道路レポート 国道229号 雷電トンネル旧道 (ビンノ岬西口攻略) 第1回

所在地 北海道岩内町
探索日 2018.4.25
公開日 2019.8.20

四重閉鎖の向こう側


この写真、昔から当サイトを読んできた方には、懐かしさを感じるアングルではないだろうか?

巨大なコンクリートブロックバリケードを突破して反対側へ下りる部分に、高さ3mの落差があり、
そこには親切にもロープが設置されていたのだが、これを伝って下りられるのは人間だけ、担いで上がった自転車をどうするか悩んだ末に、昔はよくやっていた“愛車の逆落とし”を久々に実行してみた。
俺も体型が丸くなって、もうやらないと思ったか? 甘いぜルーキー号! 俺はやるときはやる男だぜ!


2018/4/25 15:37 《現在地》

というわけで、愛車の軽い受難を経て、到達したのがこの路面。
4回のバリケード類突破を経て、いよいよなんというか、「入った」という感じがした。
距離的には入口からたった200mほどだが、もう現道は遠い彼方の隔絶された印象だ。

地形図にはここに2軒の建物が書かれているが、かつて道路に面して建っていただろうそれは跡形もなかった。土地的に民家ではなかったと思うので、漁業関係の小屋だろうか。

なお、現在地の地図には敢えて(前回まで記していた)旧道の赤線を入れなかった。
元の地形図の表記と現地風景のギャップも面白みの一つだと思ったのと、わざわざ線を書かなくても、等高線の表現から旧道の位置が明らかだと思ったからだ。

この先、地形図に全く道は描かれていないが、実際にはこんなに広い道路がある。
ほんの16年前まで国道229号として昼夜を問わず多くの車が駆け抜けた道路である。
それが地形図から消された理由はただ一つ、地形図が描ているのは形としての道ではなく、機能としての道だからだ。



道は海と山の間隙に通じている。

灰色の海の数十キロ彼方に、残雪の稜線が雲に蕩けそうな細長い陸地が見えた。
あれは積丹半島だ。
私がここまでの3日間の大半を戦った土地であり、ほんの数時間前まで、向こうの廃道からあべこべの景色を見ていた。

国道229号は、律儀に半島を一周してから小樽へ延びている。
かつて海岸道路を建設する使命を帯びた人々が、日夜死闘を繰り広げた現場が、この穏やかな湾を取り囲んでいる。
日本一トンネルの数が多いと言われた国道は、海と山の間隙に道を通ずる、挑戦の記録そのものだった。



徐々に夕方に入りつつあるせいもあるのだろうが、また雨が落ちてきそうな薄暗い空の下、サドルに跨がり前進を再開した。

数十メートル進んだところで、再び「立ち入り禁止」の看板が現われた。
第3の閉鎖にあったものとほぼ同じ文章の内容だが、冒頭だけが違っている。あちらは「これより先は」だったのが、今度は「この区間は」になっていた。

わざわざ立ち入り禁止区間の途中に看板が設置されているのは珍しい気がするが、道路側ではなく海の側に向けられているのも特徴的だ。この向きからして、海から上陸してくる(あるいは磯を歩いてくる)人へ向けた看板なのだろう。




直立するバナナみたいな不思議な形をした岩が、路傍にそそり立っていた。
かつてここを通った人の記憶に残っていないだろうか。見覚えがあるという証言を聞けるのを楽しみに、写真を掲載している。
国道を通したことで、山側と切り離されて孤立した岩山だろうか。
落石防止ネットが念入りに取り囲んでいたが、それでも崩れた欠片がネットを破って、路上に散乱し始めていた。

次の写真は、この奥に見えている卵みたいな形の大岩まで進んで撮った。




15:40 《現在地》

岬と呼ぶほどではない、緩やかに膨らんだ陸の端へ来た。
道は地形に沿って緩やかに曲がって、その先に今まで見えなかった部分を露わにする。そこにある覆道が見え始めた。

この部分の路上には、廃道らしい土砂の堆積が見られた。
まだまだ自転車や歩行の妨げになるほどではないが、土砂の様相に違和感を覚えた。
単純に山から崩れてきたものが積み重なっただけではないようだ。大量の水で押し流されたように見える。また小さな流木らしいものもある。

