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道路レポート 兵庫県道76号洲本灘賀集線 生石海岸旧道 机上調査編

所在地 兵庫県洲本市
探索日 2017.12.05
公開日 2024.03.15

 机上調査編 〜記録乏しき旧道の由緒に迫る〜


 第1章. 淡路一周道路の完成 現県道「上灘バイパス」

@
昭和3(1928)年
A
昭和42(1967)年
B
地理院地図(現在)

まずは歴代地形図のチェックだが、これについては探索前に概ね済んでいた。

@昭和3(1928)年、A昭和42(1967)年、B最新の地理院地図を比較すると、旧道から現道へと移り変わり、やがて旧道が荒廃し消えていくという、道の世代交代が見て取れる。

まず@では、今回探索した旧道が、太い二重線で表現された「府縣道」として完全に描かれている。
海岸沿いの部分には、ほぼ全区間にわたって「鑿岩の部」という崖を切り開いた道であることを示す記号が附属しており、険悪な地形であることを覗かせているが、道路としての実態までは読み取れない。

Aになると、現県道の位置に「県道」記号の道が出現し、旧道は「町村道(幅員2m以上3m未満)」として存続している。表現が変わっても、旧道の位置に変化はない。

Bは本編探索中にも散々眺めたものなので、新たに説明は要すまい。
旧道は大部分が徒歩道として表現されているが、中津川側の一部は抹消されている。実態は、生石側の分岐から海岸の日時計広場に突き当たるまでの約800mを除く海岸沿いの約3.7kmは、完全なる廃道状態だった。

これらの地形図調査により、旧道は昭和3年以前に既に県道として存在していたこと、加えて、昭和42年以前に現県道が整備されていたことが分かった。


現県道の整備については、国立国会図書館デジタルコレクションにて複数の記述を発見した。
例えば『兵庫県議会史 第4輯 第3巻』には、昭和30年代の県の主な道路事業を列記した中に次の記述がある。

県道三原郡南淡町阿万〜灘〜洲本線は、昭和23年着工以来、ようやくにして40年4月、延長約26kmが開通した。この間36年9月には第二室戸台風による打撃をうけながらも、ようやく完成にこぎつけた。一部砂利道もあるが、これで淡路一周のドライブコースが実現した。沿線の部落にたいする物資の輸送に役立つほか、観光の便にも資するものと期待された。

『兵庫県議会史 第4輯 第3巻』より

また、『年刊神戸新聞 昭和40年版』にも、開通前の記事として次の内容があった。

県道阿万・灘・洲本線 淡路一周の夢を託して県洲本土木事務所がすすめていた県道阿万・灘・洲本線(南淡町阿万―洲本市熊田、延長26.5km)の工事も問題になっていた道路用地買収も解決し40年3月全線開通に急ピッチの工事を行っている。

『年刊神戸新聞 昭和40年版』より

これらの記事から共通して読み取れるのは、現県道は昭和40(1965)年に県道阿万灘洲本線として開通していること、そして、その開通を以て淡路一周道路が完成したと評されていることだ。

県道の路線名の変遷については後ほど別にまとめるが、ここに登場した県道阿万灘洲本線という路線名から読み取れる経路は、現在の路線名である県道洲本灘賀集線(図中の緑線)の大半部分である。
そしてこのうち、昭和40年に完成したとされる南淡町阿万〜洲本市熊田の26.5kmとは、同県道の大部分を占める淡路島の南海岸を貫く区間を指している。

事実この工事が完成するまで、旧上灘村の西端にある畑田から旧南淡町の惣川までの海岸沿いには自動車の通れる道は存在しなかった。昭和33(1958)年版の地形図を見ても、この区間には徒歩道しか描かれていない。

つまり、既存の道路が存在しない部分の道路新設を行う傍ら、既存の道路が存在していたはずである(今回探索の)生石〜中津川間において、山側に大きく迂回する新道を整備したことになる。
おそらく、旧道の整備では満足な道路は出来ないという県の判断が下された結果と思われるが、このルート変更の背景を明記した資料は発見できなかった。

前掲の『兵庫県議会史』には、本県道が昭和36年9月に第二室戸台風にる打撃を受けたと書かれていた。その際に海岸沿いの旧道が復旧困難な大被害を受け、換線を余儀なくされたという可能性も考えられる。


