道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道 最終回

公開日 2016.3.12
探索日 2013.4.01
所在地 東京都神津島村

この施設跡の正体は……


2013/4/1 13:16  《現在地》

藪に埋もれた2棟目の廃墟も建築用コンクリートブロック積みで、全く色気の無い作りである。
一箇所だけの入口に扉は無く(もともとはあったようだが)、中へ入ることが出来る。
なお、1棟目とは異なり屋根がまだしっかりしているお陰で、緊急避難所程度には使えるだろう。

内部はほとんどもぬけの空と言って良かったが、ただ一つだけ、大ぶりの機械が置かれていた。
いや、既に見た廃車体のことを思うならば、これまたおそらくは「置き去り」にされたものとみられる…。

その機械の正体は―



大型の内燃式発電機だった。

久々に目にする、文字情報だ。
「デンヨー」という企業名ロゴが特に目立っていたが、帰宅後に調べたところ、この企業は現在も屋外用エンジン発電機の最大手として活躍しており、「デンヨー」という社名になったのは昭和41(1966)年らしい。

残念ながら、この装置も施設の正体を知る手掛かりとしては、あまりにも汎用的であり、弱い。
しかし、島の中でも取り分けて不便な山中に、飛び地のように人が働いていた(暮らしもした?)この施設において、本機械は生命線であったことだろう。
外部から電線が来ている様子は無いので、100m四方もある広大な施設の電力を、一手に担っていたものと考えられる。

一帯に残された廃材の量などから考えても、施設の大半は最終的に解体され、資材も運び出されたとみられるが、数台の自動車とこの発電機は特に重量物であるため、(コスト的に)回収されなかったのだろう。
僻遠の廃墟にポツンと残された本機には、単純な不作為のために何もかもが残されている廃墟の中のそれとは比べものにならない強い悲哀を感じた。



施設の電気は自家発電と判明したが、人が活動をするためにさらに重要なもう一つのファクターである「水」についても、一般の水道はもちろん来ていなかったであろうから、自前で給水する工夫がなされていたようだ。

一帯には数ヵ所の蛇口が露出しており(ひねってみたが、もちろん水は出なかった)、何らかの水道が確保されていたのである。

多くの島にとって、水不足の問題は重大な発展阻害要因であったし、砂糠山の山頂に近いこの周辺にも湧き水は無論、涸れ沢さえ見あたらないので、苦心したことだろう。

近くの藪の中にはタンクも残っていたが、これはおそらくは燃料用のタンクで、水道については、蛇口の存在からみて、どこかに地下貯水槽が設けられていると思われる。



13:19 (施設跡に到達して19分後)

どうやら、これ以上の情報をこの土地から得る事は、難しいだろう。
ここには、人が撤収した痕しか残っていない。活動の残滓は極めて乏しい。
人は余計なものを遺さず、自然にとっては比較的望ましい形でここを後にした模様だ。

振り返れば、ここに至るまで本当に多くの想定以上の成果を発見することが出来た。
車道であるとは思っていなかった、壮大な海岸道路の廃道に始まり、
その終点の海面から山上へ伸びていた、大規模な索道遺構の発見。
そして、今回私を最も驚かせ、熱狂させた、山上の廃車道&廃車体である。

これらの盛りだくさんの発見は、全てがこの終点にあった施設に結びつけられる。
全ては、この施設を現実に利用するための“必要条件”としての投資であったと考えられる。
と同時に、この施設の他には前記全ての敷設物を利用する宛が、まず無いように思われた。

このたった100m四方の「正体不明の施設」が、島に求めた投資を大きさには純粋に感心を覚える。
またそれだけに、探索前よりも、こうして現地を見て、状況を知ったあとの方が、
不明である施設の正体に対し、何倍も大きな興味を抱くことになった。

……率直に言えば、ここまでの衝撃的遺構群の全てを統べる扇の要、終着地としては、
少し点睛の欠如を思わないでもない決着ではあったが、こればかりは恨む相手も無いこと。
贅沢を言えばきりは無い。それに幸い、ここで得られなかったものは、帰宅後の努力で得られるかもしれない。
今はまず、「行きたい」と思った土地へ正しく「来た」自分の行動を、労ってやるくらいは良いだろう。
今さらではあるが、東京都民の私でさえ、同じ都内のここを踏むのは、なかなかの労であった。
僻地という言葉がありきたり過ぎて、少々物足りないと思える程度の場所だった。

撤収開始!




