上下間の高度差があり、写真の斜路を利用して相互に連絡している。
本来の旧道は、写真右端下方より始まり(そこに踏切がある)、斜路と合して、奥へと続いている。
この辺りの字名は十宮という。



 築堤の一部には、奇妙に盛り上がった箇所があり、遠目にも不自然であったが、近づいてみると、それは巨大な自然石であった。
旧道は、その大岩の一部を包丁で切ったようにして、そこを通っている。



 そして、その岩に寄り添うようにして、白御影の石柱が建っている。
まるで近年建立したかのような美しさだが、刻まれた文字は歴史を感じさせるものだった。

 君津郡竹岡村

君津郡は、平成3年に袖ヶ浦町が市制を施行したことで地図上から消えているが、かつては袖ヶ浦、木更津、君津、富津を包含する広大な地域を有していた。
その中の竹岡村は、昭和30年に合併して天羽町となり、やがて富津町、富津市という変遷を今に辿っている。

 この標柱は、何を示しているのだろう。
かつては、この場所が村の境界であったのだろうか。だとすれば、道路標識の一種なのか?
真新しい草鞋が括り付けられ、明らかに信仰の対象となっているこの石柱。

…気になる存在である。



【R地点】

 小さな集落を通過し、道は高台を経て小さな掘り割りへ続く。
そして、この掘り割りは、まさに窓。

旅をしていて、思わぬビューポイントに出会うと、気持ちがすうっとして、それまでの疲れも吹っ飛ぶ事が良くあるが、ここはそう言う新鮮な喜びに満ちた場所だった。

掘り割りを抜けると、一面の海原が広がった。
道ばたの小さな赤い鳥居が、和やかさを醸し出していた。
ここに神を奉ろうと考えた古人に、強く共感を憶える。



 道ばたから、浦賀水道を眺める。
この方向は東京湾の奥、まさに首都の方角であるが、信じられないくらい綺麗だ。
遠くに張り出した陸地の裏側には、メガロポリスが広がっているのであるが、マジで空が青い。
その空を反射する海は、なお青い。

 房総半島も、いいもんだ  にゃー。



【S地点】

 1車線ギリギリの狭い道を進むと、ほどなく現道と合流した。
ここまでで、一連の旧道は終わりだ。
現道を1kmほど南下すれば、今度は竹岡地区の旧道が現れる。

 そして、この終始和やかに進んでいた探索に、

絶句

 の場面が、 やがて 訪れる。