道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 机上調査編

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2021.02.10


本編内で既に2回、ミニ机上調査編を行っており(その1その2)、それぞれ剣(つるぎ)付近と旧神石ホテル付近の昔の風景を、古い観光絵葉書で偲んでみた。
ここでは内容の重複を避け、次の全5章の項目について机上調査の結果を紹介したい。

  • 第1章 広域交通から見た神龍湖の位置と、県道三原東城線の路線史
  • 第2章 帝釈峡におけるダム建設以前の観光開発計画
  • 第3章 帝釈川ダムの建設に伴う道路整備(旧々道時代)
  • 第4章 帝釈川ダムの嵩上げに伴う道路整備(旧道時代)
  • 第5章 旧紅葉橋および旧々紅葉橋の古写真をたくさん見てみよう

第1章. 広域交通から見た神龍湖の位置と、県道三原東城線の路線史


今回の探索は、片道3kmほどのかなり狭い範囲で行われたものだ。
主軸となったのは広島県道25号三原東城線で、その2世代の旧道を探索した訳だが、県道の全体像についてはほとんど紹介する機会がなかったので、これを本章のテーマとしたい。

右図は神龍湖周辺の広域地図である。
帝釈川の谷である帝釈峡は、上帝釈、神龍湖、下帝釈という3つのエリアで構成される。
県道三原東城線は、このうち神龍湖エリアで帝釈峡を横断しつつ、庄原市の東城地域と府中市の上下地域を結び、さらに南下して瀬戸内海沿いの三原市に達する、広島県東部を南北に横断する約62kmの長大な路線である。

現地探索によって、神龍湖畔にこの県道の2世代分の旧道が確認された。一つは旧々道で、帝釈川ダムの完成に伴って大正13年頃に完成した道。もう一つは旧道で、帝釈川ダムの嵩上げによって昭和5年頃に完成した、旧々道より平均して10m程度高い位置に整備された道だ。
果たして、旧々道が整備された大正13年頃、そして旧道が整備された昭和5年頃において、この道はどんな名前で、誰が管理する道だったのだろうか。

広島県の県道の変遷を調査してまとめておられる「ちゅうごくDrive Guide」のサイトで調べたところ、現在の路線名である県道三原東城線が認定されたのは昭和29(1954)年のことで、現行道路法の下で広島県が認定した県道の第一弾に含まれていることが分かった。また、主要地方道指定も同時に行われていた。

さらに遡って旧道路法時代の路線を調べると、大正12(1923)年の県道上下東城線の認定に行き着いた。
前掲の広域地図や、後述する各種文献に照らしても、この県道上下東城線というのが、県道三原東城線の前身となる、旧道路法時代の一貫した路線名だったようで、旧々道も旧道も、この路線の一部として建設されたようである。
大正12年という認定時期から考えると、大正9年の旧道路法公布時に一旦は郡道に認定され、それから間もなく郡制廃止に伴う郡道廃止によって県道に昇格したグループと推測された。

しかし、東城と上下を結ぶこの一連の径路が、このように早い時期に県道に取り上げられた背景となるような、例えば近世の「○○街道」のような歴史的道路の存在は確認できなかった。
途中に大量の交通需要を生み出す規模の集落もなく、強いていえば、神龍湖や帝釈峡が持つ観光の要素が、県道を生み出した原動力ではないかと思われた。
次の章では、帝釈峡が全国区の観光地にまで上り詰める入口となった初期の開発と、その中での道路整備について見ていこう。



第2章. 帝釈峡におけるダム建設以前の観光開発計画


右図は、明治31年の地形図と、昭和26年の地形図の比較である。

前者は、帝釈川ダムが作られる以前の風景で、当然のことながら神龍湖は存在しない。
道に目を向けると、帝釈川の東側には現在の県道の前身となった道があるが、西側にはない。帝釈川の東側にあった道は、旧々道よりもさらに古い、いまは完全に湖底に消えてしまった旧旧旧道であろう。しかし、地図上の描かれ方を見ても、荷車さえ通れない里道に過ぎなかったようだ。帝釈川を横断して東城と上下を結ぶ幹線道路は、まだ存在しなかったのである。

また、この地図には現在の犬瀬に地名の注記がなく、集落自体存在していない。
この辺りが帝釈峡の観光拠点の一つとなって、土産物屋や宿泊施設が建ち並ぶようになったのは、神龍湖の出現後であったことが窺える。

比較のため掲載した昭和26年版の地形図に描かれているのは、旧道だ。
この間に旧々道の時代があったわけだが、残念ながらそれを描いた地形図は存在しない。
大正15年版というものがあり、時期的には旧々道の時代だが、「鉄道補入版」ということで、旧々道の出現は反映してはいなかった。



『東城町史 第6巻近代現代通史編』には、帝釈峡が観光地として全国区の存在になっていくまでの経過が述べられており、その初期における懸案として道路整備のことも取り上げられている。