ここから生還に向けて2時間かかった往路を逆に辿る事になるが、まず山上では激藪のため往路で一部をスルーしてしまった車道を逃さないよう、忠実に辿る事を徹底した。

意識して丁寧に辿って行くと、それはちゃんと途切れることなくコンクリートの鋪装を林内に(そして最後は藪の中に)伸ばしていて、往路で目にした2台の廃車体や索道巻上小屋からは、10〜20m西にはずれた場所に道が通じている事が確認された。
また、道は一本道で、分岐路などは確認が出来なかった。

(これは前話の公開後に読者さんの指摘で分かったが、この道中で見た2台の廃車体は、共にひっくり返っているようだという。それがどういう状況であったのかは、ちょっと分からない…。ひたすら謎は深い…。)


忠実に車道を辿ったことで、往路には見なかった発見があった。
それは、路上に転がった一つの箱。
発泡スチロール製の箱は、良く市場なんかで生魚を詰めているのを見かけるもので、側面には 「魚 MARUUO 石巻魚類共同組合」などという文字が見て取れた。

これはおそらく“ゴミ”として散らばっているのだと思うが、出所を考えれば、それは件の施設跡以外は無い気がする。
風に運ばれやすい発泡スチロールの空箱ではあるが、さすがに天上山の裏側になる集落や、下界の三浦漁港周辺、はたまた別の島から飛んでくるとは思えない。(ちなみに、それ以外のゴミ、例えば空き缶などは、全体を通じて皆無であった)
ということは、件の施設はもしかしたら、この箱を扱うような漁業関係の加工施設だったのではないか?

島という立地を思えばいかにもありそうな線と思えたが、しかし海から上がる魚を、わざわざ索道でこんな山上に持ち上げ、それから加工して製品を再び索道で下界に降ろすなんてことが、あり得るだろうか。不可能では無いに違いないが、採算的にどうなんだと思ってしまう。そういう工場は、別に海の近くに建てれば良いじゃないかと思うのだ。

とはいえこの発見により、“漁業加工施設”説というのが、一応は施設の正体の最有力候補になった。






オブローダーとしては、見過ごせなかったこと


13:29 《現在地》

ふおっ! 風ッ!

戻って来た、今回の探索の最大の衝撃地。
相変わらず、自然の怒りを感じさせる暴風が吹き荒んでいる。
しかも、ほんの30分前に離れた時と較べても、明らかに空が暗くなった。
まだ日暮れには遠いので、確実に天候の悪化が進んでいるのだ。

絶え間なく耳鳴りを引き起こす冷たい強風に、往路の“風の谷”で何度か引き倒されるほどの突風を受けた恐怖が、甦ってくる。
一度通った道とは言え、悪天候ではどれだけ危険度が増すか分からないし、そもそも山は上るより下る方が事故率が高いというではないか。

思わず、怖じ気付きそうになる……が、

しかし、まだ、下山したくなかった。

私には もう一つだけ 、この孤独の山上世界にやり残したと思うことがある。

それは、オブローダーとしては絶対に見過ごすことが出来ない、あまりにもあからさまな“謎”。



稜線の向こう側へ続いているように見える道は、
いったいどこへ向かっているのだろうか?


おそらく読者の誰よりも私が強く現場で願った、半壊せる“蟻の戸渡”の踏破!

それを最後に成し遂げたいと思う。



怖っわ!!