『住民参加の共同社会開発』より

完成した上灘バイパス。県費18億円、延べ50万人の労力を投入、山腹を切り開く難工事の連続だった。これで島内一周のドライブもでき“陸の孤島”解消に果たす役割ははかり知れない。

『住民参加の共同社会開発』より

神戸新聞社編による『住民参加の共同社会開発』という文献にも、この新設道路が右の写真付きで紹介されており、砂利道だった開通当時の風景を見ることが出来た。今回探索の旧道に対する山越え現道区間の風景だ。
さらに、この記事からは新道の名称である「上灘バイパス」を知ることが出来た。

「上灘バイパス」をキーワードに調べると、昭和42年に神戸新聞社が刊行した『兵庫県観光百選』にも、次の記述を見つけた。

洲本から淡路南岸の灘を結ぶ<上灘バイパス>が昨春完成した。途中には立石の水仙境なども造られた淡路のニューフロンティア・ゾーンだ。

『兵庫県観光百選』より

言わずと知れた現県道沿線の観光名所だった立川水仙郷は、新道の開通から間もない昭和42年の開園である。この時期の上灘地区は、道路整備によって秘境のヴェールを脱ぎ捨てたニューフロンティア・ゾーンとして、初めての観光ブームに湧いたのだった。



『淡路島の昭和』より。(画像提供:町屋さま)

また、平成27年に刊行された『淡路島の昭和』(樹林舎刊)にも、上灘バイパスの開通直後の貴重な写真が掲載されていた(→)。

未舗装の上灘バイパスをサイクリング 友達3人でサイクリングをした時に撮ったもの。当時は動けばほこりが立ちこめる未舗装道路で、帰宅すると、服も身体もほこりだらけであったという。(洲本市由良町由良・昭和39年・提供=佐野道雄氏)

『淡路島の昭和』より

嗚呼、気のあう仲間3人でのサイクリングの尊さよ…。思わず自分自身の過去に思いを馳せてしまったが、この写真は道路趣味的な意味でも情報量がとても多い。
まず目を引くのは、“公団ゴシック”風の字体で書かれた「上灘バイパス KAMINADA BY-PASS」の立派な標識。兵庫県の意気込みが感じられるものだ。
バイパスとは別線の意味であり、既存の路線の存在を暗示している。それが旧道なのだが、果たして両者ともに通れた時間がどれほどあったのか…。

そして、少年のすぐ近くに立つ背の低い石碑は、完全に見覚えがあるものだ。
現在も旧道の【生石側分岐地点】にある【この石碑】である。

実はこの同じ形の石碑は現県道沿線の他の場所にも立っていて、第二工区や第三工区の標(しるし)となっているのだが、写真の撮影場所が「洲本市由良町由良」と限定されていることから、まさしく前述の生石側分岐地点で撮られた写真と分かる。格好よかった「上灘バイパス」の標識は既に撤去され、その場所には道路情報電光掲示板が立っている。
また、写真右端の見切れそうな位置には、「祝 阿萬灘洲本線開通式」の文字が読み取れる表示物が立っており、撮影が開通から極めて間もない時期であることが窺えるのである。


ここまでの調査により、現県道は昭和40(1965)年に、県道阿万灘洲本線の「上灘バイパス」として開通したことがはっきりした。
次の章では、いよいよ旧道の来歴に焦点を当てるが、その調査は予想以上に難航した。



 補章. 旧道にある2本の“名不知の橋”の正体は?

名前の分からぬ橋(1) 名前の分からぬ橋(2)

現地探索にて旧道上に発見された、上の写真の2本の橋。
いずれも軽自動車がギリギリ通れる程度の極狭のコンクリート橋である。
旧道の開通当初からある橋ではなく、災害復旧の目的で最小限度の規模で架設した橋との印象を受けたが、果たしてその実態は?
橋の素性を伝える記録の有無を探ってみた。

結論から言うと、これらの橋が造られた経緯や橋名を記した文献を見つけることは出来なかった。
だが、歴代の航空写真の比較によって、非常に興味深い事実が判明したのでお知らせしたい。

@
平成16(2004)年
A
昭和50(1975)年
B
昭和45(1970)年
C
昭和22(1947)年

右の@〜Cの航空写真を見て欲しい。
@は平成16(2004)年のもので、旧道は既に廃道化が進んでいるためほとんど見えないが、途中の“長い橋”だけがはっきり見える。