先に帝釈峡には上帝釈、神龍湖、下帝釈という3つのエリアがあると述べたが、このうち最も著名で古くから開発されていたのは、上帝釈である。
上帝釈の中心は、旧帝釈村未渡(現在の庄原市東城町帝釈未渡)にある、帝釈天を本尊とする永明寺で、富や力をもたらす利益があるとして、中世以来、当国(備後)ならびに周辺各国(備中、美作、伯耆、因幡、出雲、石見)から多数の参拝客を集めていた。また、神橋とも呼ばれた雄橋の景勝も同地区のもので、帝釈峡の観光は、この上帝釈から始まった。


『広島県備後国帝釈風景利用策』より

帝釈峡を近代的な観光地として積極的に開発していこうとする動きは、明治末頃から帝釈村の人々が中心となって行われた。
まずは絵葉書の発行によってその優れた景観を世に知らしめることから始まり、次いで道路やホテルなどのハード面の整備を進めるべく様々な調査が行われた。

右図は、永明寺住職が発起人となって設立された帝釈保勝会が、造園家の大家で「公園の父」とも呼ばれた本多静六氏を招いて大正8年にまとめた、『広島県備後国帝釈風景利用策』という冊子に掲載されている地図だ。
ここには赤線で示した「新設道路(の計画線)」があり、永明寺から雄橋、雌橋を経て犬瀬に至る、後の帝釈峡遊覧道路(現在は犬瀬〜雄橋間の一部が通行止)に相当する道が既に計画されていたことが分かる。
それ以外の「既設道路」として描かれている道はいずれも里道や村道であり、まだ県道に昇格した道がこの地域にはなかったことも分かる。

同書の中で著者の本多静六氏は、開発全体の方針について、「濫(みだ)りに人工的設備を加ふる必要はない、ただ此天然の景物を利用し之を完全なる遊楽の地となす必要がある」と結論づけ、本来の景観を活かした利用を求める一方で、「交通機関」という章を特別に設けて、次のようにも述べている。
山水風景地に対する交通機関は恰(あたか)も美術品を収めたる宝庫の鍵の如くに重要なもので、如何に絶好絶美なる山水風景ありと雖も、道路なくんば宛(あたか)も是れ宝庫中に仕舞切りになって居て、出して見ることの出来ない美術品も同様」であると。

一帯は中国山地のただ中にあり、もとより交通に恵まれていないので、こうした指摘は正鵠を失わないものだった。
同書は、帝釈峡と周辺地域を結ぶアクセスルートの部分については、鉄道等を含む将来の整備に期待すると述べるに留めているが、域内における観光道路の整備については、様々な計画ルートを具体的に挙げて、その線形や幅員についてまで詳細な提案をしている。

しかし、現実にはこの本多氏の周到な計画を元に整備が進んだわけではないようだ。
大規模な開発を行うに当たって決定的に必要なものは、潤沢な資金であった。
この点の解決がなされなければ、いかに帝釈峡の景観に見るべきものがあったとしても、短期間での道路整備はあり得なかった。
そして、そんなあり得ないようなことが実現したのは、外部からの資本の力であった。



第3章. 帝釈川ダムの建設に伴う道路整備(旧々道時代)


大正2(1913)年、両備地方における帝釈川と東城川の電源開発を企図した実業家の速水太郎らは広島岡山両県に水利利用を出願し、7年に許可を得た。そして翌年、両備水電株式会社が設立されると、同社は帝釈川発電所および、その貯水池である帝釈川ダムの建設を発表した。
そして大正9年4月に着工し、13年3月に早くも完成して発電が開始された。両備水電は工事途中で合併により山陽中央水電株式会社へ変わっていた。帝釈川ダムの完成によって帝釈峡の中間部に神龍湖という新たな景観が誕生した。
このようなことはウィキペディアや町誌にも出ているが、この建設の前史として、将来を暗示する次のような出来事があったことは、あまり知られていない。

『発電水力 1976年3月号』の記事「発電所今昔」によると、当初このダムは高さ60mで計画され、位置も現在地の下流2kmを予定していたという。
しかし、何らかの理由で現在地へ変更されることになったため、観光や信仰の対象となっていた雄橋や、その下流にある雌橋が水没することが判明した。そのため地元を中心にダム建設反対運動が繰り広げられたというのだ。
結局、会社はダムの高さを53.1mへ縮小し、雄橋や雌橋の水没を回避したうえで、着工の許可を得たのだという。

この話は町誌にはなく、『発電水力』という雑誌で見つけたのだが、完成から僅か数年でダムの嵩上げが発表された背景に、この着工直前の計画変更があったのではないかと思えてならない。会社は当初から、帝釈川に高さ60mのダムを欲していたのである。