たかだか15mほどの稜線徒行に大袈裟だと、登山家諸兄にはお叱りを受けそうだが、
今が弱風や微風ならば、これは全く難しいタスクでは無いだろう。

だが、どの程度の不運なのか、あるいは常のことなのか分からないが、
今は多少の緩急はありつつも常に左から右に向かって、強い風が吹き続けている。

さきほど、山の斜面にへばり付いていても身体を引き剥がされそうになった強風の中、
このおそらく狭い部分では幅1mにも満たないナイフエッジ稜線を、無事「往復」出来るだろうか。

正直、これは怖いと感じた。
しかも、未知に属する恐怖だった。



私にとって幸いだったのは、これほどまで狭く見える稜線であっても、
天辺の全く両側に支えが無い“平均台”の部分を歩かなくても済んだということだ。

というか、もしそれを強要されたならば、さすがに命あっての物種と考え、
大人しく此度は引き下がったと思われる。

私は稜線の最も高い部分から見て、風下の右側に一段だけ下がった、
本来は幾段も積み上げられていた路肩擁壁の途中に刻まれた犬走りの痕跡を歩行したのである。
そうすることで、風上側にある崩れかけた路肩擁壁が、ちょうど太腿くらいの高の風除けとなり、
同時に身体を三点支持とする手すりの代用物を得る事まで出来た。

もっとも、このルートも完全は無く、終盤に短距離の“平均台”歩行を
要求されたが、その程度は気合いで乗り切った!



神津島一の頑張り屋であるガードレールの支柱に、タッチ!!

思えば、こいつが最初に私の目に止まった、この奇絶なる山上道路の一員だった。
また、後にも先にも、これが山上道路に残る、唯一のガードレールだ。

マジ、頬ずりしてもいいと思えるくらいに愛おしかったが、
余計な動作をしていると、その隙に命を消し飛ばされかねないので、
ほぼ立ち止まらずに、タッチアンドゴーで“対岸”へ抱きつく!!



13:32 《現在地》

成し遂げたぜ!!

これはもう、何という道路の極限的立地だろうか。
道路として生を受けるには、あまりにも最初からハードな宿運!
そして案の定の(きっと短期間による)廃道化!!

こちら側から眺めると、道路の両側がいかに切れ落ち、いかに無茶な場所を通っていたかを、
島の主峰である雄大な天上山をバックに、より広々と眺める事が出来た。
この眺めのためだけでも、リスクを冒した甲斐があったと思った。

さすがに、自身の離島探索わずか2島目で言い放つとは、早計の誹りを免れないかもしれない。
だが、それでも私はこう言いたいという気持ちが抑えられない!!

「この砂糠山の山上廃道こそは、離島にある廃道の一極致である!」

なにせ、この島にあるメインの道路網から隔絶し、いかなる港湾とも接着しない山上に、
全くの文字通りに「孤立」して存在する、小規模ながらも一連の道路網であり、
その全体が漏れなく廃道、関わり合う全てが廃墟となっているのだ。こんな環境は、
あたかも人が住むことをやめてしまった“無人島廃道”の縮図のようだ!



仮に崩れていなくても絶対に怖ろしい場所だと分かるこの稜線道を、あのダブルタイヤのトラックも通行していたのだろうか。

この道路、そもそも施設の正体が分からないために、道路の格付けも分からない。
林道なのか、村道なのか、はたまた私有地を横断する私道の類なのか。
道そのものの正体が不明である。
沿道にも、それを知らしめるような用地杭などは見られない。

ただ、いずれにせよ言えることは、未だかつてこの山上の車道を車で走行した経験を持つ者は、建設に従事した人々が島外人であったと仮定しても、それでも延べにして100人いただろうかというレベルである。おそらくは相当に限られた人数だけが、この道で「ハンドルを握った」のであり、窓越しにこの道を眺めた人間は、非常に少ないだろうということが想像出来る。レア道だ。
そして、今後はもう永遠に人数が増えることも無い。
私も、ここまで愛車(自転車)を持ち込む方法は思い付かない。



そして、次に狙うべきはこの道の続きであるが…


……おかしいぞ。

これは、おかしい。

本来なら、あり得ないことだが


道は、無いぜ…?