Aは昭和50(1975)年の写真であるが、上述の橋が真新しい色合いで写っているほか、旧道上の随所に真新しいコンクリートの擁壁が施工されていて、少なくとも「小屋」らしき建物が見えるあたりまでは手入れされていたことが読み取れる。この小屋というのは、現地で目撃した【廃屋】と同一のものとみられる。付近は果樹園などの農地として利用されていたようである。

Bは昭和45(1970)年であるが、この写真には橋がない。そもそも、橋によって復旧されることになる大崩壊がまだ起きていない(前兆はあるようだが)。
まだ小屋も無さそうだし、旧道上の新しい擁壁もなく、当時の旧道は昭和50年当時以上に荒廃していそうに見える。

Cは昭和22(1947)年のもので、新道はもちろんなく、旧道の現役時代だ。そのため全体に道形がよく見えるが、沿道の随所に白い崩壊地が見え、その整備状態は計り知れない。
また、この写真には別の道形も見えるが、これはおそらく旧旧道というべき世代の徒歩道だ。昭和3(1928)年の地形図に見える「徒歩道」(【画像の矢印の道】)であろう。

以上の比較から、旧道上にある細い橋(少なくともそのうち長い方)は、旧道化後の昭和45年から50年の間に架設されたことが分かった。
おそらくだが、この時期に旧道沿道の山林の一部で果樹園か何かの開発が進められ、旧道を軽トラ通行可能な程度を目途に再整備したのではないだろうか。
狭い橋とはいえかなり本格的な工事が行われているから、大きな予算が投じられたものと思う。
だが、こんな立地的に、完成した橋を車で通行したことがある人は、それこそ地元住民数人だけなんて可能性もありそうだ。

現在も一連の旧道の一部(ないしは全部)は市道中津川由良線として洲本市道の認定を受けているようである。したがって、洲本市建設課に行けば、道路台帳など、この市道に関する記録もあると思うが、未捜索である。せめて、橋名くらいはサルベージしてあげたいものだが…。




 第2章. 淡路の別天地、灘海岸の険しき旧道時代

この章では旧道の現役時代に焦点を当てる。すなわち、昭和40(1965)年以前である。
だが、これが非常に難航した。
まず、『洲本市史』(昭和49年発行)にあたったが、市中心部と、昭和20年に同市の一部になった上灘地区を結ぶ道の来歴については、一行の文章も見いだせなかったのである。

この県道はこれこれこういう来歴だという風に現代の視点からまとめられた適当な資料が見つからなかったので、各年代の様々な文献の断片的記述を拾い集めることで全体像を読み取る迂回作戦を採らざるを得なかった。
これから、そうして見つけた有用な記述をいくつか列記していく。

まずは、かなり古い資料だが、昭和2(1927)年に兵庫県が発行した『兵庫県郡役所事績録 下巻』より、旧道時代の路線名の変遷を追いかけた。この文献にあるのは路線名のリストでしかなかったが、正確な路線名を知ることで、その後の検索がはかどると思ったのだ。
(図は、路線名に登場する地名よりその経路を読み取ってもらうために置いた)

この文献の記述の始まりは、大正8(1919)年の旧道路法発布である。
兵庫県津名郡は、大正9年4月1日に同法による郡道22路線を初認定しているが、その第6番目(郡道6号線)に「郡道洲本上灘線」が記されていた。起点は洲本町、終点は上灘村相川である。この路線は翌大正10年10月18日に起点が洲本町から由良町へ変更され、路線名も「郡道由良上灘線」に改められている。経路の解説はないものの、おそらく今回探索した旧道を辿る経路であったろう。

こうして旧道路法の施行と一緒に津名郡道の地位を獲得した旧道だったが、大正12(1923)年には郡制廃止によって地位喪失の危機を迎える。このとき全ての郡道は、重要性に応じて府縣道へ昇格するか、町村道へ降格するかの択一となったが、兵庫県は当時あった津名郡道25路線中の18路線を県道へ組み込んでいる。そしてこのとき元・郡道由良上灘線は、整理番号341番の「県道沼島洲本線」に昇格した。起点は三原郡沼島村、終点は洲本町で、全長4里13町2間(約17.1km)と記録されている。

県道沼島洲本線のルートを現在の地図で見ると、南あわじ市灘の南約4kmに浮かぶ沼島(ぬしま)を起点に、海上区間で灘港へ至り、そこから陸路をもって相川〜由良〜洲本まで結ぶものであったようだ。
今回探索した旧道も、前述の郡道の引き続いて、この県道の一部であったと考えられる。

