国道128号旧道 おせんころがし 第3回

公開日 2009. 6. 3
探索日 2009. 3.19

← 現在地はココ!


 今回は、ココへ! →


おせんサンのようにならないよう、今回はマジ注意の回!




本当にここを… 馬車が…? バスが…?


2009/3/19 8:01 

外房きっての難路として、音にも聞こえし「オセンコロガシ」。

トンネルを利用するようになる以前のルートは、馬鹿正直にも険しい海岸線をへつって通っていた。
今から入り込む場所は、その明治由来のルートである。
現在の国道から見ると旧旧道で、大正10年に山側に迂回する旧道が出来るまで「県道」として使われていた。

その入口は意外にも「立入禁止」を表示していないが、車道としては完全に役目を終えている。
そして、妙にローカリィというか、アットホームというか… 生活感のある入口になっている。

なお、左の階段を上ると、現国道上にある大沢バス停に直行できる。
ちょうど私がここに来たときにも、一人の老婦人がこの階段をゆっくりと上っていった。
心に疚(やま)しいところのある私は、暫く行動を停止した。



老婦人の去就を見守りつつ、前回辿った大沢集落内の旧旧道を振り返ってみた。

急坂を下って、橋の下に潜り込んで、妖しいトンネルを無視して曲がって、また急坂を上って、南無を唱えて、やっとようやくここへ来た。

このあとの廃道にはきっと未体験の驚くべき景色が広がっていると思うが、実はこの集落内の道もまた、半世紀前の幹線道路の実態を廃道とは別の形でかいま見せる、私にとっては十二分に衝撃的な道であったということを告白しておきたい。


それでは、 参りましょうか。




立入禁止だなんてどこにも書いていないのに、それでも妙に後ろめたいのは、明らかに道が部外者に開かれた雰囲気ではないからだ。

確かにかつては車道であった痕跡として、歩くには十分すぎる道幅がある。
それは、明治道ファンにとってはお馴染みの9尺幅(2.7m)を匂わせた。
しかし、道幅の半分くらいは(なぜか)家庭菜園のようになっている。

もしかしたら、
もしかしなくても、

既にこの道は私人の所有物になっているのだろうか。




その答えを見出せぬまま進むこと50mほど。
既に遙かなる絶壁上にいることは間違いないのだが、極めて高いフェンスが路肩を塞いでおり、しかもフェンスに沿って笹が密に茂っているので、そこから外界を見晴らすことは不可能だ。

そして、おそらく下にある落石防止ネットを固定するための、幾筋ものワイヤが路上を横断している。
これによって、車輪のある乗り物は必ず下車を余儀なくされる。

だがこのワイヤには、誤って蹴つまづかない様にわざわざ赤い布きれが取り付けられていた。
フェンスと言い、この布きれと言い、少々「オブローダー」にとっては過保護な印象を受ける。


まるで、「ここまでしなければ落ちる人がいるんだ」という道路管理者の“悲鳴”を聞くような気がしたのだが、考えすぎであろうか。




あらかじめ書いておくと、国道の大沢橋下(今回のスタート地点)から、「おせんころがし」の廃道区間を通り抜けて、行川(なめかわ)で国道に合流するまでの区間距離は、約500mである。
決して長い距離ではない。

そして、そのうち最初の100mを過ぎたところで、ご覧のように法面の崩壊現場が現れた。
しかし、フェンスがまだ残っているので、車道としては廃止されてからの崩壊だと思われる。
(確証はないが、フェンスの設置は車道としての廃止後であろう)
さらにその崩壊現場の向こうには、草一本生ない灰色の崖が見えていた。




難なくチャリごと崩壊現場を突破すると、いよいよ視界が開けてきた。


すごく、ドキドキしている。



行く手の藪の隙間から見える「凄い景色」が、

一歩ごとに拡大していく。


なお、一瞬気付かず通り過ぎそうになったが、この右の一際藪が深いところには、進路を阻むフェンスが隠れていた。




8:06 《現在地》

フェンスは扉のある開閉式ではなく、固定されたものであった。
もう二度と解放するつもりはないという、管理側のそんな思惑を感じさせる。

そして、フェンスに至る道自体も自然に崩壊が進み、既に訪問者に「それ」を告知する必要性も薄れたという判断なのか、「それ」を示す掲示物の類は皆壊れていた。

辺りには「立入」とか書かれたプラカードの破片が無惨に散乱している訳だが、敢えてそれを裏返して確認しなければ、私は「それ」を冒す確信犯から逃れることが出来る。

でも、そんな姑息な手は使わないのがオブローダーの真の道。
つうか、道路掲示物は全て確認しなければ気が済まない性分ゆえ、当然【それを裏返す】…と。

収穫あり!

どうやら、末期のこの道は(或いは今も?)、勝浦市道になっていたようだ。







じゃ、



行かせていただきます。














ハァハァ…




刺激強い!


フェンスから離れるのに、軽く勇気が要る。

こんなに俺って臆病だっけ…?