少なくとも、車道はないぞ。

稜線であるだけに、どこかから土砂が崩れてきて埋もれたという風でもない(と、思う)。
無理矢理稜線を歩いて、左奥に見える砂糠山山頂に立つことは、時間をかければ可能かも知れないが、相変わらずの暴風の中、これ以上彷徨う気にはさすがにならない。



終わり……?

まさか……この道

これで終わり?

終わり……???


自問自答を繰り返しても、やはり道は無く、あったような痕跡も認められない。
少し終点の先にも行ってみたが、そこには猛烈な藪に急峻な山の斜面が埋もれているだけで、見るからに自然地形であった。

いったいこの状況を、私はどう受け止めれば良いのだろうか?
これまでも、本件については「分からない事」ばかりで、ほとんど何一つ明確な解決を持てずに来ているが、加えてこの“山上の車道”の中途半端ぶりは、極め付けの謎である。
僅か3〜400mの一本道のためだけに、少なくとも3両の自動車(うち一台は中型貨物自動車?)が持ち込まれていたというのか? そんな馬鹿な?!
下界との唯一の連絡手段と見做される索道との連絡を考えても、この稜線を越えたところまで来て唐突に道が終わっている理由は、謎すぎる。

結局のところ、この非常に中途半端としか言いようのない道の短さについての「解」としては、次の一つしか思い付かなかった。

“漁業関係の加工施設説” 改め… “未成道と未成施設”説の浮上である。

この説は今初めて意識した訳では無く、この不条理とさえ思える悪立地を深く知るにつれ、次第に現実味を帯びてきた説ではあった。
だが、これまた本当に「説」でしかなく、今のところ明確な証拠は何も得ていない。
私の「悶々」は、ほとんど発散の機会の無いまま増殖を続け、今は「悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶悶」くらいに膨らんでいたと思う。(↑文字化けじゃ無いよ)



下山しよう…。

私が、ふとした好奇心から踏み込んでしまった、この一連の世界。

まさしく廃の魔境であり、私の身体だけで無く、頭脳まで翻弄して、まるで終わりが無い。

この場所に長く滞在すると、完全にヤラレちまいそうだ…。

ひとまず、今日の成果を安全地帯に持ち帰るんだ!

13:36 下山開始。




私の頭の中のモヤモヤが、島を取り囲む黒雲になっているのではなかろうか。
そんなバカな考えが頭をよぎるくらい、復路の海岸道路より見上げた天上山は、厳として怖ろしげであった。
スタートからこんな天気だったら、今回の探索は途中で心が折れて断念していたかも知れない。

私はちゃんと当初の目的を達成して下山しているはずなのに、いつものような戦勝気分には、ほど遠いものがあった。




往路と同じ危険地帯をいくつも潜り抜け、そして最後にはこの“山行が史上最大の崩壊地”を前にした。

この場所の踏破は難しくはないが、それなりに時間を要し、横断中はただひたすらに白い斜面だけを見続けることになる。
これは一種の催眠というか、人を無心にさせる効果があるようだ。

そのためか、ここで迷走の心境は幾分じゃ和らぎ、代わりに踏破の達成感が生じてきて、生還の歓びも感じられるようになった。
なにはともあれという感じであった。




14:43 《現在地》

下山開始から67分後、私は自転車&デカリュックのデポ地点である、三浦港外れの水場に帰還。



約4時間ぶりに、この危険な廃の圏域を脱出して、生還した。

廃道探索的には十二分以上に楽しかったが、調査としては

ひたすらに化かされた感の強い、悩ましいものとなった。



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その日の夕方、早速の机上調査をスタート。


その後私は、クソ重てー荷物をまとめて自転車に跨がり、上陸地であった東海岸の三浦港から、島内唯一の集落である西海岸の神津島集落(島では単に村落と呼ばれている)へ向かうことにした。
明日の探索地は全て西海岸にあるので、本日のうちに移動を済ませて、かつ野宿もしようという算段だ。商店で食料の補給もしたい。