沼島といえば、私の探索中、進行方向左方の海上に常に見えていた。
そんな目立つ島が、かつてこの道が初めて県道にとなった当時の“起点”だったというのは、風景と制度の巧みな符合にうっとりとする思いだ。
また、「古事記」に登場する日本創生の国生み神話において、最初に生み出された陸地の説を持つ沼島が、あの苦闘の原初の起点であったとは…。八百万に属する廃道の神らしい、なかなか乙な差配であった。

とまあ、沼島の件は少し脱線気味かも知れないが、ここまでが旧道路法公布当時の路線名の変遷だ。
まとめると、大正9年から12年までは津名郡道、同年以降は兵庫県道沼島洲本線であったことが分かった。

なお、『兵庫県郡役所事績録』の記述は大正期までなので、昭和以降は各年ごとの『兵庫県統計書』を抜粋していくつか調べた。
まず、昭和9年度の統計書には沼島洲本線の名称はなく、他に符合しそうな路線名もないため、大正12年からこの年までのどこかで県道から降格したらしいことが分かった。
だが、昭和10年度統計書では、整理番号480番の「県道沼島洲本線」が再び登場する。

統計資料からは、この時期になぜ県道からの降格と再昇格があったのかが判明しないが、これについては別の切り口から後述する。

さらに後、昭和27(1952)年に道路法が全面改正され、現行の道路法が公布される。
これを受けて兵庫県も県道の再編を行い、昭和34(1959)年4月に現道路法下での初めての県道認定がなされた。
このときに県道沼島洲本線は廃止され、同時に「一般県道阿万灘洲本線」が認定されている。この路線名は前章既出で、現県道である「上灘バイパス」は、この県道の改良事業として昭和40年に完成した。(昭和23年の事業着手当所は沼島洲本線だった)

さらにその後の経過も調べると、平成5(1993)年に一般県道阿万灘洲本線は「主要地方道洲本南淡線」へ昇格していた。この時に終点方向が延長され、新たな終点は南淡町役場に近い国道28号上の賀集地区(現南あわじ市賀集付近)となった。そしてさらに平成18(2006)年にまた路線名が変更され、「主要地方道洲本灘賀集線」となって現在に至っている。
まとめると、昭和10年以降は一貫して県道の地位であったが、路線名は何度も変更されていたことが分かった。


次は、手に入れた路線名をキーワードに交えながら、旧道現役当時の道路事情を探ったところ、断片的ながらいくつかの情報を手に入れた。
昭和29(1954)年に毎日新聞社が出版した『国立公園紀行 第1編 (瀬戸内海・大山)』の「淡路島南部」の章は、戦後間もない時期に灘海岸を歩いた貴重な記録である。少し長くなるが、この地域の暮らしぶりを含めて引用したい。


『国立公園紀行 第1編』より

由良から阿万まで、柏原、諭鶴羽山脈のすそをつたう淡路島南端約20kmほどの海岸で、その間に、おおよそ15〜6の部落が散在していた。人口も稀薄で、平地はなく、淡路の別天地を作っていた。海岸線は断崖絶壁で港湾というものがなく、樹木の繁茂と、谷が深いので、水には豊富だが、流域が短いので、適当な河口の船だまりがなく、漁業も発達しない。西の季節風は山で防がれているが、南東風となると、巨浪が打ち上げてきた。沼島に渡る汽船の発着所、下灘の土生(はぶ)がその中心地となっているが、由良に近い上灘方面はことに道路が浪に洗われ、自転車さえ通ずることが出来ず、嶮崖に架けた丸木橋や、危険な小道をたどるより方法がない。四国の小松島通いの船は、この近くを行くので、船上から、くずれ落ちた道路のけわしさを望見することができた。

私はこの海岸線をつたって、土生から8kmほどの畑田まであるいたことがあるが、住民たちが、この道路を唯一の生命線として、自力で修理し、船はみな山の上へ引き上げられ、小学生たちは毎日、けなげにもあぶない丸木橋を渡って行くのをみた。(中略)

