2018/11/30 7:25 《現在地》
片洞門脇の隧道は、片洞門を通る旧国道の路面から見て2mほど高い位置に口を開けており、だいたい天井の高さが片洞門と隧道で揃うくらいになっている。
このように、坑口が周囲の道よりいくらか高い位置にあることも“雪中隧道”の特徴であり(雪に埋没しにくくするため)、“雪中隧道説”を裏付ける状況といえるが、もちろんそれ以外の理由も考えられるので、これだけで断言は出来ない。
坑口前は、片洞門の天井部分が吹付けられたモルタルごと大量に剥離して落石しているため、落差を埋める階段のような通路施設の有無は、確認が出来なくなっている。まあ、そのようなものを必須とするほどの段差ではない。簡単に坑口へ。
ドヨーン……としていますな。
隧道というよりは、洞窟のようだ。
洞奥のどこかに小さな光が見えており、とりあえず貫通しているらしいことに少しだけ安堵したが、見え方の覚束ない感じが不安を残させた。
あれは出口ではなく、また横坑の光っぽい気がするな。
なぜか並べて壁に立て掛けてあった、中里村のデリニエータがサイズ感の比較対象になるが、明らかに車が通り抜けるようなサイズではないことが分かるだろう。
この点が、国道としては狭くとも、車道としての最低限を満たしていた瀬戸口隧道との決定的な違いである。典型的な、人道用隧道のサイズ感だった。
現代日本に生きる人の目には、この外見だけで自動的に廃隧道と判断されそうだが、廃を明示するものは何も見当たらなかった。
立ち入りを制限する柵とかロープとか、注意書きとか、そういうものは特に見当たらなかったのである。普通に解放されていた。
ほんの数年前までは、隣にある片洞門や瀬戸口隧道の内部が遊歩道として解放されていたはずだが、その時代からここも解放されていたのだろうか。だとしたら、ちょっと面白い。
入口付近からして、洞内は“真の”素掘りである。
“真の”とわざわざ書いたからには、コンクリート吹き付けはもちろんない。そのゴツゴツとした岩の壁面は、全てが触れる近さにある。
また、貴重なヒカリゴケではないと思うが、外光が届く範囲の壁は僅かに緑味を帯びて見えた。
しかし、入口から10mも入ると壁は純然たる岩色へ変わり、地中世界が始まった。
舗装されていない洞床だが、泥濘んではおらず歩き安い。勾配は緩やかな上り勾配。これは平行する片洞門とリンクしていると思われる。先を見ると、ゆるゆると左右に少しだけ蛇行しており、隧道の全貌を測りづらくしていた。
よく、比較対照物が写っていないとサイズが分かりづらいというご指摘をいただくが、大人が二人並んで歩いたら非常に窮屈になるくらいといえば、誰が想像してもあまり大きく外れないと思う。
数字にすれば、幅1.2m、高さ1.8mくらい。これは、人が通ることの妨げになるほど狭くはないが、それ以上の余裕があるわけではない、荷物を積んだ牛馬にも明らかに不向きな、とかく人道用隧道としか表しようがないサイズ感だ。
坑道や水路ではない交通用に作られたトンネル断面としては、なかなか頻繁にはお目にかからない小断面である。
うわ…
この「うわ…」は、独りでこんな穴に身を捧げている最中の率直すぎる心の声で、素掘りの壁面が鉄さびを思わせるような赤黒っぽい感じに変わってきたのが、ただ単純に気持ち悪かったのである。
とりあえず、廃隧道探索で閉塞の次くらいに嫌な展開である水没が現われていないのは幸いだった。
こんなに断面の小さな隧道では、ちょっとの水でも水没展開になりそうだったが、ずっと上り勾配であることに助けられている。しかし、洞床は次第に荒れてきているので予断を許さないうえ、前方の光の見え方は、まともではない。
こんな、溶岩洞窟のような天然じみた雰囲気を持った隧道だったが、人工物を発見した(赤○のところ)。
そこにあったのは、温度計と、ラミネート加工されたプレート。
この取り合わせは、うん、前もあったね。
ここでも先の瀬戸口隧道と同様に、小型哺乳類(コウモリか)の学術調査が行われていたようだ。
代表者として書かれている2人の人物の名前も見覚えがある。しかし、こちらは調査期間が「2004年〜2015年」となっており(瀬戸口隧道内は2014年〜2025年だった)、期間が満了していた。