島を横断する約4kmの道のりだが、この間の都道は全く平坦で無く、一気に標高160m(ちょうどさっきいた場所くらいの高さだ)まで上って、すぐに登った分を精算するという、慌ただしい峠越えの道である。



16:48 《現在地》

道は途中で三浦港や多幸湾を見晴らせる素晴らしい展望所を通過した。
写真はそこからの眺めである。

この風景の最も遠い辺りに見える山中で、かつて何かが大規模に行わていたのだ。今では辿り着く道も無くなってしまったが、それは確かな事実。

そして、この場所からのこの眺めを日々眺めて暮らしてきた島民が、その事実をまるで知らないはずはない。絶対に、知っている人が大勢いるはず。
このまま行けば、明るいうちに集落に着けそうなので、やるべき事が一つ見つかったなと思った。



さらに、展望所に設置されていた島全体の地図に目を止めた。

表面が雨風で汚れているので、それなりに古いものかもしれないが、今回の探索で訪れた一帯をよく見てみると、私が“海岸道路”と呼んだ多幸湾岸の廃道が、車道としてはっきり描き出されていた。
やはり、ある時期まではちゃんと車道として存在していたようである。

また、その“海岸道路”の終点、私が“風の谷”と呼んだ砂糠山へ通じる谷の辺り(写真)には、「釜ヶ下」という初めて目にする地名が付記されていた。

…釜ヶ下…

なるほど、絶壁に周囲を取り囲まれ、不気味な海蝕洞が口を開ける、そんな地獄の釜の底のような地形の雰囲気を、とても良く表した地名だ…。
釜ヶ下… 気に入った… 釜ヶ下索道……。

なお、“山上の施設跡”について、地図は全くの空白で何も描かれていない。




それからさらに高度を上げて峠の近くに達すると、ようやく、上陸から今まで張り付いたように険しい面しか見せなかった天上山が、別の一面を見せてくれた。

やっぱり、すげー形の山だ…。

石灰採掘のために山の形が変わったとかならまだしも、自然にこんな形になるとはな…。
一見、頂上に大きく凹んだ火口でもありそうだが、実際には島最大の平坦地があの上に広がっているというのが、また面白い。

この文字通り“座”と表現したくなるような山座の姿に昔人が非常な神秘の力を感じ、神々が集う山という水分けの神話を創り出した、その気持ちが分かる気がする。
そして辺境の島の神話が今日まで受け継がれたのは、外から島を訪れた代々の人々によっても、この姿の神秘性が了承されて来たからだと思う。
伊豆諸島の山の中では唯一「新日本百名山」に選定された山は、やはり説得力があると思った。




16:48 《現在地》

それから、島の空港へ立ち寄ったり、島の初“ぬこ”を見たりと、寄り道があったが、無事に神津島集落へ辿り着いた。

そして集落もまた、天上山の威容と威圧からは全く逃れる事が出来ていなかった。
一体何の恨みがあるのか、集落内を貫流して海に注ぐ島最大の川である神津沢の上流には、かの天上山のおびただしく崩れた岩石流が白々と見晴らされた。
いつか再びこの山が火を吹くことになれば、この谷は進んで土石流や火砕流の災禍をもたらすことになりやしまいか。

もっとも、今回は人々の命が関わってくるだけに、海へ崩れるのを任せていた多幸湾の場合と異なり、沢の両岸は都市河川のように頑丈に護岸され、河床にも数え切れない砂防ダムが築かれていた。また、一見すると崩れっぱなしのような天上山の白い部分も、よく目を凝らせば、巨人の梯子のように見える無数の治山工が築かれているのを認めた。