灘海岸は、西の方から数えて、土生、円実、城方、山本、吉野、惣川、黒岩の七部落を下灘。それから東へ、白崎、宇野、来川、畑田、相川、中津川などを上灘といっているが、これらの部落は、いずれも2、30戸のもので、海から100mあまりの高い道をあるきながら、なお、見上げるような山腹に家並みがあった。(中略)耕地が狭いので、人口が稀薄なのに、米の自給自足などおもいもよらず、田畑をもとうとすれば、やや土地の広い阿万まで遠く、この嶮路を通わねばならなかった。しかし、青年たちは、水産よりも農産、林産の方に熱心で、その点海の村というよりも山の村といった方がよかった。米や、麦ができないかわりに、あたたかい海潮や、海面の反射からくる非常温度で、ビワや、ミカンがよく実り、白崎付近にある自生スイセンなどをとり入れて、相当な収穫をあげ、これらの果樹林や花卉は、経済的な裏づけとともに、観光地としての実をあげていた。

『国立公園紀行 第1編』より

後年の上灘バイパスの全通によって海岸線を自動車が行き交うようになるまで、淡路島の中でも一箇の隔絶した地域となっていた灘海岸の様子がよく描写されていると思う。
道の悪さも特筆されており、今回探索した旧道のような崩れかけた道が、灘海岸の至るところにあったことが分かる。上灘には、自転車さえ通ずることができない場所があったとも出ている。それが今回探索の旧道であったかは分からないが…。

次はだいぶ新しい時期の文献だが、平家落人による開村を伝える中津川をテーマにした「洲本中津川の民俗」が『歴史と神戸 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌 24巻第5号』(昭和60年10月号)に掲載されており、旧道について次のような記述があった。

中津川は、相川や畑田と同様に農地がきわめて乏しいところから、男は船に乗り、女は山仕事をして生計をたててきたので、「船乗り在所」といわれた。船持ちが多くて、江戸中期より明治初年にかけては、隆盛をきわめたので、村は裕福であった。
交通の便が悪く、由良から通ずる道路は、自転車がやっと通れるほどのものであり、それもしばしば土砂崩れで不通になるので、まさに陸の孤島であった。わずかに、洲本と沼島を結ぶ小さな貨客船が寄港するのみであった。
ところが、昭和40年に上灘バイパスが完成すると、バスが通うようになり、洲本への通勤も可能となった。そして、近くに立川水仙郷やモンキーセンターができるなど、観光地として脚光をあびるようになった。
灘の女性による運送の特色は、イタダクとよぶ頭上運搬である。女で、4斗俵(60キロ余)を頭へ乗せない人はなかったという。昭和40年ごろまで、一般に行われていた。
村には、日用品を売る店があったが、由良から魚屋が自転車で売りに来たり、富山からは薬屋がきた。

『歴史と神戸 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌 24巻第5号』より抜粋。

由良から中津川に通じる道路は、自転車がやっと通れるほどのもので、それもしばしば土砂崩れで不通になった。まさに、現地探索より想像したとおりの旧道現役時代の風景だった。自転車が、日常の足としてとても活躍していたようである。

右写真は、中津川集落の隣にあって近い歴史を歩んできた相川集落内の様子である。
起伏の大きな村中に、城壁のように緻密な石壁が張り巡らされており、庭木もたいへん太く、裕福な村であった名残を留めている。
左に見えるのは郵便局で、足元の道路は県道である。この県道481号相川下清水線は、諭鶴羽山地を越えて集落と洲本市中心部を結ぶ最短ルートだが、峠はいまも車道未開通である。そもそも、この集落内の区間からして二輪以外の自動車は入ることが出来ない。
上灘バイパス開通以前は、上灘の村々を結ぶ幹線道路もまたこのような状況だったのだろう。


次の文献は少し方向を変え、県道沼島洲本線が実際に蒙った災害の一例である。
あくまで一例であり、今回探索区間内ではないようだが、ほぼ同じ地形条件の道での出来事で、現役時代の維持管理の困難さを知る手掛かりになる。
文献のタイトルは、『関西地方風水害調査報告 昭和9年』である。


『関西地方風水害調査報告 昭和9年』より

兵庫県三原郡灘村字下灘
路線名 府縣道沼島・洲本線
被害金額 28108円
被害原因 該地は断崖絶壁の中腹に道路を築造せる状態にして波浪の侵食を受けたるに非ず、空積石垣の辛じて留まれるに岩盤を伝える雨水が浸透して辷動落下せるに依る(図4参照)。
被害状況 殆んど全部辷落し道路の形態なく自然の岩盤を露出す。
災害対策 幅員僅かに2m不足の道路にして交通稀なるも道路築造の必要は存す。岩盤を切均して基礎を強固ならしめ練積石垣を施し寧ろ路面を簡単にコンクリート等を以て舗装し水の浸透を避け且つ山側の側溝を完全にし排水を十分ならしむべし。