(→)と思ったら、すぐ先に、瀬戸口隧道で見たのと全く同じ最新式の温度計とプレートがあって、この穴での調査が現在(2014年〜2025年)も続いてることが判明したのだった。
せっかくなので、この隧道の現在・最高・最低の3温度を記録しておくと(括弧内は比較用に瀬戸口隧道の数値)、最高26℃(30℃)、最低3℃(-5℃)、現在6℃(6℃)という具合である。瀬戸口隧道と比べると、気温の変化がだいぶマイルドだということが分かる。
仮に、瀬戸口隧道の最低気温(-5℃)が冬の外気温だったと仮定すると、真冬でも零下に下がることが決してないこの場所は、体感では温かみさえ感じられることだろう。
雪中隧道といえば、ネーミングはとても寒そうだが、実際の冬の旅人にとっては、雪崩、吹雪、極低温といった冬山道の死の危険の全てから身を守ることが出来る、とてもありがたい緊急避難所だったのかもしれない。今まで、冬の雪中隧道の気温に意識を向けたことがなかったが、この温度計のおかげで、新しい気づきが得られた気がする。
いたいた〜。
いましたよ。コウモリさんたち。
瀬戸口隧道では見ることが出来なかった彼らだが、純然たる素掘り隧道であるこちらには、いた。
まるまると太っているように見える、つややかなで大きな個体が、鈴なりというほどではなく10匹ほど、天井から大人しく垂れていた。
生息地と呼べるほどの数ではなさそうだが、とりあえず、いましたという報告まで。
探索者的には、このくらいの数だとありがたいな(笑)。
入口が封鎖されていないし、研究者も入っている。
そこだけ見れば、ここは廃隧道ではないようだが、かといって日常的に利用されている隧道では100パーセントない。
井之川氏の記憶にある昭和40年代頃と現状の決定的な違いが、そこにあると思われる。
隧道の状況が、井之川氏が通行した当時と較べ、何がどのくらい変化しているのかは分からないが、個人的な印象としては、そう大きく変わっていないように想像する。
もともと照明のない、素掘りで、狭い……、このように探検めいた穴だったのだと思う。だからこそ、井之川氏の印象にも強く残ったのだろう。自分自身の体験に照らしてみても、3才の時に通ったトンネルなど一つも憶えてはいない。しかし、もしこのトンネルを通っていたら、このトンネルなら、記憶に残ったかも知れないと思うのだ。
ぐぐぐぐ…
水没してるじゃないか……。
恐れていた展開が、現実になったのだったが…、まだこのくらいならば、我慢できる。
履いているのは長靴なので、このくらいの水没は、まだ問題ないのだ。とはいえ、先行きが心配になってきた。
そしてこの小さな地底湖を渡った先が、入洞時点からずっと見えていた“光”の在処だった。
おそらくそうだろうと思っていたが、案の定、光の正体は隧道本来の出口ではなくて、そこにある横坑から漏れてきた外光だった。
“雪中隧道”と見られる隧道にも、この地の隧道の宿命とばかりに、怪しげな横坑がついて回るのか。
それにしても、この横坑は妙に高いし、それに合わせるように洞床が盛り上がっているのが気になる。
単に天井が崩れて、本来の洞床が埋もれた結果なのか、元々こんな不自然なアップダウンがあったのか。後者だとしても、合理的な理由は思いつかないが……。
7:29 《現在地》
時計を確認すると、入洞から4分が経過していた。
横坑はかなり崩壊が進んでいて、本坑との接合部分も含めて、一面瓦礫の山と化している。これまで歩いていた洞床のように踏み固められておらず、典型的な廃隧道探索が踏む地面だ。
謎の洞床の盛り上がりも、やはり大規模な落盤の結果と思われる。水が溜っているのも、その影響だろう。
横坑は短く、奥行き3m足らずで外へ通じていた。
外へ出るか出ないかの位置でGPSの画面を見ると、入洞地点の穴沢から100mほど北上し、ちょうど片洞門の中間部に顔を出していると判断できた。
横坑の坑口前には、旧国道であり旧遊歩道でもあった道が、待ってましたとばかりに横たわっていて、不気味な穴からの逃げ場を提供してくれていたが、まだ私の地底任務は終っていない。
天井が崩れた分だけ高くなっている横坑分岐部分から北側を見ると、低い位置にこれまで同様のか細さを持った本坑が、重苦しい雰囲気で横たわっていた。
この探索の導入段階で、井之川氏の導きのままに、旧国道の北口でグーグルストリートビューを使ったことを覚えているでしょうか?