波がここまで上がってくることがあるのだろう。
ここは海際の道だが、それほど低いところを通っているわけでない。海面から10mの高さがあるだろうに、それでも波を被るというのか。
いまとは異なる海の顔が垣間見えた。



うおぅ、早速キタキタ。

この地での初収穫ともいえる、捨てられた道路構造物との遭遇。
それは、鮮やかな赤みを帯びた坑口デザインに特徴があるロックシェッド(北海道的には「覆道」の表現が一般的)は、過酷な自然環境に安定的道路を存立させるための必要な備えだった。
その重要な意義を物語るように、トンネルに負けない立派な扁額が取り付けられていて、そこにあったネーミングが……

「親子別覆道」

という酷い名前だった。思いのほか酷い。

もちろん地名に善も悪もない。だが、受け取る側の印象がある。
「おやこべつ」と読むようだが、字面の不穏さはかなりのもの。
というか、思い出すのはオレだよオレ、北陸道にあるおそらく日本一有名な難所地名の「親不知・子不知(おやしらず・こしらず)」だ。

ここもやはり難所だとは思うが、同じような由来で付けられた地名だったりするのだろうか……。
和名の地名だとしたら、そんなに古いものではないのかもしれないが。
いずれにしても、こで私の恐怖心を煽るのはあまり感心しない。ただでさえ、覆道を介して正面に正対した岬の威容に、内心「おぅふ」ってなったのに…。



覆道の存在意義は、風景から容易く見出すことができた。

道路と雲に霞む垂直の大絶壁の間にあった、おそらく崖錐由来の山麓斜面が、ここで急激に狭まってきている。
落石を防ぐために、あとはもちろん雪崩回避のためにも、ここに覆道が優先して建設されたのだろう。
そして遠からず、海岸線はこのような垂壁に埋め尽くされてしまうのだ。
そのとき私はどこへ行けば良いのか、まだ分からない。




このような車窓は、内地からの旅人を虜にし、北海道を愛するきっかけとして十分なものだと思う。
だが、命あっての物種を思い知らされるような惨事があって以来、ほとんど顧みられなくなってきている。
美麗な車窓よりも、分厚い壁によって完全に守られた地中のトンネルが、交通正義のシンボルとなった。




親子別覆道の坑口は、血塗られた……なんて書いたら顰蹙だろうが、正直、廃道化後の印象がそうなってしまうことを考えた方がいいというような「赤色」で、それも根っからの赤い素材ではなく、レンガ調の化粧タイルだった。煉瓦の目地がこんなにデカいわけないだろと、要らないツッコミをしたくなるのは私の悪癖だからスルーして、そこに取り付けられていた銘板を観察。

銘板曰く、竣工昭和50(1975)年11月、延長217.5m、幅員6.0mというスペックだった。

この国道の開通は昭和39(1964)年らしいので、当初からの構造物ではなかったようだが、それでも意外に古い構造物であり、この地の危険度がどう評価されていたかを推察しうる。




それでは、その名も恐ろしき、親子別覆道へと進入開始。

当初からの構造物ではないからというわけではないだろうが、外の道路の緩やかなカーブや坂道を受け継いだ線形になっている。
屋根があることの有り難みを感じるのは廃道と化した今も全く変わらず、久々に乾いた路面を走ることが出来たことも含めて、快走した。

しかし、快走すればあっという間に終わってしまう定めの平穏な道。
まだ探索開始から10分しか経過していないのだが、早くも当地の神は、私に最大の正念場を突きつけてきたのであった。




15:42 《現在地》

閉鎖隧道の出現。


……これだ。

これが、問題の核心だ。

岬をくぐるトンネルが封鎖された結果、この先へ行くために海か山を跨がねばならない。

しかもこの先は、前後を閉鎖トンネルに挟まれた、どちらからも容易に近づけない孤立した領域である。

北海道の海岸廃道の探索において、このような絶対的に孤立した領域(“絶対領域”)との遭遇は、内地以上に避けがたかった。

何度かは成功し、敗れたこともあったオブローダーの挑戦が、いま繰り返されようとしている。




今までは、威圧はするが手は下さず、見下ろしてくるだけだった大絶壁が、この先でついに牙を剥く。
トンネル直上の岩峰でも、高さが150mくらいはある。雷電峠に通じた古道はさらに上らしいが、そこは雲の中だ。
地形図には名前の注記がない目前の岬の裏側が、カバソマナイ(樺杣内)という名の閉鎖空間だ。
かつて地形図に描かれていたトンネルの長さは約350mで、この長さに相当する迂回を余儀なくされる。

どのようにして?