『関西地方風水害調査報告 昭和9年』より。

思わず、“ひざポン”だよ。
これこそは、旧道の現役時代を最高に言い当てた記録だろう。
私を殺しに来たあの崩壊現場の数々が、まぶたに浮かぶ。
道を完全に喪失し、その代わりに露出した恐ろしき岩盤の数々が、まぶたを焼き尽くす(やべぇ)。

旧道は、現役時代から度々こんな崩壊をくり返していた。
そして、その都度復旧されていた。
海岸に散らばる様々な年代の擁壁残骸は、その何より雄弁な証しであった。
上灘バイパスの開通によって旧道となった道が、長く保たなかったことは全く当然であった。
旧道は、死ぬべくして死んだ……。


だが、そんな業深き旧道を、最初に作った人が、どこかにいる。
それは、いつ、どのような目的で、営まれた工事であったのか。
最後の章では、この始まりの疑問に焦点を向けたい。



 第3章. 旧道の正体を求めて辿り着いたのは……「許されない場所」


『兵庫縣管内圖』(大正13(1924)年)/
チェンジ後の画像『天保国絵図淡路国』(天保9(1838)年)より

旧道は、いつから存在しているのだろう。

このシンプルな疑問の答えも、簡単には見つからなかった。

右図は、大正13(1924)年の『兵庫縣管内圖』の一部であるが、この前年に県道沼島洲本線が認定されていることもあり、洲本から由良を経て上灘方向へ通じる海岸沿いの道路がしっかり描かれている。
実態としては、自転車がようやく通れる程度の悪路であったとしても、既に道があったことは確からしい。
その開発は、大正時代以前にまで遡れるようだ。

チェンジ後の画像は、江戸時代後期の天保9(1838)年に編まれた『天保国絵図淡路国』の一部だ。
ここまで遡ると、由良と上灘の間の海岸道路はなくなり、海路が描かれている。また、上灘へは別途山越えでアプローチする道が描かれている。



『淡路の歴史』所収「淡路国全図」(明治34(1901)年)より

では、その間の明治中頃はどうだったのかと思って探したところ、明治34(1901)年に地元の淡路新聞が発行した「淡路国全図」が『淡路の歴史』に収録されているのを見つけた。

しかし、この地図でも由良から中津川までの海岸道路は描かれていなかった。

ただ、その辺りの海岸に、何やら地図の雰囲気にそぐわない長文の注意書きらしきものが重ねられていることが、少し気になった。
文字が潰れていて内容は全然読み取れず、結局これがなんなのかは未だ不明なのだが、私に“ある一つの可能性”を着想させたのが、このときだった。

もしかして旧道は、由良要塞と関係があるのでは?

……という可能性に。

一度疑い始めると、急にこの方向が気になりだした。

そういえば、これまで見つけた現地の紀行的なものには、戦前のものはなかった。
本当にないのか? 
そんなとき、机上調査協力でお馴染みのるくす氏から、一つの文献をお知らせいただいた。
それは、まさにいま探していた戦前の紀行であった……  が。

田山花袋著の大正12(1923)年発行の旅ガイド本『京阪一日の行樂』より……

淡路の北部、須磨明石に接した方面は別に書くとして、此處には簡単に洲本から由良、福良あたりのことを書いて見よう。
由良は洲本から二里半ほどある。要塞として詳しく書くことは許されていないが、地形はかなりに優秀で、風景もまた捨て難いところがある。港から南に生石岬を迂回し、険しい海岸の道を進むと、三里で、灘村がある。その前にある島は沼島と言って、神話にあるおのころ島は即ちこれであると言われてある。いかにも風光のすぐれたところである。

『京阪一日の行樂』より。

要塞として詳しく書くことは許されていない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


『洲本市史』より、由良要塞地帯概見図

やっぱり!