また同誌には、ダム計画が地元に申し込まれた際、ダムを築造して電気を作るなどということは全く地元民に信用されなかったため、会社は関係の村に金銭を差し出して誠意のほどを示したことや、水没地の補償についても、収入の乏しい寒村のことで割合にスムースに進んということが出ていた。
これだけを読むと、テクノロジーに明るくない田舎の村が、大会社のしたたかな手管によって、いとも容易く先祖代々の土地を明け渡したような印象を受けるし、実際そうであったのかも知れない。しかし、数年後に訪れる再度の交渉の機会には、会社に対して村は様々な要求を行っている。これについては次の章で解説したい。


さて、少しここで整理をする。
帝釈川ダムの建設は、大正9年に着工し、13年に完成している。神龍湖が誕生したのも、大正13年である。
また、帝釈川を横断する県道上下東城線が初めて認定されたのは、大正12年であった。
さらに、帝釈峡一帯が内務省によって大正12年3月に、史跡名勝天然記念物保存法による名勝として指定を受けのであった。

これらの出来事は、いずれも同時進行的に進められていたことの成果が集中して現われた結果であり、いずれも帝釈峡の観光にはプラスとなった。
ミニ机上調査編その1で紹介した、『帝釈峡十二勝』という今日でいう観光ガイドが刊行されたのは、このような第一次帝釈峡ブームと呼べるような時期であった。
著者で歌人の安田義則は、同書に寄せた「帝釈峡に就て」という撰文で、帝釈峡の近年における開発の功労者について、次のように述べている。

神龍湖は帝釈川及び高光川の水を受くる関西第一と称せらるる人為的堰塞湖なり。(中略)山陽中央水電会社が大正8年以降巨費を投じ、此の一大工事を完成せしより、本峡の名声俄に天下に揚り、遂に大正12年3月名勝地として内務省より指定せらるるに至る。(中略)その形龍に似たるを以て名づく。(中略)湖辺には屏風岩、幕岩、矢不立城山及本峡第一の秀峯たる上剱嶽並(ならびに)鐵橋紅葉橋あり。(中略)始めて神龍の大湖は現出し、交通の便開けて、雄橋下流の隠れたる絶勝帝釈峡を天下に紹介することを得るに至る。
『帝釈峡十二勝』より

このように、帝釈川ダムの建設によって交通の便が開けたことで、雄橋より下流の帝釈峡の景観が世に知られるようになったのだと、ダム建設の功績を述べている。
(なお、前掲の『発電水力』も、ダムの工事用道路の整備について述べているが、それはダム本体附近にあったもので、県道沿線については触れていない)
さらに同文の後段では、より具体的にダム開発と観光開発の関係について述べているので紹介しよう。

斯くの如き天下の絶景が、鉄道沿線を距(さ)ること遠きと、何等遊覧設備なきとを以て、空しく埋没するを遺憾とし、山陽中央水電株式会社社長速水太郎氏は、広島県知事、広島県神石支庁長の賛助を得て、全然公益的見地に立脚し、毫(ごう)も営利を眼中におかず、資金10万円全部払込の帝釈峡開発株式会社を組織し、資金の大部分を引受け、道路の開鑿、橋梁の架設、ホテルの経営、淡水魚の飼育等を計画し、既に測量等万端の準備を了(おわ)りて将に工事に着手せんとせり。完成の後に在りては天然の風光に更に人工の美を加へ、遊覧至便、座して絶景を勝するを得べし。
『帝釈峡十二勝』より

『帝釈峡十二勝』より

このように、山陽中央水電社長の速水太郎氏の公益重視の非営利的精神から帝釈峡開発株式会社が組織され、同社によって帝釈峡の観光開発に関わる道路や橋梁の整備を行う計画がまさに動き出そうとしている……ということが述べられている。
(社長の会社は、一旦は雄橋や雌橋を水没させる計画を立てたくせに、変わり身の早いことである)

これはともすると、鉄橋や隧道を有する旧々道の整備について述べているように思うかも知れないが、実際は違う。
この文章が編まれたのは昭和2年で、私が探索した旧々道は既に完成した後なのである。ここに「計画中」と書かれている路線は、別に存在していた。

右図は、同書に掲載されている「帝釈峡平面図」の一部で、犬瀬周辺をピックアップしている。この地図は北が上ではないことに注意を要するが、地形図よりも遙かに大きな1万分の1という縮尺で、旧々道が描かれている!!
旧々道の代表的な構造物である紅葉橋が、その名前の注記と一緒に掲載されており、その両側にはそれぞれ隧道(旧々5号隧道と旧々4号隧道か)も描かれていて、興奮した。

ただし、この地図が単純に雑なのか、調製した時点では実際この通りであったのかは不明だが(おそらく前者)、全体的に隧道の本数が足りないし、特に犬瀬地区以西では、実際の旧々道は高光川に沿っていて、剣岩に隧道を穿っている(旧々1号隧道)ことが同書本文中でも述べられていたにも拘わらず、図では明治31年の地形図に見られた里道の如き山越えルートを採っていて、現実とは大きく食い違っている。
とはいえ、旧々紅葉橋を描いた地図としては貴重なものといえよう。