そこで坑口らしき“暗がり”を見つけているので、おそらく本坑もそこまでは通じているはず。あと7〜80mだ。
ぬぅ〜ん…
また、水没か……。
水没の先に出口の光が見えているのが、挑発的だった。
そしてこの水際の土の中で、1台のバイクが死んでいた。
見る人が見れば、車種まで特定できると思う。
半ば土に埋もれているのは、埋葬したわけではなく、廃車体のうえに崩土が落ちてきた結果だろう。
単なる投棄車両だと思われるが、わざわざこんな曰くありげな場所にしなくてもと思った。
大丈夫だよね? 人も一緒に埋もれてないよね?
心配していた水位は、それほど深くなかった。
長靴があれば、足を濡らさずにクリアーが可能だ。
ただし、水はきれいではなかったし、そこを抜けたあとも、かなり泥濘(ぬかるみ)が強くなってきた。
どうやらこの隧道、かなりの数のコウモリが生息していた模様だ。
探索時に見た数は10匹程度だったが、この後半戦に入って洞床に堆積したグアノの量が凄いことになってきた。水も墨汁のように濁っていたし、生物的な匂いも強い。
たまたま私の探索時に留守だったのか、この年は越冬の場所を変えたのかは分からないが、たくさんのコウモリがここに住んでいた形跡が強かった。
隧道は全線にわたって上り勾配であって、川下に向かっていることと矛盾があるが、隣にある片洞門の旧国道とリンクしていた。
泥濘んでいる以上には特にニュースのない後半戦だったが、黙々と歩いた私の前に終わりは近い。
近づく出口に安堵はすれど、峠越えの隧道とは違って、突破自体にカタルシスを感じられないのは、やむを得ないことだろう。
ただでさえ盛り上がりに欠けた隧道貫通シーンなのに、大量のゴミか廃材か分からないものが出口付近を半閉塞させていたので、ますますトーンダウンする。
よく見ると、隧道の出口付近に散らばっていたのは、ゴミというよりも、この一帯が観光地だった時代の哀れな名残りたちであった。
散らばった、「R353」(国道353号)の案内看板が、悲しみを誘った。
少し話が脱線するが、この瀬戸峡という場所も、以前は観光客で賑わっていたのだろうと思う。
一昔前まで、あまり有名ではない、そこそこな観光地にも、ちゃんと持たされる花はあった。子どもたちの遠足とか、敬老会のちょっとした旅行とか、地域のコミュニティに彼らの活躍の場があったと思う。
しかし、現代では全国区に名が知れ渡った覇権観光地に客が集中している感じがある。
強い観光地が、強くなりすぎたのだと思う。
最大の原因は、日本中の交通が便利になったことだろう。数の正義で強者に集中的に投資された、しごく真っ当な結果といえる。
強い観光地は全国どこからでも行きやすくなり、効率的に訪れられるようになったが、整備が遅れた2流以下の観光地との格差が拡大した。
もちろん、逆の流れもあるだろう。
敢てマイナーに目を向けたい旅行者は、たくさんいる。
しかし、そんな彼らの多くは集中しないことに美徳を感じていて、稀にブームになっても一過性のものである。新たな覇権を生むことはない。もし地域が流行に気付いて、それで地域おこしを始めたときには、ピークを過ぎている。
マイナーな観光地の維持放棄された風景を、私が旅先で見ない日はほとんどない。
この片洞門が、遊歩道としての役目を追われる直前に掲示されてたらしき看板も捨てられていた。
瀬戸口隧道で見た看板は「中里村」だったが、こちらは「十日町市」になっているので、平成17(2005)年の合併以降のものだと思うが、表明されている内容は、瀬戸口隧道の南口から先(南側)を封鎖するということで、全く同じだ。
「安全を最優先に…」と、規制への理解を求める文言が書かれているが、突然落石にあたって観光中に死にうることを許容できなくなった、人の命が何物よりも重く受け止められる現代の日本の社会は、自己責任での安全管理を必須とする旧時代的マイナーな観光地とは、きっと究極に相性が悪い。
観光は安全になされるべき「ではない」と主張する人は少ないだろうが、そもそも観光地を選択する余地が少なくなってきている現実は如何ともしがたいものがある。
だからこそ、この「山さ行がねが」が流行っているのだが。
塞がれた峡谷を潜り抜けて、人里へ生還でございます。
ただし、一番危険な宿題を、残してきてる。
宿題をしに、帰ろうねぇ。