右の画像は、『洲本市史』に掲載されている「由良要塞地帯概見図」である。
画質的に見辛いと思うが、淡路島南部の両側の海峡部、すなわち紀淡海峡と鳴門海峡のそれぞれ両岸の広範囲が要塞地帯に指定されており、明治32年制定の法律「要塞地帯法」を根拠として様々な野外行為(立入り、撮影、模写、測量、築造物の変更、地形の改造、樹木の伐採など)が段階的に規制されていた。これはそのことを市民に報せるために戦前を通じて大量に刷られた文書である。

またこれと関連して、探索中何度か目にした【永久的な石標】が境界沿いに多数設置された。

概見図によると、由良から上灘にかけての海岸線は漏れなく要塞地帯になっており、様々な規制が敷かれていたことが判明する。これが田山花袋の「許されていない」の正体である。


『洲本市史』より、元・由良要塞司令部

『市史』の記述をもとに由良要塞の概要を簡単に説明すると、この要塞は大阪湾の防備を目的として、明治29(1896)年に帝国陸軍によって開設された。前述した両海峡部の敵船通過を防ぐべく、砲台を初めとする様々な軍事施設を建造したほか、要塞司令部が由良町に置かれ、重砲兵隊が駐屯した。生石岬に設置された生石砲台は、主要な構造物の一つである。

由良要塞は第二次大戦時も存続していたが、既に航空戦力が主力となっていたため交戦の機会は最後までなく、終戦直前には連日のように阪神地域の空爆にくる敵機を見送るしかなかったという。要塞自体も空爆の対象にはならなかったという。


そんな由良要塞の建造と、要塞地帯を貫通していた我らが旧道の開設には、何か関係があるのではないか。
そんな漠然とした疑いは、次に紹介する決定的資料の発見によって、見事裏付けられることになった。

旧軍関係文献と言えば、アジア歴史資料センターである。
ここで公開されている膨大な資料を、由良要塞や上灘村といった複数のキーワードで検索した結果、こんな資料が見つかった。


陸軍省大日記 明治25年4月 「工2より 由良軍道開設の件」

明治25(1892)年4月の陸軍省の内部文書の表題「工2より 由良軍道開設の件」から、手書きの文章を一部書き出してみると……

由良軍道開設致度義ニ付伺
兵庫県下淡路国津名郡由良町字小地川A点ヨリ字大谷北端B点ヲ径テC点ニ至ル間(第一第二部)及B点ヨリ生石砲台柵門D点ニ至ル軍道(第三部)開設致度
「中略」
第一部第二部ハ陸軍省ト津名郡トノ共仝工事トナシ……

陸軍省大日記 明治25年4月 「工2より 由良軍道開設の件」

これは、由良要塞建設中に発行された文書であり、要塞を構成する陸軍所管の施設である由良軍道の建設計画を述べている。

本編では軍道についてはほぼ触れなかったが、現在も由良から生石地区にかけての県道沿いには、軍道時代の名残を留める橋などが残っている。
それらの判明している位置や、資料に登場する地名およびA〜D点の注記を参考に、明治25年当時に建設されようとしていた3本の由良軍道「第一部」「第二部」「第三部」の位置を地図上に示したのが、次の図だ。

由良軍道第一部、第二部、第三部が、おおよそこのような配置で整備されようとしていた。
図中のA、B、Dの各点は、現在残る遺構(橋や砲台の位置)から、ほぼ間違いないといえ、これらによって結ばれる軍道第一部と第三部は、確定の位置である。
ただ、C地点については、この次に紹介する別の資料も根拠とした先回りの推測となっている。

重要なポイントは、B地点とC地点を結ぶ由良軍道第二部の延長線上に、今回探索した旧道が整備されたものと考えられることだ。
そう考える根拠の一つは、先ほどの文書中の「第一部第二部は陸軍省と津名郡との共同工事となし」という部分である。
これらの軍道は、津名郡が整備すべき道路、すなわち軍道ならぬ“郡道”に類する公道(当時郡道という道路種別はなかったから、郡が費用を支弁する里道であったと思うが、いわゆる郡費支弁里道だ)としての機能も期待されていたのである。
実際、由良軍道第一部は現在の県道そのものであるし、一方でB点から分岐してD点の生石砲台で終わる軍道第三部は、陸軍省単独工事となった。

由良軍道第二部の先に今回探索した旧道が延びていたと考えるさらに強い根拠が、昭和9(1934)年に由良要塞司令官から陸軍大臣宛に発信された次の文書「防禦営造物除籍に関する件」の内容だ。