さて、前述した、速水太郎氏による計画道路というのは、この図に赤線で示した道のことを指している。
図中では注釈として「朱線ハ会社ガ測量ヲ了リ新設道路ニ着手セントスルモノ」とあるのだが、見ての通り旧々道とは別に存在している。
この道は、現在の三坂地区(レポートの最終地点)で県道を分岐し、帝釈川の左岸に沿って雌橋、雄橋を経由し、帝釈未渡の永明寺門前に至るもので、先に紹介した本多静六氏提唱の観光道路とほぼ同じ区間である(ただし、ほぼ左岸を通るなど通過位置は異なっている)し、後に実現する帝釈川遊覧道路の前身といえる道だ。

しかし、この道路も建設されることはなかった。
なぜなら、山陽中央水電自身が早々にダムの嵩上げを持ち出して、同社社長の速水太郎氏が立案した遊覧道路の予定地を水没させることにしたからである。


ところで、本当であればこの辺りで、「旧々道は山陽中央水電が帝釈川ダムの水没補償として、○○が整備した、全長何キロの新設道路で、隧道は何本で、橋は何本であった」などということを総括したいのだが、こんなにいろいろな資料を見たのに、上記のような内容を明言している資料を全く見つけられなかった。
確かに大正時代の話であるから、記録が少ないというのは間違いないことだろうが、少なくとも6本もの隧道と1本の紅葉橋という名のある鉄橋を生み出した旧々道、県道上下東城線の付替道路について、もう少しは言明があって然るべきだと思うのに、ない。

なぜ、旧々道の整備について述べた記録が少ないのか。
最大の理由は、この道が非常な短命であったからではないだろうか。
開通時点では、『帝釈峡十二勝』も明確に誉めているように、紅葉橋の建設なども偉業と捉えられたに違いないが、あっという間に役目を失って無残な廃墟と化したため、地元民にとっても後生に語り伝えづらい、ちょっと微妙な存在になってしまったのではないかと推測する。
それともう一つのちょっとメタな理由は、旧々道の最大の受益者である犬瀬地区を含む旧神石町(現在の神石高原町)が厚い町誌を刊行しておらず、語るべき場自体が乏しいということもあるだろう。

私や、おそらく多くの読者も、今回の探索で最も興味を持ったであろう旧々道について、誰が、いつ、いくらで、どうやって建設したのかという具体的な内容は、全く発見できなかった。(山陽中央水電がダムの付替工事として行ったことは、ほぼ間違いないと思うが)
現地を少し見て回ればたくさんの遺構が目に付くのに、これほど記録されていないとは……。
もはや、語られていないこと自体にも意味があるような気がしてくる、とことんまで見捨てられた旧々道だったようである…。


補遺 〜旧々道を語ってくれる貴重な文献について〜

後年に編纂された町誌などの文献が旧々道を無視するのであれば、あとは旧々道が現役だった時代の文献に頼るしかない。
だが、旧々道の現役時代といえるのは、大正13年から昭和6年までの実質7年間だけなので、この期間の文献というだけでもハードルが高い。
それでも頑張って探し当てた文献は2冊。

1冊目は、これまで何度も引用している『帝釈峡十二勝』である。これが昭和2年編集翌年発行なので、バッチリ該当する。
同書にはこれまでに引用した内容の他に、ズバリ「紅葉橋」という頁があってとても参考になるのだが、旧々紅葉橋については、この机上調査編の第5章で集中的に取り上げるので、ここでは触れない。
もう1冊見つけた文献は、警察新報社が発行した『警察新報』という雑誌の昭和4年8月号である。
この号に帝釈峡を紹介する小さな記事があり、湖畔の県道について次のように触れている。

本峡を横断せる上下東城線県道は遊客を運ぶ自動車の往来繁く、犬瀬を中心として舟遊びに参集する者が頗る多くなった
『警察新報 昭和4年8月号』より

たったこれだけの記述に、興奮を禁じ得ない!
短い記述だが、内容は盛りだくさんだ。 まず、昭和4年当時の県道の路線名「上下東城線」が、当時の文献から初めて確かめられた。
そして、旧々道を観光客を乗せた多くの自動車が行き交っていたこと。現地で見つけた小さな隧道たちも、ちゃんと活躍していたんだな!
さらに、犬瀬が拠点として開発され、現在と同じように舟遊びの舞台になっていたこと。犬瀬地区の開発は、嵩上げ以前から行われていたことが分かった。

これらの本来なら町誌にも書いておいて欲しい基本的な内容が、ようやく文献から得られた。
いずれも現地で見た景色と矛盾はなく、同時に意外性もないが、推定だけで終わるのとは段違いの満足度だ。ありがとう、警察!