…勇気が要る。



さっきの写真を縦にしただけじゃねーか。
そう言うツッコミも、甘んじて受けよう。




分かっているよ。

落ちないよね。

この道幅があれば、黙って歩いていて端から転落するなんて、あり得ない。



そうだよ。

体が浮き上がるほどの突風でも起こらない限り、落ちる可能性は皆無だよ。


そして、幸いな事に今日は風が弱い。

この立地条件を思えば、奇跡的と言うほどの微風状態。



……。



良し。

行こう。


ノーリスクノーリスク ノーリスクだよ。
(↑私の愛用しているおまじない)



行こう。 チャリで行こう。

乗っていこう。




【チャリでの走行動画(減速進行!)】






スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。

走行動画はいかがだっただろうか。


 え? 逆光がきつい?

 もう少し速度を出して欲しい?!

 下りをやってみて欲しい?!?!


うるさい!

こえーんだ!


チャリっつうのは、必ずしも操者の思うように挙動しないことが往々にしてあるの!
特に片手でカメラを構えながら走っているときの事故率は異常。
過去にヤラセではない“撮影中クラッシュ”を何度もやらかしている私としては、ここでのクラッシュだけは冗談でも避けたかった。

ご理解いただきたい m(_ _)m




これはまるで、道の化石だな。


これは躍るような興奮のなかで見た、とても不思議な光景である。

昔ながらの水抜きらしき溝や、最後まで未舗装であった路面の凹凸までもが、鋪装では断じてないコンクリートに覆われている。

実際のところは不明であるが、外見的には明治道がそっくりそのまま石(コンクリ)になったような姿である。
或いは、道と地形の真空パック。


今まで数多くの廃道を目にしてきたが、この状況は初めて体験するものだ。
厳密には、下にある現道の法面上に旧道敷きがこんな風に残っている場所は余所にもあるが、絶海との取り合わせは唯一無二であろう。

心の中には、これは廃道風景として邪道ではないかという気持ちがくすぶっていた。
しかし、ここにはそれを減点とせず、むしろオンリーワンだと喜ばせるほどのインパクトがあると思う。




「こんな廃道もあって良いよね。」

基本、廃道は廃れるに任せるが“美”であり“至上”と考える私だが、例外を認める心変わりは早かった。

どのような経緯でこの「化石道路」が生まれたのかは、残念ながら現時点までの調査では判明していないが、尋常成らざる工事の規模や経年劣化の度合などを見る限り、平成に入ってからの工事だろうと考える。
その目的は当然廃道の復元保全… ではなく、
この下にある大沢漁港の保安の為なのだろう。

普段、この趣味をしていると、道路整備にばかり目が行く(と同時に地方ではその不備に目が行く)が、人が住んでいる地域における災害復旧や国土保全に向けられる予算の潤沢さ、手抜かりの無さには、いつも舌を巻く。

どう考えてもこの“力業”は、廃道など意に介さぬ勢いで進められたに違いない。




治山工事の作業用道路ないし作業用スペースとしては、きっと大いに有用であったろう廃道敷き。

“最後の奉公”を終えたいま、そこに交通を補佐する一切の装置は存在しない。
すなわち、ガードレールや転落防止柵の類である。
それどころか、正体は路面ではない元路面上には、目立たない鉄筋の突出が散見される。
下手にタイヤを乗り上げればパンク、さらに速度を出していればハンドル操作のミスに繋がる危険なトラップである。

地形図上では今も道として描かれているこの区間だが、無造作に塞がれていたことも踏まえれば、すでに公道ではないと考えるべきなのだろう。




しかしこれ、ちょっと想像を超える険しさである。

ナマの岩肌が隠されているせいで少々印象は薄れているが、とんでもない険しい道。

入り江の向こうに見えるのは、前回や前々回に走った崖沿いの旧国道で、あそこにも酷道を思わせる狭隘区間が存在していた。
だが、こちらはそれを遙かに凌駕する狭さである。
治山工事によって道を狭める理由はないと思うので、これは当初の幅だと思うが、本当に狭い。

まして路外が田圃とか平坦な藪なら許せる狭さも、この状況では、顔面を紅潮ないし硬直させるに十分である。
もしもこんな所で対向車に出会ってしまったとしたら、どうしたのだろう。
大正8年には鴨川〜勝浦間に乗合自動車が運行されていた記録があり、ここも通っていた可能性が高いのだ。




当初は一切路肩に近づく気はなかったが、いよいよその終盤にさしかかる気配を感じ、あとで悔いを残さぬ為にも可能な体験は全てしておく事にした。

つまり、路肩から下を眺める行為である。



非常に当たり前だが、凄く怖い。

おそらく昔はこの下にまでザッパンザッパン波が来ていたのだろうが、今は堅牢な防波堤が漁港に繋がる陸地を作っている。
そして、地面に落ちる吹きつけの斜面は、下の方がオーバーハング気味にでもなっているのか、見通せない部分がある。
また、足を乗せている縁の部分も滑らかな曲線によって構成されているので、ザラザラしていて滑りやすいことはないものの、どこまで足を進めて良いのかという葛藤が恐ろしい。

この写真が、私の限界である。






私の限界の後には…


道の限界が…。





次回、最難関の決着。