ここは、人間と自然がぎりぎりの格闘を続ける最前線の様相を呈していた。
そんな場所が島唯一の集落であるところに、この島での生活の全てが凝縮されているように見えた。

そうなのだ。

私が見た砂糠山の遺構群など、もしもこの島に潤沢な土地がありさえすれば、存在する所以はない。
天上山に阻まれて集落からは最も遠い島の東南部に、大変な大工事を用いてまで切り開こうとしていたのは、いったいなんなのか。

現地に残されていた遺物からは、これといった情報が得られなかったのだから、次に頼りにすべきは、この島に暮らす人の記憶。
もはや日暮れは近く、しかも明日は島を去る日である。
時間の限りは僅かだが、少しでも試みたい。



商店での買い出しをする最中、大勢の島民と思われる人々を見た。
雄々しき天上山の麓にも、日常の平穏は確かに有った。
だが、私は話しかける相手を見つけ出せないまま、気付けば集落からはみ出して、外れにある前浜港(神津島の最大の港)へ流れ着いていた。

ここにある東海汽船の待合所は、神津島村観光協会の窓口を兼ねていた。
そこで私はまず、明日の船便について尋ねた。
窓口の担当者は若い方だったが、観光協会ならば島内事情には通じているはずだ。
私は意を決し、切り出してみた。

「砂糠山の上の方に、今は使われていない施設や道路がありますよね? さっき見てきたのですが、あれはいったいなんですか?」

直球である。もしかしたら、「あそこは立入禁止ですよ!」とお叱りを頂くかもしれなかった。
そうでなくても、観光地ではないし、島の誇るべき遺産とも思われてなさそうだから、「分かりません」と返される可能性が高いと思っていたのだが。

結果――


神津島村観光協会の窓口で得た情報
  • 農協が計画していた、養蚕(かいこ)の工場だと思う。
  • 道路を作ろうとしていた。
  • 危ないので行く人はいない。


な、なんだってー !!!!


よ、 養蚕工場 だと?


正直、すぐに信じることなど出来ない。

理由は沢山ある。

まず、孤島という立地と、養蚕という事業のイメージが合わない。
また、わが国の産業としての養蚕は「近代」までに終焉を迎えたものというイメージが強く、私が目にした索道搬器の新しさや、(探索時点における)最新の地形図(正確には地理院地図)に施設がまだ掲載されていた状況とは、時代的に符合しないと感じる。
さらに、そんな現代における養蚕事業とは、あれほど不便な土地を開発して行って採算が取れるほどに、実入りが良いものなのだろうか。

これらの私の疑問をまとめれば、「土地、時代、採算」という事業立地の3大要素について、養蚕は不自然だ となる。
特に3つ目の疑念は、簡単に撤回できそうに無いほどに、私の中の根深い実感だった。

が、

私のそんな疑問を余所に、窓口の男性には、何か確信がありそうに見えた。
さすがに根拠も無いのに食ってかかるワケにもいかず、私は丁重に礼を述べて、島での最初の聞き取りを切り上げた。
とりあえず、これが答えとはまだ信じられないが、きっとヒントは得たのだろう。
「農協」というキーワードが出て来たのは、信憑性を高めている。
何らかの農業施設であった可能性は、高いかもしれない。

そして、この話の限りでは、やはり全体として未成施設であった可能性が高そうである。
これについては、膨大に膨らんでいた私の「悶々」のいくつかを払う成果であったと思う。
もちろん、まだ証言“一”の状況であり、何も確定はしていないのだが…。



その後、島旅で過ごす2日目の夕暮れが、明日の天気の絶望を色濃く滲ませながら過ぎていった。

砂糠山を吹き荒し、山上から私を退けようとしていた風は、約束のように雨雲を連れてきたのである。

私の心にも、悶々とした不知というぶ厚い黒雲が掛かったまま。

それを晴らす機会は、帰宅後に持ち越された。