第4章. 帝釈川ダムの嵩上げに伴う道路整備(旧道時代)


『東城町史 第6巻近代現代通史編』は、ダムの嵩上げが帝釈峡の観光開発に及ぼした影響について、次のように書いている。

昭和初期には帝釈峡の開発が進んだ。その一つのきっかけとなったのは、帝釈川貯水池堰堤の嵩上げ問題であった。昭和3(1928)年3月6日、帝釈川貯水池堰堤を30尺(9m)嵩上げすることについて、山陽中央水電株式会社と帝釈村との間で契約が結ばれた。その骨子は、水位上昇にともなう土地買収に帝釈村は尽力する、その見返りとして会社は1000円を村に寄付する、というものであった。このとき、帝釈峡開発株式会社(中央水電が昭和2年に設立)が帝釈峡遊覧道路を完工すること、もし同社がこれを遂行しない場合は、山陽中央水電株式会社が継承遂行することが文書で確約された。さらに昭和5年4月15日に三者の間で工事に関するより細かな契約が結ばれた。
『東城町史 第6巻近代現代通史編』より

ダムの嵩上げは昭和6年に実行されるのであるが、その3年前の昭和3年には早くも会社と帝釈村の間で嵩上げについて合意されたという。ダム完成からわずか4年目のことである。
このとき村は新たな水没用地の買収に協力する見返りとして会社から1000円の寄付を受けると共に、会社が帝釈峡遊覧道路を建設することを条件とした。
この遊覧道路は、嵩上げ前にも計画され、設計まで終わっていたことを前述したが、嵩上げのため新たなルートで建設されることになった。
今回は村も積極的に会社との交渉に当たり、水没に対する見返りを求めたことが分かる。

なお、ここで語られているのは比婆郡帝釈村に関することで、犬瀬集落や紅葉橋があった神石郡永渡村や、紅葉橋の対岸に当たる比婆郡新坂村ではどのような交渉が行われたかは、不明である。
しかし、湖畔を占めるこの3村の一部住民たちは、この後、嵩上げに対する大規模な反対運動を展開したことが記録されている。

ダム嵩上げについては、住民や内外の名士による反対運動があった。昭和3年3月、神龍湖のダム30尺嵩上げに反対し、3村の村民大会が開催された。また、県出身の名士により帝釈峡保存会も組織された。5月6日には帝釈村で反対集会が開催され、翌日も集会、村長に批判の声があげられた。帝釈峡保存会では8月11日より14日まで連日各地を巡回して反対演説会を開催した。(中略)東京の史跡名勝天然記念物保存会では、堰堤増築許可の形勢に対し、内務省に建議、そしてもし正式決定の場合は帝釈峡保存会と提携して行政訴訟を起こす構えもとられた。増築許可に対し、付近住民は、地元町村に買収があったのではないかと調査・摘発をすると意気込んでいるという報道もされた。

絵葉書(広島県立文書館公開分)より
(チェンジ後の画像は2020年12月に撮影したもの)
強力な反対運動が展開されたが、ダム嵩上げ工事は、昭和4年2月、工事により風致を損傷しないことを条件に許可された。それでも翌年1月、工事により天下の名勝が破壊の危機に瀕しているということで、地元住民有志により県知事に雌橋保存についての陳情が行われるなどの動きもあった。
『東城町史 第6巻近代現代通史編』より

右図は、嵩上げ工事の完成によってダム湖に水没した雌橋の新旧比較画像である。
嵩上げ前の大正15年の絵葉書と、2020年12月に私が閉鎖されている遊歩道(=帝釈峡遊覧道路)から撮影した画像を比較しており、いずれも下流側坑口を撮したものだ。
かつては舟で洞内へ分け入って鍾乳石を見ることが出来たという雌橋は、名勝地指定を行った内務省自らが許可した嵩上げにより、永劫に失われたのである。

嵩上げは計画通り進められ、昭和6年にダム高は従来の53.1mから62.1mとなり、水位もその分だけ上昇し、貯水量は8割近くも増強された。
地元住民の関心は次第に遊覧道路建設問題へ移っていったという。

その後の焦点は、遊覧道路建設問題に移り、帝釈峡開発による観光事業の発展を目指す動きが顕著となる。とりわけ昭和5年11月の三神線(芸備線の一部、小奴可駅〜備中神代駅間)開通により東城は帝釈峡の東の玄関口となると、関西や岡山方面の遊覧客で賑わうことになった。(中略)
しかし、その後(遊覧)道路の設計を4回にわたって変更し、昭和11年11月10日にようやく道路工事の全線許可を得、12月犬瀬より着工した。
『東城町史 第6巻近代現代通史編』より