トンネルがなければ通行は難しい。専門家がそう判断したから、ここにトンネルが掘られたはず。
この迂回の達成に関する明確な先行者の記録は見当たらず、私は私流の道を探す必要があった。



オブローダーならば頼るべきは古い道だ。ここでは前説でも述べたとおり、
昭和32年の地形図に描かれていた海岸沿いの徒歩道を探して進もうと思う。

ここが正念場だ。道を見つけ出さなければいけない。



旧国道はここまで私を連れてきてくれたが、突然非情の顔を見せている。
実は私は生きていなかったと告白された気分。なんと死人だったか。分かっていて頼ってましたが。

塞がれたトンネル前で道は少し拡幅されていて、そのうえ歩道まで現われた。
おそらくそれと関係があるのだろうが、海側には整地された広場があった。
そこにモニュメントらしきものも見え、まだ正体不明だが、忘却された観光地の匂いを感じ取った。




……なんと、不吉な……。

覆道からトンネルへ向かって緩やかに下って行く途中、道のまん中に落ちている「」を、危うく踏みそうになった。
道路へのリスペクトという意味でもNGだが、とにかくこんな不吉な文字を踏んだら、先がどうなることか…。

この文字の“出所”は、振り返ると速攻で判明。
親子別覆道の東口に掲げられていた扁額の「別」の文字が消えていた。
何でこの文字だけ落ちてきたのか謎だし、そもそも平成14(2002)年まで現役だった銘板が、もし自然に落下したとしたら、安全率的にどうなのという気もする…。

だが、周辺の荒廃の主たる原因が高波なのは間違いないと思う。
路肩の縁石ブロックが路上に散乱しているなど、津波級の破壊力で、廃止から僅かな時間しか経っていない旧道を打ちのめしたようだ。
しかし、銘板の高さまで上がったとしたら、それは15mを越す超絶的な高波だったろう。




壁と化した「鵜の岩トンネル」。

無情である。開発局が閉塞工事を行った隧道は、大半がこの塞がれ方をしている。
全断面の閉塞壁が坑門と完璧なツライチで、1cmの奥行きもなく、内部にネズミ一匹踏み込む余地もない。
破壊や埋没よりはマシかもしれないが、ただの壁となった隧道を見るのも辛いものがある。

まして、この奥に喉から手が出るほど見たい目的地がある私にとっては、辛い壁だ。
こんなに非情無情であれば、いっそのこと扁額や銘板を取り外せと思わないでもないが、
そこはしっかり居残りさせられているのが、余計に感傷を誘う。

少し古い隧道によく見られる丸みの強いアーチが、小さな坑門いっぱいに描かれていた。
平成14年まで現役だったというが、末期にはそれなりに古びた印象を漂わせていただろう。




銘板は、御影石製だった。
その模様のために少し読みづらいが、刻まれた内容は以下の通り。

鵜の岩トンネル
1971年11月
小樽開発建設部
延長325m 幅員6m
施工 坂本建設株式会社

この銘板の内容には奇妙な点がある。
それは竣工年と思われる2行目の内容だ。「1971(昭和46)年11月」とあるが、雷電海岸の国道は昭和39(1964)年に「全通した」と記録されており、その通りだとすると、この隧道は間に合っていない。

お馴染みの『道路トンネル大鑑』(昭和44(1969)年)の巻末リストにも、この隧道は記載されている。
そちらでは以下のようなデータである。

鵜の岩トンネル
竣工年 昭和37(1962)年
延長300m 車道幅員5.5m 限界高4.5m

昭和39年の全線開通に間に合うためには、このトンネルが必要だ。

もしや、近くにさらなる旧隧道があるのか?!

想定外の扁額内容に、にわかに色づく私のほっぺ。




果たして真相は……。

新たな謎を孕みつつ、夕暮れリミット迫る中で、

鵜の岩トンネル迂回突破作戦開始!