陸軍省大日記 昭和9年6月 「防禦営造物除籍に関する件」

当要塞軍道中別紙ノ部分除籍致度ニ付認可相成度
(別紙)

陸軍省大日記 昭和9年6月 「防禦営造物除籍に関する件」

昭和9(1934)年に由良要塞は左の別紙に示した8ヶ所の軍道を除籍している。
それぞれの所在が詳細に書かれているので、前の資料に続いて登場している軍道第一部や第二部の位置を特定することが出来た。
特に注目したいのは、軍道第二部に関する内容だ。以下の通りである。

由良軍道第二部
所在 大谷川下流軍橋北側三叉路ヨリ上灘道迄
幅員 幅三米 延長八三〇米四〇
処分 縣道トシテ兵庫縣ニ管理換ス

陸軍省大日記 昭和9年6月 「防禦営造物除籍に関する件」

この記述によって、由良軍道第二部は、大谷川下流軍橋北側三叉路を起点に、そこから830.4m進んだ地点にある「上灘道」なるものを終点としていたことが分かる。

この起点の目印である「大谷川下流軍橋」だが、なんと今も現地にそっくりそのまま現存していて、砲台から公園となった生石公園の玄関口に架かっている。(→)
ずばり、軍道第二部の終点は、上記地点から830m進んだ場所……、すなわち【旧道の峠の頂上辺り】ということになろう。
そしてその先は、「上灘道」だった。それこそ、今回探索の旧道なのである。

「上灘道」の名も初登場だが、上灘村へ通じる道としては、これ以上なく通りが良いものだ。
文書では、「上灘道」に通じる軍道第二部を軍道から除籍し、兵庫県道へ管理換するというのだ。
ここで第二章の内容を思い出して欲しい。
昭和9年の『兵庫県統計書』にはなかった県道沼島洲本線が、翌昭和10年より復活していたという事実を。
完全に符号する。陸軍側の資料と、兵庫県の資料が、合致!

少しややこしくなったかもしれないので、右図を使って整理する。

昭和9年の「防禦営造物除籍に関する件」の内容をひとことで言えば、右図に赤枠で囲った各軍道を除籍して兵庫県道へ組み入れるということである。
そしてそれは実際、昭和10年に実行されている。

このことを確認したうえで、もう一度、明治25年の「由良軍道開設の件」に焦点を戻す。
そうすると、はっきりと明言こそされていないが、明治25年に開設が計画されていた由良軍道第一部および第二部の続きとして、津名郡の手で「上灘道」がほぼ同時期に整備されたと考えられる。
そういう計画でなければ、「第一部第二部ハ陸軍省ト津名郡トノ共仝工事トナシ」とは表現しないはずだ。

「上灘道」は、大正9年に津名郡道に認定される以前から既に、津名郡の手によって建設されていた。
そして、由良要塞を構成する由良軍道と一体となって、淡路島南岸の東西を結ぶ役割を持っていた(不十分な整備状態だったようだが)。
その先に見据えていたのは、明治36(1903)年に正式に由良要塞の一部に加わった、鳴門海峡の要塞施設だったかもしれない。

以上のような資料を根拠として、今回探索した旧道は、明治25年からあまり離れない時期、遅くとも明治30年代には開通していたと考えている。

はっきり何年と特定出来る資料には未だ巡り会えていないが、これを現時点のアンサーとしたい。
昭和63(1988)年に創栄出版が発行した上灘地区の地誌『淡路上灘』は、残念ながら道路に関する記述は多くないものの、たった一文、次のように書かれているのを見つけた。

明治の中頃まで海岸道路(旧県道)の無かった上灘では……

『淡路上灘』より

これが、明治中頃に旧県道が整備されたことを明記した、今のところ唯一確認できた文献資料となっている。




長かった本稿も、これで完結。

郡道から軍道という、聞き取り調査での鬼門をもろにぶち抜いた感のある今回の道。
私は全く聞き取りをせず全て文献任せで調べていたので良かったが、本当にこの2つの呼び間違えは混乱しがちだ。
そんな余談はともかく、この探索は終始ハードモードだったと総括したい。現地探索がアレで、机上調査がコレで、お陰で探索から完結まで6年も掛かってしまった。
だが、そんなハードで奥深い灘海岸には、まだまだ紹介したい道があるので、続報も期待していて欲しい。





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