明治期以来の悲願でもあった、犬瀬と永明寺を結ぶ帝釈峡遊覧道路は、太平洋戦争のため昭和15年に一旦中断となり、戦後再開し、昭和33年になってようやく(歩道として)完成した。
これが現在の帝釈峡遊歩道で、中国自然歩道にも指定されているが、本編で述べたとおり、平成8年から落石の危険があるとのことで長らく通り抜けが出来ない状態になっている。
この道についてはまだまだ情報もあるが、本編の主題と離れるのでこのくらいにしよう。

肝心の本編の主題である県道の付替(旧々道から旧道へ)については、なんとここでも情報がない!
最大のソースである東城町誌も、記述の中心は遊覧道路についてのことで、より重要な幹線道路だったはずの県道には、ただの一言も言及していないのである。
状況的におそらく、山陽中央水電が独力で県道の付替工事をおこなったのではないだろうか。
もし地元にも大きな負担が生じていれば、もっと注目され記録もされたと思われる。
山陽中央水電の社史のようなものが見つかれば、この2回にわたる県道工事に関する核心的な情報が得られるかも知れないが、現時点では体系だった記録は皆無なのである。


帝釈峡開発の初期の前提となった自動車が通れる県道の整備については、神龍湖と共に水電会社によってもたらされたのだと推測される十分な情報はあるものの、そのことを直言した記録はないという不思議な状況になっている。
その後の帝釈峡開発の進展については、道路整備との関わりも薄いので、本稿では省略する。
気になるなら、【例のハクチョウ】に聞いてくれ(話したそうだったから)。


補遺2 〜旧道を語ってくれる貴重な文献について〜

利用期間が極めて限られていた旧々道と異なり、旧道は昭和6年から昭和60年頃(区間によって少し前後する)まで、おおよそ半世紀にもわたって幹線道路として活躍し続けたのであるから、その存在に触れた文献は多くあると思われるが、体系だった記録が乏しいことは旧々道と同様であり、開通から時間が経過していない時期の文献から、開通当時の情報を得ることにした。
ここでも2冊の文献を紹介しよう。

1冊目は、広島県教育会が昭和8年6月に発行した『県民読本』である。

紅葉橋は犬瀬湖に架せられた三百余尺の鉄橋で、この付近七つの墜道もあり、秋は紅葉燃ゆるが如くこのあたりを染め一大美観を呈する。
『県民読本』より

昭和8年というのは嵩上げ完了から時間が経っておらず、本当に嵩上げ後の記述であるか微妙な時期だが、別の項の雌橋を紹介する文章に、「近時其の雄姿を湖中に没するに至ったのは惜しい」とあるので、嵩上げ後の記述と断定して良かろう。

さて、現在も移設されて現存している旧紅葉橋の橋長は約84m。対して上記引用文中では「三百余尺」(100m以上)とあって、少しオーバーだ。
だが、その直後に現われる注目すべき記述……「この付近七つの墜道もあり」……は、オーバーではないと思いたい。

しかし、7本の隧道とはいったい?
右図の通り、探索で現存ないし跡地を確認した隧道の数は、旧道が5本、旧々道が6本だった。
したがって、旧道か旧々道の隧道のどちらかだけをカウントしたとしても、7本にはならない。

この差が生まれた可能性はいくつか考えられる。
一つは、旧道にはかつて今より2本多い7本の隧道があったという説だ。
しかし、この説を裏付ける資料はなく、同時に否定できるだけの証拠もないのが率直なところだ。

もう一つの説は、旧道の5本の隧道に、旧々道由来だが廃止を免れた2本の隧道(旧々3号と旧々4号)を合わせて7本だったというもの。
おそらくこれが正解だと思う。平成時代まで犬瀬地区内の2本の旧々道隧道が健在だったのだから、昭和8年時点でもそうであったと思う。


2冊目は、港湾協会が発行していた雑誌、その名も『港湾』の昭和9年4月号である。
同号に掲載された「漫録 天工鬼作の帝釈峡」という記事は、当時の観光コースに沿って峡内の風景を描写しており、永明寺から雄橋、雌橋と山道を下ってきて、ダム湖に水没した雌橋付近で湖面遊覧船に乗り換え犬瀬へ向かっている。犬瀬に近づくところから引用しよう。

山峡の空は広く展(ひら)けて来て湖の波は明るう光る。長く半島状に突出した矢不立城山を廻って出て来ればここは犬瀬、神龍湖遊船の発着所で、山陽線福山駅と三神線東城駅を結ぶ県道が通過してをり、断崖に架け渡した鉄橋、巌角の料亭、岩腹を貫通する幾つものトンネル、トンネルを出入りして見る青湖と突兀の巌山、何れをして奇異の瞳を瞠(みは)らせぬはない。
『港湾 昭和9年4月号』より

鉄橋、いくつもの隧道、そして岩場に建つ料亭……、まさしく私が目にした風景に他ならない。
私が見たものには全て「跡」の文字が付きはするが、想像を逞しくする必要もないほど、完璧に同じ物を見たと感じられる。

以上のような文献による断片的な観察によって、とりあえず旧々道から旧道へのバトンタッチは順調に行われたことが窺い知れたのである。



第5章. 旧紅葉橋および旧々紅葉橋の古写真をたくさん見てみよう


ここまでほとんど写真もない気むずかしい解説にお付き合いいただき、ありがとうございます。
最後は一転してヴィジュアリーに締めたいと思う。
これまで紹介していない、旧々道や旧道を撮した絵葉書が、まだたくさんある。
ここでそれらを紹介したいが、全てが紅葉橋関係だ(笑)。
紅葉橋が写っている絵葉書はたくさん残っているが、県道関係で、それ以外の被写体はあまり好まれなかったようである。

まずは、 ――旧紅葉橋編―― から。




土木学会附属土木図書館「戦前土木絵葉書ライブラリー」より「神龍橋」

旧紅葉橋の古写真として、とびきり美しい1枚だ。
土木学会附属土木図書館の「戦前土木絵葉書ライブラリー」コーナーで公開されている。

正確な撮影年は不明だが戦前の撮影であり、移設に際して失われたオリジナルの床板や欄干、そして親柱もしっかり見える。
この見事な長径間トラスそのものの構造については、詳しい解説がネットにもたくさんあるので私は踏み込まないが、橋の周囲の景観にも見どころが非常に多い。

この写真では、橋の直下にある旧々道の両岸橋台の状況がよく分かる。
私が迫真の覚悟で探索に臨んだ対岸の旧々道坑門も、今と少しも変わらない姿で見えているし、よく見ると現在もたった【1本だけ残っている親柱】も確かにある。
一方で、現在は建物の基礎などに上書きされて消滅したとみられる此岸橋台へ通じる旧々道の末端部も、この時点では健在であったことが分かる。
また、湖面の満水位を示唆している湖岸の顕著な“線”が、旧々橋台にほぼ接していることもポイントだろう。微妙に冠水するくらいの満水位だったようで、これは素人考えだが、嵩上げをあと2m控えめにしていれば県道の付替などよほど小規模で済んだような気もするが、当時の水電会社やその技術陣の考え方は違っていたのだろう。




「RCC PLAY!」の動画サムネイル

さらに、動画も発見された!
RCC中国放送が運営する動画配信サービス「RCC PLAY!」が公開している『ひろしま 戦前の風景』に、昭和15年頃に撮影された帝釈峡の無声記録映像があり、1分20秒付近に旧紅葉橋が登場する。
また、2分17秒付近には湖畔を走る道路と隧道が写るが、これは三坂第二隧道の遠景であろう(近いアングルの写真)。



この橋の絵葉書はまだあるが、次へ行く。
湖面に咲いた徒花、短命を宿命付けられていた“幻の橋”、 ――旧々紅葉橋編―― ご開帳!



絵葉書(広島県立文書館公開)より
「大日本五名峡の一 帝釈峡紅葉橋」

旧紅葉橋の絵葉書とほぼ同じアングルで撮影された、こちらは旧々紅葉橋。
これもまた大きく立派な橋である。昭和3年の『帝釈峡十二勝』は、特別に頁を割いて本橋を次のように紹介している。

紅 葉 橋
神龍湖の中心たる高光川合流点の下位に当り、対立せる断崖を貫鑿して県道を連結す。二川の会注する処は、湖面広闊にして、溶溶たる水を湛え、周囲の巌嶂(がんしょう、中国語で直立した山のこと)、奇状百出、風光絶佳なり。帝釈川は至る処、紅葉の眺あり。許渾(きょこん、唐の詩人)の「紅葉青山水急流」の句より取りて、橋名となす。
『帝釈峡十二勝』より

かっこいい!!

「對立せる断崖を貫鑿して縣道を連結す」って云う表現が特に格好よすぎる! この語彙力を山行がに欲しいッ!

橋名の由来も、初めて知ることが出来た。
現地では正直、観光地にありきたりな名前だと思ったが、初代橋の忘れ形見だったことが知れて、急に愛おしくなった。
形を失い、名を残したか……。

絵葉書の画像の画像に戻るが、桁の型式としては2径間プラットトラスで、特徴的なのは鋼材を割り箸細工のように組み上げた中央部の巨大なトレッスル橋脚だ。
ちなみに日本一有名なトレッスル橋脚の橋は山陰本線の旧餘部鉄橋で、その完成は明治45(1912)年だから、技術的には大正時代に既に完成していた。
しかし、なぜ一般的なコンクリートの橋脚ではなく、採用例が少ない型式にしたのかという疑問は当然生じる。

次の絵葉書は、当時流行った彩色写真の絵葉書で、トレッスル橋脚がとてもよく見える。


絵葉書(広島県立文書館公開)より
「帝釈峡 神龍湖畔紅葉橋」

なぜ旧々紅葉橋はトレッスル橋脚を用いたか。
これは記録がないので完全に推測だが、深い谷の中央に高い橋脚を建てる方法として、部材の節約と湖面景観の維持という観点から、中空のトレッスルが有利と考えられたのではないだろうか。
後の2代目橋が敢えて橋脚を建てず、道路橋として未曾有の長大トラス桁で湖面を一跨ぎにしたのは、橋脚を建てたくないという思惑が強く働いたからでは。
橋脚を建てたくないなら吊橋型式が思い浮かぶが、架橋地点の地形は一方が岩壁に直接しているため、主索を支えるアンカレジを打つ余地がなさそうに思える。

おそらくこの旧々橋の橋脚は、水面下の部分も合わせると高さ30m以上あって、当時の技術では非常に太い橋脚にせざるを得なかっただろう。
その場合、工費や工期の問題がまず考えられるし、遊覧船が行き交う水面に視界を大きく遮る形の橋脚は喜ばれないと考えたかも知れない。

次の絵葉書は、湖面の高さから見上げ気味に撮影した橋の側景だ。
非常に高い橋脚であったことがよく分かるだろう。
橋の長さを70mとして大きさを比較すると、橋脚の高さは水面上に見える部分だけでも25m以上あるだろう。


絵葉書(広島県立文書館公開)より
「帝釈峡 神龍湖紅葉橋附近」

また、一般にトレッスル橋脚は、建設時の工期や工費の節約になるが(仮設橋に現代でもよく採用されている)、完成後の維持費は掛り増しになるとされる。

そうなると、これは穿った考えかも知れないが、橋を発注したのが水電会社だとして、当初から数年後にダムの嵩上げで架け替える腹づもりだったとしたら、維持費など気にせず当面の工費が安い橋を架けたいと考えたのかも知れない。


このような珍しい橋の型式から、その背景に想像を膨らませるのはとても楽しい。
しかし、残念ながらどこまで行っても想像だ。
近代土木遺産として賞賛を受け続ける2代目の橋と較べて、この初代紅葉橋の背景に関する記録はあまりに乏しい。
土木学会が公表している橋梁史年表にも記録がなく、あるのはたくさんの絵葉書ばかり。
だから、ビジュアルに頼って想像することばかりになるのが、この橋の限界である。

しかし、ビジュアルだけならまだまだある。



絵葉書(広島県立文書館公開)より
「帝釈峡 紅葉橋と隧道入口」

今まさに渡らんとするアングル!

トラスマニアではない私には、特に変わったトラス橋とは思えないが、とりあえずオブローダーの習性として、左の橋門構に見慣れた製造銘板が存在するのが目に付く。
ちなみに2代目橋のそれは現存(写真)していて、松尾鉄骨橋梁株式会社が昭和4年10月に完成させた桁であることが読み取れるのだが、初代橋はどこが受注したのだろう…。
また、この絵葉書のキャプションでは珍しく隧道にもスポットが当てられている。
橋の向こうに、私の冷や汗をたっぷり吸い取ってくれた旧々5号隧道(仮称)の橋台に邪魔される前の原初の姿が見えている。




さて、長かったこのレポートも、次の1枚を見てもらって、完結としたい。


最後の1枚も絵葉書だ。


だが、ネットで拾ったものではなく、読者のドルフィン氏から、直接お送りいただいたものだ。


どうぞ。


↓↓↓




絵葉書(ドルフィン氏提供)


これは、絵葉書の宛名面ですね。

帝釈峡 6.8.29 記念」の記念スタンプが捺されている。

これからご覧いただく写真面の撮影時期と同一ではないことは注意を要するが、

とにかく昭和6年以前の写真であることは確定している。



それでは、写真面をご覧下さい!!!


↓↓↓




絵葉書(ドルフィン氏提供)

何じゃこりゃーッ!!!

旧橋と旧々橋が同時に架かっているッ!

この2本の橋が上下に綺麗に重なり合う位置にあったことは、橋台遺構の位置から確定していたことではあるが、
それらが同時に架かっていた時期があり、その写真が残っていようとは、本当に驚いた。

現地でも、旧橋を旧々橋の真上に架けた理由は、旧々橋を足場として活用するためではないかと推測したが、
2本の橋が同時に存在している写真は、前記の推測の現実性を一層支持するものといえるだろう。

近代的な鉄橋の威容で、余人を存分に驚かせた初代紅葉橋だったが、水電会社の重役達の目には、
会社が作るべき明るい未来に向けて渡された、仮設足場程度に見えていたのかも知れない。

この写真が撮影されて間もなく、徒花の初代橋は撤去されたに違いない。
だが、バラされた鋼材が、どこかの橋へ転用された可能性は、あると思う。
その解明は極めて困難であろうが、今も橋として活躍しているなら……

今後、どこかの橋の上で突如、私に電撃が走る可能性…… ゼ ロ で は な い。
それはあなたのお住まいの近く、 か も し れ な い。
山陽中央水電が関わったどこかのダム周辺が、特に怪しい気がする。